いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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『霧のごとく』 監督・脚本 チェン・ユーシュン

 この映画の舞台は、戦後まもない1950年代の台湾である。台湾は第二次大戦で日本の天皇制政府が敗北した後は、日本の植民地から脱し、蒋介石の国民党率いる中華民国に編入された。そして1949年5月から、国民党政府は台湾全土に戒厳令を敷き、スパイの告発や拷問をおこなっていた。

 

銃殺された兄の遺体は

 

 1953年、貧しい農家に生まれた少女・阿月は、反政府分子として国民党政府から追われる兄をさとうきび畑にかくまい、食料を届けていた。映画はこの場面から始まる。その兄が、特務機関に捕まり、投獄される。その後、捕らえられた兄が台北で銃殺刑に処されたと知った少女・阿月は、兄の遺体をひきとるため、故郷の嘉義から遠路はるばる台北に向かう。

 

 ところが途中で、怪しい男たちにだまされ、遊郭に売り飛ばされそうになる。その阿月を救ったのが、中国大陸・広東出身の元国民党軍兵士で、今は落ちぶれて車夫をしている趙公道だった。実は趙公道は、信頼していた軍隊の上官が国家反逆罪に問われており、彼は特務機関につかまって上官の居場所をはけと厳しい拷問を受けた。そのあげく、彼は居場所をしゃべってしまい、上官は銃殺刑となった。彼はその良心の呵責にさいなまれて生きてきたのだ。

 

 一方、その特務機関の部長――趙公道に拷問を加えた張本人――は、ある医者が国家反逆罪で銃殺刑になった後、遺された若くて美人の妻の弱みにつけ込み、その家に足繁く通う腐りきった輩だった。義憤にかられた特務機関の部下は、趙公道を誘って、部長に制裁を下そうと相談する。だが直前に計画がばれてしまい、彼は射殺され、趙公道は25年間、戒厳令が解除されるまで投獄されることになる。

 

 阿月と姉は、兄の遺体を探してさまよったあげく、ついに国防医学院で解剖実験に供されようとする寸前に、兄の遺体と再会する。

 

 絵本作家になることが夢だった兄は、阿月と姉に二つのしずくの物語を遺した。

 

兄が残した二つの物語

 

 しずくは雲になって広い世界を見ることにあこがれる。やがて願いどおり雲になり、雨となって砂漠を潤し、作物を育てる。その物語は、教師になる夢を持っている阿月に、台湾の次世代を立派に育てるよう託した励ましに違いない。

 

 しかし、みずからに捕縛の手が伸びていることを知った兄は、もう一つのしずくの物語を姉に遺した。そのしずくは、雲になる夢を果たせず、霧になってさまよう。そこには誰よりも「平和な世界、差別のない自由な社会」をめざした兄が、その夢を果たせなかったことへの悔しさを投影しているようだ。

 

 この映画は、台湾映画界最高峰の映画賞である第62回金馬奨で最優秀作品賞を含む最多4部門を受賞した。また、昨年9月以来の興行収入は5億円を突破し、その後も伸び続けているという。

 

分断された台湾の人々

 

 監督のチェン・ユーシュン(1962年・台北生まれ)は、「映画化のきっかけは、帰省したさいに年老いた両親から昔の思い出話を聞いたこと。228事件や白色テロの時代について多少は知っているつもりだったが、自分の想像をはるかにこえており、激しく心を揺さぶられ、絶対にこれを伝えなければと」と語っている。この映画を見るとき、1950年代当時の時代背景を理解することが不可欠だ。

 

 1945年、台湾は日本による植民地支配を脱したが、その後は中華民国の統治下に入った。蒋介石の中華民国は、アメリカの後押しを受けて中国大陸で中国共産党と戦っていたが、1949年に敗北して台湾に逃れ、「いずれ大陸を共産党から奪還し、台湾と中国大陸を一つの中国にする」といきまいた。

 

 蒋介石の国民党政府は、日本の統治を経験した台湾住民を「奴隷化教育を受けた人々」とみなし、「中国人」であることを求めた。日本統治期以前より台湾に住んでいた漢民族系の人々を「本省人」、戦後に国民党とともに台湾に渡ってきた人々を「外省人」と呼ぶが、「本省人」たちは「外省人」への不満をおおいに募らせた。

 

 1947年2月、闇タバコの取り締まりを契機に「本省人」と「外省人」の衝突が起こり、台湾全土に反政府の政治暴動が起こった。蒋介石は中国大陸から軍隊を派遣し、台湾各地で市民に対する逮捕や虐殺をおこなった。(228事件)。

 

 その後は、国民党政府による「白色テロ」の時代に入ったといわれる。国民党政府は、共産主義者だけでなく、台湾の独立を主張する人たちに対しても、長期にわたって厳しい政治弾圧をおこなった。それは50年代前半がとくに激しく、50年から54年までで少なくとも3000人が銃殺刑になり、8000人以上が投獄されたという記録がある。そこには多くの冤罪が含まれていた。ようやく戒厳令が解除されるのは、1987年になってからである。

 

 この映画の特徴は、かけがえのない兄を白色テロで失った遺族の怒りや悲しみとともに、当時の軍隊や病院、特務機関のなかにも白色テロに疑問を持ち、それとたたかい、遺族を守ろうとする人たちが至るところにいたこと、「外省人」と「本省人」との分断・差別があるなかで、それを乗りこえて弱い者、困っている者を助けようとする気風が庶民のなかにみなぎっていたことを、ユーモアを交えて生き生きと再現していることだ。

 

 こうした歴史は、台湾の市井のなかで脈々と語り次がれていることだろう。今の日本では「中国からの独立か否か」のみがメディアで大きくとりあげられるが、こうした台湾の人々の戦前と戦後の歴史的経験に学ぶ必要がある。この映画は、台湾の人々のなかに「平和で自由な社会」を求める気持ちがいかに強いかを示している。

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