(2026年10月28日付掲載)

体育館のスクリーンに自身の被爆体験画を映しながら語る末政サダ子氏(26日、広島市・国泰寺中学校)
広島市中区の広島市立国泰寺中学校(長屋吉輝校長)で10月26日、同校の1年生約200人が平和学習の一環として、原爆展を成功させる広島の会の末政サダ子氏から被爆体験を学んだ。「生の声を聞くことができる最後の世代である生徒たちに被爆者の声を直接届けたい」と同校の若手教員たちが企画。末政氏は自身の体験を描いた絵を見せながら熱を込めて体験と思いを伝え、生徒たちは厳粛な面持ちでその語りに耳を傾けた。平和学習には質疑応答形式の対話もとり入れ、世代をこえて平和への思いが通い合う学びの場となった。被爆から81年が経過し、直接体験を語れる被爆者が少なくなるなかでも、被爆者の思いを次代に受け継ぐ教育的営みが被爆地広島の若手教師たちの熱意によってとりくまれている。
「体験聞ける最後の世代」と企画

被爆体験を語る末政氏
「81年前の苦しい戦争のなかから皆さんのおかげでこの歳まで生きてこられた。戦争があったのは、私がちょうど皆さんと同じ年頃。みんな苦しんで死んでいった。生き残った者はわずかだった。戦争はするもんじゃない」――体育館に集まった生徒たちを前に末政氏は語りかけた。
末政氏が被爆したのは、大芝国民学校6年生(11歳)のとき、爆心地から約2㌔離れた大芝国民学校付近の文具店の中だった。今年で93歳。原爆展を成功させる広島の会の一員として十数年にわたり市内の学校や県外から来る修学旅行生に体験を語り伝えてきたが、「今回が最後になるかもしれない」という思いを抱きながら証言依頼を引き受けた。スクリーンに映し出された被爆体験画は末政氏が体験を語るために描いたもので、被爆当時の広島の情景を臨場感をもって伝えている。
「ウーー、ウーー、当時は朝も夜もひっきりなしにサイレンが鳴る。“敵機が来たぞ!”と知らせる空襲警報だ。警報が出るたびにみんな防空壕に入ったり出たりして大変だった。1945年8月6日の朝は、雲ひとつない真っ青な空だった。前夜から続く警報が解除されたので、やれやれと私の家族はそれぞれ仕事や学校へ行った。家族は8人。私はお母さんと弟と一緒に家にいたが、絵を描くのが好きな私はクレヨンを買いに学校のすぐそばの文具店に向かった。お店のおじさんが私の顔を見て“今日はクレヨンはないよ”といったときだった。黒と黄色が混じったような強い光が、ドカーンという轟音とともにピカッと目の前を走った」。
末政氏は体ごと爆風で吹き飛ばされ、全力で何かにしがみつこうとしたが、階段の真ん中あたりまで吹き上げられ、やっとのことで手すりにぶら下がった。窓ガラスが木の葉のように舞い散って体に突き刺さり、血だらけになって何が起きたのかもわからない。壁の赤土が粉じんになって舞い上がり、息が苦しくなり「お母ちゃん、お母ちゃん!」と叫んだ。
「もう死ぬんだなと思った。そのとき“学童疎開はしなくて良い。どうせ死ぬなら家族みんな一緒に”という母の言葉が思い出され、店のおじさんからも“火が回ってきたぞ。早く逃げろ!”と促されて店の外へ出ると、すでに表通りはけが人で一杯。火傷をした人、血だらけの人、防火用水の中に頭を突っ込んでいる人。歩くことができない人たちがバタバタと道の上に倒れていく。狭い道路の両側から家が焼ける炎と熱風に煽られながら、私は家族で集合場所として決めていた大芝公園を目指して走った。片方しか下駄がなく、足裏にガラスが刺さるからケンケンしながら走った。大芝国民学校の中を通ると、校庭で手旗信号の練習をしていた友だち5、6人が倒れて動かなくなっている。名前を呼んでも返事はなかった」。
大けが負った母を介抱 11歳の末政氏

炎と煙のなか、傷ついた体で肉親を探し歩く人々(画・末政サダ子氏)
