いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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原子雲の下より すべての声は訴える――原爆詩人・峠三吉と子どもたちの詩

峠三吉((1917~1953年))

 第二次世界大戦末期の1945年8月、6日に広島、9日に長崎に原子爆弾が投下された。米軍が投下した原子爆弾によって広島では24万人、長崎では15万人が焼き殺され、生き残った人々は現在まで被爆の後遺症に苦しめられている。だが日本政府は米国の戦略に従い、被爆国としての使命を投げ捨てて日本を再び戦争の渦中に巻き込む動きを強めている。被爆と戦争の凄惨な体験を語り継ぎ、核戦争阻止の世界的な世論を強めることが今こそ求められている。米軍占領下の1951年、世界で初めて原子爆弾の被害を「原爆詩集」として告発した広島の詩人・峠三吉の作品から「すべての声は訴える」(一部抜粋)、「ちいさい子」、峠が編纂した子どもたちの原爆詩集「原子雲の下より」(1952年初版)から子どもの詩を紹介する。

 

◇     ◇    ◇

 

すべての声は訴える(抜粋)  峠三吉

 

青空に雲が燃えていたら
アスファルトの道路が 熱気にゆるんでいたら
雑草や埃の匂いが風に立ちこめていたら
戦後七年
決して明るくなってゆかぬ生活の疲労の中で
広島の人々は
ふとあの悲惨な日々の感覚に打たれることを
炎の中の瓦礫の下の呼び声に憑かれることを
訴えどころのない憂憤に ひそかに拳をふるわして耐えていることを
此この詩集を手にするあなたに知ってもらいたい

 

それは決して遠い記憶ではない
今、眼に映っている対岸の建物の壁が
突然破れ、瓦がはげ落ち
頭脳の奥で閃光がひらめいても
それは決して新しい事件に遭遇したのではなく
それは
自分の生きようとする正しい力が
何か巨大にして非人間的な圧力によって
遂にうち負かされてしまったのだという絶望感で
受けとられるものにちがいない

 

此の詩集を読もうとする多くの人に知ってもらいたい
広島の、そして長崎の人間は
原爆の炎の中から脱出して起ち上ろうと努めつつ
その意味する欺瞞的な力の中で
まだ必死にもがいている
もがいていながらも
私たちは
あの炎と血膿のしみついた皮膚の感覚で
愛する妻子や父母を茸雲の下で見失った
涙にまみれた体で
今はもう知ろうとしている
原爆を戦争に直接関係のない老若男女の日本人の上に投下し
その後にわたってその所有を独占しようとし
その脅威をふりかざして
世界を一人占めにしようとして来た意志
日本が侵略されるという囁きを吹きこみ
再軍備にかり立て
そのような政策に反対する国民の口に破防法という
猿ぐつわを噛かませる意志が
すべて一つのものであるということを
もうはっきりと知ろうとしている
そして
此の詩集をお読みになるあなたも
きっと知るにちがいない
私たちが一個の人間として
正しく幸福に生きようとするねがいを
何時の時代でも 常にはばんで来たものがあったとすれば
その力こそまさに此の暗い意志であり
その権力こそまさに
私たちを戦争にひきずりこむものであったということを

 

噫そして 私たちは知ることが出来る
世界最初に原子爆弾を頭上に落された日本人だという
黄色い皮膚にかけて
漆黒の瞳と流れる黒髪にかけて知ることが出来る
今はもう
戦争を、その物欲と権力保持のために欲する
一握りの、人間と呼ぶに価しない人間以外の
世界中の
真実と労働を愛するすべての人々と共に
腕を交みあって
平和へのたたかいを進めてゆくことこそが
私たちの正しく幸福に生きようとする
人間としてのねがいを
達成する唯一の道であるということを
私たちは日本人として
植民地支配に苦しんで来た
アジアの人間として
知ることが出来る

 

そのために
そうだ、それを信ずるために
多くの語り難い苦痛を越え
多くの語ることによる危険をしのぎ
老人も主婦も、未亡人も、青年も
又、勇気ある教師にみちびかれた子供達も
すべての人々が
血と涙にいろどられた叫びを
此の詩集に寄ってあげているのだ

 

どうか
此の信頼と愛が
戦争を憎み 原爆を呪う無数の声の中で
大きな稔りを持つように
その声の底にかくれつつ 永遠に絶ゆることのない
地下からの叫びが
生きている私たちの力によって
癒されるように!
原爆が再び地上に投ぜられることなく
原爆を意図するものが 世界中の働く者の力によって
一日も早く絶滅されるように!

