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コスト重視で被災者切り捨て 震災から1年迎える能登半島 地震と豪雨に加え復旧放棄の人災 「なぜ国は人命と生業守らぬか」

(2024年11月25日付掲載)

倒壊家屋を縫うようにして生活道路を行き交う市民(24日、輪島市)

 能登半島地震からまもなく1年――。試練にさらされ続けた能登半島は、ふたたび厳しい冬を迎えようとしている。震災から復旧半ばの9月には、未曾有の豪雨災害にも襲われた。ようやく入った仮設住宅から体育館の段ボール生活に逆戻りした人々、生業(なりわい)再建の腰を折られながらも歯を食いしばって耐えてきた能登の人々が、今どんな状況にあり、どんな思いで冬を迎えようとしているのか。震災関連死が東日本大震災以降最多にのぼるなか、国や行政に何が求められているのか――。能登被災地の人々の切実な声や暮らしの実情は、まるで報道管制でも敷かれているかのようにメディアから伝えられることはない。本紙は能登震災1年を前に、黙殺状態に置かれている能登被災地の人々の声を伝えるべく、石川県輪島市に向かった。

 

震災1年、豪雨2カ月 石川県輪島市の現状

 

 「震災直後の振り出しに戻ったというものではない。それ以上に酷い状況だ」――9月半ばの豪雨災害直後、現地の人に電話で聞いた話から予想はしていたものの、3カ月ぶりに入った輪島市内の姿には言葉を失った。

 

 金沢方面から輪島市内に入る唯一の幹線道路を通って輪島市に近づくにつれ、道の凹凸は激しくなり、道路と並行して流れる河川はあちこちで決壊し、橋は崩落。護岸は見る影もなく崩れて、流れた土砂が流域の田畑や道を呑み込んでいる。

 

 川向こうの山は山肌が剥き出しになり、地震で緩んだ地盤が豪雨によってそのまま川に押し流されたことがわかる。地震被災地は、荒涼とした土砂災害被災地の姿に塗り替えられていた。

 

河川の氾濫と土石流で甚大な被害を受けた輪島市久手川地区(23日)

 輪島市内に入ると、地震で倒壊した家々が3カ月前と同じ姿で横たわっていた。確かに解体が進み、ところどころ更地が増えてはいるものの、地面に屋根がへばりつくように潰れた家、菱形に歪みながらもかろうじて自立している家屋、軒下の車ごと押し潰れた旅館、おそらく震災以降一度も手がついていないであろう崩壊家屋、廃業し解体を待つだけの店舗……まるで現場保存でもされているかのように光景が変わっていない。1年近くたつなかで、崩れた家は雑草が伸び、屋根にかけられていたブルーシートは劣化して破れ、北風になびいている。

 

 街の中では、ビブスや作業服を着たボランティアたちが数人、スコップやバケツをもって泥かきに動いていたり、解体業者のトラックも見かけるものの、道を歩いている人の姿はほとんどない。雪が降る前に屋根の修理を急いでいるためか、あちこちの屋根からトラックの荷台に瓦を落とす音が響くだけで、8月には公費解体や道路補修のために忙しく動いていた重機やダンプの数も減ったようにみえる。

 

 ニュースで流される「道路を塞いでいた五島屋ビルの解体がようやく始まった」とか「輪島で1年ぶりに漁業再開」などの明るい情報や早くも「記憶の風化」を心配するメディアのアナウンスとは裏腹に、現地の状況はまだまだ災害の渦中にあり、「復興」と呼ぶにはほど遠い。

 

 9月の豪雨では、すり鉢状の輪島市内のなかでも海抜が低い河井町周辺に水が押し寄せ、地震ではかろうじて倒壊を免れた家や店舗も床上・床下浸水の被害にあい、震災後に整備された応急仮設住宅も被災。市内最大規模の宅田団地(142戸)では床上1㍍も浸水した。郊外では土砂に家が押し流されたり、山間のいくつかの集落はまるごと土石流に呑まれる壊滅的被害に見舞われた。

 

災害関連死が増える理由 抗議して倒れる住民も

 

地震で歪み、豪雨で土砂が流れ込んだ民家の解体作業(23日、輪島市河井町)

