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現代資本主義の終末的危機を示す人間労働・生活破壊―その克服はいかに (5) 埼玉大学名誉教授・鎌倉孝夫

 しかし、資本が買ったのは、「労働力」である。「労働力」は“生きている人間”の能力―人間固有の「労働」を行ないうる能力である。資本は、この“生きている人間”を、自分の目的に即して使用する―「労働」させる。しかし、まさに“生きている人間”を使用することに伴い、資本の自由に制約が生じる。


 資本が買った生産手段は、資本によって自由に使用できる。生産手段は、“物”であってその「物」自体は何の意思も持たない。所有者の思い通りに使える。しかし、雇った労働者―「労働力」の所有者は生きている人間(資本家とは別の人格をもった者=他者)であり、意思を持った存在である。その意思は、資本家の意思と同じとは限らない。資本家の意思に反抗することもありうる。資本は、別人格をもち、それぞれの意思をもつ他者を、資本の意思・目的に即して使用・「労働」させなければならない。この他者を、どう資本の意思に従わせるか。


 と同時に、資本による「労働力」の使用は、“生きている人間”を「労働」させることであるから、資本の意思に従わせて「労働」させえたとしても、労働者が“生きている人間”であり続けなければ、「労働」させることができない。「労働」は、“生きている人間”の能力の消耗だから、その能力が消耗してしまったら「労働」は不能である。“生きている人間”の労働能力の維持・再生には、生活時間―「労働」しない休息時間、消耗回復に必要な食事など物の消費・能力向上のための教育等の時間―が必要である。1日24時間「労働」させ続け、生活時間を奪えば、労働力は再生しえず、破壊される。「労働力」を使用する「労働」時間は、当然制限されなければならない。資本が代金を払って買った「労働力」の使用は、買った者=資本の権利だとして、この権利を自由に行使したら(無制限に「労働」させたら)、「労働力」は破壊され、資本の権利も失われる。


 代価を支払って買い、所有する物の使用が、その物の再生産に関わる―それは“生きている人間”自体の使用(消耗)だからである。資本による「労働力」の使用は、資本の自由、資本家の思い通りにはならない。


 この認識は、資本―賃労働関係が、物と物(貨幣と「労働量」、生産する生産物量)との関係ではなく、“生きている人間”のもつ「労働力」の売買関係であることの理解に関わる。


 .「労働力」の再生産、それは労働者の生活維持によって行なわれる。この点は、労働者の生活破壊(次項3)で取上げる課題であるが、「労働力」=“生きている人間”の能力の商品化、商品としての再生産は、決して資本の自由に行なわれえない。資本の自由の制約との関連でここで指摘しておく。


 「労働力」の商品としての維持・再生産には、労働しない生活時間がなければならないが、労働者が生活を維持するには、生活に必要な生活資料(財・サービス)の消費が、生活資料が商品として売られている資本主義では、生活資料を買うカネが、必要である。カネを稼ぐには、「労働力」を売らなければならない。しかし「労働力」は、いつでも一定の賃金―生活に必要な生活費を買いうる賃金で売れるとは限らない。それは、資本が、労働者を雇用する―労働力需要にかかっている。


 資本の「労働力」需要は、生産量拡大―販売量増大が見通されれば、増大する。多くの資本家的企業が、生産量・販売量の増大を図り、雇用を増大させる状況(一般に好況期)では、「労働力」需要は社会的に増大する。この需要増大に対応して、「労働力」の供給・販売量が増大すれば、賃金は上昇しない。多数の失業者の存在、小零細企業や農業で働いていた労働者からの「労働力」の補充、外国人労働者の供給―相対的過剰人口による「労働力」供給―が増大すれば、賃金は上昇しない。しかし決定的に重要なのは、資本によっては(資本の支配する生産過程によっては)「労働力」は生産されないこと、である。だから相対的過剰人口の存在による「労働力」供給にも限度がある。


