いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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故郷奪った福島原発 「原子力明るい未来のエネルギー」標語考案者の大沼勇治氏に聞く

 東京電力福島第1原発の事故から5年半が経過したが、いまだに10万人をこえる人人が故郷を追われたまま避難生活を強いられ、とくに原発立地町である双葉町・大熊町は町の大半が帰還困難区域に指定され、帰ることもできない状況に置かれている。この双葉町に住んでいた大沼勇治氏(40歳)が先日、山口県上関町の祝島を訪問し、その際に本紙は福島事故から現在に至る双葉町の様子や住民が置かれている状況、何を体験し、どのような思いを抱いているのか取材した。大沼氏は双葉町の入口に掲げられた原発PR看板「原子力明るい未来のエネルギー」の標語を子どもの頃に考案して表彰された過去を明かし、震災後は「明るい未来」どころではなくなってしまった双葉町や福島の実情を伝えるために、全国各地を訪れて講演などで思いをのべている。近年は福島がどうなっているのか、とりわけ双葉町や大熊町がどうなっているのかは、まるで報道管制でも敷かれたように表に出てこない。そして原発に翻弄された一般住民を東電と同列の「加害者」のように叩く構造もあるなかで、いいたいことをあからさまにいえない力も加わっている。その声なき声を伝えることを重視し、以下、大沼氏が撮影した写真とともにインタビュー形式で紹介する。

  まず、福島原発の事故が起きてから現在まで、どのような生活を送ってきたのか。
 A 福島第1原発から4㌔の場所に住んでいた。2011年3月11日、ものすごい揺れが10分程度続いた後に津波に襲われた。家の中は地震でぐちゃぐちゃになり電気もつかないので、妻と南相馬市の道の駅まで避難して当日は車中泊をした。そのとき妻は妊娠7カ月だった。
 翌日の午前中に双葉町の自宅が気になって戻ったときに、駅にいた警察官に「すぐに川俣の方に向かって逃げなさい」「早く遠くへ」といわれたので、福島原発で大変なことが起きているのかな…と直感的に思った。そしてその日の昼に当時の菅直人首相がヘリで東電に来たと聞き、やはりこれは大変なことが起きているのではないかと思っていたら、午後に水素爆発した。
 その日の夜は相馬の道の駅で野宿をしようとしていたが、妻のお腹には子どももいたので13日の夜中に親戚を頼って会津若松に避難し、27日まで約2週間を過ごした。病院を探さなくてはいけないと思っていたが、福島県内の病院は避難者やけがをした人でいっぱいになっておりたらい回しにされる不安もあった。そうこうするうちにまた原発が爆発し、上空からヘリで水をかけている様子などを見て、これはもっと深刻な事態になると思った。
 そこで親戚を頼って愛知に行き、借り上げ住宅を探してもらった。3月30日から平成23年の12月5日までそこで暮らしたが、子どもが生まれたので愛知県内のマンションに引っ越し、平成26年5月26日まで暮らした。それから茨城県古河市に引っ越して現在にいたっている。
 
 Q
 原発が爆発したときに住民にはどう知らされたか。安全対策はあったのか。
  原発事故が起きたときの避難について、サイレンが鳴ったりなにかが放送されていたが、内容がわからなかった。あれほど強い揺れが続き、イオンのガラスが崩れ落ちたり、街中で火事が起きたりしたので、ただごとではないというのは感じた。11日は自分の判断で南相馬に逃げたが、「逃げなくてはならない」というのを聞いたのは先ほどのべたように、翌日に一端自宅に戻ったときに警察にいわれたのが初めてだった。しかし、なぜ避難しなければならないのかはいわれなかった。町として避難指示は出したのかもしれない。しかし少なくとも私は聞きとれなかった。
 すでに原発が危なくなっていたはずの11日の夜、私たちは南相馬にいたが、みんなは高台にある小学校の体育館などに避難していた。原発からは4㌔しか離れていない場所だ。“原発事故が起きれば東京まで住めない”ということがいわれてはいたが、まさかのときの避難訓練もなく、心構えもしていなかった。たまたま私は渋滞を避けたので通らなかったが、「川俣方面に避難しなさい」といわれて逃げる人人の車が連なり、渋滞になったところが風の影響でホットスポットになって放射性物質を浴びている。
 東電は住民の安全対策をやっていると資料などに書いてはいたが、そもそも福島第一原発自体が津波を想定したつくりではなかった。電源も地下にあって、津波に襲われて冷やせなくなっている。津波対策を怠っていたうえに、あえて岩盤を削って低いところに原発を建てていた。これは、船を接岸したところから部品を運びやすくするためだ。明らかな人災であるし、これは謝って済む問題ではない。住民の安全対策などやっていなかったのが現実だが、私たちは東電に勤めているわけでもなく「安全だ」といわれればそれを信じるしかなかった。しかし頻繁にトラブルも起きていたし、それを隠蔽していたので信用はなかった。
 
