いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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日本人虫ケラ扱いの占領支配  沖縄戦から続く県民蹂躙

 米軍による沖縄占領は、県民にとって筆舌に尽くし難い艱難辛苦を強いられてきた屈辱の歴史であり、70年の歩みはその占領支配とたたかってきた歴史でもある。県民の4人に1人が殺された沖縄戦を経て、上陸した米軍はすぐさま日本軍の中飛行場(現・嘉手納基地)周辺を占領し、基地建設を開始した。県民を金網が張られた収容所に囲い込み、銃剣とブルドーザーで一等地をみな手中におさめたのが現在の基地だ。その基地は沖縄や日本人を守るためのものではなく、朝鮮戦争やベトナム戦争、さらにアフガン・イラク戦争などアメリカが侵略に次ぐ侵略をくり返してきた軍事拠点として利用された。沖縄戦の大殺戮も含めて日本人を虫けら同然にしか扱ってこなかったことは、戦後70年に及ぶ沖縄県民の全経験が示しているし、「何が日本を守る為か!」という世論は抑えることなどできない。安保法制で自衛隊が米軍の鉄砲玉にされ今度は日本を盾にしてミサイルの標的にするところまできて、これほどの屈辱はないことが怒りを持って語られている。今回は沖縄占領と復帰斗争にいたる経験を取材し、まとめた。
 
 住民収容し米軍基地建設

 沖縄に上陸した米軍は島内12カ所に収容所を設置した。有刺鉄線を張り巡らしただけのもので、住民はテントを張ったり、掘立小屋をつくって雨露をしのいだ。収容所内の衛生環境は劣悪で、マラリアなどの伝染病が流行して死者が続出した。食料は米軍から配給されたが、配給の基準は1人1日当たり1400カロリーで食料不足が深刻化。さらに各収容所間の通行は制限され、夜間は外出禁止であったため、肉親の安否をたずねるために収容所を出て射殺されたり、柵の外の畑に食料を求めに出た女性が米兵に乱暴される事件が続けざまに起こった。
 南部の収容所にいた80代の男性は当時の状況について、「男は軍作業にかり出され、みずから金網を張る作業をやらされた。そのなかでCIC(米軍対敵諜報部隊)の日系2世から軍籍があるかどうかの尋問を受けた。成人男性のなかには殴る蹴るの暴行を受けている人もいた。同じ沖縄県民の血を持つ者が、なぜあのようなことができるのかと非常に悔しい思いをした」「女性たちは芋掘りにかり出され、大抵一人のCP(シビリアンポリス・沖縄の民間警察官)が護衛でついていた。女性たちが芋掘りをしているときに、黒人米兵が一人の女性を抱えて連れ去ろうとしたことがあった。そのとき護衛していた日本人巡査が米兵に飛びかかって女性を守ろうとしたが、黒人米兵に拳銃で撃ち殺された。崎原巡査といって、今でも沖縄の殉職警察官の碑の一番最初に記してある。どうして亡くなったのか当時はほとんど話題にならず、新聞にもとりあげられなかった」と語った。
 占領者意識丸出しの米兵が引き起こす事件・事故は後をたたなかった。そのほとんどが報道されず、すべて闇に葬り去られた。軍事支配下に置かれた県民には訴える手段がなにもなかった。
 1945年の後半から47年にかけて、収容されていた県民が元の居住地へ移動を始めるが、すでに元の居住地域は米軍施設として奪われていた。住民は、地域ごとにみずから簡易な小屋をつくり、そこで生活せざるをえなかった。
 沖縄市に住む70代の男性は当時の状況について、「私たちが昔から住んでいた胡屋地域は米軍に占領されて家はほとんどつぶされ、マリン(海兵隊)部隊と病院になっていた。胡屋の人たちは住むところがないので、現在の子どもの国(動物園)あたりに自分たちで掘立小屋をつくって住んだ。現在の一番街、パークアベニューあたりも米軍に占領されていた。マリン部隊が解放されたのは62年のことだった。今の嘉手納基地の中にも小学校やたくさんの集落があったが、戦後になって家や小学校をすべてつぶし、米軍が基地として建設していった。まるで強盗のように奪ったもので1カ所たりともその地の住民が同意してつくったものはない」と強調した。
 さらに米軍優先の政治が常におこなわれていたこと、1947年の段階で米軍には水道が敷設されていたが、基地外にはまったく設置されていなかったことを語った。「米軍の水道は、基地の外から露出配管で引いてきていた。一般の住民には水道はなく、共同井戸からくんだり、地域で共有栓をつくったり、馬車で水を売りにきていた者から買ったりしていた。その後、水道事業をやろうという話になったが、初めは米軍基地から配管を引き、米軍から有償譲渡される形だった。そのため毎月メーターの分だけ米軍に水道料金を支払っていた。県民のための水道ではなく、米軍のための水道だった」と当時の様子を語った。