 資本家的企業の「労働力」需要に対し、その供給が対応しえなければ賃金は上昇する。しかし賃金上昇は(他の労働条件等の条件を変らないとすると)、剰余価値(利潤)を減少させる。この傾向が続けば、労働者を労働させ、付加価値を形成しても、剰余価値は減少するという資本の「絶対的過剰」―これが資本蓄積から生じる恐慌の根本原因である―が生じる。


 資本の「労働力」需要を十分充足しえない「労働力」供給不足に対処して、資本は、技術開発・導入を図る。しかしこれによって人間労働を全部置きかえることはできない。定型的、反復的動作は、技術・機械によって代替しうるが、点検・判断力を必要とする労働は代替しえない。しかも一度新技術・機械を導入すると(一定の償却期間を要することから)、新たな技術・機械の導入が制約される。新技術・機械の導入は、資本間のサバイバル競争戦―弱肉強食の競争戦による強制が、動力となるのである。


 このような資本家社会的な「労働力」需要に対する「労働力」供給の制約の上に、個々の資本家的企業は、その供給量を需要の不断の変動に対応させなければならない。需要の変動に即対応しうる生産・供給量の変動には、「労働量」の変動が必要である。

 

 生産・供給量減少―「労働量」の減少には、雇用労働者の減少=解雇か、労働時間短縮(時短)が必要となる。解雇(首切り)が行なわれた場合、失業した労働者はどう生活を維持するか、その生活が維持しえなければ労働人口は減少する。時短の場合に、資本側は時短に伴う賃金切下げを行なう。賃金が生活費以下に引下げられたとき、労働者は生活難―「労働力」供給不能に陥る。資本の生産・供給量変動に伴って、首切りや時短による賃金切下げが行なわれれば、「労働力」供給自体が困難になる。


 原料・生産手段であれば、生産・供給量変動に対応して、在庫形成で調節しうる。しかし「労働力」の在庫形成は困難である。(しかし国鉄分割民営化強行の過程で、解雇しようとする労働者を「人材活用センター」で一時“在庫”したことがあった。)「労働力」は、資本の下で在庫されても、在庫の過程でも生活を維持しなければならないから、資本家的企業としてはその分負担となる(しかも利潤は形成されない)ので、「労働力」在庫は行なわれない。


 市場経済特有の需給変動--資本家的企業としてはこの変動に即対応して利潤形成・実現を図ろうとするが、そのさい「労働力」・雇用量も資本の都合に従って“自由”に調整しようとする。生産・供給量増大には、雇用量増大、逆にその減少には、雇用量の減少を図ろうとする。解雇の“自由”、時短にさいしての賃金切下げの“自由”を図ろうとする。しかし「労働力」が“生きている人間”の能力であるから、決して原料・生産手段のような物を調整するように“自由”に調整しえない。とくに解雇・失業において、どう労働者の生活を維持し、「労働力」を維持するか、「労働力」の供給が維持されなければ資本も存立しえない。--資本の“自由”は決定的に制約を受けている。新自由主義は、この制約、それに伴う規制を、“岩盤規制”だとして、撤廃しようとするのである。


 c.「労働」ではなく、「労働力」が売買されていること、資本―賃労働関係は、資本(直接には貨幣)と人間・労働力との関係であることを、とらえなければならない。しかし現実には、「労働力」の売買は、資本(貨幣)と「労働」(労働量あるいはその成果としての生産物量)との交換として現われる。この現象を、資本(家)だけではなく、労働者も、現実の事実だととらえてしまう。そこで「労働力」の商品化の理解がいかに決定的に重要かを資本による価値形成・増殖(利潤獲得)がどう行なわれるかを通して、明らかにしておこう。


