いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

文字サイズ
文字を通常サイズにする文字を大きいサイズにする

沖縄戦の欺瞞を打ち破る 県民の深部の怒り表面に 原爆展キャラバン隊座談会

 米軍の沖縄戦目的暴露に強い共感
 長周新聞社が後援し劇団はぐるま座団員によって編成された原爆展全国キャラバン隊第1班は、沖縄における1カ月間の行動を終えて9月30日、山口県に帰ってきた。米軍ヘリ墜落炎上事件を契機にして米軍基地撤去の世論が噴き出すなかで、「原爆と峠三吉の詩」の原爆展を展開し、あわせて長周新聞の沖縄問題をめぐる論壇チラシなどを配布し、県民の沖縄戦の体験に学び、その真実を明らかにすることを方針にしてのぞみ、衝撃的な反響を呼び起こした。さっそく帰山したキャラバン隊メンバーに集まってもらい、その特徴と教訓について語りあってもらった。(司会は本紙編集部)
 司会 今回の沖縄行動は、これまでよりもっと意識性を持って、米軍基地撤去の要求を力強い運動にすることをめざして、沖縄戦の体験に学び、その真実を明らかにすることを方針にしてのぞんだ。ヘリ墜落問題が大きく問題になっているが、こちらは集会など表面にあらわれた運動を追いかけるのではなく、沖縄県民の大多数のなかに入り、沖縄戦をめぐる欺まんのベールを引きはがし、県民が体験した沖縄戦の真実を明らかにすることを意欲的にとりくんだ。
 峠三吉のパネル展示とともに、長周新聞のヘリ墜落問題をめぐる論壇のチラシをつくり、それを読んでもらうとともに、沖縄戦と戦後の県民の思いを聞いていった。工作者の側は、内部で討議しながら、こちら側の立場、態度、関心などについて県民の感情としだいに合致していくようになり、県民のほんとうの声を聞けた。それらの経験を長周新聞社でも集中し、途上では「沖縄戦の真実」の特集記事を組み、それを現地でも宣伝し、さらに大きな反響を得た。これらの活動は、沖縄だけでなく全国的な反響になった。
 平和教育をいうとき広島、長崎、沖縄で、教師も沖縄に行くとひめゆりやチビチリガマなど参観するが、暗い気持ちになって帰っていたが、今度の活動で目が開かされたといっている。広島の被爆者がすごい衝撃的な反響だ。呉では戦艦大和の生き残りの人に号外を読んでもらおうという。アメリカの対日戦争目的という戦後日本社会の根幹にかかわる欺まんを引きはがした。
 この活動には、多くの活動家も目も開かされたといっている。平和斗争を担う活動者がどのような立場、態度、路線で広範な大衆と結びつき、その要求にこたえて、力のある運動をつくりあげることができるか、そういう重要な教訓もある。新鮮なところでおおいに語ってもらいたい。
  
