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住まいと生業を失った能登の漁業者 国は第1次産業の再建に全力を注げ――能登地震被災地の水産業の現状 

漁港の海底地盤が隆起し、漁船を動かすことができない輪島漁港

少しでも船を軽くするために船内から網を取り出す漁業者(8日、石川県輪島漁港)

 能登地震により、石川県内では基幹産業である水産業が深刻な打撃を受けた。奥能登の日本海側地域では海岸線が約90㌔㍍にわたって沖方向に広がり、最大4㍍もの地盤隆起によって漁港が使い物にならなくなった。そのため今も漁船を動かすことすらできず、漁業者は職を失ったままだ。半島東側の沿岸地域では地盤の隆起に加え津波で港が壊れたり、漁船や漁具が流されるなどの大きなダメージを受けた。多くの漁業者が住まいを失い、3カ月半が経過した今も避難所や市外のみなし仮設などでの生活をよぎなくされている。輪島市や珠洲市は水産業や関連産業に従事する人の割合がとくに多い地域でもあり、奥能登の復興に漁業の復興は不可欠だ。だが、未曾有の地震被害に晒された生産現場を支え、復旧に導く国の動きは乏しい。現在の被災地の水産業の現状を取材した。

 

輪島市輪島漁港 地盤隆起し漁港使えず

 

 石川県内で最多の水揚げ高を誇る輪島市の輪島漁港では、地盤が2㍍近く隆起した。岸壁から覗くと水面直下に漁港の海底が見える。地震から3カ月半が経過した今も約200隻の漁船が動かせず、港に係留されたままになっている。潮が引いて水かさが減ると、船底が海底に着いて傾いてしまう。この港の問題が前に進まない限り、漁師はみな失業状態が続くことになる。

 

 まずは漁船を沖に出さなければ何も始まらないため、今は漁港の海底を掘り起こして船が通れるようにするための浚渫(しゅんせつ)作業がおこなわれていた。今後、浚渫が終わってから一隻ずつ船を沖に出し、現在建設中の仮桟橋に係留。それから護岸工事や船だまりの浚渫などをおこなう計画だが、その工程だけで「1年以上はかかるのではないか」といわれている。

 

 話を聞いた漁業者は、「もう絶望に慣れてしまった」といっていた。漁港内で稼働している浚渫船も地元の業者が所有する1隻だけで、国からの応援体制はない。能登半島の日本海側の沿岸が約90㌔にわたって隆起するという過去に例のない地震被害が発生しているにもかかわらず、復旧のために投入されている重機やマンパワーがあまりにも乏しく、誰もが「何も変わらない」と口を揃える。

 

 3カ月以上にわたって漁船を動かすことすらできないなか、今後別の場所に新たな漁港を新設するのか? それとも今ある漁港を整備して使えるようにするのか? 今後の方針に関してはまだ何も決まっておらず、現場では「元通りに漁をして水揚げできるようになるには五年以上はかかる」といわれていた。水揚げの見込みがないということで、輪島市では水産物を他の市場へトラックで運んでいた運送業者2社が撤退した。

 

 輪島市全体の漁協組合員は現在、正副合わせて約1000人いる。これら漁業者の多くが家を失い、市内の全漁港で出漁が止まり収入源が途絶えている。家族持ちの若い漁業者の多くが輪島を離れ、市外の親戚の家や見なし仮設に住まいを移しており、家族を養うために被災現場などで土木関係のアルバイトをしているという。地元に戻って漁を再開できる目処が立たないなかで、地元では「輪島を離れている期間が長くなればなるほど、このまま漁師をやめるという人も少なくないだろう」との不安も広がっている。

 

 港では、少しでも漁船を軽くして浮きやすくするために、漁業者らが協力して漁船から漁具を搬出する作業をおこなっていた。この間出漁できず収入源がないなか、国の「漁場復旧対策支援事業」を利用して海底清掃や地震関連の調査のサポートなどをおこない、1万5000円の日当を得てなんとか食いつないでいるという。作業に出ている漁師の半分以上が加賀市など市外の避難所やみなし仮設から輪島まで通っているが、自宅が住める状態ではないため、作業がある期間中は車中泊しなければならない人も多数いる。

 

