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「復興五輪」の陰で痕跡を消される故郷に思う 福島県双葉町・大沼勇治

 東日本大震災から9年が経過した中で、いまだ4万人以上もの人々が避難生活を余儀なくされ、生活の再建は置き去りにされたままである。原発立地自治体である双葉町出身の大沼勇治氏より、現在の双葉町の様子やその胸中を記した投稿が寄せられたので紹介したい。

 

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消えゆく町の姿

 

 ガシャーン! 故郷、福島県双葉町へ一時立入をすると、解体工事音が鳴り響く。

 

 「家屋解体中」と書かれたのぼりが所々に立ち、住宅や集合住宅を始め、店舗等、いたる所で解体作業の光景が目に付く。昨年、町の玄関口に建っていた公民館・体育館は既に解体されて更地に変わる。

 

 かつて、8000人程が住んでいた双葉町。原発マネーで建てた人口に見合わない立派なハコモノの象徴である元町役場庁舎も、そのうち解体される予定だ。

 

 次に印象に残る町内に響く音は、中間貯蔵施設へ行き来する大型ダンプの走行音だ。復興マネーでもうかっています的な、真新しい大型ダンプが連なって走行する光景が印象深かった。

 

 昭和時代より見てきた、日本経済を支えてきた夜中に国道を走る運搬車両も、今は日中、双葉の町中で何台もの車両が行き来する。かつて原発城下町として賑わいを見せていた町中、商店街は、町民の車両よりも作業員の車が大半だ。今では双葉町民から無機質な復興作業員の町へとすっかり変わってしまった。

 

 自然界においても、これまで町中で見られない、猪やハクビシン等、野生動物の排泄物を至る所で目にする。夜中の町中は九年もの間、動物にとっての楽園だ。双葉町で原発事故前から一度も見た事がない、野生の猿を見た時は驚いた。

 

 沿岸部には、中間貯蔵施設と、その関連施設の建物。高く積まれたフレコンバッグが景色を遮る。

 

 夢と希望を持って建てた町民のマイホームは、解体による汚染ゴミ、廃材として一時保管されている。建物の基礎コンクリートの残骸、崩れたお風呂やトイレのタイル。木造住宅の柱等、その光景は、まるで住居の墓地だ。

 

解体された町民の家。一軒一軒の廃材が入り混じり、住宅の墓場のように集積している

 一時帰宅をする度に、建物の解体工事が日々、急ピッチで進んでいる。行く度に更地箇所が目立つ町の光景にその都度驚いている。

 

 かつて、その場所に何があったのか?その記憶が思い出せなくなる程、解体作業で、消えて行く町の姿に深い喪失感を感じるばかりだ。

 

 町の景色というものがこんなに短い期間で変わるものなのか? 先祖代々その土地で生活していた町民の一軒一軒に物語がある。その家のルーツが簡単に消えていくのだ。

 

 原発事故前、原発と共に町が発展していく「未来」を多くの町民が思い描き、誇りを持って生活していた。その町民の姿はもうない。あの3月12日の原発事故により、一夜にして原発と運命を共にした。無人の町となり、9年が経った。

 

「復興五輪」の嘘

 

 今月4日、双葉町は、いまだに残留放射能が多く残る帰還困難区域を含む、一部避難指示を解除した。7日には原発事故がなければ絶対にできなかったはずの常磐自動車道の常磐双葉ICが開通。安倍首相は開通や14日の常磐線再開が決まった双葉駅の完成にあわせて双葉町を訪れた。新型コロナウイルスの影響から国内、小・中・高の学校への臨時休校の措置は、まるで2011年3月12日の原発事故と翌13日の避難指示と同じように、一夜にして一転した。

 

 新型コロナの影響で国内外が大混乱する最中、コロナ対策を優先すべき時期に、福島復興ツーリズムで、光の強く当たる場所だけを視察し、ダークツーリズムといえる影の部分は視察しなかった。中間貯蔵施設や倒壊した家屋の並ぶ商店街の町中にこそ深刻な真実があるのに、都合の悪い部分には全く触れずに双葉町を後にした。

 

 今のコロナウイルスの深刻な状況が続けば五輪どころではない。新型コロナで世界を「お・も・て・な・し」というブラックジョークが実現する可能性もある。

 