 米軍への怒り噴出 最初遠巻きに見る県民
  9月2日から29日まで約1カ月間、那覇、沖縄、糸満、宜野湾、北谷、恩納、読谷の七市町村で展示した。米軍ヘリ墜落事件や集会を追いかけるのではなく、基地ができた根本の沖縄戦はなんだったか、その体験を原爆展パネルを見せ、沖縄戦や米軍ヘリ墜落事件について書かれた長周新聞の論壇を刷ったチラシをまきながら、大衆の経験と思いを徹底的に学ぶことが方針だった。
 沖縄にはいままでの所のように駅がなくとまどったが、役場、公設市場、公民館、大型スーパーなど、どこでも峠三吉のパネルが大歓迎だった。沖縄戦の体験者が熱烈支持だった。ふくらはぎやおなかの艦砲でえぐれた傷を見せたり、「沖縄と同じだ」とパネルの写真を手でさすり、拝んだりしながら涙を流して見ていった。黙ってカンパだけ入れる人も多かった。
 痛感したのは戦後60年、沖縄戦の真実が一貫してかくされていたことだ。ひめゆり資料館などでも、日本の侵略は出てくるがアメリカは民主主義で解放軍という基調で、日本人、とくに本土の人間が反省しろという論調だった。商業マスコミはわれわれが行ったときも「本土の人間は沖縄の基地問題に関心がない」とさかんに宣伝していた。
 そのようななかで、原爆展を見た沖縄の人人は「広島、長崎とわかりあえる」といい、「戦争を阻止するために沖縄戦の真実を全国に伝えたい」と呼びかけると少しずつ語ってくれた。とくに「原爆投下は戦争終結に必要なかった」というパネルが注目された。それと長周の論壇、沖縄特集記事などが響きあって、「日本軍国主義も悪いがアメリカはそれどころではない」と、おぞましい米軍の蛮行のかずかずへの怒りが語られた。
 何度も原爆展に来た元特攻隊員の老人は「国のために尽くした人間がバカにされてアメリカの番犬が大きな顔をしている。それが許せるか!」と何度も語っていた。「自分だけ生き残って申しわけない」という自責の念もあった。
 飢え死にするところに追いこんでおいて食べ物を与え、植民地にして支配したアメリカへの怒り、「天皇万歳」と戦争にかりたてた張本人がてのひらを返してアメリカ万歳となってイラクへ自衛隊まで送ることへの、底深い怒りが語られた。そして「広島や本土の人といっしょに戦争を阻止しないといけない」「自分でさんざん破壊して、復興といって支配しまた戦争にかり出すのはイラクと同じだ」と語られた。
 基地被害も事件事故は日常茶飯事、幼い女の子が暴行された話、若い奥さんが基地内で暴行されたが生活するためにやめるにやめられなかった話などすごく屈辱を受けてきた経験が語られた。本土の兵隊に子どもを殺された人からは、「語れば本土の人も傷つけるし、自分も傷つくから語らん」といわれた。
  最初すごく遠巻きに見ているのが特徴だった。長周新聞の論壇などを読み夕方ごろから集まってくる。原爆展を見た人が「米軍とすれ違いざまに避難民とわかっているのに背中から機銃で撃たれた。自分はその生き残りだ」と傷跡を見せ強いアメリカへの怒りを語る。何度も来て差し入れをし、子どもを連れてきて署名をさせ、近所の店へも見なさいと声をかけた。でもそんな人がいったん書いた署名を「申しわけない」といいながら消しに来る。すごく思いがあることと、それを語らせない抑圧を感じた。

 気安く語れぬという年配者
  艦砲で傷を受けたある婦人が「わたしたちは道を歩くたびに、ここもちぎれた腕が落ちていた、人が死んでいたと毎日思いながら生きている。それなのに5・15のときだけ来て、騒いで帰るのは平和運動ではない。むしずが走る」といっていた。「沖縄と気安くいってくれるな」という意見は多かった。
 C 峠のパネルを見ると気持ちがつうじるから「語ってもわかってもらえる」となるようだ。「沖縄だけでなく、本土も同じ目にあわされてがんばっている人がいる」という信頼感だった。『きけわだつみのこえ』の冊子がよく売れた。はじめて会うものにズボンをまくり傷口を見せる。「本土でわかりあえる勢力がいる」という喜びがいろんな形で返ってきた。アメリカについてみな「民主主義じゃない。親切などとんでもない」という。恩納村や読谷村の年寄りも「日本が敗北したら、朝鮮、ベトナム、イラクだ。まだ戦は終わっていない」と語っていた。
 A 沖縄の人たちへの信頼感は南部に入るなかでだんだん確信になった。最初は「かくれている壕を米軍の戦車がつぶした。逃げ場を探しに出た父は帰ってこなかった」と米軍への怒りを語る人が、「でも助けてくれたのはアメリカだ」と複雑な思いをいっていた。与儀公園の原爆展あたりからは「親切にしたのはアメとムチだ。アメをやらんと暴動になるからだ」と出された。そこにこちら側が確信を持つと少し踏みこめるようになり、自分自身が変わっていった。もともとアメリカへの怒りはある。でも最初はおっかなびっくりで「日本軍もひどかったんでしょ」「複雑でしょ」という態度だった。だが「そんなことない」というところから聞くと安心して語ってくれた。
 世間では集団自決のイメージが強い読谷村でも、チビチリガマの戦跡ガイドをしている青年が「沖縄戦は必要なかった」という評価に出合い、「これがほんとうだ」と衝撃を受けていた。「自分たちもなんとか伝えたいし、じいちゃんばあちゃんに聞くが語ってくれない、どう伝えたらいいか」と悩んでいた。
 C その青年は「読谷村のじいちゃんばあちゃんは語っていない。チビチリガマの生き残りにもぜひ会ってほしい」という。父親が基地労働者でもあり、葛藤の思いを話していった。すごい抑圧のなかで、どう解決するか求めていた。

