いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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時代錯誤甚だしい教育勅語の復活

教育勅語

 「教育勅語を教育方針の要にする小学校」の建設を掲げた森友学園をめぐる騒動のさなか、安倍政府は教育勅語を、「憲法や教育基本法に反しない形で教材として使用することを認める」と閣議決定した。皇国史観にもとづく軍国主義教育によって青少年を欺き、320万人もの国民を死に追いやった痛恨の反省から、戦後、衆参両国会で教育勅語の排除と失効を決議した。それを今になって後生大事に持ち上げ、さらには人殺し訓練の銃剣道を学校教育にとり入れるという安倍政府の振る舞いは、滑稽さを通り越している。教育勅語とは何だったのか。戦中世代が体験した歴史の真実を、現時点で再確認する意義は大きい。

今度は星条旗掲げた肉弾作り

 「ちんおもうに、わがこうそこうそう、くにをはじむることこうえんに……」。森友学園の塚本幼稚園で園児が愛らしい声で教育勅語を暗唱する姿を、多くの人人が時代錯誤の感を抱きつつ、ある種の衝撃をもって受けとめた。とくに、子どもの頃、教育勅語を暗唱させられた高齢の世代は、あの忌まわしい戦争の記憶をまざまざと甦らせ、教育の場に勅語を復権させようとする軽薄な風潮を侮蔑し、戦争反対の思いを一段と強めている。


 勅語とは天皇が国民に下した言葉であり、戦前の天皇制の下では「天皇陛下から賜ったありがたいお言葉」としてそれに忠実に従うことが強制された。


 教育勅語は「教育ニ関スル勅語」として1890(明治23)年10月に公布された。「朕(ちん=天皇の一人称)惟(おも)フニ」から始まるように、明治天皇が「汝(なんじ)臣民」に対して持つべき徳目を示したものである。その後、1945(昭和20)年の敗戦にいたるまで日本の公教育の根本理念として、子どもたちと教師を統制した。


 戦争体験者は「戦争は教育から始まる」「教育が大事だ。先生に頑張ってもらいたい」と口口に語っている。教育勅語を根幹とする学校教育が青少年をどのように天皇制軍国主義に縛りつけ、幾多の生命を奪ったのか。その肌身に焼き付いた記憶を、消し去ることはできない。


 教育勅語は、「我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」と、天照大神(あまてらすおおみかみ)を始祖とする「皇祖皇宗」、つまり天皇家の道徳・祭祀を日本の教育の淵源とするよう命じていた。「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ……」などの徳目は、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と、戦争になれば天皇・皇室のために身を捧げることに収斂させるものであった。稲田朋美(防衛大臣)などが、教育勅語を教材に持ち込むために、「親孝行や友達を大切にするというのが、教育勅語の核の部分だ」といいくるめようとしているが、それこそみずから崇める教育勅語の精神を冒涜するものである。


 学校に配られた教育勅語の謄本(写し)は「御真影」(天皇・皇后の写真)とともに、校庭の一角に建てた奉安殿に収められ、子どもたちは毎日、登校と下校のさいには、最敬礼(お辞儀)することを義務づけられていた。戦後も続いた教師の日宿直制度は、天皇の写真と勅語を火災などから守るために制度化されたものであった。


 子どもたちは、紀元節や天長節などの儀式のときには、白い手袋をした校長が奉安殿から勅語をとり出し、うやうやしく読み上げるのを最敬礼で聞かなければならなかった。最後の「御名御璽(ぎょめいぎょじ)」を読み上げるまで、頭を上げると叱られ、体罰が待ち受けていた。


 当時子どもであった世代の多くが、意味のわからない漢語混じりの用語に、「なぜ、夫婦はいわしなのか」(夫婦相和シ)と思いながら、冬は寒風吹きすさぶ校庭で、自分も含めて鼻水をすする音を合唱さながら聞いていたこと、あるいは炎天下のなかバタバタと倒れる者があいつぐなかでも、何事もなかったように淡淡と読み上げられていたことを思い起こしている。

非科学的な歴史観 柔軟な頭に植え付ける

 戦前、戦中の学校教育は、国定教科書による授業科目はもとより、生活指導にいたるまで、すべてそうした教育勅語による理念で統率された。


 戦争中の世代は、小学校に入ったばかりの1年生の修身教科書第三課で、「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」を朗読していた。そして、2学年で学ぶ修身教科書には、「テンノウヘイカ」の項目で、臣民として、天皇の慈しみをあがめるよう、次のように書かれていた。


 「テンノウヘイカは、ワガ大日本テイコクヲオヲサメニナル、タットイオンカタデアラセラレマス。テンノウヘイカハ、ツネニ、シンミンヲ、子ノヤウニオイツクシミニナッテイラッシャイマス。私タチガ、大日本テイコクノシンミント生マレテ、カヤウニアリガタイオンカタヲイタダイテイルコトハ、コノ上モナイシアワセデゴザイマス」
 「テンノーヘイカハ、リクグンヤカイグンノダイエンシューニ、オイデニナッテ、グンジンノハタラキヲ、ゴランニナリマス。テンノーヘイカノゴオンヲ、オモハネバナリマセン」