大芝公園には母親と祖母、弟の姿があった。被爆当時、家の台所でなけなしの小豆を洗っていた母親は、頭上の天窓から原爆の熱線を浴びて、ガラスが体中に突き刺さり、火傷で体の皮膚がはがれてぶら下がっていた。末政氏を見つけるなり、「サダ子、生きとったんね! よかった、よかった」と喜んでくれたが、髪の毛は焼けてチリチリになり、血だらけで黒い顔に眼だけが鋭く光る母の姿は「まるで鬼のようだった」という。
「“水が飲みたい”と動けない母がいう。周りにいた火傷をした人たちも“お嬢ちゃん、水ください”“水を、水を”“私を川まで連れて行って”と私のスカートの裾を引っ張る。私は、煙と焼ける臭いが充満するなか、空き缶を見つけ出して水を汲み、みんなに飲ませた。“火傷に水を飲ませたら死ぬぞ”と大人に怒鳴られても、目がうつろで動く気力もない人たちを見ると、どうせ死ぬのなら飲ませてあげたいという一心だった」。
原爆の熱線を浴びた母親の体には、血や膿の臭いを嗅ぎつけてハエがたかり、母親は痛みにうめき声をあげていた。末政氏は、母を戸板の上に寝かせ、ドクダミの葉を摘んできては手でもみ、体温で柔らかくして母の傷口に貼った。ドクダミの葉の下からは黄色い膿が湧くように出てきて、その膿が乾いたら葉と一緒に剥がす。痛みが和らぐと母親は優しい顔になり、「ありがとうね、ありがとうね」と介抱する娘をねぎらった。
「それでも母は痛みに身震いし、鬼のような顔でうめく。“お母ちゃん、死なないで。私がいるからね”と抱きつくと、母は“痛い、痛い”と泣き叫ぶ。私も一緒に泣いた。母の腕にはハエが卵を産み付け、小さなウジ虫が這い出してくる。指先でとると母が痛がるので、私は舌先でウジ虫を吸いとっては吐き出した。汚いとも怖いとも思わなかった。母は“あんたは上手じゃね。ごめんね”といってくれた。そのとき私は小さなお母さんだった」――。

道端で亡くなっていた母子の姿(画・末政サダ子氏)
食べ物を探して周辺を歩くと、道端で子どもを抱いて横たわっている母親がいた。体はまだ暖かかったが色は真っ白で、眠るように死んでいた。川土手まで行くと市内は建物がみんな焼けて、海の向こうの似島まで見えた。太田川は死体で一杯になり、夜になると真っ黒な市内を流れる7つの川だけが銀色に光って見えた。暗闇の中、肉親や家族の名前を呼びながら行ったり来たりする人波が絶えず、末政氏の目の前でも、歩いてきた人がバタッと仰向けに倒れて、大きく口を開けて何かを叫んで動かなくなったという。
「親戚の八百屋のおじさんは、私の顔を見て“さーちゃん、あんた生きとったんね”といってくれたが、おじさんは顔から胸にかけて刀で斬られたように裂け、血で真っ赤に染まっていた。唇はまるでザクロのように割れ、血は黒く変色し、その下から骨がのぞいていた。もう長くないことがわかっていたのだろう。おじさんは目をつぶって泣いていた」。
校庭で焼いた死体の山 二度と戦争させない
昨日のことのように情感を込めて語る末政氏の話を、生徒たちは物音一つたてることなく、水を打ったような静けさで聞き入った。一言も漏らすまいとメモをとっている生徒の姿も目立った。
末政氏は話を続けた。2日間何も食べることができないなかで田舎から届いた銀シャリの握り飯に救われた話。救護所になった大芝国民学校の校庭にはたくさんの死体が集められ、その死体を机や腰掛けと一緒に積み重ねて毎日のように焼いた話。その白骨をすりつぶして母親に飲ませた話。
「人の体は焼くとパチンと弾ける。とても嫌な臭いがする。子どもながら人が焼ける光景を見て、私は声を上げて泣いた。今考えても苦しくなる。焼いた後の骨は校庭の隅に穴を掘って埋めていた。あるおじさんに“骨はカルシウムだから火傷に効くぞ”といわれ、それを信じた私は誰のものともわからない骨を拾って持ち帰り、すりこぎで挽いて粉にして3日間ほど母に飲ませたり、火傷に塗ってあげたりした。今考えると他人様の骨でひどいことをしたと思う。それでも薬がなく、なんとかして母を助けたかった」。