 読谷村でも米軍に強い憤り
  チビチリガマの「日本軍が悪い」というインチキもよくわかった。読谷村の人たちは「北部の方に収容され、その後も転転とさせられ、帰ると自分の土地に弾薬庫ができていた。助けたのではなくそのためじゃないか」といっていた。ハワイ帰りの人がいて1000人ぐらいが助かったシムクガマについても「ハワイ帰りの人への感謝はあってもアメリカへの感謝はない」と語られた。
 読谷村役場前で熱心にパネルを見ていた体験者は「北部から辺土名に家族で逃げる途中、敗残兵の掃討作戦で数十人の米兵が上がってきた。父と祖父は身構えた瞬間に撃たれ祖父は即死。父はまだ息があったが、米兵がかくれていた自分たちを引きずり出し、自分たちと同じアジア系の兵隊を連れてきて、隊長が“とどめをさせ”と命令し目の前で撃ち殺した。あごが2つに割れていた…。それ以上は語れない」と話した。「体験のない人は“あれは戦争だった”ですむかもしれないが、ぼくらは頭の切りかえはできない。アメリカが沖縄県を助けたとどのツラ下げていうのか、ヤンキーは。日本軍も悪いがアメリカはそれ以上だ」とすごい怒りだった。その人も「自分より年上の世代はまだ語っていない。このパネルを見せたら語るかもしれないからどんどん見せてほしい」といっていた。
  活動の前半は「残酷すぎて語れない」という人にどう聞くかわからなかった。でも那覇の商店街で展示したとき沖縄出身の被爆者が「わたしも広島よ!」と激しく反応するし、一九歳のとき救護班で沖縄市周辺に入った体験者が「たくさん死体も見てきた。死体があった場所は覚えているし、いまでもそこに怖くて行けない」と一時間ぐらい語っていった。つらくていえない面とどうしても伝えたいというのがあった。若い世代も真剣な人が多く「パネルを見るとあの時代を生きていたおじいちゃんは強い、悲惨さが沖縄戦も同じだというのがすごく気持ちがわかる。それを子どもたちにも語っている」という人もいた。表では体験が語りつがれていない面と、家庭でやられているのは驚きだった
 C 「いまの沖縄の子は日本軍は悪い、民主的なアメリカが追い払ったという平和教育を受けるから、沖縄の人は日本軍に殺されたと思っているんじゃないか、と思って心配」と語る大学生もいた。資料も日本軍による被害の体験集はあるが、アメリカによる被害の資料は極端に少ない、それは問題だと話していた。読谷村の若い教師も「教師には歴史の真実を教える義務がある。日本軍が悪くてアメリカがよかった、そんなもんじゃない」と語っていた。
 編集部 沖縄の年寄りはこれまでの抑圧のなかで、多くはまだ本音を語っていない。若い世代は「日本軍を信じて協力したのはバカだった。アメリカを信じればちゃんと生きている」というような平和教育を受けている。原爆展も、興味は強いが、「平和をいう勢力にろくな者はいない、何者か」というのがあったと思う。だからはじめは遠巻きだったと思う。
 D 金武町でも「5・15で来る人は夜中にタクシーで乗りつけ宿舎だけ貸してほしいという人がいるが、ほんとうに気分があわない。いったいなんのために来るのか疑問」という。そんな人が場所を喜んで提供するといってくれた。
 A 遠くからアピール署名のタイトルを見て、「これはなんの謝罪か」と寄ってきて署名し見はじめる。ひじょうに関心は高い。孫に体験を話すと「日本軍が悪い。時代が違う」と笑われたという沖縄戦体験者は「自分たちはイラクに攻めていくし沖縄が危ないから話すが、ものがいいにくい。まるで軍国主義の裏返しのようだ」という。
   
