いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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『朝日』が中国侵略で果たした役割  「横暴なシナ制裁」と扇動

 ブルジョア・マスコミは、北朝鮮のミサイル発射実験や拉致問題をとりあげて「横暴な北朝鮮を制裁せよ」と連日叫びたてている。これは、戦前の日本軍国主義が中国侵略をおこなっていくとき、当時の『朝日新聞』や『毎日新聞』が、「暴支膺懲(ようちょう・横暴なシナを懲らしめよ)」といって世論を扇動し、破滅的な戦争に突入させていった経験を想起させる。マスコミは世論を反映しているかのように見せかけるが、実際にはときの支配者に都合のよい世論をつくりあげ、人民のなかに流れる真実の声をかき消すうえできわめて犯罪的な役割を果たしてきたことは、歴史の事実が証明している。
 かつての戦争で、絶対主義天皇制を頭とする日本の支配階級は、長年月にわたって朝鮮、中国、東南アジア諸国に対する侵略戦争をおこない、それが米英仏蘭などとの植民地の再分割をめぐる帝国主義戦争に発展し、最後には惨憺(たん)たる大敗北となった。

 「数発の銃声」を全面戦争へ
 その出発点となった中国への全面侵略戦争は、1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋で、示威的な夜間演習をおこなっていた日本軍が射撃をおこなったとき、「数発の銃声音がした」といっていいがかりをつけることで始まった。
 中国・華北の軍閥長・宋哲元はすぐに日本軍に屈服し、11日には停戦協定を結んだが、同じ日東京では近衛内閣が中国に軍隊を派兵することを決定。同時に、政財界やマスコミ代表を招いて挙国一致の協力を訴えた。
 当時の『朝日新聞』を見ると、政府に先がけて「暴支膺懲」を掲げ、数発の銃声を本格的な戦争に拡大しようと意図的な世論誘導をおこなっていたことがわかる。
 1937年7月9日付『東京朝日新聞』夕刊は1面トップで「北平郊外で日支両軍衝突」「不法射撃に我軍反撃」の見出しを掲げ、同社の現地特派員報告「硝煙の戦線を行く」では「今回の事件は支那側の挑戦的不法射撃によって発生せるものなること1点の疑ひもなく、戦友中に死傷者さへ出した。我が将兵一同の痛憤もさこそと思はれる」と報道。同時に、日本の現地駐在武官の「日本軍の攻撃はやむをえぬ自衛行動であった」との談話を掲載している。
 7月13日付『東京朝日』は、「北平の邦人遂に引揚ぐ」という見出しで、「信義を無視する支那軍は幾度か約束を破って我が方に挑戦してくる。しかもその兵力は刻々増大して何時いかなる重大事が勃発するかも知れぬ情勢にあるのだ。この不安な北平の刻々迫りつつある不気味な空気を前に在留邦人は12日以来続々引揚げを開始した。北平発津浦線は夜の厳戒に先立って北平を脱出しようとする婦人子どもを中心とした邦人の群で満載だ」と不安を煽っている。
 同じ紙面で日本軍の支那駐屯司令官にインタビュー、「帝国の望むところは常に和平解決であったが、最早支那側の不信極まる態度、その暴虐は黙して居られなくなった。ここにおいて正義の軍を進めて支那の暴戻を断固膺懲すると共に北支の権益と在留同胞保護のため中外に声明を発して最後の態度に出ることに決した」との談話を引き出している。
 7月21日付『東京朝日』の社説「支那の挑戦的回答」は、中国側が「日本に対する最小限度の要求」として「主権を侵す解決策は絶対に拒否す」などの独立国として当然の要求をのべたことに対して、それを「あたかも宣戦布告」だとみなし、「その調子のあまりに挑戦的であって、必要以上に興奮状態に陥っているといはねばならぬ。かくては平和破壊の責任は当然支那が負うべきであらう」「救うべからざる最後通牒に向かって自らを追い込むことになるであろう」と、逆に宣戦布告的な主張をおこなっている。

