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放置できぬ下関漁港市場の苦境 水揚げ急減で業界に危機感 巻き網廃業や沖合底引船の沈没 行政は産業保護に力注げ

(2026年9月4日付掲載)

沖合底引き船での網揚げ作業(2016年)

 下関市を根拠地とする沖合底引き網漁船6カ統・12隻のうち、「第一やまぐち丸」が今期の漁開始初日に沈没するという衝撃的な事故が発生した。幸いに乗組員全員が助かり、下関に帰還することができたものの、1カ統当り約4億円という水揚げが失われることは、市場、仲買、包装資材業者、荷役の人たち、運送業者など多くの関連業者に影響が及ぶ。下関漁港をめぐっては、今春、下関最後の巻き網船団「泉宝丸」を保有する泉水産が廃業した影響も出ている。それに加えての出来事であり、下関漁港の存続すら危ぶまれる事態であるという危機感が水産関係者のなかに広がっている。魚を獲ってくる船あっての漁港であり、関連産業だ。老朽化した沖合底引き船の代替建造の課題も何年も先送りされており、「30年をこえた船団が故障などであと1カ統でも動かなくなれば大変なことになる」といわれるほど、ぎりぎりの状況になっている。地場産業のこの事態を傍観するのか、行政の姿勢、とくに地元・下関市の姿勢が問われる。記者座談会をもって議論した。

 

水産都市・下関の衰退に直結

 

  「第一やまぐち丸」の事故は、8月15日に約3カ月の休漁期間を終えて出漁した初日の同16日に起こった。関係者に聞くと、漁場に着いて1投目の網を船上に引き揚げた直後にバランスを崩して転覆したという。原因はクラゲだったといわれている。クラゲの体は95%が水分でできていて、大量に網に入ると網目を塞ぎ、網を巨大なビニール袋のようにしてしまうそうだ。クラゲが大量に入った網を船上に引き揚げたさいにあまりにも重すぎて船体がバランスを崩し、転覆したとみられている。

 

 甲板で作業していた7人の乗組員は海に投げ出されたりし、操舵室にいた漁労長は窓枠のネジを外して間一髪のところで船の中から海中に逃げ出したそうだ。「船がこれほど速く沈むのか」と思うほど、あっという間の出来事だったそうで、漁労長はあと1分でも脱出が遅かったら助からなかったかもしれないと語られていた。

 

 僚船の「第二やまぐち丸」のほかにも、近くで漁をしていた同じ沖合底引き網船団が「第一やまぐち丸」が転覆したのを見て急いで救助に駆けつけ、海に投げ出された乗組員たちを救助したそうだ。事故発生当時、すでに夜が明けて周囲が明るくなっていたこと、夏場で水温が冷たくなかったこと、凪の日で波が穏やかだったことなど、不幸中の幸いが重なり、乗組員は全員無事に救助された。

 

  2艘曳きの1隻が沈没したことで、今漁期は第一・第二やまぐち丸は操業できなくなり、約4億円の水揚げが見込めなくなった。市場は手数料6・5%(8月から1%引き上げ)が入らない。4億円の6・5%ということは約2600万円ほどだ。市場の経営は手数料で成り立っているから、水揚げが億単位でも、市場としての収入は限られる。主力の水揚げの6分の1が突然失われたことの損失は小さくない。それに、燃料業者、発泡スチロールなどの包装資材業者、夜10時から魚を揚げる作業をする荷役の人たち、魚を買う仲買、魚を運ぶ運送業者など、一つの船団には多くの人が連なっている。たとえば発泡スチロールも1カ統で年間2000万円分くらい使うといわれるし、燃料代も高騰している今、月4航海で1600万~1700万円ほど、10カ月間の漁期で1億6000万~1億7000万円使うという。ということは、それらの業者は今時点で、年間にその規模の売上が見込めなくなったということだ。「なにはともあれ全員無事でよかった」とだれもが口にするが、今後についての危機感は切実なものがある。

 