 崩れた沖縄戦の定説 日本軍以上の米軍の蛮行
 司会 いわゆる沖縄戦の定説というものの欺まんが崩れていった点ではどうだろうか。
 B 沖縄戦における米軍の蛮行は相当なもので、北谷町の方では子どもでも全部撃ち殺して股をさいて海に捨てていたと泣きながら逃げてきたことがいわれ、読谷村への米軍上陸のときも友軍と思って大喜びで出て行ったら皆殺しにされたという。艦砲でも相当殺されている。
 A 艦砲というのは、細かい刃物状の破片になって飛び散るので刃物が空からふるのと同じだ。だから物陰にかくれても逃げられない。知らないうちに負ぶっていた赤ちゃんが死んでいたという人も多い。それに迫撃砲や機銃掃射がある。「トンボ」という米軍機が上を三回まわると攻撃されるから必死で走って逃げるが、民間人とわかっていて攻撃した。家にいても「日本軍と連絡をとっている」といって引きずり出して家を焼いたという話もあった。
 C 国頭に避難していた船で、白旗を振って助けてくれといっているのに艦砲を撃ちこんだ。生き残った人がそれでも助けてくれといっていると今度は機銃掃射で皆殺しにしたという。だからみな表面ではアメリカにニコニコしていても心の中では憎んでいるといっていた。
  若い世代もアメリカに救われたなど思っていないといっていた。
 編集部 アメリカはきわめて計画的に沖縄戦をやった。基地にするところははじめから決め、その地域の住民は収容所に入れ、そうでない住民は入れないとか決めていた。上陸後は沖縄のだれをリーダーにするかという親米派のリストもつくっており、上陸した後に指名手配して捜し出し実際にそのようにした。基地を奪うという周到な計画を実現するための沖縄戦だった。だから、破壊し、殺し尽くし屈服させなければならなかった。けっしてメドのない狂気の血みどろのたたかいというものではなかった。米軍にたちむかう力のない日本の兵隊は、11万人のうちの7000人しか捕虜はおらず、ほぼ皆殺しだった。米軍はそれだけではなく住民を殺さなければならなかった。親兄弟は殺され、食うや食わずでさまよい歩き、家も畑も破壊され、絶望的状態に追いこむことが、抵抗なく基地をつくるための綿密な計画であった。
  それは、読谷村の人もみないっていた。帰ってみると弾薬庫ができていた。それまでは、どんなことがあっても帰さなかったと。
 B 北谷や、那覇の小禄の人も「危ないから」と北部に連れて行かれ避難生活をし、帰ってくると基地になっていたと語っていた。道路でも「真先に軍用の道路ができた。米軍は民間人が使う道路はぜんぜんつくらなかったから民間の道路はみな住民がつくったんだ」とも語られていた。
  
