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沖縄戦 蘇る県民皆殺しの記憶 「日本守る」掲げた米軍支配の欺瞞

 沖縄県では、戦後70年目の沖縄戦慰霊の日(6月23日)を前後して、各自治会や地区単位の慰霊祭が準備されている。米軍によって数多くの県民が無残に殺された沖縄戦から70年を迎えるなかで、これまで家族にさえも語ってこなかった体験者が、「今語り継がねば」と深い思いと使命を持って語り始めている。草木さえ残らないほど島中を焼き尽くし、空襲、艦砲射撃、戦車砲、火炎放射器、毒ガスなど、ありとあらゆる兵器で女・子どもを殺した米軍が、戦後は「日本を守る」のだといって70年も居座ってきた。「守る」どころか、民間人を含む18万人もの人間を虐殺して占領したのが沖縄戦であり、そのなまなましい記憶はかき消すことなどできない。辺野古をめぐってかつてなく県民の斗争が広がりを見せるなかで、米軍支配のはじまりとなった沖縄戦でどのような目にあったのか、体験者に聞いた。
 
 “今語り継がねば”と体験者

 沖縄市内に住む90代の女性は、米軍が上陸し戦闘が激しくなってから夫とともに南部に逃げた体験を持っている。当時21歳で、夫が警察官であり、首里の駐在所から西原町翁長の駐在所に移っていたときに沖縄戦を経験した。「米軍は読谷村から上陸し、住民が山原の方に行けないようにしたうえで、南部に攻めてきた。私たちは豊見城の方に行き、そこからずっと南部へ逃げていった。海からは艦砲射撃、陸からは戦車砲が撃ち込まれ、しだいに追い詰められて島尻の喜屋武岬の崖の下に逃げこんだ。崖の上からは米兵に狙われ、夜が明けるとトンボ(偵察機)が飛んできて隠れている位置を教えるからすぐに艦砲でやられた。トンボが来るとすぐに逃げないといけなかった」と語った。
 海には、アメリカの艦船がたくさん並んでおり、精神状態がおかしくなって荒れた海に飛び込み、亡くなった人がたくさんいた。逃げている最中、壕に入ったところを見ていた米軍の戦車砲で全滅させられた人たちもいた。「私の隣にいた友だちは頭を打ち抜かれて即死だった。私の腕と頭に弾の破片が入り、その後何度か攻撃を受け、足にも胸にも破片が入った。今も足と頭には破片が残っている。艦砲でやられたのか戦車砲でやられたのかわからないほどだった」と米軍の攻撃でたくさんの人が殺されたことを語った。
 そして米軍が最南端である喜屋武岬の方に人人を集めるように追い込んでいったこと、夜になると照明弾がうち上げられて米軍に狙われるため、すぐに伏せていたことを語った。
 米軍の艦砲射撃のなかを生きのびた女性は、「ほとんどの者が死に、生き残ったのはわずかだった。戦後も頭に破片が入っているため、気を失うこともよくあった。今でも毎日戦場の場面が頭の中に浮かんできて寝られず、薬を飲んで寝ている。逃げるときに“助けて、助けて”という声があったが、助けられなかったことが一番辛かった。自分の子どもにはたまに話していたが、人の前で話したことはなかった。今南部周辺が観光地になっているが、私たちがいたところは生存者がほとんどおらずテレビにもあまり出ない。遺骨も流れてしまっているはずだ」と苦しい胸の内を語った。