  とくに今春に下関最後の巻き網船団を持っていた泉水産が廃業したことで、下関漁港はアジ、サバ、イワシといった青物を長年安定的に水揚げしてきた船団を失った。泉宝丸はだいたい4月末頃から11月末頃まで出漁し、年間5000万~1億円を水揚げしていた。泉宝丸がとってきていたアジは「銀アジ」と呼ばれ、「黒アジ」といわれる萩などのアジとも違い、脂の乗りが良く評価も高かったそうだ。そして、沖合底引き船団の休漁期間である5月から8月半ばまでの期間、下関の水産業は泉宝丸の水揚げに支えられていたようなものだった。それがなくなった影響はかなり大きく、「今年の夏場、下関漁港は死んだようになっていた」と表現する関係業者もいた。鐘崎港(福岡県)のアジ・サバも今年の夏場は数回しか入らなかったそうだ。蓋井島の定置網も台風対策で盆前に網を引き上げてしまったので、とくに盆前は「魚がない」状態になっていたという。

 

沖合底引き船に取り込んだ魚の選別作業(2016年)

  地元の巻き網船団の水揚げがあるからこそ、日々の相場が生まれる。これまで鐘崎港の漁業者をはじめ他県の漁船に相場表を送り、それを見て他県の漁師たちは博多に持って行ったり、下関に持って来たりと行き先を決めていたそうだ。その送る相場表がなくなってしまったことが致命的だともいわれていた。

 

 今年、アジ・サバの漁獲が全体的に少なかったこともあり、とくにサバは昨年の倍みたいな感じで、1箱(およそ18㌔)につき2000円くらい高値がついているという。博多などで高値がついていることも下関に入ってこない要因としてあったようだ。ただ、市場関係者の話を聞いていると、今は交通網も発達して他県の市場からでもトラック便などで荷は集まるが、やはり市場は地元の魚があってこそ成り立つもので、他県の巻き網船団やトラック便も、泉宝丸が安定して水揚げする魚の品質や価格にあやかる形で集まってきていたそうだ。その下関漁港独自の品質・価格の基準を失えば、他の市場の相場を基準にするほかなくなり、市場としても競りで強く出にくくなるという。漁獲量や他の市場の相場など、さまざまな要因で荷の動きは変化するものではあるが、やはり地元の魚がなくなった影響は大きいと話していた。

 

  沖合底引きの休漁期間中、泉宝丸が水揚げするアジ・サバを求めて中央魚市場に仕入れに来る業者も多く、まとまった量が確保できることから、養殖業者のエサとしても頼りにされていたため、そうした業者も魚が手に入らず困っているし、「60年近い歴史のなかで7月は史上最低の売上だった」という関連業者もいる。船が入らなくなるということは、そのように多くの人たちに波及していく。

 

 このままだと来年の夏も同じ状況になることは目に見えている。「沖合底引きの休漁期間をどう乗り切るかが、市場、仲買、関連業者みんなの問題だ」といわれるかなりギリギリの状態のなかで沖合底引き船団が1カ統、稼働できなくなった。だからこそ衝撃は大きい。

 

漁業者は5年で3割減 高齢化率は全国2位

 

  18歳から50年、仲買の仕事をしてきたという人が話していたが、一番いい頃は年商8億5000万円あったのが、今は1億円にも届かなくなっているという。かつてはトラックを8台持ち、下関で競った魚を広島や大阪などの消費地市場へ運送する「おっかけ」もしていたそうだ。それだけ下関の魚は全国で需要があった。しかし今は、沖合底引き船の魚がない時期は消費地に飛ばせる魚がなく、むしろトラック便がないと競る魚がないような苦しい状況になっているという。取引業者も5分の1まで減少しているそうだ。

 

 もちろん水揚げ量が多いこともあったが、「下関は多種多様な魚が集まるのが魅力だった」と話していたのが印象的だ。沖合底引きや巻き網など、ある程度の規模を持った漁業がありながら、沿岸漁師もさまざまな小網をやる人、釣りをする人、潜りをする人もあり、バラエティ豊かな魚種が揚がっていたそうだ。この業者では一番多いときは主要魚種で年間200種類ほど扱っていたのが、今は20品目で売上の9割を占めているというから、魚種の偏りは顕著だ。「魚種の単一化が下関の水産業の衰退をあらわしていると思う」と話していた。仲買としても扱う魚種が固定化していくと面白みが薄れるそうだ。それは買う方、食べる方も同じだ。

 