 「進歩派」が抑圧に 米軍擁護を叫ぶ
  「日本軍が悪かった」というのは、とくに「進歩派」を自称する部分がいってきた。戦後の共産党は1946年に本土在住の沖縄県人組織の沖縄人連盟に「沖縄民族の独立を祝うメッセージ」を送った。沖縄で四七年にできた3つの革新政党(沖縄人民党、社会党、民主同盟)も「米軍によって日本軍国主義者の支配から解放された沖縄は独立の方向へすすむべきだ」という点で共通していた。それがアメリカの支配の支柱だった。それがいまも生きている。
 A 慶良間の集団自決で生き残った人も、「大田前知事などは、将校と壕にいた。自分らは、船舶特攻の部隊でボンボン攻撃が来るなかにいた」といっていた。また日本の軍隊は自決の命令を出したがアメリカはその上をいっている。「安保」をつくって知識人などを買収して基地にし、また戦争をやろうとしている。こんな残虐なものは他にいないと怒っていた。そういうなかで大田前知事などは「安保」容認で「お代官さまもお人が悪い」程度のガスぬきをしてきた。
 E アメリカは沖縄戦のまえにハワイの沖縄移民からそうとうに沖縄の実情について聞き研究をしている。たとえば天皇制が沖縄の伝統文化をどう抑圧しているかなどの状況を調べ、意識的に沖縄の古い文化の発揚をやった。すると本土から帰ってきた「日共」修正主義の流れの知識人などは、「沖縄のルネッサンスがはじまった」と持ち上げた。いま、修正主義、社民をふくめ、いわゆる進歩的という部分が、沖縄の伝統文化などをやっているがずっとつながっている。
  学校の歴史の授業も戦前は大和の歴史、戦後は琉球の歴史を教えるようになり、切り離して教えるようになったという年配者もいた。
 編集部 大田というのも戦前はエリートで軍にとり入り、戦後はひっくり返ってアメリカについて革新ぶっている。あの部分のアメリカ擁護が悪質だ。保守系といわれる住民の方がもっとストレートだ。沖縄戦で日本軍を信じて犠牲になった人はバカだ、アメリカを信じた者が賢かったとなる。生き残った者が喜んで、死んだ者はバカだったというのは、県民に納得されるものではない。沖縄も「保守」と「進歩」の概念がひっくり返っているようだ。
  原爆展に協力してくれる元自治会長さんも、地域では保守といわれるらしいが、熱烈な支持だった。役場でも、見に来るのは収入役や若い職員などで、組合活動家などは、あまり来ない。
   
 戦没者に深い哀惜 「進歩派」と違う県民感情
 編集部 沖縄県民が米軍基地に反対する根拠は、沖縄戦であれだけ殺されたということだ。そのうえに戦後のさまざまな米軍支配による民族的怒りがある。沖縄戦で殺された怒りがずっと終わっていない。米兵が鬼畜だというと「それは軍国主義だ」と「進歩」側がいってきた。日本軍が悪いというが、否応なしにかり出された兵隊にたいする感情は、同じように身内をかり出された沖縄の人たちも同じだろう。
  だから親近感がある。慶良間から伊江島にのがれてきた新潟出身の若い伍長を自分の家族のように2年世話をしたという人がいた。その人はアメリカの捕虜になりそうになったとき「戦友がみな死んで自分だけ生きてはおれないから自決する」という。その人は「どんな思いでわしがおまえを助けたか!」と涙ながらに止めている。その兵隊は戦友の遺骨もないから、海辺で石を拾って集め、そこに料理をつくってお供えをし、それから出頭していったという。「そういう人たちがバカにされ、アメリカの捕虜になって、アメリカにつき従っていくものが、ほめられてアメリカ万歳という。浮かばれんでしょうが」といっていた。
 C 慶良間の戦争体験者も「捕虜一号」と英雄のようにいうことに、「自分たちは、自分だけが生き残り、亡くなった人にどうするかという思いでいっぱいなのに、ああいう感覚は許せない」といっていた。
 A 集団自決や亡くなった戦友にたいしてどうなのか、人間として許せないという怒りだった。でも革新系のなかには、戦没者への哀惜がない。「日本軍を信じてバカだった。自衛隊も行ってやられたらいい」という論がある。体験者は違う。日本の若者が引きずり出されて殺される、出征兵士と重なる深い受けとめ方だ。ぜんぜん質が違う。
 B 糸満の体験者も大田前知事にものすごく怒っていた。アメリカに留学して戦争体験を売り物にして名前を売るようなのは気が知れない。また沖縄戦を観光にするのも許せないと怒っていた。
 編集部 みんなが死んでも自分が助かれば自分を救ってもらった米軍に感謝する。戦死した戦友などはくそ食らえだ。それが大きな顔をしていたのでは、身内が死んだ大多数の大衆はたまらないだろう。
  沖縄の青年が特攻隊に多く志願している。4機か5機特攻機が飛んできて、米艦に体当たりしていた。多くは撃墜されるが、航空服を着た若い少尉の遺体を引き揚げてみんなで供養したと語られていた。特攻隊の若者への感情も違っている。
  何度も原爆展に来た元特攻隊の80代の人も「自分だけ生きていてもしょうがない。沖縄を守るために特攻隊に入った」といっていた。
 天皇万歳の教育もあるが、沖縄がやられるから命を捨てて、沖縄を攻撃している米軍とたたかったというのだ。単純に、特攻隊は軍国主義で侵略兵隊だったとはいえない。