 9月の豪雨災害後、輪島市内の中学校体育館に避難している輪島塗の男性職人(70代)は、市内中心部にあった自宅兼工房が元日の地震で全壊したという。崩れた家から家族4人で這い出して、避難所になっていた小学校に避難した。当時は電気も水もなく、家々から毛布を持ち寄り、石油ストーブを囲んで暖をとった。冷たい床の上に体操用マットやゴザを敷き、コンビニやスーパーも開いてないので町内で備蓄していた保存食を分け合った。「多いときで120人が身を寄せていた。カップラーメン一つを家族4人ですすり、乾パンをかじりながら、1月半ばに自衛隊の支援物資が届くまで耐えてきた」と語る。

 

 「一番つらかったのはトイレ。凝固剤入りの簡易トイレの数がまったく足りず、1人1回使い捨てのものを5~10人が使ってから処分するしかなかった。とくに女性はつらかったと思う。汚物運びも水運びも動ける人が動いて、みんなが声をかけ合い、励まし合って避難所のコミュニティを作り上げた。それだけは誇りだ」と話した。

 

 6月末にようやく仮設住宅に入れるようになり、ここまで一緒に支え合ってきた地域のコミュニティを壊さないように、できるだけ同じ場所にまとめて入れてもらえるように行政に要望したが聞き入れられず、「場所はバラバラになり、今は誰がどこにいるのかもわからない」という。

 

 「私たち一家も7月半ばに仮設住宅が当たったが、そこはこれまでも何度も泥が流れ込み、土砂崩れの恐れが指摘されていた場所だった。案の定、9月の豪雨で床下浸水。泥が流れ込み、住めなくなった。結局、私たちは元日から小学校体育館で7カ月半過ごし、仮設住宅で3カ月暮らし、10月末にまた家族4人で体育館に入ることになった。行政はメンツもあって“12月末までには泥出しを終えて仮設住宅に戻れる”と説明しているが、進捗状況も知らされず、なんの確約もない。この調子では正月を体育館で過ごすことになるかもしれない…というのが、ここにいるみんなの率直な受け止めだ」と話した。

 

 「残念なのは、行政のトップや幹部たちが避難所で住民がどんな暮らしをしているかを視察すらしないし、意見を聞こうともしないことだ。市議も一度も顔を見せず、若い職員だけが送られてくる。水もトイレも暖房もない避難所を住民みんなが力を合わせて運営してきたが、行政がどれだけ実態を把握していたかは不明だ。そんななか、副市長宅の隣家の緊急公費解体だけが最も早い時期に実施されていたことが報道された。馳知事も東京の自宅暮らしで住民の側にいない。そのような政治への反発が今回の選挙にあらわれた(能登を含む石川3区では自民党現職が小選挙区で敗北)と思う」と語気を強めた。

 

 「1~3月の“お願いだから救援に来てくれ”という思いは行政や政治家への怒りになり、4~5月には怒りを通りこして、どうでもいい…という諦めに変わり、今は失望しかない。国や行政とはこういうものなのか。“住民に寄り添う”とは形式的にとり繕うためだけの詭弁なのかと」。

 

 「みんな苦しんでいる。でも、それをどこにぶつけたらいいのか」――誰もがそう口にする。震災から長期の避難所生活を経て、ようやく入った仮設からまた避難所という苦難の連続のなかで、持病の悪化や精神的ストレスから急死する例が後を絶たないという。

 

 「9月に仮設住宅が床下浸水に見舞われ、それから1カ月後の10月19日、市の住民説明会で“仮設住宅を清掃するので月末までに退去してほしい”と告げられた。わずか10日後だ。そのとき知人(74歳)が立ち上がり、“この場所は6、7年前から土砂崩れの恐れがあるから対応をしてくれと住民が要望してきた場所ではないか。それでも仮設を建設して、浸水したから10日足らずで出て行けというのは、あまりにもひどい扱いではないか”と訴えた後、その場で倒れ込み、その半月後に亡くなった。脳幹出血だった。寡黙な性格の人だったが、最期の力を振り絞ってみんなの怒りを代弁してくれたのだ」

 

 「半年間、避難所で一緒に生活してきた42歳の男性が、10月半ば、仮設住宅のなかで孤独死していた。くも膜下出血だった。連絡がつかないから不審に思った職場の人たちが訪ねたら部屋の中で1人で亡くなっていたという。表には出さないが、みんな苦しんでいる。そんななかで今日も県の幹部がとり巻きを連れて避難所に視察に来たが、設備の配置だけ点検したら、住民に一言も話しかけることもなく帰って行った」

 