 学年が進むにつれて、「修身」(道徳)とともに「国史」などで、臣民の道徳・思想を体系化して、子どもたちの頭に植え付けるようにしていった。それは、古事記や日本書記などの「国生み神話」や、天照大神の命令でニニギノミコトらが高天原(たかまがはら)から高千穂峰に降り立ったという「天孫降臨神話」などを引用した「神国・皇国史観」によるものであった。


 国史の授業では、天地の境が混沌としていた「神代(かみよ)」の神話から始まり、天孫で「人代(ひとよ)」最初の神武天皇が即位した2千数百年前が日本の紀元元年であると教えられた。そして、「神武(じんむ)、綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)……」と続くとされる124代天皇の名前を暗唱することが、歴史を学ぶ土台だとしてたたき込まれた。


 こうした非科学的な歴史叙述で子どもたちを洗脳し、血筋が途切れることなく続く「万世一系」の天皇(それ自体歴史の事実に反する)を頂く日本の臣民の誇りをもって、他国を見下し世界を制覇することを正当化するようにつなげていくものであった。それは世界に冠たる神国の民として、「現人神(あらひとがみ)」である天皇の「慈愛」を世界の隅隅にまで広げるという「八紘一宇」の精神の発露であるとされた。


 国民学校(戦時中の小学校)一年生の修身の授業では、「日本 ヨイ 国、/キヨイ 国。/世界ニ 一ツノ/神ノ 国」「日本 ヨイ 国、強イ 国。/世界ニ カガヤク/エライ 国」を朗唱するようになった。三年生の「初等科修身」教科書は次のよう書いていた。

 「世界に、国はたくさんありますが神様の御ちすぢをおうけになった天皇陛下が、おをさめになり、かぎりなくさかえて行く国は、日本のほかにはありません。いま日本は、遠い昔、神様が国をおはじめになった時の大きなみ心にしたがって、世界の人々を正しくみちびこうとしてゐます」「私たちのおとうさん、にいさん、をぢさんなどが、みんな勇ましくたたかってゐられます。せんじょうに出ない人も、みんな力をあはせ、心を一つにして、国をまもらなければならない時です」


 国民学校「地理」でも、教科書に次のように書かれていた。
 「神代の昔から、海の魂によってはぐくまれ、また大陸に近く接して、そのあらゆる文化を取り入れてきたわが国は、海に陸にのびて行く使命をはたすにふさはしい位置を占め、その形ものびのびと、四方に向かって手足を伸ばしてすすむやうすをあらはしてゐます」
 「もともと、わが国は神のお生みになった尊い神国で、遠い昔から開けて来たばかりでなく、今日も、こののちも、天地とともにきはまりなく、栄えていく国がらであります。……世界にためしのないりっぱな国がらであり、すぐれた国の姿をもったわが国は、アジヤ大陸と太平洋のくさびとなり、大東亜を導きまもって行くのに、最もふさはしいことが考へられるのであります」


 このように、朝鮮や中国などを「遅れた国」として蔑視し、植民地にしたり占領するのは「欧米の侵略」から守る日本の使命であるという大義名分のもとに、天皇・財閥のための戦争に、子どもたちが身を捧げるように求めるものであった。


 このような学問的な真実と論理的な思考を無視して、国民全体の根本的な利益を踏みにじり、子どもたちの柔軟な頭脳に傲慢不遜な民族的優越感をあおり、教育勅語の鋳型にはめ込むような教育に、子どもが疑問を持つのは自然である。


 国史の時間に、天孫降臨を学んだ子どもが「先生そんなのうそだろ」といい、それに2、3の級友が同調するようなこともあちこちで見られた。だが、そのような子どもは、ビンタをはられ木刀でたたかれ、成績を落とされるなどの罰を受けた。
 そして、授業の内容に科学的な疑問を持つことは許されず、「三尺下がって師の影を踏まず」という教えのもとで、従順に信じるよう教え込まれた。


 それは、当時「聖職」とされた教師の教育の自由、現場での創造的な授業への抑圧・統制と一体のものであった。地理の研究授業で、教生が子どもに瀬戸内海は陥没によってできた海だということを教えたとき、子どもから「国史では天の浮橋から“あめのぬぼこ”によってできたと習ったが、どちらが正しいか」と質問が出た。研究授業の批判会でこのことが問題となり、指導訓導から「そういう疑問の出るような授業の仕方に問題がある」と批判される状況であった。

行き着いた先は… 320万人殺した犯罪

 教育勅語や歴代天皇を暗唱させられて育った世代は、「戦争中は授業そっちのけで、勉強どころではなかった」と、勉強すべき年代に勉強ができなかったことに強い悔恨の情を抱き続けてきた。男性教員のほとんどが戦地にとられ、学校では教員免許を持たぬ代用教員が教壇に立った。そのうえ、食べ盛りに食べるものがなかった苦しみも強いられた。まともにコメも食べられず、常に腹を空かせて、校庭につくった畑で野良仕事をしたり、出征中の農家への援農に出る毎日であった。