 資本が、雇用する労働者に支払う賃金は、(資本の生産過程においてであるが)労働者が行なった「労働」あるいは労働者が生産した生産物全部ではない。労働者の「労働」は、資本主義の下では価値を形成する。いわゆる付加価値である。この付加価値が、全部賃金として支払われれば、資本としては価値増殖(利潤)を実現しえない。資本の利潤は、労働者の「労働」によって形成された付加価値を全部賃金として支払わないこと(「不払労働」)によって得られる。これは市場のルール(等価交換)に反するように見える。しかしそれはルールに従って実現しうるのである。賃金が、労働者の「労働」、あるいはその成果としての生産物に対して支払われるものととらえると、これは理解できない。賃金は、「労働」に対する対価ではなく、「労働力」に対する対価―「労働力」商品の価値、つまり「労働力」の再生産費に対する支払いである。くり返し指摘してきたように、「労働力」の再生産は、労働者の生活維持―生活に不可欠な生活資料の消費によって行なわれる。この生活維持に必要な生活資料は、それ自体労働者の「労働」によって生産されたものである。資本主義の下では、この労働者が行なう生活資料の生産は、資本の生産過程で、資本が所有する生産手段を使って生産されるが、労働者の一定量の労働の支出によって生産される。労働者(その家族のを含めて)の生活に必要な生活資料の生産に要する時間を必要労働時間という。この必要労働時間によって生産された生活資料で労働者(その家族)は生活を維持し「労働力」を維持(再生産)するが、労働者は必要労働時間以上の労働を行なうことができる。この労働時間を剰余労働時間というが、労働者がこの剰余労働時間を行ないうること、それによって生活に必要な生活資料の生産を超えて生産物(剰余生産物)を生産しうること、労働者は自己再生産を実現するだけでなく、それ以上の生産を自らの生活水準を高めるだけではなく、社会の発展の物質的根拠となる生産物をも生産しうること、―ここに人間「労働」の決定的特質がある。

 

 階級社会では、この労働者の人間「労働」の特質―必要労働以上の剰余労働を行ないうること―が、支配階級による搾取の根拠となる。資本主義では、労働者にこの必要労働時間で生産される生産物・生活資料を、「労働力」の対価(賃金)として支払い、必要労働時間を超えて労働者を労働させ(剰余労働を行なわせ)それを剰余価値(利潤の根拠)として搾取する。「労働力」の再生産に必要な生活費に対応する賃金を支払いながらそれ以上に労働者の行なう剰余労働を搾取し、剰余価値を得る。賃金は、「労働力」の価値に対して支払われるのであって、「労働」の対価でも「労働」の成果に対する支払いではないという認識によって、つまり外観上は「労働」の売買が行なわれているように見えても、それは現実の事実ではないという認識によって、資本による搾取、剰余価値の獲得の根拠が明らかにしうる。


 しかし「労働」の売買という外観を現実の事実として「労働時間」や労働の成果としての生産に対して賃金を支払うのが当然という思想が新自由主義の展開の中で広められ、これに基づく賃金の支払いが現実化している。


 ②「働き方改革」の中味と問題点


 a.「アベノミクス」第3弾の柱として
 「アベノミクス」がもたらしたものは、一方ではひと握りの大企業の利潤拡大・内部留保積増し、他方、労働者・民衆の生活破壊と人間労働の破壊、その下での少子化・労働人口の減少であった。これに対し、安倍政権は「新経済政策パッケージ」を打ち出した。「人づくり革命」と「生産性革命」をセットに、少子化を克服し、生産性上昇・経済成長を実現しよう、という。


 しかし、少子化対策の内容は、幼児教育・保育の無償化、大学・高専への無償化援助等であるが、その財源は消費税引上げ(大衆課税)によるものであり、公的資金による公的事業の充実ではなく、利潤目的の私企業に事業を任せることを変えようとしていない。「生産性革命」については、賃金を引上げ、AIやロボットなど新技術を導入した企業に、法人税負担を引下げる(OECD平均の25%に)というもので、大法人企業には負担とはならない。大企業が賃金を若干引上げても減税で企業の負担とならないし、むしろ賃金引上げによるコスト増大を、下請中小企業へのコスト削減圧力に転嫁させることになろう。AIやIoT(インターネット・オブ・シングス)導入は、技術をもつ労働者の切捨てをもたらすものとなろう。