 「まだ復興モードにすら入っていないのに、ほとんど能登のことが報じられることがなくなった。地元放送局や新聞でも申し訳程度に“今の能登”が特集されるくらいで、行政批判をしたら全カットされる。この避難所にいる人たちは、仮設に入りたい、家に戻りたいと思っている。地震で助かった家が浸水したり、自宅が全壊して仮設も水没した人もいる。精神的ストレスや孤独感が重なっているから関連死が増えているのだ。住民が必要としているものは、イベントや祭りの情報でも健康づくりの情報でもない。困っている人たちに寄り添ってくれる、安心させてくれる情報だ」

 

 避難所では現在、朝食はパン、昼と夕食は弁当や炊き出しが提供されているが、寝床は畳一畳分の段ボールベッドで、もう一畳分のスペースを含めて目隠し用のテントで仕切られた空間で過ごしているという。25日現在、輪島市内11の学校や公民館に約300人が身を寄せている。

 

豪雨による崖が崩れで土砂に埋まった(24日、輪島市鳳至町)

仮設水没し再び体育館へ 水害想定地域に建設

 

 震災後に入った仮設住宅が水没し、現在、輪島市内の避難所で暮らしている62歳の男性は、「86歳の母親と暮らしていた自宅は地震で全壊。集団避難で白山市のホテルに5月半ばまで滞在し、ようやく入った仮設住宅も9月の豪雨で水没。胸まで水に浸かり、母親は警察官に背負われて輪島病院まで避難した。この避難所に来て2カ月になるが、12月末までに仮設住宅に帰れるのかどうかははっきりしていない」と力なく語った。

 

 「自宅が全壊で家財道具がないので、仮設住宅に入るときに冷蔵庫、洗濯機、テレビを付けてもらい、企業からの支援で付与されたポイントでこたつ、電子レンジ、扇風機を支給してもらったが、今回の水害でそれもすべて失った。ふとんもなければ命にかかわる。要望したいことは、これらの家電やふとんを仮設住宅に入ったときの状態にしてもらうことだ」と控えめに語った。

 

 宅田町の仮設住宅は市のハザードマップで浸水想定区域に指定されていたが、市は「他に場所がない」として142世帯を建設。ほぼすべての部屋が水没したが、再入居者に対する支援は、テレビ、冷蔵庫、洗濯機の購入に対する上限13万円までの補助のみ。「生活再建で貯金を使い果たし、年金だけでかつがつ生活している高齢者はどうすればいいのか…」と心配する声は強い。

 

 同じく自宅が地震で全壊し、仮設住宅も水没した男性(70歳)は、「3カ月前、仮設に入居するさい、県職員に“増水して水害が起きる危険性はないのか”と問うと“前例がないから大丈夫だろう”といっていた。だが実際には9月の水害で、私たち家族3人で暮らす仮設も胸まで水に浸かり、命からがら避難して駐車場で車中泊した。妻の実家も土砂崩れの被害にあったため、現在は弟の家で間借り生活をしている。馳知事がメディアを連れて仮設へ視察に来たときに、“水害は予想されていたことではないか”と直接問いただしたが、テレビで放送時に全カットされた。それでも一部新聞に載ったため、県は“事前に住民に説明して了解をいただいている”といってごまかしている。一事が万事こんな調子なのだ」と憤りを込めて語った。

 

 一緒に暮らしていた母親(90歳)は、水害前に入院して被災は免れたものの、その後、脳梗塞で他界したという。「心がおれて笑うしかない状態だが、幸いにも娘がそばにいて一緒に輪島に残って頑張るといってくれるから踏ん張ることができている」といった。

 

 幼い子どもを持つ40代の男性は、「豪雨で家の裏山が崩れ、家屋が山から流れてきた土砂をせき止めている状態になり、とても住める状態ではない。だが市防災課に問い合わせても“準半壊”の扱いで、公費解体の対象(半壊以上)にもしてもらえず、仮設住宅や見なし仮設(借り上げアパート)への入居資格もない。全壊の方がよっぽどましだった。“地滑り地帯に住んでいるのが悪い”という論理で“雨が降ったら避難指示は出さないので自主避難してください”といわれた。今は妻と子どもとも一緒に住む家がないので、それぞれの実家に戻って生活している。市内では、仕事がある夫だけが残り、妻子は避難所や市外で暮らすバラバラ家族が多い。郊外の漁村集落では、交通網の寸断を機に手つかずのゴーストタウンになっている場所もあり、避難所にさえ入れない人もいる。輪島市内では家族で暮らせるアパートも少なく、このままでは輪島を離れざるを得ない。私たちの世代が輪島最後の世代になるのではないか」と話した。