 60代の漁師は「港や荷揚げ設備などすべてが整備され元通りに漁ができるようになるのは5年先とも10年先ともいわれている。この3カ月間、生活も何もかもいっさい変わりがなく、もう絶望に慣れてしまった。漁業がだめになると輪島や珠洲など奥能登の地域全体が終わる。運送業や加工業、輪島朝市の店主や旅館、食堂など地域の産業へのダメージが大きすぎる。最近になってようやく“専門家”を招いた協議会が立ち上げられたそうだが、専門家に何が分かるのかというのがわれわれ漁師の正直な思いだ。地震が起きてから今まで現場の漁師の要望を聞く場などいっさいもうけられなかったが、それでどうやって復興を進めていくつもりなのか」と話していた。

 

 たとえ今後漁港内の浚渫が進んで船が動かせたとしても、漁港が隆起しているため接岸も荷揚げも難しい。今までと同じ場所で荷揚げするためには「護岸を1・5~2㍍低く削るしかない」ともいわれている。また、輪島では漁港の製氷施設が2基とも壊れて使い物にならず、荷さばき施設も地面がガタガタにひび割れ、足下のコンクリートの割れ目から海面が見える。とても作業ができる状態ではない。

 

地盤隆起で使い物にならなくなった荷さばき場(輪島市)

 刺し網漁をしているという漁師は、「3~5月はメバルやノドグロの最盛期で、1年のなかでも一番の稼ぎ時だ。刺し網漁師なら4月だけでもだいたい200万~300万の売上がある。それが今はゼロだ。今後仮桟橋が完成してとりあえず船を動かせる状況になった場合、輪島から出漁して金沢など他の漁港で水揚げするという方法もある。だがその場合、燃料費が大幅に増えるため、採算が合わないので難しい」と話していた。

 

 ある漁師は「これほど広範囲にわたって地盤が隆起したのは過去に例がないはずだ。前例のない地震被害が起きているのだから、国は前例のない支援を早急に示してほしい。今まで通りの法律や制度のなかではどうにもならないと思う。今地元を離れている漁師もいずれ輪島に戻って漁業ができるような支援方針を示し、早急に動き出してほしい。今のスピードではたとえ数年後に港が使えるようになったとしても、その頃には漁師も住民も輪島から離れてしまう。このままでは東北の沿岸地域の二の舞になってしまう」と話していた。

 

 半島の日本海側では輪島市沿岸を中心に地盤の隆起で漁船が動かせず、まったく出漁できない状態が続いているが、内海側の漁港でもそれぞれ地震や津波の影響でまったく出漁できていない所もある。

 

 石川県漁協七尾支所がある七尾市の石崎漁港では、津波による被害で護岸が崩壊。複数の漁船が流され、その他にも大量の漁具が流出したため、まったく出漁できない状態が続いていた。

 

 若手漁師は「年明けから4月までの期間は底引き網漁の最盛期で、この期間だけで年間の収入の約8割を占める。だが今年は漁の収入がゼロだ。津波で流された船を今日解体した。組合員約40人の小さな漁港だが、今は週に四回みんなで海底清掃に出て、国の事業で日当1万5000円を得て生活している。本格的に漁ができるようになる目処は立っていない」という。海底ではあちこちで地割れが起き、もともと砂地だったが今は岩がゴロゴロ散乱しているという。泥やがれきが混じった津波の引き波によって海底の藻が根こそぎなくなるなど、本来の漁場だった環境も、今は漁ができる状態ではなくなっているという。

 

 80代の漁師は「3カ月以上経ったが、県の義援金5万円だけが振り込まれただけでそれ以外はまだだ。罹災証明も手続きが難しく、遅れていて発行されない。罹災証明がなければ国の生活再建支援金への申請もできないのだが、いつまでこのままの状態なのだろうか。家は何とか住める状態だが、基礎がやられてしまって近くの道をトラックが通っただけでまるで地震が来たかのようにグラグラ揺れる。この周辺では家屋の半分が半壊以上の被害を受けており、住民の多くが地元に戻れないままになっている」と話していた。

 

珠洲市蛸島漁港 漁再開しても人手不足

 

定置網漁を再開し、水揚げ作業をおこなう漁業者(9日、珠洲市蛸島漁港)

 珠洲市にある蛸島漁港では、定置網漁3カ統が水揚げを再開していた。珠洲市では、外海に面した地域の漁港では地盤が隆起して出漁できていない。内海側の漁港では津波による被害で船が流されたり、漁港設備が崩壊していて出漁は困難なままだ。蛸島漁港でもアスファルトがひび割れて漁港はガタガタになったが応急的に舗装し、1月21日には定置網漁を再開させた。

 