 人と見なさぬ占領意識 無報酬で強制労働 

 米軍施設とその周辺への立ち入りは禁止され、米軍は広大な軍用地を囲い込み、基地建設に県民をかり出した。当時、教師になるか、軍作業に行くしか選択肢がないほど仕事はなかった。軍作業に行けば教師よりも報酬が高かったため、多くの県民が何らかのかたちで軍作業や米兵相手のタクシー運転手などをして生活の糧にしていた。食べるものもなく、すべてが焼き払われた沖縄において、生きるための生活手段として基地で働かざるを得ない状況だった。
 軍作業にかかわっていた男性は、「給料は安く、ほとんどただ働きといえる状態だった。“労働3法”が制定されていないため、沖縄人労働者は使い捨てで、少しでも規約に反したり、反抗的な態度に出ると問答無用でクビになった。給料体系も不利なもので、日本人はウチナーンチュ(沖縄県民)の2倍、フィリピン人は3倍、アメリカ人は10倍だ。同じ仕事をしていてこうも違うのかと思った。この不満が米軍から物資をかすめ取る“戦果挙げ”という行為にあらわれた」と語った。沖縄戦による虐殺、破壊を経験した県民の生きるための抵抗だった。
 さらに米軍の扱いがひどかった例として、「1949年の7月、巨大な“グロリア台風”が沖縄を直撃した。従業員は呼び出されて夜通し商品の移動作業をすることになった。とにかくさまざまな品物を急いで移動しなければならず、食事も立ったままとり、一刻を争うように働いた。品物をようやく運び終えたのは嵐が抜けてあたりが白々と明けるころだった。くたくたになるほど働いたのに、この仕事に対する報酬は一切なかった。沖縄人の班長が呆れ果てて“俺たちはタダで使われた!”“なにか持っていこう”といった。泥棒ではなく働きに対する現物支給だ。何ら臆することはなく、ウィスキーを頂戴した。そのころの沖縄ではこうした“戦果”が人人のどん底の暮らしを支え、あるときは憂さ晴らしの行為になっていた」と語った。
 1949年から50年代にかけて、沖縄では本格的な基地建設が進んだ。米軍は現場労働者を雇い、アメリカ人や日本人のマネージャーが四六時中目を光らせていた。朝鮮戦争前からアメリカの基地建設を請け負う軍の建設会社であるVCや、MKという米軍関係の建設会社があり、その下請として清水建設など本土のゼネコンが入ってきていた。
 米軍は沖縄県民を日本人扱いせず、「日本人よりも下である」という扱いをしたうえで、徹底的に侮辱した。それは戦後の土地斗争のさい農民たちが米軍の中佐に面会を求め、「アメリカは民主主義の国だというが、戦争に勝てば負けた国の土地を強制的にとりあげてよいのか」と抗議したとき、中佐は「この沖縄はアメリカ合衆国軍隊の血によってぶんどった島だ。君らにそんなことをいう権利はない。君らは三等国民だ」と言い放ち、「では弱いものの肉を食ってもよいというのか」と抗議した農民に対して、平然とした態度で「そうだ、食うのだ」と嘲るように答えた。基地内でも沖縄人、日本人、フィリピン人、アメリカ人と人種を区分けして食堂をわけるなど、徹底した差別政策をおこなっていたことが語られる。

 数限りない米軍の犯罪 盛上がる県民の抵抗 

 1949年当時、米占領軍の実態を暴露できる新聞などないなかで、記録としてはアメリカ人記者みずからが書いた文章が残っている。「ここ沖縄は米陸軍から戦線の最後の宿営地といわれ…その軍紀は世界中の他の米駐留軍のどれよりも悪く、1万5000の沖縄駐屯米軍部隊が絶望的貧困の中に暮らしている60万の住民を統治してきた。…沖縄は米陸軍の才能のない者や除け者の態のよいはきだめになっていた。さる9月に終わる過去6カ月間に米軍兵士は、殺人29、強姦18、強盗16、傷害33という数の犯罪を犯した」。
 戦後米軍によって引き起こされた数数の犯罪は、とくに婦女子が狙われた。残酷な事件は数えればきりがないほどあり、胸が張り裂けるような思いをしながら多くの県民が生きてきた。司法もなく、すべて米軍のいいなりであり、米軍がやりたい放題に県民をひき殺しても、婦女子を強姦して殺しても、基地内に逃げこめば無罪放免で本国に逃げ帰るという無法地帯だった。
 「由美子ちゃん事件」は、1955年9月3日、わずか6歳の女の子が拉致され、米軍施設内で何度も強姦され、最後には殺されてゴミ捨て場に捨てられていたという悲惨きわまりない事件だった。犯人の米兵は事件から一週間後に逮捕されたが、取り調べの状況が知らされることはなく、裁判もアメリカの軍事法廷でおこなわれた。さらにその一週間後には九歳の女の子が自宅から連れ去れて強姦される事件が起こった。土足で民家に上がり込み、「女を出せ」とわめく米兵から逃げまどっているうちに、寝ていた女児が連れ去られた事件だった。
 やり場のない怒りを当時の高校生は「由美子ちゃんの血」と題して一篇の詩を書いている。