 

 また、道が狭い住宅密集地では、緊急公費解体が必要な家屋があっても、そこに行き着くための通路がなければ手が付けられない。「他人の家だが解体しなければいつ崩れるかわからないので、その通路を確保するために自分の納屋を手放すから解体するよう申し出ても、行政は“あなたの建物は一部損壊なので公費解体の対象外”の一点張り。あまりにも支出を出し渋る杓子定規な対応が、危険家屋の解体が進まない要因になっているのではないか」と指摘する声もある。

 

 輪島市内では解体業者の数が圧倒的に足りず、自主解体や家の補修をしようにも大工は見つからない。瓦の修理にさえ手が回っていない家も多く、水害で家を失った人たちは、罹災証明書が発行されるのもこれからで、仮設住宅の完成は来年2~3月とされているほどだ。

 

「業者を増やせ」 災害ボランティアも怒り

 

泥水に浸かった幼稚園の床板をはぐ災害ボランティアたち(23日、輪島市河井町)

 床上まで泥水に浸かった幼稚園(認定こども園)の修復のために、全国各地から集まった災害ボランティアたちが集団で床板剥ぎの作業をしていた。業者の数が足りない現在、奥能登での復旧や生活基板再建の主力は、このように全国から集まるボランティアたちだ。

 

 園長先生によると、園に隣接する自宅とお寺は地震で全壊。幼稚園の建屋はガラスが割れた程度で済んでいたが、9月の水害で1階が泥水に浸かり、泥をとり除いて掃除をしてもカビ臭い。自宅から家財をとり出すときにお世話になった災害ボランティアの申し出を受けて、床板や壁紙を剥がすと、案の定、壁も床下も泥が入り込みカビだらけになっていた。行政からアナウンスはなく、経験豊富なボランティアの指摘で初めてわかったことだ。

 

 「現在、約70名の子どもたちを預かっており、2階だけで保育している。保護者さんにとっては子どもを預ける場所がなければ働くこともできない。私も職員たちも家がなく、仮設住宅から園に通っている。水害でとどめを刺された気分になっていたが、ボランティアのみなさんのおかげで前を向くことができている」という。

 

 だが、まだ施設は新しく、改築には膨大な費用がかかる。認定こども園の場合、受けられる支援には2種類あり、「教育」の部分では12分の7、「保育」の部分で3分の2が国から補助されるという。それも国(子ども家庭庁)の査定がおこなわれ、総事業費のうち必要最低限の部分しか支援対象にはならない。そのうえ会計監査もおこなわれるため、支援が給付されるまでには相当な時間がかかる。

 

 震災直後から輪島で支援を続ける災害ボランティアの男性は、「どこも工事待ちのなかで、何のつてもなければ工務店を見つけることもできない。しかも、改修のために仮に1億円の借り入れをして、そのうち6割の補助が受けられたとしても4000万円は自己負担だ。ならば、その分母を少しでも軽減できればという思いで、ボランティア仲間の力を借りて作業させてもらっている」という。さまざまなボランティアチームと連携し、震災直後から自前のスーパーハウス(プレハブ)を現地に持ち込み、食事から寝泊まりまで自己完結する徹底ぶりだ。

 

 別の災害ボランティアの男性は、輪島の現状について「豪雨災害後、国のプッシュ型支援は何もない。これまで以上に県外から業者を呼ぶしかないのに、国はそれに必要な予算を付けていない。台湾では数時間で避難所を設置し、すぐに応急住宅を建てている。それが日本にできないはずはない。やる気がないだけだ。解体業者もピンハネ構造がひどく、全国から来る業者には3~5次下請けまでいる。県外からやってきてもほとんど利益がないので“赤字でやってられない”といって途中で放り出して帰ってしまう業者もいるほどだ。こんな構造は即座に改めるべきだ」と語気を荒げて語っていた。

 