 ただ、今も出漁体制は万全ではない。珠洲市では病院や介護施設、学校、避難所などの主要な施設以外ではまだ大半で断水が続いている。さらに漁村地域では自宅が壊滅的な被害を受けた漁師も多いなか、子どもを持つ若い乗組員数人は家族と一緒に市外に移り住むことをよぎなくされた。また、雇用していたインドネシア人乗組員も、母国に帰るなどしたため、元々16人いた乗組員が現在は8人へと半減した。

 

 漁港でも断水が続いており、2基あった製氷設備も地震で壊れて一つしか使えないため氷が作れない。そのため金沢で調達した氷をトラックで珠洲まで運んでいる。使える方の製氷機では、浄水場からタンクで汲んできた水を使って製氷している。本来ならこの時期30~35㌧の氷が必要だが、今確保できる氷はわずか5~6㌧。そのため今は氷の量に合わせて水揚げする量をセーブしなければならない。

 

 定置網事業を営む水産会社の社長は「とにかく人手が足りないのが最大のダメージだ。流出した漁師が戻ってくるのかという心配が大きい。今までは、とれた魚を漁師が浜で選別して発泡スチロールに並べて出荷していたので、扱いの良さが評判となって“蛸島ブランド”として蛸島のイワシはキロ単価200~300円で取引されていた。だが今は乗組員が半減しているのでそんな手間をかけられなくなり、とれた魚をまとめて出荷するしかない。そのためキロ単価は数十円で利益が出ない。市場の競りもできなくなり、蛸島から全国の市場に向けたトラック便もなくなった。このまま人が戻らなければ、この定置網の事業もたとえ魚がとれて水揚げできたとしても、利益が出ず続けられなくなる」と語っていた。

 

 別の漁師は、地震で自宅が被害を受けた。複数ある棟のうち、準半壊の棟と全壊の棟がある。辛うじて準半壊の家に寝泊まりしているが、液状化によって日を追うごとに家が傾いていき、今では普通に生活しているだけで頭が痛くなるという。

 

 「公費解体の申請をしに行ったが、全壊の棟だけを壊すことはできないといわれた。“公費解体で壊すなら家全部を解体、準半壊の棟を残して全壊の棟だけ壊すのなら自費でやってくれ”といわれた。そういう制度なのかもしれないが、残った棟だけでは生活できないし、かといって全部解体すれば住む家を失う。もうどうしたらいいか分からない。市の窓口にはなんとかならないかと訴えているが、融通が利かない。被災地の声がきちんと国に届いていないと感じる。同じような状況の人は能登にたくさんいると思うし、熊本地震や東日本大震災でも同じような事例はあったはずだ。このまま何カ月も同じことで頭を悩ませたくないし、安心して暮らせる生活拠点がないと、まともに仕事もできない」と話していた。

 

 蛸島地区で小型定置網漁を個人で営んできたという漁師は、津波によって漁船も網も流されてしまい、漁ができなくなった。自宅も応急危険度判定で「危険」と判定され赤紙が貼られており、入ることすらできない。被災から現在までの3カ月間、避難所に身を寄せたきり住まいも生業もまったく先が見えない状態が続いている。

 

 男性は「漁村地域では古い家が多く、家が壊滅的な被害を受けたという人がたくさんいる。みんな避難所や市外の親戚の所などに住まいを移し、もとの漁村に住んでいる人はほとんどいない。私の家も“危険”の赤紙が貼られている。本来は“危ないので入らないでくれ”といわれているが、そうはいっても家具や漁具、貴重品などを外に出さないと解体もできない。だが、自力では無理だった」という。そこで、ボランティアセンターに家具の搬出を依頼したが、やはり赤紙が貼られた家にはボランティアを派遣してもらえず、結局個人で活動していたボランティアに依頼して家の片付けをしてもらったという。

 

 男性は「今、珠洲では公費解体の受け付けが始まったばかりで、実際の解体工事が動き出すのはまだまだ先だ。自宅に手がつけられないまま、避難所暮らしが続き“動き出したいのに何もできない”という人がたくさんいる。私は漁具も漁船も家も失ったが、今すぐにでも漁を再開させたいし、できることは何でもするつもりだ。補助が出るかどうかなどは関係ない。自費でも良いのでとにかく生活を前に進めたいが、今は地域が向かう方向性も何も見えない。若い人たちは家族の生活のために市外に出て稼がなければならないので、珠洲には戻らない。高齢者がとり残された今の状態のまま“復興”しても、地域の未来はない。どれだけの若い人がこの先珠洲に残って生活していけるかが大事なのに、そのための希望を見出せるような目標が今は何もない」と話していた。