 Q 原発立地町である双葉町の人人の生活や意識はどんなものだったのか。
 A 「原子力明るい未来のエネルギー」。この標語を考えて私が表彰されたのは小学6年生のときだった。当時、双葉町は7・8号機の増設に向けて動いており、そのために原発推進の標語を町民に公募した。私たちはそれが学校の宿題となり、「“原子力”という言葉を入れた標語を1人3つずつ考えてきなさい」といわれ、やらなければ怒られるので考えた。大人から子どもまで178人が応募し、281点の応募点数のなかから私の作品が選ばれたのだった。
 学校から配られる鉛筆や下敷きには東京電力の名前が刻まれ、なにかの参加賞なども東京電力からで名前や写真が入ったものが配られ、それを使っていた。町は電源立地交付金で役場、駅、図書館、マリンハウス(海の家)などのハコモノを建てた。また双葉町には「原子力運送」、双葉郡の冨岡町には「寿司屋・アトム」「パチンコ・アトム」など、原発関連の名の企業や店も多く、まさに原子力に依存した町だったと思う。
 学校には東電社員の転勤の関係で転校生の出入りもあったが、来て2、3年もすれば双葉町内に2階建ての立派な家を建てていた。所得があるので銀行からお金を借りやすいのだろう。人口もどんどん増え、商店街も潤った。私は電力会社の人にファミリー向けのアパートを貸していた。サラリーマンとして働いていたうえに家賃収入もあったので生活は安定していた。
 原発についてはいろんな考え方をみな持っていたが、原発に反するようなことをいってはいけない空気が覆っていた。個人的には『はだしのゲン』を読んだこともあって原発=放射能=原爆というイメージも持っていたので、原発がいいものだとは思っていなかった。ただ、隣の家や同級生の親が原発に勤めているなかで、否定的なことをいうと怒られた。子どものときに釣り大会があったが、そのとき釣具屋さんに「原発近くに面した海でとれた魚は食べられないのか」と尋ねると「そんなことをいってはいけない」といわれたこともあった。
 原発で働く人たちがいて町は成り立っているし、否定的なことをいえば近所の仲が悪くなる原因にもなる。双葉町自体が増設に向けて舵を切ろうとしていた時期でもあり、反対のことをいうと町に居づらくなるという空気があり、思っていても声に出していえるものではなかった。
 ただ、親戚のなかにも原発に推進の立場と反対の立場の人がいて、酒を飲むと喧嘩になっていた。少数だが原発反対の看板を敷地に建てている人もいた。しかしそういう人も家賃収入を得たりしていたので「おかしい」「矛盾している」といわれていた。
 原発が来る前の双葉町には雇用がなかった。出稼ぎで出ていく人も多く、新婚夫婦でも旦那が東京に単身赴任で働きに出たりしていた。しかし原発ができたことで雇用は増え、4、5人に1人は原発関連の会社に入っていた。給料も良く、「結婚するなら電力関係の人か公務員」といわれるほどだった。

 原発事故起きての変化

 Q 福島第1原発事故が起きてからの変化はどうだったか。
  原発で成り立ってきた町は、事故が起きてから一変した。私も家とアパートのローンが残ったまま出ていかなければならず、その後もローンは払い続けて補償金で完済したが、無人のアパートは汚染されているので、もう貸すこともできない。自宅もおそらく解体するしかない。人口に見合わないのに電源立地交付金で建てた立派な駅や役場なども何の意味もないものになってしまった。それらのハコモノができたからといって、潤ったのは工事に携わった人ぐらいで私たち住民の生活がよくなるわけでもなかったのだが…。東電の補償金でローンは終わり、残った補償金で土地を探した。土地と建物を探すときも、福島では避難者がいっぱいで地価も上がっていたので、茨城に土地を買った。震災の年とその2年後に子どもが生まれ、幼稚園にも通わせなければならない。茨城だったら東京からも1時間半、福島には4時間ぐらいで行くことができるのでそうした。
 原発事故に直面している者として、30年以上にわたって反対している人たちと交流することは大切だし、家族でデモに参加することで祝島の人たちと共感しあえたらいいと思って上関に来た。