 戦争末期には、中等学校以上の生徒、学生が戦地に動員され、女学生も軍需工場に勤労動員された。このとき、小学生も皇国民としての自覚を強め、戦争の協力を日夜心に誓う国民となるよう強要された。通信簿の表紙には「私ハテンノウヘイカノ赤子デス/奉公の誠ヲ致シマス/皇国ノ光ヲ輝カシマス」と明記された。
 そして、男子は在郷軍人の号令で軍事教練を、女子は薙刀(なぎなた)の訓練をくり返し、自分たちが掘ったタコツボや防空壕に空襲のたびに出入りすることが学校生活の日常となっていた。それは直接、天皇のための戦争の肉弾として、十代半ばで少年航空兵や特攻隊に志願する道筋につながっていた。


 軍事訓練は、銃の先に剣をつけた武器を想定した木銃で標的の藁人形を大きなかけ声を出して突いたり、模擬手榴弾を投げたり、さらには敵陣地突入を想定して吶喊(とっかん)・白兵突撃をくり返すものであった。戦場で人殺しを平然としたり、みずからの身体を消耗品として差し出す心構えを持たせることに教練の眼目があった。
 銃剣術ではまた、木銃の先にゴム製のタンポをつけ、防具を着けた相手の胸に突きあい練習するものもあった。国民学校2年生でこの訓練を受けた体験者は、「銃剣術は歩兵が弾丸がなくなっても接近戦で相手を倒すという訓練であり、相手を突くことをひたすら覚えることが目的だった。柔道や剣道などの武道とは違う」と語っている。


 米軍の空襲が日常茶飯事となるなかで、「日本は強い神の国で、負けることはない。神風が吹く」と教えられていた子どもたちが学童疎開で田舎で集団生活をするようになった。そして、原爆や空襲で両親と死に別れた子どもたちは、戦災孤児としてさらに厳しい戦後を生き抜くことを強いられたのである。
 教育勅語の精神を徹底して頭に刷り込まれた日本の青少年は、敗戦によって、天皇制軍国主義の性根を全身で知ることになった。天皇の「終戦の詔勅」(玉音放送)を受けた直後の国民学校の新学期の教室で、子どもたちは硯で墨を擦って、教科書を開いて先生の読み上げる軍国主義的な箇所を一斉に、筆で塗りつぶすことを強いられた。それは、女子の裁縫の教科書にまで及んだ。


 子どもたちはこれまで学校で正しいと教え込まれてきたことがてのひらを返したように、「間違っていた」とされ、声高に教育勅語をふりかざしていた者たちが「今からはデモクラシー(民主主義)だ。ディスカッションをしよう」という変わり身の早さに驚き、不信をつのらせた。


 ラジオで流された「大本営発表」が大ウソであったこととともに、学校というものが為政者の都合でウソも平気でつく機関であることを思い知らされた。そして、お上のいうことを無条件に正しいと思い込むのではなく、大多数の国民の側から自分自身の頭で考え、為政者のもくろみを見抜き真実をつかんでいくこと、腐敗や不正とたたかい新しい社会を建設する主体としてみずからをきたえていくことの大切さ、そのための勇気とたくましさを持たねばならないことを噛みしめあった。


 「教育勅語」を指針に子どもたちを教えた教師たちは、子どもたちを戦場に送り死なせた痛恨の体験から、「教え子を二度と戦場に送らない」決意を固め、平和で繁栄した次代を担う後継ぎを育てる教育のあり方を探った。子どもたちの自発性と科学的論理的な思考を抑圧し、ただ上からいわれたことを従順にこなすことを求める教育を一掃し、子どもの自由でのびやかな精神を解放するために教師の指導性を発揮した教育運動を、絵画や作文教育の分野でも旺盛に展開していった。


 320万人もの国民を殺し塗炭の苦しみを強いた天皇制軍国主義の国家的犯罪をあいまいにすることはできないし、それを教育勅語にもとづく軍国主義教育と切り離して考えることはできない。敗戦から72年を経た今、すでに歴史の審判を受けたはずの教育勅語を恥ずかしげもなく持ち上げているのは、天皇制軍国主義を賛美する亡霊のような連中である。アメリカは原爆を投下して日本を単独占領し、320万人もの国民に犠牲を強いた最大の責任者である天皇を免罪し、その周辺の売国的支配層を手厚く庇護して目下の同盟者として抱えることで、日本の新たな支配者となった。岸信介をはじめとした、戦犯どもはアメリカに屈服することで戦後の地位を築き、3代目が開き直って教育勅語を持ち出すところまできた。そして戦後72年経った現実は「昔天皇、今アメリカ」であり、今度は星条旗を掲げた戦争の肉弾に日本の青少年を駆り出すことを求めている。


 安倍晋三らが「愛国」を掲げて、またぞろ教育勅語を持ち出し、歩兵必須の銃剣道に血道を上げるのは、アメリカのそうした要請にこたえるためでしかない。天皇制軍国主義の亡霊を一掃し、戦後に決着をつけること、このような亡霊を温存して対日支配を実行してきたアメリカとのたたかいを発展させ、独立・平和の日本を建設することが待ったなしの課題となっている。

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