市役所で戸籍係をしていたおじさんを探しに祖母と一緒に市内に出ると、街中に死臭が漂い、万代橋ではおんぶした子どもと一緒に黒焦げになった親子が死んでいた。その日の早朝から肥(人糞)樽を運んでいたお百姓さんと馬が半焼けのまま死んでいた。
「8月15日のラジオ放送で、天皇陛下から大切なお話があるということで、みんなラジオの前に集まった。日本は負けて戦争が終わったという話だった。集まった家族はしょんぼりとして言葉も出ない。でも戦争が終わった、もう爆弾が落ちてこない。子どもの私は嬉しさがこみあげてきた。それでも食料不足は続き、枕崎台風の洪水で川上から流れてきたウサギや鶏を食べたり、広島城のお堀で野菜を育てて食べていた。母と一緒に大八車を押して、焼け残った家々の消し炭を拾って煮炊きするための薪にしていた。いろいろな悲惨な体験をしてきたが、それが原子爆弾だと知ったのはずっと後になってからだ」。火傷を克服した母、そして祖母も10年後に原爆症による癌で亡くなったという。
最後に末政氏は、「81年前、一発の原子爆弾で広島は焦土となった。人々は一瞬にして虫ケラのように焼き殺され、地獄の底に引きずり込まれた。二度と戦争をくり返してはならない。日本には核兵器も戦争もいらない。平和な社会を作らなければならない責任がある。世界中の人たちが話し合い、お互いに助け合えば未来は切り開ける。本当に切り抜けられる知恵を出し合えば、過去の問題も一歩一歩前に進むと思う。原爆は人類の破滅を招く。地球にはいらない。平和以上に大切なものはない。これからを生きる若い人々は決して戦争をさせないとみんなで誓い合ってほしい。私もこれからも命が続く限り叫び続けていきます」と力を込めて体験談を締めくくった。
真剣に体験学ぶ生徒達 思いについて質問も

国泰寺中学校の1年生に体験を語る末政氏(26日、広島市中区)
質疑応答の時間に入ると、生徒たちから一斉に手があがった。「被爆当時や被爆後の生活を今振り返ってどう思いますか?」「原爆の後遺症があったら教えて下さい」「原爆を落とした人についてどう思いますか?」「被爆の証言活動をするようになったときの気持ちを教えてください」「今日はどんな気持ちで私たちに伝えてくださったのですか?」など、30分間の所要時間に収まらないほど生徒からの質問があいついだ。
末政氏はその一つ一つに丁寧に答えながら、「平和な世の中は何でもできて、食べられて、安心して寝ることができる。戦争当時は夜もサイレンが鳴りっぱなしで寝られず、食べ物もなくてみんな痩せこけ、本当に苦しい時代だった。被爆後の広島は生き地獄だった。食べ物だけでなく、着る服も住む場所もない。私には頼れる田舎もなく、焼跡から食べられるものを拾って食べていたほどだ」「原爆を落とした人は憎たらしいが、そもそも戦争をしたことも問題だ。それは天秤にかける話ではない。それでも、あんな爆弾を落として人を殺すという判断をしたことは許されることではない。戦後は(米国から)ララ物資などの救援物資が入ってきたが、それもパフォーマンスで、あれだけの人が外地から帰ってくれば食べるものは全然足りず、みんな野に生えた草を食べて戦後を凌いだ」と話した。
証言活動をする気持ちについては、「辛いことを思い出すのは苦しいし、話すたびに泣きそうになる。でも生き残った者としてご恩返しをしなければならないと思ってきた。戦争がどれほど苦しいか、戦争はしてはいけないということを伝えることがあの惨状の中を生き残った者の責任だと思う。今の日本では戦争は起きていないが、世界では戦争をしている。それをテレビや新聞で読んでいると、原爆を受けた瞬間のことを思い出して“やめてくれ!”と一人で叫んでしまうときもある」とのべた。