 常磐線の帰還困難区域を走行する試し運転で、付着したちりの測定結果から、「放射能濃度が通常車両の23倍の高さ」という。それでも、何事もなかったかのように14日、常磐線富岡―浪江駅(20・8㌔)間の運転が再開される現実だ。

 

 明らかに無謀ともいえる復興政策の強行理由の背景として、今年1月衆院本会議の施政方針演説で、安倍首相が、「復興五輪」を強調すると共に、福島を利用して世界へ復興PRする狙いがあったと考える。

 

 都合の悪い原発事故を一区切りに、双葉町等を政治利用。町も御上に対する忖度から、町民ファーストではなく、オリンピックファーストへ舵を切った結果が今の双葉町の姿といえる。

 

 その結末は、双葉町民も4日の一部避難指示解除と同時に、強制避難者から自主避難者に変わった。

 

 しかし、現実に双葉町を歩くと、駅から近い枝道の放射線量は15マイクロシーベルトをこえるホットスポットも存在する。

 

聖火ランナーが走る場所からそれほど遠くない所に15マイクロシーベルトをこえるホットスポットもある(2月19日)

 どこが「アンダーコントロール」なのか? 綺麗に整備してつくられた駅周辺。完全に用意された場所で、マスコミを集めて、見え見えの、偽りの復興PRをする安倍首相のヤラセパフォーマンスに、怒りがこみ上げるばかりだ。

 

 東京五輪の聖火リレーは、福島県の「Jヴィレッジ」より今月26日にスタートし、同日双葉町も通過する。

 

 その「Jヴィレッジ」のスタート地点付近で、「103万ベクレル/㌔㌘以上の地点が見つかり、東電が除染した」という。

 

 聖火ランナーは、双葉駅前、わずか500㍍のコースを走らせるが、そのために、どれだけの真実が揉み消され、多くの人達が傷ついたのか? 人の住んでいない町の駅が、本来なら無人駅でも良い所を、多額の国税を投入した。その結果、人の住んでいる町の駅よりも立派になった。

 

 その姿はまるで、原発事故前にハコモノを次々に建てて財政難に陥り、失敗した時代と何も変わっていないではないか!オリンピックが終わった後、町はどうなるのか?

 

 駅前の朽ち果てた旅館や古びた店等は解体され、初めて双葉駅を降りた人たちが、その光景を見た時に、その人にとってつくられた景観が第一印象になってしまう。だからこそ、原発事故前の双葉町を、きちんと伝承しなければいけないと強く思っている。

 

双葉駅前の聖火ランナーコース付近では解体工事が急ピッチで進められていた(2月25日)

忘れもしない5年前

 

 「原子力 明るい未来のエネルギー」。故郷福島県双葉町で、私が当時小学6年生の時に、学校の宿題で町の標語公募に応募させられ提出した標語だ。その時は宿題だったのでノルマとして単純に提出しないと怒られるぐらいの感覚だった。その後、「応募者数178人の中より、優秀賞として標語が選ばれた」という内容で双葉町から手紙が届く。当時、町の広報でも紹介された。表彰式で直接、当時の町長より表彰状を手渡された時は緊張したけど誇らしかった。

 

 88年に原子力推進の標語で表彰されてから23年後、まさか原発事故が起きて、その原発が原因で故郷を失い、今、こうして茨城県で第二の人生を歩む「未来」になるとは、当時、夢にも描いていなかった。

 

 13年9月に東京五輪が決まった後の15年3月9日。原発事故からまもなく4年になろうという時に、福島県の市政記者クラブ所属のメディア数社より電話が続けて鳴った。

 

 双葉町が町議会定例会で、「原子力 明るい未来のエネルギー」を含む二つの原発PR看板の撤去工事の費用として約410万円を盛り込んだ新年度一般会計予算案を提出したという。「それについてどう思うか?」という電話取材だった。

 

 双葉町に15年6月、原発PR看板の現場保存を呼びかけるために集めた7000筆近い署名用紙を町長と町議会の議長に提出したが、今にして思えば町が「撤去ありきだった」理由をこう振り返る。

 

