いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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東京空襲号外に激しい反響 体験継承を東京挙げた運動に 抹殺してきた米国と行政

 本紙は13日から、東京大空襲の真相を特集した号外「語れなかった東京大空襲」の東京都内での配布を進め、空襲被災地である墨田区を中心に現在までに約1万4000部を配布した。東京大空襲を体験した人人から、70年の歳月を経て街が様変わりし、国と行政による冷淡極まる扱いのなかで当時の面影がかき消されていく下でも、炎の嵐と阿鼻叫喚の渦の中で親兄弟を失った鮮明な記憶が口口に語られ、新たな戦争のきな臭さが漂うなかで「絶対に風化させてはならない」との痛切な願いが語られている。本紙号外は、戦争を乗りこえて東京を復興させてきた地元の人人から強く歓迎されている。
 
 工事の度におびただしい遺骨

 墨田区菊川町では1985年、東京大空襲で3000人以上が亡くなった菊川橋のたもとに地元住民や遺族の手によって空襲犠牲者を弔う「夢違地蔵」を建立している。3月10日の大空襲では、多くの人人がこの橋のたもとや橋の下を流れる大横川に身を投じて折り重なるように遺体が積み上がり、数カ月もかけて遺体の引き上げ作業がおこなわれていた。そのため東京都に願い出て慰霊碑を建てようとしたが拒否され、その後も橋や道路の工事をするたびにおびただしい人骨が掘り出されるため、地元の人人が無許可で建立したものだという。


 当時を知る空襲体験者の男性は、「あの夜は“いつもと様子が違う”という母に叩き起こされたが、そのときにはもう空は真っ赤になってB29が飛び交っていた。周囲をぐるっと炎に囲まれて逃げ場を失った人たちが菊川方面に集まっており、雨が降ってきたと思ったら空からガソリンが撒かれていた。父は消防団の組長をしていたので、みんなを避難させるまで逃げるわけにはいかず、父を心配する姉と一緒にその場に残り、母と姉2人、妹2人で逃げた。避難場所の菊川小学校の講堂はすでに満員で入れなかったが、入らなかったから助かった。次の日には講堂は建物ごと燃え尽きて、死体が折り重なっていた。父、姉、祖母は見つからず、祖母を負ぶった姉が菊川橋付近でうろうろしていた姿を近所の人が見たというのでそこで死んだものだと思っている。父は畳屋だったので、菊川橋の用水桶の中に仕事道具を入れた葛篭が入っていたのが唯一の形見として残った」という。


 橋は渡れないほど死体が折り重なり、川面も1週間経っても遺体が埋め尽くしていた。道路には人の脂が染みつき、丸太棒と思えるほど丸焦げの死体が散乱していた。


 「翌日に軍が来てトラックにどんどん死体を乗せて火葬もそこそこに各公園に何本もの穴を掘って埋めていった。1週間後の3月18日に昭和天皇が深川八幡を視察するということで、目に触れないように通過する場所だけ死体は手早く片付けられたのだという。その他の遺体は一般市民の手で片付けられたが、持って行き場がなく、みんな河畔に埋められている」と話した。


 街頭工事をした際には何柱もの遺骨が掘り出されたが、業者がそのまま埋めてしまったこと、そして橋の建て替えのために桜の木を伐採すると、根元に絡みつくように人骨が見つかったため、許可を出さない行政を無視して地元民で地蔵堂を建てて、それ以来30年供養を続けているのだという。


 「広島、長崎には国立の資料館も慰霊碑もあるのに東京大空襲には一つもない。東京に限らず全国を見ても賠償一つされていない。ある時期、1万3000体の遺体が仮埋葬された猿江公園に国立の慰霊碑を建てるという看板が立てられていたが、いつの間にか消えてしまった。この町内でも3月10日には慰霊祭をやるが、体験者も遺族も高齢化している。私は今も父や姉、祖母の遺骨を探しているが、遺骨も見つからない人人にとってはここが墓所だ。墨田区には関東大震災や江戸時代の記念館はあるが、東京空襲だけは黙殺されている。このまま歴史から消してしまうつもりではないか」と憤りを口にした。


 都内にはあちこちに住民が自ら建立した慰霊碑があるが、高齢化して世話をする人がいなくなるにつれて次第に放置され、気がつけば区によって撤去されているものも多いという。都市開発や人の入れ替わりが激しい都会の事情も重なって知る人ぞ知るものになるまえに、「広島や長崎のように平和教育の一環として位置づけ、地域を挙げた継承活動にするべき」という願いが渦巻いている。


 一緒に体験を聞いていた町会役員の男性も話に加わり、「安保法制の問題で若い人たちが立ち上がったのがうれしかった。ここまで政府がアメリカのいいなりになっているのに黙っていたら終わりだと思っていたが、勢いよく声を上げはじめた。これを機にしっかり関心を持ってもらいたいし、この号外を大宣伝してほしい」と共感をのべ、仲間内に配るため数十部の号外を預かった。