 結局これらの対策の効果が不明確な中で、「生産性革命」の柱を、安倍政権は、「働き方改革」に求めることになる。安倍政権は、1月22日から始まる通常国会に労働時間規制の強化と緩和を一本化した労働基準法改正案など八本の法律を束ねて提出した。以降、新自由主義の潮流に乗って、財界が強く求め推進してきた「労働」の規制緩和・“岩盤規制”の撤廃を、一気に遂行しようとしている。「残業時間」の一定の規制を過労死・過労自殺対策として打ち出し、労働者に配慮を示しているという装いの下で。


 b.「働き方改革」関連8法案
 ①「残業上限規制」と「高度プロフェッショナル制度」新設、裁量労働制の適用対象拡大をワンパッケージにした労働基準法改定案。


 正社員と非正社員との間の待遇差の「解消」を図るということで「同一労働同一賃金関連法案」(パート労働法、労働者派遣法、労働契約法、などの改定案。)


 「雇用対策法」を「労働施策総合推進法」に変更、改定する案。これは、「働き方改革」全体の理念を決定する“基本法”とされている。


 ここで政府の「労働施策」の「目的」が、「労働生産性の向上」にあることが明記され、今後の施策は「多様な就業形態の普及」に対応すべきであるとして、「雇用関係によらない労働」―「個人事業者」・「個人請負」の形での労働―の拡大を促進することを、政策の理念にすることを明確にしている。


 c.新自由主義に基づく“働かせ方”改革
 これら労働法制“改革”の問題点を指摘しておこう。
 「高度プロフェッショナル制度」の創設。「高度な専門知識をもつ働き手」―アナリスト、コンサルタント、為替ディーラー、研究開発など―を、労働基準法の労働時間規制―1日8時間、1週40時間―の適用除外とし、時間制限、残業代(時間外・休日割増賃金)を支払わない。当面年収1075万円以上の専門知識をもつ働き手としているが、財界は年収制限を低めようとしている。


 裁量労働制(実労働時間に関りなく「一定時間労働した」とみなす「見なし労働時間制」)の適用対象を、現場リーダークラスの労働者、対法人営業に携わる労働者にまで広げる。


 あらかじめ決められた賃金を支払う労働時間以上に何時間労働しても賃金は支払われない。(残業代ゼロ制度!)労働範囲の拡大であり、「労働基準」としての8時間労働制を制度の根幹から破砕するものといえよう。


 長時間残業の規制―「残業時間の罰則付き上限規制」を打ち出し、「働き方改革」は労働者保護対策であるように宣伝している。

 

 しかし36協定で締結できる時間外労働について「臨時的な特例」として、最長「月100時間未満」まで認め、さらに休日労働を含めれば「年960時間」まで認める、という。月80~100時間という厚労省の「過労死認定ライン」を上回る長時間労働強制を、合法化するものといえよう。しかも研究開発業務はこの「規制」の適用除外、建設・自動車運転・勤務医などについては5年間適用猶予とする。


 「同一労働同一賃金」に関して。これは、同・一・企・業・内・の正社員と非正社員との間の「待遇改善の解消」に限定されており、しかもそれも「能力」「職務内容」「責任の程度」に基づく格差は容認されている。産業間、企業間、そして男女間の賃金格差解消は問題とされていない。


 むしろ正社員の「年功的な処遇」を「不合理な待遇差」とみなし、そこからの脱却を促す―それによって一般正社員層の賃金水準の切下げを図ることによって、正社員と非正社員の間の「均衡待遇」を図ろうとするものなのである。


 さらに安倍政権は、「解雇無効時の金銭救済制度」の導入とともに、「雇用関係によらない新しい働き方」として「個人事業者」・「個人請負」(業務委託)の形での労働・就労形態の拡大を図ろう、としている。