 特攻隊死者にも違った思い
 編集部 特攻隊についてもバカだと簡単に切り捨てる。だがあの局面での特攻隊員の心情で見ると、中国やアジアを侵略し、そこの人人を殺しに行ったのではない、沖縄を攻撃する米艦に命を捨てて突っこんだ、みんなを守るという感情を沖縄の人たちは受け止めている。
  若い兵隊の遺体がうちあげられたのを見たという読谷村の人は、自分たちも竹槍で米兵を突き殺せといわれていた。そうやって、命令したものが自衛隊をつくった。それでイラクに自衛隊を送りアメリカの戦争についていくとはなにごとかと怒る。戦没者への深い哀惜があるから、てのひらを返して国を売り渡したものへの怒りが深い。
 E 1億玉砕と命令を下したものが、パッとひっくり返りマッカーサーの所へ命ごいに行き、国を売り飛ばす。この戦死者との対立はすごいと思う。
  占領後、読谷村に2機が胴体着陸した話があった。兵隊を乗せて切りこみをやり、米軍の飛行機を何機かつぶしたそうだが、それを米軍がめちゃくちゃに殺した。それを目撃していたという人が、読谷ではその慰霊碑にもぜひ行きなさいといわれた。
 A 命からがらで食うものもないすれすれにおかれて、食べ物を投げ与えられれば食べるしかない。それでも、チョコレートを拾って帰ると親に「絶対食べるな」とひどく叱られたという人がたくさんいた。
 E 広島出身の人が、沖縄戦の真実の紙面に衝撃を受けていた。小学校の教科書で、沖縄戦はちょっと書いてあった。そのとき先生が、「教科書には書いてないが、日本軍が悪かったのだ」といったのが強い印象にあった。しかしそれがアメリカの意図だったというわけだ。
  一時期広島でも、1年生は広島で被害を、2年生は沖縄で加害を、学ぶということがあった。大学生が「ドキュメント沖縄というフィルムがあるが、日本の敗戦が決まったときに、捕虜収容所で、日本が負けて万歳をしている場面があるが、やらせだ」と製作者がいっているといっていた。