 由美子ちゃんは一昨日の夕暮れ 市のエイサー大会に行ったまま帰らなかった
 由美子ちゃんは一昨日の夕暮れ 青い目の狼にさらわれてこんな羞恥を!!
 こんな無残な死を!
 島の母親たちは我が子を抱きしめていたのだった。
 島の幼女たちは恐怖におびえていたのだった。
 島の人たちのしおからい涙が怒りに燃えて 一カ月も鋭く光っていたのだった……
 10歳にならぬ幼女があいついで処女を犯された去年の秋初め
 伊江島、伊佐浜が強制土地接収に泣いた3月
 80万県民が立ち上がった 
 住民大会の7、8月
 酔っ払い運転手は白人だった
 70マイルの速度に6名の少女が血しぶきをあげて消えた
 9月24の夜のアスファルト……
 我我は忘れてはいけない。
 島の土に宿る我等の同胞の魂を!!
 そして 島にこぼれた血は一滴も拭ってはいけない!!

 沖縄県民を人間と思わない米兵の蛮行がくり返されるたびに県民は拳を握りしめ、屈辱に耐えた。
 当時、男子高校生が女子生徒を数人で守って登校したり、青年団が「夜警」をおこない、街中をうろつき不埒な行動に及ぶ米兵を見つけてはとり押さえる役目を担っていた。
 警察といえば米軍の下請で、治安維持など放棄したに等しい状況のなかで、沖縄の男たちはみずからの拳によって女子どもを守るために行動した。事件が起これば、町中に設置されたボンベをたたいて周囲に知らせていた。多くの青年がこうした青年団活動に携わっていた。米軍からの軍作業で収入を得る者が多かったが、「精神までみじめに売り渡したわけではない」とみなが立ち上がり、誇りをかけてたたかっていた。
 沖縄市に住む60代の女性は、高校生だった当時の様子を語った。「私たちが高校生のときは事件・事故がとくにひどかった。女子高生が米兵に拉致されたり日常的になにかが起きていた。女子高生が米兵に暴行を受けたときは、この周辺の高校生が具志川の前原高校に集まって抗議の総決起大会をやったこともあった。みんな怒りに燃えていた。そして、祖国復帰を本当に待ち望んでいた。先生たちも日の丸のハチマキを締めて授業中でも集会に行ったり、授業で米軍基地撤去を訴える先生もたくさんいた」と語った。
 さらに「私の同級生も米兵に暴行されそうになって、男子高校生が助けに入って助かった。そんな事件ばかりだった。ベトナム戦争の時期とも重なっていて、“もう明日死ぬかもしれない”という精神状態の米兵はなにをするかわからなかった。基地の中ではおとなしい兵隊が、基地から一歩外に出ると、“日本人にはなにをしてもいい”と教えられており、植民地状態だった。米兵がなにをしても許される。バーのホステスがブロックで顔をめちゃくちゃにされて殺された事件、アメリカの家にメイドで行っていた女性が暴行され、それを見た米兵の奥さんに射殺されたり、ありとあらゆる事件があり、表に出ていないものもたくさんある」と語った。
 母親から事件のことをいつも聞かされて育った。「“絶対に米軍を追い出さないと事件はなくならないよ”といっていた。“米兵の中にいい人がいたとしても、米軍自体は日本を守るなんてことはないよ”と。コザ騒動のときは中学生だったが、私たちの4つか5つ上の先輩たちが、“もう我慢できない”と米兵の車をひっくり返して火をつけた。米兵が人を轢き殺しても無罪だったし、その思いがみんなの中で燃えた。“米兵を許すな”と積もり積もった怒りが爆発した」と語った。
 コザ騒動を見ていた80代の男性は、12月末ごろだったこと、映画館から出てきたところで現場に遭遇したことを語った。米兵が車で2人の日本人を轢き、1人は重傷だった。クリスマス気分の米兵が現場から逃げようとしたため、みなが怒って抗議したことを語った。
 「糸満でひき殺されていた事件があったから、みなが怒っていた。慌ててMPと警察官が来たが、MPが銃口を抗議する人たちに向け、そして上に向かって発砲したからみながいっきにMPをとり囲んだ。警察官がMPを守る形で連中は一目散に逃げていった。その後は車をひっくり返して焼いた。当時はわれわれ県民は車など持てる時代ではなく、すべて米軍関係者の車だった。私は参加はしなかったが沿道からみなと一緒に拍手を送っていた。全員が同じ気持ちだった」と語った。
 別の男性は、コザ騒動について、「だれも指揮する人はいなかったが、黒人の車は焼かず、白人の車だけを焼いた。理屈ではなくみなが同じ思いを持っていた。近くにアメリカ資本のガソリンスタンドがあったが、そこの従業員は火炎瓶にガソリンを入れてやることで応援していた。米軍相手の商売をしている人たちも一緒になってやった」と語った。県民のうっ積した積年の怒りが行動となったことは、コザに住む人人はもちろん、多くの県民のなかで語り継がれている。
 米軍の占領支配に抗議し、たたかう県民の怒りは、青年団、教職員会を中心に、妨害をはねのけながら祖国復帰斗争へと燃え広がり、本土の原水爆禁止運動と呼応しながら強力になっていった。

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