 大企業はグローバル競争戦に対処する上に「労働生産性の向上」推進を図らなければならない。そのためにAIやIoTをはじめ最新のICT(情報通信技術)をあらゆる労働過程・業務課程に導入するとともに、一方で極限的労働時間延長・労働強化の強制を図り、さらに雇用の圧縮―解雇の拡大を図りつつある。そのため、判例によって確立されてきた整理解雇四要件(①解雇の客観的経営上の必要性、②解雇回避努力が尽くされていること、③解雇対象者の人選基準、具体的人選の合理性、公平性、④労働者、労働組合への事前の説明・協議を尽くす)や「解雇権濫用規制」(労基法18条2)を完全無効化させ資本の解雇自由を制度的に認めるものとして、解雇の「金銭解決制度」の導入を図り、その上、企業の事業計画変更や一時的プロジェクトに即対応しうるように、雇用者としての費用負担・法的責任(社会保険料負担)を免れるいわば“究極の働かせ方”として、雇用関係を解消し、労働者を「個人事業者」化しそれとの「請負」契約を結ぶという方向を進めている。


 資本―賃労働関係をカネと物(「労働量」「生産物量」)との交換関係に解消しようとするもの、といえよう。


 ③資本主義的奴隷制!


 a.“市民”としての権利の内実
 「人間としての権利・自由を認められず、所有者に隷属して労働を強制される人」、これが奴隷である。奴隷とされた人は、その人の人権はなくなる―人間としての存在が否定される。所有者の財産として、人間そのものが売買の対象となり、また所有者の意思に従って自由に使う(労働させる)ことができる。


 市場経済の発展―資本の商品経済を通した生産過程支配の拡大によって、農民・工業者は、封建的権力的な人身的拘束―領主の土地への束縛から解放されるとともに、市場の中で自己責任で生活しなければならなくなる。資本家、地主だけではなく、労働者、農民の市場関係への参加の保証―これがすべての人間の人権保証という市民権を成立させた背景であった。


 しかし、資本主義の成立・発展の中で、社会の実体=生産活動を担う労働者が実質的に獲得しえた権利は何か。自らの「労働力」を売る権利(売らなければ生きていけない)であった。この点は本論文①で評論したように、自らの労働する能力を自分で使えず他人=労働力を買う資本(家)に売り、その他人の意思と支配の下で「労働」しなければならない、という現実であった。


 資本主義の下で、労働者は資本(家)とともに、市場への参加の権利―それを通した財産(私有財産)形成の権利を得た。しかし実体の担い手として、自らの意思と実力で実体=「労働」を行ない、自主的に必要な生産物を生産するという権利は保証されなかった。人間社会の存立根拠・実体の領域で、労働者の自主的主体としての権利は(資本に)奪われた。


 資本主義において、労働者は自らが他人の財産として売買され他人の持ちものとして使われるという奴隷の地位からは解放された。しかし、自らの働く能力自体を商品として売らなければならない限り、その能力を発揮する場=労働・生産過程で、自主的人格としての主体性の発現は奪われた―「労働力」を買った資本の意思に従って労働せざるをえないという実質的な奴隷労働的状態からは脱却しえていないのである。

 

 b.実体の形態化―形態の主体化
 しかし資本主義における労働者の「労働」の場における実質的奴隷的状態--資本の意思・命令に従って「労働」せざるをえないという―は外観的に隠蔽されるだけではなく、資本に支配に従った「労働」自体が、労働者自身によって主体として実行したように現われる--そういう観念が形成され広められる。


 「労働力」の売買ではなく、「労働」の売買という外観的形態が現実に現われている。「労働時間」あるいはその成果=「生産物」に対して支払われるのが、賃金であるという外観。時間賃金―一日8時間労働するその「労働」が支払われる。雇われた労働者が「労働」によって成果を上げる「出来高賃金」(能率給)--賃金はこのような形態を示す。「労働力」の売買が隠蔽され、雇われた労働者の「労働」が搾取されていることが隠蔽される--雇われた労働者の「労働時間」(それによって形成された付加価値)が支払われるのではなく、剰余労働部分は支払われないこと、「出来高」賃金においてもあらかじめ決めた「ノルマ」の中には労働者に支払われない部分(利潤)が折り込まれていることが隠蔽される。