 戦後支配への怒り コザ暴動の誇りも   
 編集部 今度のキャラバンの意味あいは大きかった。沖縄戦の評価で覆っていた欺まんをはぎとり、アメリカの沖縄戦目的を正面から暴露したことは、戦後沖縄の歴史でも画期的なことではないか。基地撤去、戦争阻止のすごいエネルギーが出てくる実感を得たと思う。これは全国に響いている。全国の平和教育や広島でも反響になっている。第二次大戦の評価をめぐる欺まんを引きはがして、戦後の沖縄の米軍支配への怒りとともに、戦後社会への対米従属構造への怒りがそうとうに出てきた。
 A 沖縄市ではコザ暴動が誇りをもって語られた。交通事故がきっかけというが、そのときもっともアメリカにこびて基地に依存しているかのように見えるAサインバー(白人専用飲食店)のホステスが、火炎瓶を手渡すなど、もっとも応援したという。沖縄の無礼講のようなモアイというのに参加させてもらったが、パンチパーマの大工さんたちがいた。コザ暴動の話になり、「あのときおれもいた」「わしは3台焼いた」とかいっきにうち解けた。基地の中に入っても真夏でだれもいないのにクーラーをつけっぱなし、スプリンクラーを出しっぱなしというのを見て血が逆流するといっていた。
  MPも真青で拳銃の1発も撃てなかったという。Yナンバーに「止まれ」といっただけで米兵が逃げる。沖縄はすぐにイラクのようにはならないけどある瞬間が来れば爆発すると異口同音にいっていた。
 A これは衝撃だった。アメリカにも多少いい面があったなどといっていたら信用してもらえない。なにをやっても基地に逃げたらおとがめなしで、店の中で米兵があばれて交番に突き出しても、日本の警察がこんな所に連れてくるな、おれたちも通報するだけですぐ釈放されるのだから、路地裏に行ってぶちなぐれという。それがあるから爆発すると語っていた。
  糸満の人もアメリカが親切なふりをしていたのは最初の2年間だけ。琉球政府ができた3年目ごろから「おれたちが解放したのだ」といばりはじめたと語っていた。
  戦後すぐはチョコレートを食べて見せて与えたり親切にした。でも後はなにをやっても基地に逃げこんで終わり。奥さんが米兵に殺された人も「犯人がわかっているのに帰らせてしまう。その状態は施政権返還後も同じだ」と怒っていた。占領状態はいまもつづいているというのがみんなの実感だった。
 編集部 本土復帰の復帰運動のときに民族性、反米が盛り上がる。だが施政権返還後になると、運動の上の方から、本土からの分離路線があおられてくるのと同時に、反米が薄れていく。
 A 経験者も「高校生のころ日の丸をつくって復帰運動で先生たちもいっしょになってやった。あれがなくなった」と語っていた。
 編集部 あのころ、本土は「安保」斗争があった。アイゼンハワーは沖縄まで来たが本土には来れなかった。70年の「安保」斗争も盛り上がり、ニセ沖縄返還に反対する斗争も全国的な大斗争になった。沖縄と本土はその響きが大きかった。施政権返還以後は政治斗争がガタガタに崩壊するのとあわせて、沖縄では分離独立というのがあおられた。それがもう一回ひっくり返されるときにきた。
   
 大衆への深い確信が要 戦略観と結び沖縄戦の真実学ぶ
 司会 われわれの側の活動の教訓はどうだろうか。
 A 沖縄では協力をしてくれた活動者が衝撃を受けていた。原爆展はやってきたが、沖縄戦の体験をこういう形で聞いたことはなかった。体験を聞いてもそれをどこにむけて引き上げていくかと考えたことはなかった。原爆と沖縄戦が一つの線でつながっていると頭にはあるが、それがどんなものか沖縄キャラバンではじめて見たという。それと、「ぼくらは原爆展を公民館や市役所で堂堂とやっているし、片隅ではないと思ってきた。今回ようやくそのことがわかった」という。
 大学の先生も、研究者としての態度を考えさせられたといっていた。戦略観点を持って大衆の中に入り、そこから真実を引き出していく。そういう態度が沖縄の学者にない。ヘリ墜落事件も本質は「安保」だが、ここを沖縄の学者はいわないことを考えさせられたという。
  現在起こっている事件と事故について発言しはじめているがそれがどこから来たかつながったといっていた。
 編集部 知識人は大衆と結びつくかどうかが革命的かどうかの分水嶺だ。大衆から遊離していることと、おっかなびっくりでふやけた理屈を並べているのが結びついている。戦争のことを語り、沖縄戦を語ろうと思えばその体験に学ぶことはあたりまえだ。自称進歩勢力、知識人の多くが、空中遊泳しているということだ。また、パネルを見せるだけではだめだということではないか。原爆パネルに共鳴する人人は自分自身の経験を根拠にしている。沖縄では、沖縄戦と戦後の米軍支配の経験と結びつけることで、沖縄の人人の要求にこたえることになる。
  以前にも何度も市役所などで同じ原爆パネルを見てきた元特攻隊の人が、「このパネルははじめて見た」と語っていた。
  