 

 働く場がなければ珠洲では生活していけない。そして、仮設でも何でも、定まった住まいがなければ安定して働くことは難しい。住まいと生業、その両輪がまったく前に進んでいないことが、「何も変わってない」という住民の言葉に凝縮されていた。

 

石川県漁協関係者 ハード面の復興を急げ

 

能登の漁港施設が使えないため漁業者は金沢市の総合市場に水揚げしている。現場の人手が足りないため選別作業は漁協職員も一緒におこなう(12日、かなざわ総合市場)

 石川県漁協の関係者は「石川県の水産業において、輪島と珠洲は中心を担う地域だ。県内全体の水揚げ金額はだいたい180億円だが、そのうち輪島だけでも25億円あった。それがいっさい出漁できないというのだからダメージは大きい。昨年度の決算はなんとか1~3月分の損益をカバーできたが、今年度分については厳しい経営になる。漁協としては、漁業者の支援制度を手配したり、全国に漁船の手配を依頼したり、積み荷がなくなった運送業者が能登の他の地域で仕事ができるよう交渉したりと、ソフト面でのサポートをおこない、漁師の手取りが減らないための支援を模索している。漁師にできることは、沖に出て魚をとってくることだ。その体制をいち早く整えることが必要だが、こういうときこそ国の金をつぎ込んでハード面の復興を全力で進めなければならないと思う。それが今の能登のためになることであれば、国民は誰も文句はいわないはずだ」と語った。

 

 被災地域では、漁港で荷揚げできなくなったり、乗組員が確保できないなどの問題を抱える地域が多数あり、これまで通りのまともな出荷ができなくなっている。

 

 そうした生産者は今、金沢市にある漁協の直営市場「かなざわ総合市場」に魚をそのまま出荷しており、その魚を朝の競りに間に合うように漁協の職員やパート職員などが数十人体制で選別し、生産者の出荷体制をサポートしている。

 

 漁協の職員は「道が悪く、トラックの積み荷も今まで通り積むと運送中に荷崩れしてしまうので2台に分けて半分ずつしか積めない。当然その分コストもかかる。今も出漁できない地域が多く、自分の生活すらもままならない漁師がたくさんいる。漁港と船はそこにあるのに、家を失い生活の拠点がないという人も多い。仮設住宅でもなんでもいいので、地元の住民に住まいが行き渡らないと何も始まらない。3カ月以上が経過したが、能登の水産業はまだ復興のスタートラインにも立てていない」と話していた。

 

 輪島市のある高齢漁師は真剣な面持ちでこう話していた。「今は収入源がないなか、国の事業で日当1万5000円が得られることはありがたいことだ。ただ、私たちは漁師だ。先祖代々の漁師が魚をとって輪島という地域の経済が回ってきた。今得ている日当は、自分一人が生きていくための“日銭”でしかない。早く海に出たいが、漁を再開できる日がいつになるか、その時自分はまだ漁ができるだろうか…」と。

 

 輪島の隆起した沿岸地域だけでなく、その他の地域でも崩壊した護岸などが手つかずのままだ。3カ月以上が経って「何も進んでいない」という現実に、少しずつ現地が疲弊し、停滞感に押しつぶされていくような重い空気を感じた。何もしない国は、もはやそうした「諦め」を期待しているのではないかとさえ思えてくる。

 

 以前、東日本大震災で被災した石巻市牡鹿半島のある漁業関係者が、被災からそれまでを振り返り「最初は自分の地域のことは自分たちで決めようと、地元を無視した復興計画に対し、“将来のために”と激しく意見していた。だが、何も進まない現状にだんだんみんな疲れてきて、“いえばいうだけ復興が遅れてしまう”と諦めの空気が広がり、結局元気がなくなり、地元に残ることを諦めて出て行く人も増えた」と話していた。進められていく復興計画に矛盾や疑問を感じながらも、だんだんと地域を「諦め」が支配していったのだと。

 

 国が何もせず、このまま奥能登でも同じような停滞感が広がっていくのではないかと感じる。東日本大震災では、津波浸水地域を居住制限区域として住めなくして地元住民をおいやり、そこから何年もかけて誰も望まない巨大な防潮堤や高台建設を進めた。結局、完成した今になって防潮堤が守る街に暮らす住民はほとんどいない。輪島の漁業者が「このままでは東北の二の舞いになってしまう」と話していたが、そうした現場の危機感や焦りをひしひしと感じた。

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