 五年半が経過した現在

 Q 原発事故から五年半が経過した双葉町や町民はどんな状態に置かれているか。
  5年半が経過した双葉町は、復興しているかのようにいわれているが、住民が逃げ散ったまま、時間が止まったようになってなにも復興していない。私はこれまで73回一時帰宅したが、そのたびに町内を見廻りして状況を撮り続けてきた。一時帰宅のさいには許可証が必要で、防護服を着て五時間の滞在しか許されない。出入りにはバーコードチェックもある。
 5年が経過した町内は、今でも原発事故でみなが着の身着のまま逃げたままになっている。食べかけの寿司や湯飲み、子どもたちのカバンが転がっている保育園、乗り捨てられた車、自転車の転がった中学校、3月11日で止まった時計やカレンダー…。すべてそのままになっているが、人の姿だけが消えて草が生い茂っている。まだ線量が高く、今年の3月に自宅の庭で測ったら25マイクロシーベルトあった。線量の高低を示すのに赤、黄、緑、青と色分けがされているが、ホットスポットで線量の高いところは赤い印がずらっと並んでいる。最初のころは牛などが街中を闊歩していたが、今は駆除されて「牛に注意」の看板は「猪に注意」に変わった。またブタとイノシシが交配して「イノブタ」になり、イノブタ同士が交配して「イノイノブタ」になり、今は「イノイノイノブタ」ぐらいになって生態系も変わってきていると取材関係の人がいっていた。ネコやイヌは骨になって死んでいる。養鶏場のニワトリもそのまま死んで、鶏舎には羽と骨が残っている。人が戻らず荒廃した町内には、夜行性のはずのタヌキが真っ昼間から出てくるようになった。
 双葉町民は全員が避難生活を送っている。最初は埼玉に拠点があったが、いわき市に役場機能を移転し、郡山や福島をはじめ県内外に散らばっている。避難先から自宅に帰るのは年間30回まで。双葉町は中間貯蔵施設の候補地でもあるので、除染廃棄物を詰め込んだフレコンバッグがどんどん運び込まれている。30年後には更地にして返すといっているが、30年後といえば40歳の私は70歳になる。「帰れない」といっているようなものだ。
 国は帰還困難区域を「五年以内を目途に解除する」といっているが、解除しても帰らないとほとんどの人はいっている。私たちのように子どもを育てている住民がそうだが、お年寄りも「あと何年かしか生きられないから双葉で死にたい」といっても病院もない。一時帰宅するときには南相馬やいわきに泊まるが、そこでも病院が十分ではなく、私がおたふく風邪になったときには数十㌔離れた病院を紹介された。病院があっても医師がいないから不便な状況だ。過疎地の双葉より避難先の方が暮らしは便利なので、よほど帰ることに価値がなければ帰らないだろうと思う。土地は汚染され、原発では燃料デブリがどこにあるかわからない。そのようなところにわざわざ被曝しに帰るだろうか。もう家を建てていれば「帰る」とはならない。お墓参りに行ったり、限られた時間のなかで状況を見ていくしかないと思っている。
 今、福島原発の復旧作業のための作業員でいわきなどの宿舎やホテルもいっぱいになっている。そういう人のための宿舎をやれば2150万円くらいの補助金が下りる。コンビニなどを開いた人にも国が補助金を出して住民の帰還を促している。住民票を移して自分もいなければならないのが条件だが、そこまでして戻りたいという人はあまりいない。メディアがコンビニなどを映して復興しているかのように伝えているが、現実には人などほとんどいない。
 私は福島の現状を講演しながら回っているが、私がこの地域のことを知らないように、遠くなればなるほど、五年半前のことはもう話さなくてもいいという空気も感じる。また、福井など原発を推進しているようなところへ講演に行くのは、やはりおっかないなという思いもある。ネットなどでも「原発を推進していたくせになんだ」「虫が良すぎる」という書き込みを見かけたりする。しかし逆に、このような境遇になったからこそ思いを伝えられる。福島第一原発があのような状況になって、原発を推進する人はいないと思う。双葉町民の心情もそうだと思う。ただいいづらくていえない。双葉町民で脱原発を訴えている人に出会わないのは、家族や親戚、周囲に勤めている人がいるとかが大半だからだと思う。
 双葉町は、「原子力明るい未来のエネルギー」の標語とまったく反対の運命をたどってしまった。この看板は今年3月4日に「老朽化して危険だ」という理由で撤去されてしまった。双葉町の負の遺産である看板を残してほしいという署名は6500筆にのぼったが叶わなかった。看板よりも撤去されるべき倒壊家屋は無数にあり、なにより撤去してほしいのは原発だ。そして町長が「看板の老朽化」よりも心配しないといけないのは、5年半も避難生活を送っている双葉町民のことではないだろうか。そのような心配よりも真っ先に看板を撤去するのはなぜなのか。「大事に保管する」といっていた看板は今シートに包まれ、草に覆われている。双葉町が行き着いた先は「明るい未来」ではなく、人がいなくなり赤信号だけが点滅する暗い町だ。いくら看板を撤去しても過去は永遠に残る。
 原発事故では2000人をこえる人が関連死と認定されている。その多くの人の無念、町が積極的に誘致した歴史を後世に伝えるためにも看板は残すべきだと思う。「復元して保存する」という町長の言葉が嘘にならないようにいい続けていく。
 