 

おにぎりを持つ子ども(1945年8月10日長崎、山端庸介氏撮影)

ちいさい子  峠三吉

 

ちいさい子かわいい子
おまえはいったいどこにいるのか
ふと躓いた石のように
あの晴れた朝わかれたまま
みひらいた眼のまえに
母さんがいない
くっきりと空を映すおまえの瞳のうしろで
いきなり
あか黒い雲が立ちのぼり
天頂でまくれひろがる
あの音のない光りの異変
無限につづく幼い問のまえに
たれがあの日を語ってくれよう

 

ちいさい子かわいい子
おまえはいったいどこにいったか
近所に預けて作業に出かけた
おまえのこと
その執念だけにひかされ
焔の街をつっ走って来た両足うらの腐肉に
湧きはじめた蛆を
きみ悪がる気力もないまま
仮収容所のくら闇で
だまって死んだ母さん

 

そのお腹におまえをおいたまま
南の島で砲弾に八つ裂かれた父さんが
別れの涙をぬりこめたやさしいからだが
火傷と膿と斑点にふくれあがり
おなじような多くの屍とかさなって悶え
非常袋のそれだけは汚れも焼けもせぬ
おまえのための新しい絵本を
枕もとにおいたまま
動かなくなった
あの夜のことを
たれがおまえに話してくれよう

 

ちいさい子かわいい子
おまえはいったいどうしているのか
裸の太陽が雲のむこうでふるえ
燃える埃の、つんぼになった一本道を
降り注ぐ火弾、ひかり飛ぶ硝子のきららに
追われ走るおもいのなかで
心の肌をひきつらせ
口ごもりながら
母さんがおまえを叫び
おまえだけ
おまえだけにつたえたかった
父さんのこと
母さんのこと
そしていま
おまえひとりにさせてゆく切なさを
たれがつたえて
つたえてくれよう

 

そうだわたしは
きっとおまえをさがしだし
その柔い耳に口をつけ
いってやるぞ
日本中の父さん母さんいとしい坊やを
ひとりびとりひきはなし
くらい力でしめあげ
やがて蝿のように
うち殺し
突きころし
狂い死なせたあの戦争が
どのようにして
海を焼き島を焼き
ひろしまの町を焼き
おまえの澄んだ瞳から、すがる手から
父さんを奪ったか
母さんを奪ったか
ほんとうのそのことをいってやる
いってやるぞ!

 

原爆ドーム前で遊ぶ子どもたち(佐々木雄一郎氏撮影)

『原子雲の下より』――子どもたちの原爆詩集(1952年)

 

   五年 栗栖英雄(広島市舟入小学校)

 

いたといたの中に
はさまっている弟
うなっている
弟は、僕に
水 水といった
僕は
くずれている家の中に
はいるのは、いやといった
弟は
だまって
そのまま死んでいった
あの時
僕は
水をくんでやればよかった

 

げんしばくだん

   三年 坂本はつみ(広島市比治山小学校)

 

げんしばくだんがおちると
ひるがよるになって
人はおばけになる

 

無題 

   五年 岡野希臣(広島市南観音小学校)

 

しんるいの
長崎から
ぼくと
おかあちゃんと
ヒロシマに
かえろうと思って
汽車に
のると
ピカリとげんしばくだんが
ひかった
となりのおばさんが
なんむほうれんげきょと
いった
ヒロシマにつくと
駅のところに
死んだ人が
つんでおいてあった
ひろしまの
家につくと
屋根のかわらは
とんでいた
ぼくかたの
おばあちゃんは
病気も一つもしないでいたのに
ピカドンには
まけてしもおた
ぼくかたの
おばあちゃんは
ピカドンで
しんでしもおた
ぼくがたの
しんるいの
長崎の
おじさんも
しんでしもおた

 

無題 

   五年 香川征雄(広島市南観音小学校)

 

よしお兄ちゃんが
げんばくで
死んだあくる日
おかあちゃんが
まい日 まい日
さがしたが
きものも
かばんも
べんとうばこも
骨も
なかった
おかあちゃんは
よしお
なぜ死んだのと
ないて
ないた
ぼくは
げんしばくだん
だいきらいだ

 

無題

    五年 佐藤智子(広島市南観音小学校)

 

よしこちゃんが
やけどで
ねていて
とまとが
たべたいというので
お母ちゃんが
かい出しに
いっている間に
よしこちゃんは
死んでいた
いもばっかしたべさせて
ころしちゃったねと
お母ちゃんは
ないた
わたしも
ないた
みんなも
ないた

 

おとうちゃん
   三年 柿田佳子(広島市本川小学校)

 

にぎやかな広しまの町
そこでしんだ、おとうちゃん
げんばくの雲にのっていったおとうちゃん
おしろのとこでしんだ、おとうちゃん
わたしの小さいときわかれたおとうちゃん
かおもしらないおとうちゃん
一どでもいい、ゆめにでもあってみたいおとうちゃん
おとうちゃんとよんでみたい、さばってみたい※
せんそうがなかったら、おとうちゃんはしななかったろう
もとのお家にいるだろう
にいちゃんのほしがるじてんしゃも
かってあるだろう

 

   (※抱きついてみたい)

 

原子爆弾
    六年 清木操(広島市竹屋小学校)

 

