
この本は、1977年に初版が発行された。それを戦後81年目に復刊したものだ。著者の渡辺清は、1925年に静岡県の自作農家の次男として生まれ、成績優秀でも中学校に行く学費がなく、次男なので農家を継げるあてもなく、1941年に志願して海軍に入隊。ミッドウェー海戦など幾多の戦闘に参加し、1944年のフィリピン・レイテ沖海戦で乗っていた戦艦「武蔵」が沈没したが奇跡的に生還した。戦後は作家の野間宏などを中心にした合評会に参加し、1970年には日本戦没学生記念会(わだつみ会)の事務局長となった。1981年に病没している。
この本を今の時期になぜ世に問うたかを、歴史社会学者の小熊英二氏が巻末でこうのべている。敗戦は、日本人にとって精神的な秩序の崩壊だった。敗戦まで敵だったアメリカが模範として仰がれ、神とされていた天皇が人間宣言をおこない、最高の名誉とされていた戦死が無意味な犠牲となった。真面目に考えようとする者ほどそれに抵抗感を覚え、そのなかから新しい枠組みを築こうとする試みが生まれた。そうした瞬間に、当時の人々がなにを考え、どのように模索していたかを示す稀有な資料こそ、この本である。
この本は、19歳の復員兵の、1945年9月2日から1946年4月20日までの日記であり、彼の心のなかの葛藤とともに、彼の視線でその当時の人々の考え方をいきいきと記している。
日記は、「8月15日をさかいに俺はまるでやる気をなくしてしまった。もう何もかもどうでもよくなって、急に投げやりになり、体を動かすのさえ億劫だった」「俺はこれからどこへ行こうとしているのか。一体何を拠り所に何を支えに生きていこうとしているのか」という自己への問いかけから始まる。
そして、日記に見られるのは占領者アメリカとアメリカにかしずく天皇への怒りである。1946年1月のある日の日記は、極東軍事裁判について書いている。
「マッカーサー司令部はこの裁判で、“平和と人道の敵を処断する”などと公言しているが、そもそもアメリカ側にそんな立派なことをいう資格があるのか。アメリカだって広島と長崎に原子爆弾を落としたではないか。殺傷されたのは、そのほとんどが非戦闘員である老人や婦女子だった。しかも、アメリカはそれを承知のうえで落としたのである」
また、天皇がマッカーサーを訪問した日には、「マッカーサーも、おそらく頭を下げて訪ねてきた天皇を心の中で冷ややかにせせら笑ったに違いない。その気配は二人の写真にも露骨に出ている。モーニング姿の天皇は石のように固くしゃちほこばっているのに、マッカーサーのほうは普段着の開襟シャツで、天皇などまるで眼中にないといったふうに、ゆったりと両手を腰にあてがっている。天皇はさしずめ横柄でのっぽな主人にかしずく、鈍重で小心な従者といった感じである」と書いている。
そしてそれを報道した新聞に、「宣戦の詔は、東条(英機)のごとくにこれを使用することはその意図ではなかった」との天皇のインタビューが掲載された。これについても「東条だけに責任をかぶせるようなものの言い方は、保身のための方便と受けとられても仕方があるまい」「戦争は天皇陛下の御命令で開始され、惨憺たる敗北を喫したあげく、最後も天皇陛下の御命令で終止符が打たれた。そして、その間たいへんな犠牲者を出したのだ。畏れ多いことだが、この責任は誰よりも先ず元首としての天皇陛下が負わなければならない」と書いている。
さらに、戦後の「平和主義者」や新聞・ラジオの変わり身の早さに、幾度となく厳しい批判を浴びせている。ある日、著者は青年団の仲間と一緒に、その村でただ一人の医者で、京都帝大出身の医学博士のところに話を聞きに行った。その人物は戦時中は大政翼賛会の役員として幅をきかせており、「君たちも早く大きくなって、天皇陛下の大御心にお応えしなければならない」と幾度となく勇ましい演説をぶっていた。
その人物がこの日は、「今度の戦争は、東条を中心にした軍閥と財閥が仕組んだものです。日本はこれからそういう恐ろしい軍国主義をいっさい排除して、民主主義に徹していかなければなりません」という。著者は「いつも人前にたって号令をかけ、旗を振りたがるその厚かましさと無責任…。結局汚れた手袋を裏返しにはめかえただけではないか」と手厳しい。
またマスメディアについても、こうのべている。
「前から腹にすえかねていることだが、このごろの新聞やラジオが、ふた言目にはアメリカを民主主義のお手本だといって持ち上げている。日本が平和な文化国家として立ち直るためには、この際もろもろの過去の行きがかりを捨ててアメリカと手を取りあって仲良くすべきだといっている。こういう場当たり的なご都合主義を負け犬の媚びへつらいというのだろう。それほど仲良くする必要があるのなら、はじめから戦争などしなければよかったのだ。第一、それではアメリカを敵として戦って死んでいった者はどうなるのだ」
著者の日記を一貫して貫くものは、亡くなった戦友たちへの思いであり、自分だけが生き残って帰ってきたことへの申し訳なさである。著者は戦艦武蔵がシブヤン海で撃沈されてからちょうど一年目の日、あの日のことがよみがえってどうすることもできず、一晩中あてどなくさまよい歩いた。戦友たちへの思いは、拠(よ)るべきなにものをも失った著者にとって、決して裏切ることのできない唯一の拠り所であったし、その思いは多くの復員兵に共通する思いであっただろう。
「戦死者の数字の裏側から、共に戦って死んだ仲間の顔が数珠玉のようにひとつらなりに浮かんでくる。その生前の言葉遣いや身振りまでが生々しく迫ってくる。そして、この俺も戦場で彼らとともに死ぬ運命にあったのだ。しかし、こうして自分だけが生き残ったことが、やたら無性に後ろめたい」
その思いは同時に、平和への強い願いにもなっている。「かりに日本が再び強大な軍隊を組織して戦争を始めることになっても、俺は今度こそ戦争には絶対に参加しない。俺は今度の戦争には終始全面的に協力したが、戦争に協力した責任は、今後いかなる戦争の企てにも協力しないということによってしか償うことはできないと俺は思う」
日本の総人口のうち、戦争を知らない世代が9割になった。ぜひ一度手にとってもらいたい本の一つである。
(角川新書、348㌻、定価1200円+税)





