  魚種の単一化の傾向は全国的にも共通していることではあるが、下関はとくに顕著にあらわれていて、それは全国トップクラスで漁師の減少や高齢化が進んでいることと通じていると仲買が話していた。

 

 確かに山口県の漁業の衰退は全国的に見ても顕著だ。「2023年漁業センサス」(2024年8月発表)で、山口県は前回調査からの5年間で漁業経営体数の減少率が24・4%(全国平均17・0%)で全国で5番目に高かった。漁業就業者数(過去1年間に30日以上、漁業の海上作業に従事した満15歳以上の者)も5年前の3923人から28%減少して282五人。わずか5年で漁業者が約3割減少していて、全国平均の減少率20・1%を大きく上回っている。漁業就業者の高齢化率も58・0%(全国平均39・2%)と全国で2番目に高い。下関だけを見ても、とくに北浦の沿岸漁業なんて壊滅といっていいほど漁業者がいなくなっている。

 

 遠洋・沖合もしかり。一応、下関漁港は「水産業の振興上とくに重要な漁港」である特定第三種漁港に指定されている。だが、下関漁港を根拠地とする漁船登録上の漁船勢力は、2024年時点でわずか17隻。うち5隻は官公庁船だ。残り12隻のうち10隻が沖合底引き船だった。24年6月に沖合底引き船に「第七・第八やまぐち丸」が加わって12隻になったが、「第一・第二やまぐち丸」が沈没事故で操業できなくなった。現状、下関漁港を根拠地として操業する沖合底引き船は10隻(5カ統)のみとなっている。「特定第三種を返上しないといけないくらいではないか」といわれるような状況だ。

 

戦後の下関支えた漁業 以西底引撤退が転機に

 

  来年8月で大丸下関店が撤退するが、大丸そのものも戦後復興の過程で、日本有数の水産基地として発展してきた下関の歴史と密接にかかわっている。

 

 終戦間際の1945(昭和20)年に2度にわたるB29の空襲で都市機能が停止する壊滅的な被害を受けたところから、市民生活が明るさをとり戻すまでにはおよそ10年を要したというが、その復興の基軸となったのが水産業だった。

 

 戦時下の「水産統制」で、下関漁港を基地とするトロール漁船は徴用され、終戦直後は7隻まで減少していたのだが、そこから一気に漁船の建造が始まり、戦後2年目の1947(昭和22)年には、下関を根拠地とする漁船が全国の漁船数の半数以上を占めたほどだった。もちろんそれは、大洋漁業株式会社(マルハニチロ)がGHQの格別の庇護を受けて急成長したことともかかわっている。市民の復興意欲を奮起させるために1947(昭和22)年に開催されたのが「下関復興祭」(後のみなと祭)だったことも町の中心が水産業だったことをあらわしている。みなと祭の写真は数多く残っているが、すごい活気だ。

 

  今は亡き漁業会社の社長が「当時の漁業界にはフロンティア精神と結束力があった。小さな船で沈没したり、拿捕されたりと多くの犠牲を払いながら漁場を開拓し、その漁場を守るために、あてにならない政府をおいて日中民間漁業協定を結んだり、マッカーサーラインに続いて李承晩ラインが制定されたときにも、みなで漁船を並べて港を封鎖し、韓国船の入港を阻止して抗議したこともあった」と話していたことを思い出す。そうした漁業界の動きのなかで、敗戦から20年後の1966(昭和41)年、下関漁港は28万5000㌧という日本一の水揚げを達成した。

 

 下関漁港内に線路が走り、全国でもっとも早い午前1時に競られた魚は貨車に積まれてそのまま都市部へと送られていたそうだ。昔の人はよく「漁港の中は魚であふれて、バケツを持っていけばアジやサバをわけてもらえていた」などと思い出を語っていたが、漁業と漁港の発展を中心に、中小零細の造船・鉄工や船食、食堂などの産業・商業が栄えて下関の町を形作ってきたということだ。

 

  しかし、日本一を達成したわずか6年後には以西底引きの減船が始まり、二度のオイルショックや1977(昭和52)年の200海里規制、漁獲制限など漁業全体をとり巻く状況が悪化するのと同時に、陸上交通の発達で下関の地理的優位性が低下したこと、そうした変化への対応が放置されてきたことから、下関漁港の水揚げは減少の一途をたどった。