ピカッと光ったかと思うと
まっ暗になった
それからまもなくすると
むこうの方から明るくなってきた
静かに上をみると私は石間の下じきになっていた
おそろしくなって
たすけてー たすけてー
と大声でおらんでいると
よそのおじさんが
かみをばらばらにして
どこにいるんだ、どこにいるんだと
おらんでおられたので
ここにいるんですよー といっしょうけんめいおらんだ
おじさんは私をせおうと
石ころや家のめげたあいだをよろけながら
私の家につれてってくれた
家にはいるとおばあちゃんもいないし
おかあちゃんもだれもいなかった
するとむこうの方からおかあさんが
みさおちゃんとよんでいた
私はいきなりおかあさんとなきついた
お母さんは顔や手足をやいていた
早くにげようといったまま
息をひいて死んでいた
思わずわっとないた
私はそれから一人になった
もう二度と戦争はしてはならない
私のような子供を作りたくないから

 

ぼくのあたま
    四年 河合賢治(広島市舟入小学校)

 

ピカドンで
ぼくのあたまははげだ
目もおかしくなった
二つのときでした

大きくなって
みんなが
「つる」とか「はげ」とかよんだ
また
「目くさり」といった
ぼくは
じっとがまんした
なきそうだったが
なかなかった

 

原爆の思い出
    六年 寺西邦雄(広島市竹屋小学校)

 

僕の右の足
じっと見ていると
あの日の事が思いだされる
こんなにつるつると
ほかの所とはちがう
あのずるむけになった時からだ
おそらく一生このきずはなおらないだろう
このきずを見るたびに苦しい気持になる
のたうって死んでいった人々の
姿がうかぶ
ぞっとして来る
戦争はもうしてはならない

 

げんばく
   四年 高橋史江(広島市広瀬小学校)

 

ピカッと光った
みんな、家の下じきになった
私も、下じきになった
母に、助け出された
頭からは、血が流れていた
母のせ中におわれて、
にげる途中
やけどをしたり
けがをしたり
苦しそうにうなっていた
広島は、火や煙に
包まれていた
私たちは
田舎へにげて行った
住みなれた家は、やかれ
たくさんの人はころされ
ほんとうにせんそうはこわい
もう二どとやらないでください

 

原爆体験記
   六年 岡本俊夫(広島市竹屋小学校)

 

原爆おわってから
どんな苦労をしたかわからない
みんなたべものがないので
てつどうぐさ※のだんごをたべたり
さまざまなかっこうでいた
広島じゅうははしからはしまで
やけのはらであった
ぼくたちはもとおったところに
かえって母のかえるのをまった
母はかえらないのでいなかにかえった
いなかにかえって
あらせというびょういんに
かよった
病院にいっていると
おいしゃさんがどこの人かしらないが
せなかのかわを五、六枚はぐってみると
うじがなんぜんびきとはいっていた
今思い出してもぞっとする
あのおそろしい原爆
もうあんなことはしないで
平和にくらしていこう

 

  (※ヨモギの一種)

 

姉ちゃん
  一年 池田博彰(広島市庚午中学校)

忘れちゃいけないと思う
でも姉ちゃんが死んじゃってから
ときどき忘れてる
ちかごろ飛行機がよく飛ぶ
僕の大好きなおじちゃんが
大きらいな戦争へ行った
僕の大好きな姉ちゃんが
大きらいな戦争でおばけみたいにな った
おじちゃんは死んだ
姉ちゃんは骨だけになって死んだ
死ぬ時
「ピカドンを忘れんさんな」といった
僕はピカドンを思い出したときいつも
「わるかった」と思う

 

原爆
  二年 山代鈴子(広島市二葉中学校)

 

私は七つ、妹は三つ
そしてお父さんは
北支のどこかで
戦争をしているということで
ずいぶん 前からたよりがなかった

 

母は
あの日
きんろうほうしで
町に きょうせいたちのきのあとしまつに
出ていた

 

私は
家の近くの会館で
皆んなと勉強していた

午前八時十五分
その時
原爆はうつくしいひかりにみちて
かがやきにあふれて
おちてきた
窓ガラスがやぶれて
床にちらばっているなかを
私は家にかけて帰った
なにかしらないが
おそろしいものにおわれて
たまらなく母のふところが
こいしかったからだとおぼえている

家では
姉と妹が
へしまがった天井の下で
ほこりだらけのたたみの上にだきあって
すわっていた

 

それから二時間
全身が焼けただれて
息もたえだえになって
母が帰ってきた
父がいなくて一家の柱の
たった一人の私達の母が

 

姉は
毎日どくだみをせんじて母にのませ
うじのわいている
指のまたのかさぶたをうがしては、
おしろい粉をふった

 

そして それから七年
いろんなことがあったけれど
私は十三、妹は九つ
父は戦争で死んでしまって帰らなかったが

母は
今日も
あの原爆で不自由な体で
くわをふるっている

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