 一瞬で家族奪った艦砲 防空壕も狙われた 

 沖縄戦当時、13歳だったという沖縄市に住む83歳のA氏(女性)は、自身の子や孫たちに伝えるため体験をつづったものをもとに体験を語った。これまで老人会でも語ってこなかったが、「ぜひ私の体験を伝えてほしい」と並並ならぬ思いを込めて、体験をつづったものを自宅から持ってきた。そして自身の頭にも艦砲の破片が入っていることを初めて明かした。
 A氏は与那原(那覇の東、太平洋側)で生まれ、父母兄弟妹家族とは別別に、祖父母のもとで育てられた。1944年10月10日の10・10空襲(那覇空襲)から、沖縄における米軍の攻撃が始まったことを語った。
 空襲について、「朝の八時ごろで、学校へ行く準備をしていたが、爆撃機B29が不気味な音を出しながら低空飛行で機関銃を撃ち、パラパラと私たちめがけて弾が飛んできた。突然の出来事だった。B29は上昇してまた低空飛行し、機関銃でくり返し撃ってきた。幸い弾は当たらず助かったが、この空襲によって那覇の町は焼かれ、夜通し燃え、昼のようだった。その日以来、毎日のように空襲警報のサイレンが鳴ると防空壕に隠れる生活が続いた」と振り返った。
 年が明け、米軍が沖縄に上陸したころから、祖父母を連れて近くの山に避難したが、年老いた祖父母の足では遠くへ逃げることはできず、近くに日本兵が掘っている壕に身を寄せた。昼は飛行機が飛びかい、艦砲の音は激しくなり、艦砲の弾が頭の上を“ピューン”と通り抜けていった。日日戦争が激しくなるなかで、与那原の町もすっかり焼かれ灰色に変わっていった経験を語った。
 そして生涯忘れないこととして、祖父母を一度に失った体験を口にした。
 「あれは5月20日のことだった。私は少し離れたサトウキビ畑で用を足していた。そのとき近くに艦砲の弾が落ちて爆発し、その破片が目の前に落ちた。“この艦砲は祖父母のいる壕の上に落ちたのではないか…”と不安に駆られ、気をとり直して壕のそばまで行ってみた。案の定艦砲は壕の上に落ち、祖父母は生き埋めになって亡くなっていた。助けを求めようにも近くに誰もおらず、どうすることもできなかった。とにかくサトウキビ畑をかき分けて無我夢中で逃げた。悲しんでいる場合ではなかったし、なるべく遠くへ逃げたかった」

 逃げ場塞ぎ自決追込む 女や子供も容赦なく 

 大城という部落を通り過ぎ、玉城にたどりついた。奥の方の岩陰に隠れると、すでに5人ほどの人がおり、そのなかに近所に住んでいたお姉さんがいた。祖父母と別れて以来初めて知り合いに会い、安心してそこに身を潜めることにした。お姉さんは小さな女の子を背負っていたが、この子がひもじいのか泣き止まず、その声が米軍に探知されると艦砲で狙われるため、一緒にいた人たちから「ここで子どもを泣かすな」といわれていた。お姉さんは「みなに迷惑をかけてはいけない…」と思ったのか、翌朝どこかへ行ってしまった。夕方になって戻ってきたが、子どもの顔は青黒くなっていた。「なぜか」とたずねると、「私がおしめで口をふさいで死なせた…」といった。
 翌日お姉さんと逃げる途中、艦砲でできた穴に死んだ子どもを寝かせ、かずらの根を引き抜き、子どもの上にかぶせてから石を置いた。「これが印だから、戦争が終わったら遺骨をとりに来てね」といってその場を離れた。
 逃げる途中、道ばたに5人の家族が死んでいたが、恐ろしいなどといっておれず、その横を通り抜けた。船からは艦砲、空からは飛行機が機関銃を撃ってくるため、伏せたり走ったりして逃げた。いつしか一緒にいたお姉さんもどこに行ったのかわからなくなり、とうとう具志頭の新城までたどりついた。右に行ったり、左に行ったり、もちろん地名もわからない。ひたすらあてもなく逃げるしかなかった。
 新城から逃げていく際、3人の子どもを連れている母親がいた。小学校2年生ぐらいの男の子と3歳ぐらいの女の子を連れ、もう一人女の子をおぶっていた。その親子の後についていくことにした。「しばらくして“ドーン”と艦砲の音がして、少し離れたところに弾が落ちた。私は地面に伏せたが、その母親は艦砲の小さな破片が頭の真ん中に当たり、目の前でばったり倒れた。即死だった。背中におぶっている子どもにケガはなかったので、母親の背中から子どもをとり上げ、男の子におんぶさせた。そして“お母さんは死んだから一緒に逃げよう”といい、女の子の手を引いて逃げた。しばらくは一緒に逃げていたが、艦砲が激しくなり、伏せたり、走ったりしているうちに手が離れ、いつしかはぐれてしまった」
 A氏は、「私も自分の命を守るために命がけで、後ろを振り向くこともできずに一人で逃げていた。今にして思うと、あの子どもたちはどうなったのだろう、もっと何とかならなかったのかとの思いが強く、生きていてほしいと祈る気持ちでいっぱいだ」と苦しい胸の内を明かした。
 逃げる途中、道に落ちている黒砂糖を食べて飢えをしのいだ。逃げに逃げ、やっとの思いで壕を見つけて避難したが、そこが現在の「ひめゆりの塔」の場所だった。壕の中には女学生らしい人たちや、何人もの傷ついた日本兵がおり、左腕が切れている人や太股が切れている人、その傷口からウジがムクムクと地面に垂れ落ち、その姿は何ともいえなかった。人の肉の腐った臭いがあたり一面にただよい、息もできないほどだった。
 片隅の方でちぢこまっていると男の人がやってきて、「明日の朝この壕にガスをまくらしい。ここにいると死ぬから今のうちに逃げなさい」といってくれた。薄暗くなってから壕を這い上がって逃げた。途中あちこちで死人の上をまたぎ、やっとの思いで米須の部落にたどり着いた。あたりはすっかり暗くなっていたが、隠れるのに適当な家を見つけ、その中に入った。
 「この家にはHさんとその家族がおり、両親と弟の4人家族だった。母屋には両親と弟が避難し、私とHさんは離れの小さな馬小屋に避難することにした。しばらくすると艦砲が爆発して近くに落ち、馬小屋にいたHさんは、爆風で倒された大きな石壁に押しつぶされて死んだ。私は反対側にいたから助かった。母屋の方が気になり、行ってみると艦砲の破片が父親のお腹に当たり、腸がみな飛び出していた。おじさんは小さな声で“ミヂ小(水)、ミヂ小(水)”といった。おじさんに水を飲ませるために急須を持って井戸の方へ走ったが、井戸の周辺には人が死んでいた。急いで水をくみ、おじさんに飲ませると“ありがとう”と小さな声でいい残し、そのまま息を引きとった。おばさんは一度に夫と娘を亡くして泣き崩れ、その姿を見ると私もついもらい泣きした」
 翌日逃げる途中に「眞壁が安全だ」という人たちに出会いその人たちについていくことにした。
 そして「今朝米須のガマにガスがまかれ、ガマにいた女学生や日本兵はみな死んだ」と聞かされた。「逃げずにあの壕にいたら…」と思うと胸がぞっとした(後に、ガスがまかれたのは6月18日、女学生の死者が46人、生存者が5人となっていることを知った)。
 さらに逃げてマブニの海岸(今の平和の礎の東岸)にたどりついた。「波が打ち寄せては返す岩陰にHさんの母、弟と3人で隠れた。しばらくすると、ものすごい爆発音がした。日本兵が手榴弾で自決したところだった。目の前に船が浮かび、夜になるとサーチライトで照らされた。翌朝になって米軍の船から「白旗を揚げて出てこい」とのアナウンスが一面に響き渡った。両手を挙げて出ていき、捕虜となった。
 A氏は、「父母たちとは再会することができたが、語り尽くすことのできない戦争中のできごとは、今でも昨日のことのように思い出される。戦争中、食うや食わずで一人で逃げ隠れしたときなど、夜になると亡くなった祖父母のことを思い出し、あまりの寂しさに耐えかね、とめどなくあふれる涙をおさえることができなかった。多くの方方が亡くなられたが、私自身は生きのびてこれたのは運が良かっただけだとも思えない。もう二度と沖縄で戦争をやってほしくない。世界中から戦争をなくしたい」と胸の内をあらわした。
 そして、「この私の体験は家族に配ったもののうち、二冊だけ残していたものだ。今までほとんど話したことはないが、ぜひ本土の方方に沖縄戦の実際を知らせてほしい」と語った。