 20年かけて国立の慰霊碑の建設を求めて署名活動を展開してきた空襲遺族の男性(86歳)は、「すばらしい内容の新聞だった。アメリカは全部知っているのに、知らされていないのは日本人だけだ。国立の慰霊碑建設は、安倍首相自身が“必ずつくる”と明言していながら一歩も前に進んでいない。その裏にはこのようなアメリカとの取引があったのだということをはじめて知った。国が始めた戦争によって10万人も殺されていながら、無視することなどあってはならない。アメリカは原爆投下という犯罪を犯したうえに東京大空襲が国際的な注目を集めることを恐れている。東京裁判では上官の命令で捕虜を殴った下級兵士までB級戦犯として処刑されているのに、大空襲を指揮した司令官には勲章が与えられているなど言語道断だと思う。アメリカは日本を守るような国ではない」と激しい胸の内を語り、号外を束で預かった。

 安保法制可決の今こそ真実を語り継ごう 

 墨田区立川で大空襲を経験した商店主の男性(80代)は、号外を受けとるなり、「私も中学3年生で炎の中を逃げ惑った一人だ。兄は、今の電気通信大学を卒業後、三井船舶に入社してすぐに軍の輸送船に徴用され、昭和19年7月ごろ千島に物を運ぶ途中に魚雷でやられて1日漂流して掃海艇に助けられて生還したが、今度は11月にシンガポール行きの輸送船に乗っているときに玄界灘の先で潜水艦に爆撃されて亡くなった。乗員80人のうち生き残ったのは2人だけで、11隻の船団で出発したその日の夜に全部やられてしまった。兵隊を満載した船がみんな沈められ、出て行く船は次次に沈められる時代だった。出征の日に、東京駅まで見送ったが軍属なのに海軍士官の襟章を付けていた。いかに兵隊がいなかったかということだ。近所の子どもも中学5年生になると予科練などに志願し、従兄弟達もみんな戦争にとられて死んでしまった。戦争をしなければ日本は消滅する、残った一人まで戦うんだと教育されてきたが、勝てるという日本人は誰もいなかった。はじめから負けるとわかっている戦争に突き進んだ」と話した。


 さらに、「あれだけの国民が殺されながらも、日本はなに一つ反抗することなくアメリカ占領軍のいいなりになってきた。安倍首相の祖父の岸信介は東条内閣の商工大臣で満州を統治するボスだったが、戦後に出世して総理大臣になり、その弟の佐藤栄作がノーベル平和賞をもらったのが象徴的だが、政治家も戦争責任をとらなかった。それまで子どもでも交番に引っ張り込まれて警察官に“軍人勅諭をいえ”といわれていえなければ殴られ、昨日まで“命を捧げろ”といっていたものが、敗戦後は“あんな戦争はしてはいけない”と180度変わっていった。学校でも“日本は勝つから戦争に行け”といっていた先生ほど戦後は“これからは民主主義だ。あんな戦争はいけない”という。労働組合にも元憲兵などが入っており、本当に信頼できるものがなにもなかった。若者には特攻隊で命を捨てさせておいて、今度はアメリカ万歳になった新聞やメディアも同じだ」と憤りを込めて語った。


 「空襲の最中に軍や警察から避難しろといわれていた学校や防空壕に逃げ込んだものはみんな死んだ。中和小学校では、ある程度人が入った後に門を閉めたので、後からきた人たちは入れずに門前で山のように死んでいた。逆に校舎が燃えて避難者が全滅した学校もある。東京空襲でも直前になって空襲警報を解除している。市民にはバケツリレーやハタキのようなもので防火訓練をやらせていたのに、上空はガラ空きだった。隅田川にかかる一の橋を渡って日本橋側に逃げたが、花柳界のあった柳橋の方から隅田川を越えて岩のような大きさの火の粉が飛んできた。空は真っ赤で、B29が至近距離でぼんぼん焼夷弾を投下してくるのに周囲は真空状態のようになって不思議に音がしなかった。夜が明けると道ばたや川を埋め尽くした焼死体を、軍のトラックが来て鳶口で足と頭をひっかけて荷台に載せていく。荷台からいくつも足が出ていたのが忘れられない」と話した。


 戦後は中学校のPTA会長をやっていたが、学校でも東京空襲について教育する場はなく、焼け出された人たちは東京都内の各所に分散していったため、話題にすらならなかったことを語り、「だからこそ行政や学校などが地域の文化や歴史を残していく努力をしていくことが必要だが、公務員も先生もよそから来た人でみんな知らない。一度だけ中学生に空襲の話をしたことがあるが、みんな“はじめて聞いた”と驚いていた。今は机上の空論で戦争を語っているが、この大空襲が示していることは、自衛隊や米軍が海外で戦争を始めると、危ないのは日本本土だし、民間人だということだ」とのべ、東京空襲の真実を伝えていくことに期待を示した。