 

 地位低迷の最大のきっかけだったのは以西底引きからの撤退で、安倍晋太郎が当時北海道選出の自民党代議士だった中川一郎と取引した結果、水産都市・下関の長期の低迷が始まり、大和町一帯も急速に寂れていったという。1992(平成4)年には下関を根拠地とする以西底引き船は完全消滅し、水揚げ量は10万㌧を下回るようになった。そして96(平成8)年に長らく厳しい経営となっていた下関魚市場が倒産し、魚の受け入れができなくなったことも、下関漁港の水揚げ減少に大きく影響している。

 

新船建造も困難な状況 観光以前の基幹産業

 

 C そんな歴史をたどってきて、沖合底引き船が「最後の砦」となっているのだが、それも2000年代初めまでは15カ統(30隻)あったのが年々減少し、今では6カ統(12隻)。下関漁港の24年の水揚げは1万9591㌧(南風泊港を含む)と最盛期の6・8%にまで落ち込んでいる。ノドグロの単価が上がったことで持ちこたえてきたものの、厳しい状況は長年続いていて、機関長や漁労長といった人材確保の課題、30年をこえる老朽船の問題など、課題は山積している。

 

 とくにイラン戦争以降の燃料や資材の高騰は激しい。A重油は1㍑70~80円台、昨年までは高くても100円以下だったのが、ホルムズ海峡が封鎖された今年3月以降に急騰し、4、5月は130円台にまでなった。現在も120円台だ。発泡スチロールなんて3割以上上昇しており、全体の経費は1億円規模で上昇しているといわれる。一方で魚価は漁船が決めることはできないので、コストを転嫁することができない。農業も同じだが、この間の資材高騰の最終的な負担は生産者に回っている。

 

 8月15日の出港式のさい、組合長が挨拶のなかで、休漁期間中の船体や設備の修繕、漁労資材の購入などにおいて「過去経験にないほどの多額の費用がかかった」と厳しい現状についてふれていた。さらに6カ統のうち3カ統は1990年代に建造しており、すでに30年以上が経過して老朽船になっている問題がある。

 

 船が古くなれば故障も増えるので、不調で沖から帰らなければならないことも多くなるし、メンテナンスにもお金がかかる。「あと1カ統でなにか起これば下関漁港は大変なことになる。行政も動いて何としても代替建造をしなければ…」と関連業者が危機感をもって語っているのは、そういう現状があるからだ。

 

  市場関係者がいっていたが、昔は利益が出ていたから10~12年に一度、新船に造り替えていたそうだ。造船所も10年に一度くらい仕事が入れば、技術が継承されていくが、30年に一度となると経験のある職人もいなくなっている。依頼できる造船所は限られ、予約を入れても3年待ちといった状態になっているようだ。

 

 そういうさまざまな話を聞くと、下関市に漁業と関連産業をめぐる産業政策がないことを改めて感じる。「“県の管轄だから”といっていたら、この先どうなるかわからない。もう少し真剣に市が考えて動いてほしい」という現場の切迫感と行政の温度差はますます広がっているように思う。

 

 大和町の漁港市場を高度衛生市場に建て替えるとき、「どれだけ市場を新しくしても船が減って魚が減れば意味がない」「建物の前に漁船や漁業者を支えるべき」という声が水産業界で圧倒していた。それは南風泊市場の高度衛生化(現在進行中)についても同じだ。漁業者あっての市場であり、漁業者あっての仲買であり、関連業界だからだ。

 

  唐戸市場に観光客が来るのも、下関漁港の水揚げがあってのことだ。地元の魚がなくなれば、いずれ観光も廃れる。火の山再整備に90億円かけているが、そうやって「観光、観光」といっているあいだに、地場水産業が危機的な状況に陥っている。「ピンチョスの店をつくる」なんていっている場合ではないのだ。

 

 長期的な視点を持って水産業を支える産業政策を打ち出すことが急がれる。それは「一経営体への支援」にとどまらず、広く関連産業を支え、技術を継承する意味を持つものであるし、もっといえば市民の食を支えることでもある。新鮮な魚が手に入らない町になるのも時間の問題になっているという認識を行政側も持つ必要があると思う。

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