 重要なのは、本来売買の対象ではない「労働」、商品交換関係における形態的存在ではない生きた人間の「労働」=実体としての「労働」が商品化される=形態化される、ということである。このことによって、社会の存立根拠=実体が、形態的関係としてとらえられる。(実体の形態への解消)。


 逆に、商品経済という歴史的関係=歴史的形態的存在が、人間、人間関係にとって普遍的存在のようにみなされる。人間関係は、すべて、いつでも「物」と「物」の交換関係だという偽装である。それ自体は新自由主義の思想である。人間と人間の社会関係をすべて「物」と「物」の交換関係だととらえる思想である。歴史的形態的関係の普遍化=実体化、といってよい。


 資本が雇用した労働者を「労働」させる―その「労働」は、いまでは社会存立・発展を支える基礎である生活資料・生産手段を生産する「労働」(本来の実体)だけではなく、資本主義的にのみ必要な「労働」―商品売買=商業「労働」、資金・証券売買=金融「労働」、さらに労働者を監視・監督し、その「労働」を管理・強制する「労働」=搾取する労働に拡大している。これらの「労働」は、資本主義にのみ必要な「労働」=“形態”的「労働」であって、使用価値も価値も生産しない。こういう“形態”的「労働」を、資本が雇った労働者に担当させ、しかもその「労働」の主体的売り手と偽装する。


 資本主義的社会形態にのみ固有の「労働」、そして労働者を管理・監督して搾取する「労働」―それは資本にとって価値増殖=利潤獲得を目的とした「労働」(というより操作)なのだから時間の制限はない。これを労働者に担当させながら、その労働者自身がこの「労働」を売るものとしてしまう。“形態”的労働の実体化というだけでなく、主体化(労働者自体が自分の責任で行ない、これを自分の商品として売る)である。(「高度プロフェッショナル制度」はこのような性格を明確に示している。)


 さらに、雇用し、資本の要求に応じて「労働」させる労働者を、独立した生産主体として労働者を事業主体化する―個人事業者化による「請負」―「雇用関係によらない労働」にまで到っている。“形態”の実体化・主体化の極限的発展である。


 社会存立・発展の実体としての労働・生産過程で、主体性を奪われ、資本の意図・命令・支配の下でまさに奴隷化されて労働させられながら、資本の支配の下での「労働」を、自ら「労働」の売り手であるような偽装、さらに労働者の「労働」を搾取する「労働」さえも、労働者自身の主体性で働き、かつ商品として売るという偽装、この主体化の下で資本家的奴隷労働が行なわれている。奴隷化された労働は、労働者自身が選んだこと、労働者の自己責任だ、過労死に到る過度労働も、労働者自身の責任だ―これが資本主義的奴隷制の特徴といえよう。

 

実体の認識・実体の主体としての意識確立を

 

 資本主義における労働者は、現実に生産過程―社会存立・発展の実体的根拠としての労働・生産過程で主体性を奪われている。労働者が現実に社会の主体となるには、何よりこの認識を確立しなければならない。

 

 資本が、労働者を労働・生産過程で主体化する条件を奪い、労働・生産を資本が支配する―その根拠は、カネによる支配であること、しかしカネによる支配、カネを投下してカネを増やす資本の存在は、社会の存立・発展にとってなくてよい存在、なくしうる存在であること、資本は社会の本来の主体になりえないこと、実体の主体としての労働者こそ、社会の本来の主体にならなければならない、そしてなりうるという認識の確立である。

 

 いまこのたんに歴史的形態的存在である資本がその発展の極限にまで来ている。株式・証券=擬制資本は、資本の発展の極限である。株式・証券にカネを投資し所有すれば、カネが増える―あたかも擬制資本が自己存立の根拠をもつかのような現象が現われている。その現象の下で、搾取・収奪されている労働者さえも、株式・証券投資でカネを増やす自由があるという大宣伝。支配し搾取されている「労働」が隠蔽され、資本家、労働者を問わず商品売買主体なのだ、という偽装がいまやだれでもが株式・証券投資でカネ持ちになれるというところにまで発展してきている。