 今の双葉町の現状や、オリンピックが決定した事で、現実とそぐわない原発PR看板が邪魔だったに違いない。人命が危険といいながらも、常磐線復旧工事や、常磐線をまたぐ陸橋の修繕工事、駅の増設工事から、看板だけが修繕できなかったという矛盾があるからこそ、初めから「撤去ありき」だったのだ。原発PR看板が目立つ場所にあり、真っ先に撤去したかったからだと確信する。

 

 今、双葉町の沿岸部では、3階建ての「東日本大震災・原子力伝承館」が今夏オープンに向けて建設中だ。その展示コンセプトは、「原発事故より過去の話には触れず、事故後の対応や復興へのとりくみ中心」の内容という。

 

 その時代を伝える町の象徴だった原発PR看板が残せなかった事に無力感と、その限界とを思い、次々に解体が進む町中の光景に、町民が生きていた痕跡がすべてなかった事にされていくのを感じる。復興とは区切る、切り捨てる、都合の悪い歴史を消し去る事なのか?

 

 伝承施設の入場料は今の所、大人600円、子ども(6~18歳)300円。まだ完成前だが、一度見たらもう一度お金を払って行こうとは思えない伝承館にすでに55億円もの税金が使われている。

 

 町民の帰還意欲の調査では、60%以上が双葉町へ戻らないというなかで、各地に避難する町民たちが、原発事故前に住んでいた頃の双葉町を令和時代の人たちにきちんと伝承するためにも、光と影は均等に伝えなければいけないと思っている。

 

 今の福島県は、復興という言葉だけが先走り、国民の視点も、原発避難民に対して「カネ」や「賠償格差」の妬みや恨み節が炸裂しているのを肌で感じる。その根拠は、原発避難民のネット記事のコメント欄の書き込みがあまりにも冷たい内容ばかりだからだ。事故を起こした東電や、原発の受け入れを認めたその時代の立地自治体や政治家、交付金で公共工事の恩恵を受けていた企業ではなく、原発避難民に直接辛い言葉が向けられる。

 

 原発避難民は、二次被害に追い込まれ、避難先で、さらに肩身の狭い思いで生活しなければならない。しかし、生きていればこそ、諦めさえしなければ、人はいつか幸せになれると信じたい。子どもたちの未来に、次こそ「明るい未来」を約束するためにも。そのためにも、危険な原発をこれ以上再稼働させてはならない。

 

 現在、既に7基の原発が再稼働しているが、まだ、7基の原発しか稼働していない。政治の流れが変われば、すべての原発が再稼働していない今なら、脱原発は間に合うと思う。

 

 原発による分断は、地域の分断。日本全体の分断だ。しかし、また次に大きな原発事故がもう一度日本で起きた場合、本当の終わりになるだろう。形あるものは諸行無常でいつか必ず壊れる運命にある。世の中100%の絶対安心、安全はない事を福島の原発事故が証明した。

 

 だからこそ、原発事故の教訓をきちんと後世に伝えなければいけない。自分が偽りの標語考案者として、原発PR看板の十字架を背負い、その生き証人として、これからも令和時代へ原発事故や双葉町で生きてきた事をありのまま伝えていく。

 

 自分が原発事故により故郷を奪われた。自分の考えた標語は間違いであった事を認め、だからこそ原発事故後にその標語を訂正した。

 

 「脱原発」明るい未来のエネルギー。

 

 その標語こそが世界一正しい標語である事はこの9年の避難生活が証明する。

 

 そして「原子力 明るい未来のエネルギー」の原発PR看板を双葉町がきちんと後世に伝えてこそ、二度と原発事故を起こしてはならない教訓となるはずだ。

 

 これから撤去された原発PR看板を双葉町や福島県がどう扱っていくかを注視しながら、脱原発社会を諦めずに切実に訴えていきたい。

 

東京電力福島第一原子力発電所(2月19日)

筆者の母校、町立双葉北小学校の体育館は、2011年3月の卒業式の準備をしたまま時が止まっていた。当時の小学生は、今では成人になっている(2月25日)

双葉町の筆者の自宅脇。9年間で部屋の窓を隠すほど植栽が伸びきっていた

双葉町の中間貯蔵施設。黒い土が中間貯蔵施設へ流れ、地ならししている(2月19日)

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