「平和な世界のために一番大切なことは何ですか?」という質問もあった。末政氏は、「皆さんがなんでも食べられて、ケンカができるのも平和だからだ。平和が崩れると、夜眠ることすらできなくなる。皆さんには、困っている人がいたら助けてあげてほしい。人を助けるということは自分の英気を養うことでもある。こうして私が話をしているのも、私自身の元気に繋がっている。皆さんも少しでもいいから自分のために人助けをしてほしい。傷を受けたり病んだ人でも声かけ一つで生き返ることを私は経験している。自分さえよければ良いという考え方ではなく、人を救ってあげてほしい」と伝えていた。
最後に生徒代表が「本日はお忙しいなか、講演をしていただき、ありがとうございました。今回の講演で特に印象に残ったのは、末政さんがご自身で描かれた紙芝居を見せて話して下さったことでした。肌が垂れ下がったり、ひどいケガの様子など、原爆でたくさんの人が苦しみ、亡くなったことがわかり胸が痛くなりました。だから今日のご講演内容を踏まえて、これからは当たり前のように過ごしている毎日を大切にし、今以上に良いことができる人を増やしていきたいと思います」とお礼の言葉をのべた。
生徒たちは、末政氏がステージを下りて、生徒代表に引率されて体育館を出るまで長い長い拍手で見送った。
対話でこそ伝わる思い 教師の熱意架け橋に
国泰寺中学校は戦後(1949年)に新設されたが、前身を同じくする広島県立広島第一中学校(現在の広島国泰寺高校)は、爆心地付近の建物疎開に動員された生徒350人以上がほぼ全滅する甚大な犠牲を被った。また爆心地を校区内に含むため、生徒の多くが小学校で地域の歴史にかかわる平和教育を受けてきており、同校でも8月には全校生徒が地域の慰霊祭に参加している。
平和学習を企画した20代の女性教員は、「生徒たちは熱心にメモを取ったり、末政さんのお話を自分の心に落とし込んで、講演後もびっしりと感想を書いていた。いろんな新しい視点を与えてもらい、末政さんとお母さんとの絆や困ったときにお互い助け合う心などに触れる子もいて、生徒たちのこれからの行動にも繋がっていく学習になったと思う」と話した。
企画した背景として、「私自身、平和教育がやりたくて教員になった。学生時代に米国に留学したさい、“広島に人は住んでいるの?”と聞かれたことにショックを受けた。その後、教員になって末政さんの話を直接聞く機会を得て、辛い体験を紙芝居にして伝えてくれる熱意に感銘を受けた。だから教員が伝えるよりも、末政さんの絵とメッセージを直接伝える方が子どもたちにも伝わるはずだと思って企画させていただいた」という。
「資料や展示物から学ぶこともできるが、私たちは生の声が聞ける最後の世代でもある。また、国泰寺中学校は爆心地から一番近い中学校で、生徒たちが卒業した近隣の小学校にはすべて被爆の歴史があり、生徒たちは6年間、平和学習を受けてきた。それを小学校のときだけで終わらせるのではなく、より深い学びに繋げてほしいと思っている。今日の平和学習の後、生徒たちは末政さんのことが大好きになっていた。対話だからこそ、このような生きた平和学習ができると改めて思った」と振り返った。
11月には原爆資料館や平和公園の見学に加え、校区内にある原爆慰霊碑のフィールドワークをおこない、広島を訪れる外国人への生徒によるインタビューも企画しているという。そのため若手教師たちは校区内に40以上ある慰霊碑をすべて巡って事前の下調べをしてきた。
平和学習を10月に企画したのも、8月だけの年中行事にしないという思いによるものだ。「体験者の方がおられるうちに伝えられることを伝えたい」「年間を通じて深めていく平和教育を」――そう願う若手教師たちの熱意が被爆者と子どもたちを繋ぐ架け橋となり、被爆地の願いは着実に次世代に受け継がれている。





