  原発事故を経験した双葉町民として、上関や全国の人人に伝えたいことは何か。
  上関町の景色を見て、原発に30年反対してきた気持ちに共感できる。たった1回の事故で、これから先もいつ帰れるかわからないが、そのようななかで解除しようとしている。国は補償金を払いたくないので、被災者の立場ではなく「復興」を無理矢理させようとしているのを感じる。原発ができれば町が発展するという“嘘”というか、“魔法”で信じ込ませるやり方は上関も双葉も同じだ。建てれば最初の何年かは町財政も右肩上がりだが、それが次第に下がってくるとまた増設、増設になり、麻薬のように依存していく。1回建ててしまうと必ずそうなってしまう。交付金がおり続けるわけでもなく、その交付金もハコモノに化けてしまう。
 仮に事故が起きれば、できるだけ遠くに逃げるしかない。風向きなどわからず発表されるのを待っていたら被曝してしまう。避難するといってもいざそうなれば大混乱で、地割れしたところを無理矢理通ろうとしてパンクしたり、その車が道をふさいで通れなくなったり、橋の上で止まって津波が来たり、電柱が倒れたりーー 。とにかく混乱しているなかを逃げなければならない。原発などわずか50年ほどの歴史だが、人類があたりまえに住んでいたところに、人類がまったくいなくなるようなことがたった1日で起きる。お金ではない。失ったものはあまりにも大きすぎた。好きなときに家に帰れないし、帰っても防護服を着て数時間しかいることができない。自分の家に帰るのに、よその県から来た警察に職質を受ける。空き巣に入られたり、銀行で被害にあったり、火事場泥棒に襲われた人もたくさんいるが、避難先ではどうすることもできない無力さがある。
 人間の力ではどうにもならないのが原発事故だ。それまで先祖代代守ってきた土地が、汚染されてなんの価値もなくなって二度と元通りにはならない。そして、帰れるようになった時期に、自分が生きているのかさえわからない。
 経済の発展だけを目指すべきではない。自然を守ることがいかに大事であるかを上関の美しい海を見てより強く感じている。福島ではとれた魚はいまだに出荷停止だ。放射能は環境のみならず、人間関係もぶちこわす。好きでこうなったわけではないのに、避難先の小学校で子どもがいじめられたり、「双葉郡の被災者は帰れ」という嫌がらせの手紙が届けられた話も聞いた。そういうものを見ると心が痛む。上関や祝島と同じように推進・反対でみんなが分断され、親戚や友だちも失ってしまう。
 脱原発は今やらなくていつやるのか。いまだに政府は経済発展のためだけに盲目的に原発推進をやっている。お金をばらまいてアメとムチで納得させ、弱みにつけ込むのが原発だ。そこに頼らないで、地元の人が頑張らないといけないと思う。

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