 「拉致」「虐殺」と誇大な宣伝
 その後の『東京朝日』は、「拉致の宮崎水兵」という上海からの特派員電で「陸戦隊宮崎一等水兵は規定の門限たる7月25日午前6時15分までには遂に姿を見せず、いよいよ支那人に拉致されたこと確実と見られるに至った」という記事を載せたり、「恨み深し!通州暴虐の全貌」という天津からの特派員電で「天津にいた支那人の保安隊が突如鬼畜と化し、日本家屋は1つのこらず滅茶苦茶に荒らされて無惨な死体が雨に当たり散乱し、身体の各所を青龍刀で抉られ可憐な子ども、幼児迄も多数純真な生命を奪われている」という記事を載せている。
 また「邦人大量虐殺の陰謀」という記事では「3千人の支那兵が、天津租界内の邦人1万5000人を虐殺し略奪をほしいままにしたうえ、日本租界を占拠しここに青天白日旗を翻して天津から邦人を一掃する意図を有していた」などという「恐るべき計画」について、扇動している。戦後、これらはデッチあげであることが明らかになっている。
 さらに特派員電「恐怖の都・漢口を逃る――避難船に同乗して」では、「乗ってくるものの中には漢口生活40年という長老氏など1人でせっせと働いて、こしらへた財産を残して来たといふ気の毒な人やその他30年以上働いたものも4、50人もいて船中で集まると“膺懲支那”の1語に尽き徹底的抗日弾圧の気勢はむしろ避難民とは思はれぬ程の元気に満ち満ちている」と書いている。
 こうして7月29日付1面で「皇軍遂に膺懲の兵を進む」が載り、その後は連日「皇軍の向ふ所敵なし 暴支膺懲第1日戦績」などが、写真入りで掲載されている。8月11日付3面では、「支那が停戦協定(昭和7年)に違反して軍備を増強した」と非難しているが、その同じ紙面が、中国大陸で大増強される日本軍の戦車や大砲の写真特集となっている。
 そればかりではない。日本軍が上海攻撃を終えた同年10月28日付『大阪朝日新聞』は社説で、「この快勝の報に接し我が陸、海、空将兵の勇戦奮闘に対して謹んで満腔の敬意と謝意を捧げたい。同時に銃後の国民として戦勝気分に酔うが如きは尚早であって、支那抗日戦にとどめを刺すために、いっそう銃後の覚悟を緊張させなければならぬのである」と主張。コラム「天声人語」は、これだけの犠牲を払ったのだから占領地に傀儡(かいらい)機関をつくるなどのなすべきことを遠慮なくやれといい、そうしなければ、「たぎりたった国民の愛国熱が承知しないだらう」と政府の尻をたたいている。

 国内では戦争非協力者攻撃
 南京が陥落した12月ごろの『大阪朝日』の紙面では、「天声人語」で「学問はもとより時の政府の御用を勤める存在ではない、それはよくわかっているが、さりとて、今日ほど国家闘争が激化している場合“国家に超然たる学問”といふものが無条件に存在し得ると思ふのは空想ではないか」「学問の独立とか大学の自治とか、言葉は綺麗だが、大学を国家と対立する機関のやうに勘違ひさせる恐れが多分にある」「官立大学教授といへども国家の1微粒子であり国家機関の1員である以上、学問の名に甘えて国家および国民を見くびってはならぬ」と書いている。名指しで戦争政策に従わぬ知識人を攻撃し、「滝川事件を思い出せ」といって、大学におれないようにしていったのである。
 これとは対照的に、同じ12月に「銃後女性の譽れ 感謝の町民葬」という記事が掲載されている。「事変に伴う出征兵士の見送りや遺家族慰問に、文字どおり寝食を忘れて活動した」国防婦人会の副分会長が、数日間病をおして奮斗した結果、午前0時ごろ突然昏倒し、絶命したことに対し、「日本女性の模範」と写真入りで称揚している。
 さらに盧溝橋事件後には、朝日新聞社の事業として「軍用機献納運動」の募金活動を大大的に開始。その意図を「我が国をめぐる極東の情勢にいたっては実に容易ならざるものあり、東亜安定の柱石としてこの地域に平和の確保せらるることを根本義とする帝国としては、今や挙国緊張して国防の充実に邁進しなければならぬ。わけて空軍の充備如何は近代戦争においてその勝敗に決定的関係あり」とした。紙面には連日寄付に訪れる国民の様子を掲載、とくに「坊やまで軍用機熱」という記事で「僕も早く大人になって飛行機に乗るんだ」という9歳の男子の意見を大きく取り上げている。

 国民を戦争に狩立てる道具
 こうして国民からなけなしの金まで軍備のためにまきあげることに一役買い、同時に青少年を戦争の肉弾にするために役割を果たした。『朝日新聞』の「コドモノページ」では「宇垣大将から少年少女諸君へ! 君らは第2の皇軍 健康で勉強して御国を守れ!」などを掲載し扇動している。
 『朝日新聞』を例に見たが、このように当時の大新聞は、「軍部の弾圧によってものがいえなかった」「だから被害者である」というようななまやさしいものではない。みずから先頭に立ってときの権力に阿諛(あゆ)追従し、青少年を戦場に駆り立て日本を廃虚にする無謀な戦争の泥沼に国民をひきずりこむうえで、積極的に協力したのである。それは戦後も一貫しており、追随する相手が占領者アメリカとそれに従属する日本政府にかわっただけである。
 「公正中立」を掲げるすべての商業新聞、ブルジョア・マスコミの戦前・戦後の歴史の事実は、それがつねに戦争とともにあり、権力者の支配の道具となって、大衆世論を巧みに歪曲し誘導してきた歴史であった。かれらが今日、「横暴な北朝鮮を制裁せよ」と叫ぶことは、かれらが第2次大戦で果たした犯罪的な役割をなんら反省しておらず、再び戦争を扇動する道具となりはてていることを示している。

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