 さらに「なによりも必要なのは、専門技術をもった業者を大量に投入することだ。素人が何人来てもできることは限られている。ボランティア10人が何日もかけてやることでも、予算を組んで業者にやらせれば1日で終わる。能登半島でこんなに悠長にやっていたら、次に大きな災害が起きたら日本は潰れてしまう。なぜそんなことが政治家にわからないのか。このままでは避難者たちは、また体育館や公民館で正月を迎えることになり、災害関連死はものすごい数になる。県知事は年末までに2万人のボランティアを募集しているが、ボランティア頼みの復旧・復興という発想自体がそもそもおかしいのだ」と胸の内を語った。必死で現場で働く人ほど危機感と怒りは強い。

 

倒れた店舗の横を通行する高齢者。輪島市の日常風景だ(24日、輪島市)

役に立たなぬ「なりわい支援」 収入補償は必須

 

 ボランティアに頼って浸水した部屋の泥かきをしていた宿泊施設の男性は、「周囲では解体が進んではいるが、一区画ずつの作業ではないため、歯抜け状態になっている。隣の家屋も家主の立ち会いはとっくに終わっているが、解体に着手するのは来年以降だ。業者が少なく、私たちも毎週市外から来てくれるボランティアに助けられている」という。

 

 事業主でもある男性が今後、最も危惧するのが若年層の地元離れによる人口の流出だ。

 

 「解体によって更地が増えていく一方で、人口がどんどん減っている。コミュニティを守るためには働き口が絶対的に必要だ。コロナのときには休業補償として1日当り最大7万円程度の支援金が出たが、そこまでしなくても前年同月比で7~8割だけでも収入が保証されたら、輪島市内の事業所も店も廃業したり、従業員を解雇せずに済んだ。収入がないのに雇用保険を払い続ける体力はないし、雇用調整助成金は雇用保険に加入していないパートやアルバイトには適用されない。小規模事業者ほど従業員を解雇しなければ持ちこたえられない。北陸応援割(ホテル宿泊料の補助)で都市部を潤わせるのもいいが、実際に被害を受けた奥能登には何の恩恵もない。能登支援が始まる前にみんな潰れてしまい、誰もいなくなってしまう」と強調した。

 

 「能登の復旧は外から作業員を呼ばなければ成り立たないことは誰が考えてもわかることだ。だが、水道の復旧のために来てくれた東京水道局も金沢から5時間かけて輪島に到着し、3時間作業してまた帰って行くという状況だった。それなら最初から、行政が町中の空き地や駐車場を借り切ってプレハブを建てて宿泊拠点を確保し、飲食店を雇用して炊き出しをすれば、復旧も前に進めることができるし、雇用をつなぎ止めることもできたはずだ。実際には震災後、輪島市内の宿泊施設に対して市から“どれだけ人数を収容できるか”という打診も、作業者やボランティアのために借り上げるという提案も一切なかった。それでまだ“泊まるところがないから日帰りしかない”といっている。実際には能登を切り捨てる方向で動いているとしか思えない」。

 

 国の能登支援の柱である「なりわい再建支援補助金」(地震で破損した建物や設備の原状回復費用の4分の3を国と県が補助)も、現地再建以外認められず、補助金を受けてから22年以内に廃業した場合には返還しなければならない縛りがあるため、多くの事業者が申請をためらい、輪島市内で給付を受けているのはわずか5件のみ。そのうち2件は水害で事業が停止しているという。

 

 「こんなことをくり返していけば、災害が起きるたびに地方から町が消え、産業が消え、人が消えていく。人や産業を守らず、潰れていくにまかせた結果、行政が最後に頼るのが、核廃棄物の最終処分場や原発などの迷惑施設の受け入れだ。そんなことになるくらいならなぜ今、守らないのか。実際に今、その危機に直面している能登の人間として、全国のみなさんにも災害時の教訓として真剣に考えてほしい。すでに輪島では災害に便乗して、6つの小学校が1つに統廃合され、総合病院も広域統合の計画が進んでいる。生業や生活区域を守るのではなく、人口も居住区も減ることを想定した復興計画が進行している。災害のどさくさにまぎれて進んでいるのもやはり地方切り捨てなのだ。そのことに能登の人間は怒っている。輪島を守るセーフティネットが必要だ。早く手を打ってほしい」と怒りをにじませて語った。

 

(次号につづく)

 

輪島市内の仮設住宅(24日)

朝市通り周辺に今も残る倒壊家屋。震災後から手がついていない(23日、輪島市)

朝市通りに続く商店街も多くが解体待ちで、開店している店は皆無(23日、輪島市)

雪の季節を前に、地震で崩壊した道路の修復は喫緊の課題だ(24日、輪島市)

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