 本質的要求を発揚 集中した意見整理し
 司会 日がたつにつれて、キャラバン隊の観点もとぎすまされつつ食いこんでいけたし、その活動を基礎にして長周紙面でも新しいものを出してきた。キャラバン隊の教訓は全国の教訓になるのではないか。
  「大衆の中から大衆の中へ」と思う。沖縄戦の体験を学ぶうえで追随ではなく本質を学ぼうとやってきた。やるなかで、大衆のなかの反米の思いや本質が見えてくる。そのメモを集中して、長周の本社にも送り、全国的歴史的な視点から分析・研究して、アドバイスもあり、沖縄特集記事のように、自分たちが学んだことが、大きな戦中、戦後の基本的な矛盾関係のなかで整理されて出てくる。なにが抑圧になり、どの角度からの斬りこみが必要か論議をし、その過程のなかで自分たちの認識運動もできた。そこからどこで展示するかの方向も見えてくるし、大衆の支持も確信できるようになった。

 人民大衆への態度を鮮明に
 編集部 こちらの立場が鮮明でなければ大衆の話も聞けない。大衆のところで「どうですか」といっても聞けないし、こっちの旗幟鮮明な立場だし態度だ。大衆の深部にある革命性、アメリカへの怒り、それに確信を持って学んでいく。人民に奉仕するし、人民の歴史創造に奉仕する立場が、態度、思想、雰囲気として信頼されるかどうかが分かれ目だ。大衆路線は追随ではない。こちらは歴史の発展方向や沖縄の歴史などの基本的な評価を持ってかかわっている。そこから大衆の意見を学び取捨選択して整理して返す。すると大衆も「そうだ。わしも元からそう思っていた」となる。チマチマした諸要求を羅列するのが修正主義だ。
 米軍基地は沖縄戦でとられた。アメリカも戦争でとったんだから、基地を戻せというなら力でとれという関係だ。アメリカに「出て行ってくれ」と頼んで出て行くものではない。今度の教訓は、日本とアジアの平和のために、そういう力を全国的につくっていくことだ。少し基地の事故が少なくなればいいというようなものではない。
 A みんながいうのはコザ暴動だ。「コザ暴動をやると米軍は拳銃一発撃てなかった。いくら復帰運動してもなかなかむりだったが、車100台を燃やしたら、あっという間に本土復帰になった。痛快この上ない」と語られていた。全軍労の労働者が米軍に銃剣を突きつけられても胸張って「出て行け」とやったことが語りつがれている。
 劇団のなかでも、今度の沖縄キャラバンは衝撃だ。これまで「南の島」をやってきたからなおさらだ。沖縄の大衆の心底の真実はそうだったのかという衝撃だ。われわれもなんのために公演をするのかをハッキリさせないといけない。
 編集部 芸術は、その時代の発展的な精神を描くということで生命力を持つということではないか。歴史を創造する人民大衆の事業の役に立つ、そういう奉仕者としての芸術集団ということで支持が広がる関係だと思う。
 司会 芸術、知識人もだし、大きく真に基地を撤去し、平和で独立した日本を実現する人民の事業を勝利に導く、そういう政治集団を全国的に結集していく重要性を確認できたと思う。

関連する記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。なお、コメントは承認制です。