 墨田区向島で商店を営む79歳の男性は、「米軍の空襲から戦後の歴史まで、戦前から住んでいる者はみな体験している。3月10日の空襲だけでなく、ほぼ毎日のように米軍のB29が飛んできて爆弾を落としていた。焼夷弾による空襲だけでなく、通りの真上までグラマンが飛んできて機銃掃射をする様子をこの目で見てきたし、米軍は女や子どもを狙って殺した。3月10日の空襲では、近くの墨田川高校は木造校舎が全焼し、通りには爆弾が落ちた大きな穴が開いていた。戦後はそのまま埋めているから、いつどこから爆弾が出てきてもおかしくない」と話した。戦後は隅田川に死体が山となり、それは東京湾に近い中央区月島から墨田区の白鬚橋まで延延と続き、潮の満ち引きに合わせて上下をくり返す光景が5、6年は続いており、腕が頭ぐらいにまで膨れ上がった腐乱死体をよけながら魚を捕っていたという。


 「現在のスカイツリーのあたりも死体の山が置かれていた場所だ。それだけ重要なことをしっかり伝えず、今では遊びの観光名所になっていることが、私たちからすると理解できない。隅田川も実際には掘り出せていない遺骨が山ほどあるはずだ。議員たちは空襲のことについて、だれ一人として触れたことがない。“そんなことは忘れた方がいい”という空気だ。空襲のことを伝える教育がないのだから、中学生、高校生も戦争について考えられない。近くの小学校や高校の生徒に、空襲の話や徴兵制の話をしても今の状況では理解できない子どもが多いと思う。このことは、安保法制で徴兵制が復活するような世の中のなかで、非常に危険だ」と語り、「東京大空襲は広島、長崎の原爆よりも多くの人が亡くなっていることはほとんど知らない人が多い。しかしそれが一晩ではなく、何度も何度もくり返されて殺されている。ひと口に10万人が死んだというが、それは途方もない人が殺されている。また軍需工場に働きに行っていた女学生も多く亡くなっているが、これもほとんど知られていない。空襲でこれほどの人たちが殺されたことを教えていかなければいけない」とのべた。

 戦後世代も衝撃を語る 対米従属の現実重ね 

 戦後世代からも、号外を読んだ感想とともに衝撃が語られている。


 リサイクル屋の60代の男性は、「墨田区はとくに空襲がひどく、押上もかなり焼けた。このあたりでも焼け残ったのは十間橋とその隣りにあった建物だけだったと聞いた。東京都内にも慰霊碑はそこそこあるが、ほとんどが地元の人しか知らないようなこぢんまりとしたものばかりだ。錦糸公園や隅田公園には相当な数の遺体が埋めてあるが、人目に付くところや目立つところに慰霊碑はない。皇居や財閥の建物を焼かなかったのは、アメリカに戦後の算段があったからなのは間違いない」と共感をのべた。


 墨田区で時計屋を営む60代の男性は、「叔母が東京空襲で亡くなった。隅田川をいかだで避難しているときに転覆して亡くなったそうだ。そのため、骨も残っておらず、3月10日には慰霊堂へお参りに行く。その日になると慰霊堂の献花台には花が置けないほどに花が供えられる。あの空襲で亡くなった人人の親族がこれだけもいながら、体験を受け継いできた人は少ない。そのため、もう当時のことをはっきりと覚えている人はかなり少なくなっていくなかで、次の世代が知らないままになっている気がしてならない。私が小学生のころも空襲の激しかった墨田区に住んでいたが、学校では原爆については教科書で習うが、空襲体験に触れるようなことは一切なかった」と話した。


 「アメリカは、日本を空襲する以前から調査、実験をしていた。実際に木と紙の家の模型をいくつかつくり、離れた場所の家を燃やすと火と火が引き寄せあって火柱ができることを知っていたり、空襲時に、飛行機の上からスケッチをしていたことなども聞いたことがある。この新聞を見ると、ことごとく重要な施設は残されていることがよくわかる」とのべ、「今安保法制の話がよく出るが、いざ戦争になって本当に他国である日本をアメリカが守ってくれると信じ切っている人などいない。そのかわりに日本が外国に行き戦争することになり、死者も出るかもしれない。TPPでも、甘利が何をいおうがアメリカのいいようにしかならない。マイナンバー法や秘密保護法など、今に至るまでの安倍政府の急ぎ足な政策は、アメリカの思うままに操られているとしか思えない。その責任は誰がとるのか」と対米従属に対する問題意識を重ねて語った。

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