 基地略奪の為の大殺戮 アジア侵略の拠点に 

 米軍は沖縄侵攻作戦を「アイスバーグ(氷山)作戦」と名付け、戦後、沖縄を占領し、基地にする周到な計画のもとに侵攻を開始した。それは琉球王朝時代のペリー来航のときから、沖縄の島島の地図や民事ハンドブックを作成し、歴史、地理、民俗、動植物にいたるまで詳細に調査しどこをたたき、どこに集めていくのか、さらに占領後の占領行政を含め、周到な準備をした上で攻撃した。1945年3月26日に沖縄に上陸したと同時に、海軍軍政府布告第一号「権限の停止」(通称「ニミッツ布告」)を公布し、住民に対して日本の行政権を停止したことから見ても、米軍が沖縄を奪い取ることを確信していたことが明らかになっている。兵員・物量ともに日本軍をはるかに上回る米軍の攻撃は、沖縄本島を一木一草もないほどに焼きつくし、山野の形も変えた。日本人なり沖縄を「守る」ためではなく、虐殺によって奪い取ったものにほかならない。
 現在では名護市辺野古への新基地建設を「日本を中国の脅威から守るため」だといい、沖縄戦で米軍が殺した人人については一言も触れない。しかし沖縄戦を体験した県民にそのような欺瞞は通用しない。18万人も虐殺したアメリカが、いったい日本の何を守るというのか、である。戦後はベトナム戦争の出撃拠点として利用し、アジア覇権を打ち立てる要衝として沖縄の米軍は存在し続けた。70年たってさらに新基地を建設するところまできて、いったいこの先何年居座るつもりなのかという県民の憤激が高まっている。
 70年前の地上戦の記憶を体験者たちは必死の思いで、未来を担う沖縄の子どもたちや若者に語りたがっている。

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