 

 株式・証券=擬制資本は、それ自身自立的存在ではない。このことは、株価の維持・上昇には、金融・財政政策が不可欠であることによって示されている(本論文、四で示す)。そして株価を維持・上昇させる上に、現実には労働・生産の場において労働者の「労働」を徹底的に搾取・収奪しなければならない(利潤至上主義)ことによって、明確に示されている。資本という“形態”的存在の最高の発展形態=擬制資本は、それ自身で利得を生む(価値増殖する)ように自立的外観を示すのであるが、同時にその非自立的本質を現実に露呈させる。価値形成・増殖の根拠を担う(担わされている)労働者が全く「労働」せず、金融株式の投資家になると想定してみれば、この想定は現実には成り立たないことが明白であろう。逆に社会の構成員が働きうる者はみな「労働」する―搾取・収奪者がいなくなると想定してみれば、社会の自立的発展の本来の根拠が明確にとらえうる。

 

 資本主義の下で、搾取・収奪され、「社畜」的扱いを受けている労働者を、資本家と同様商品主体として偽装する―これが「働き方改革」に明確に示されている。この偽装・エセ主体化―奴隷的支配・収奪強化のための主体化偽装を暴く認識を確立しなければならない。そして、労働者が実体の主体であることを現実に示さなければならない(注)。

 

(注)「金融・保険業を除く全産業の…利益剰余金は406兆2348億円…となりました。それを賃金には分配していない結果、労働分配率は、13年度の68・1%から、17年1―3月期には59・3%に低下しています。/このように企業収益は上っても賃金が上らないのはなぜでしょうか。一つの理由は、非正規労働者とくに、人手不足に対して低賃金の高齢者と女性を採用する傾向が続いているからです。」(桜美林大教授藤田実、『しんぶん赤旗』2018年1月12日)。「企業収益は上っても賃金が上らない」? 明らかにすべきことは、賃金が上らない(逆に引下げている)から企業収益が増大した、ということである。それは労働者・労働組合の闘いが弱いこと、主体としての認識が欠如しているからである。この点を明確にしないで、内部留保を賃上げに回すべきだ、ということによって労働者・労働組合の資本の本質に対する認識は高まるであろうか。むしろ資本の本質認識を不明確にするものといえよう。資本の要求による労働時間延長、労働強化は、労働者の生活時間を奪い、労働力の再生産を困難にする。しかし仕事を拒否すれば生活保護支出の削減によって、まともな生活はできない。若者たちは、失業と非正規雇用による低賃金で、全く技術力が形成されない雑多な仕事を強要され、絶望感に陥っている。結婚、子育てなど望むべくもない。停年退職後の老人の大多数は、介護事業を営む企業に、なけなしの財産を奪われ、しかも早く死ねというような取扱を受けている。(具体的事実は後述)

 

 少子化・労働人口減少は、この社会体制自体が人間の再生産を維持しえなくなったことを示すものである。このことは、労働者の労働なくして存立・発展しえない資本家的企業にとっても、またこの体制を維持し続けようとする国家(政府)にとっても、ピンチである。だから様々な“改善”策を提示し、実施を図ることになるが、その対策が、今日のこの絶望的社会状況をひき起こしている元凶―ひと握りの現代的資本の支配―を前提にし、しかもその利益増大によって改善を図ろうとするものである限り、危機を一層深めることにしかならない。

 

 最大・最悪の危機は、戦争をひきおこすことである。絶望に陥っている民衆を国家に統合し国家の政策に従わせる究極の政策は、戦争―侵略戦争への国民総動員である。

 

 そこでまず何よりも、人間生活の特徴―人間が人間として生きるという人間生活の特徴を明確にし(本項)、それが資本と国家の支配・政策によってどう歪められ、破壊されるかを(若干の事例を示しつつ)明らかにしよう(同)。最後に、なぜ戦争の危機があおられ、その危機が現実化されるのか、を明らかにする(同)。

 

(つづく)

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