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朝鮮での原爆使用阻止した50年8・6闘争  ートランプの核恫喝に関連してー

朝鮮戦争に反対しデモ行進する広島市民(1950年)

 アメリカのトランプ政府は「核兵器禁止条約」に同盟国を掻き集めて対抗したが、その真意は「北朝鮮ミサイル」騒ぎのなかで露わとなっている。トランプは8日、記者団に「北朝鮮には、世界が見たこともない炎と激怒で対抗する」と口走った。さらに、翌日のツイッターでは、「アメリカの核軍備は過去最強だ。私の大統領としての最初の命令は、核軍備の刷新と近代化だった。この軍事力を、使わずにいられることが望ましいが、アメリカが世界最強の国でなくなることは絶対にありえない」と核兵器の使用をちらつかせる始末である。世界的な原水爆禁止の世論の高まりをさらに押し広げ、アメリカに核兵器を使用させないことが、広島・長崎の経験と怒りを共有する日本国民の重要な責務となっている。このことは歴史的に証明されている。

 


 1950年初頭、朝鮮戦争下の広島でたたかわれた平和闘争、被爆地広島から世界に向けた原爆禁止の叫びが全国、世界に大きな影響を広げ、朝鮮で原爆を投下しようとしたアメリカの手足を縛りつけ、実際に使わせない力を発揮した。それは今日の、原水爆の製造・貯蔵・使用の禁止をめぐる圧倒的な力関係を築く起点となった。

 

 1950年6月25日、アメリカは日本を基地にした朝鮮への軍事侵略に突入した。中国地方では労働者が中心になって、原水爆反対・反戦平和の運動が、8・6に向けて広範な影響を広げていった。そこでは、国際的連帯、とくに朝鮮民族との連帯の感情が発露された。

 

 8月5日、広島で開催された「青年平和大会」は、「原子兵器の禁止」「最初に原子兵器を使用する政府を戦犯とする」「民族独立を実力でかちとれ」「青年を肉弾にする戦争反対」のスローガンとともに、「朝鮮で原爆を使うな」を鮮明に掲げた。実際に、アメリカは、広島への原爆の惨状について語り、伝えることすら弾圧し、原爆投下を美しく描いて、朝鮮での原爆使用を策動していた。

 

トルーマン「原爆使用は前向きに」と公言

 

 ジョン・ハリディとブルース・カミングスの共著『朝鮮戦争   内戦と干渉』(岩波書店)は、その事情を詳しく展開している。
 この年、1950年11月30日、トルーマンは記者会見で、「戦況を好転させるためにどんな策をとるか」との質問に対して、「例外を設けず、あらゆる可能性を考慮する」といい、「原爆使用」については、「前向きに考えている」と二度も口にした。さらに、「原爆は軍事目標に投下するのか、非軍事目標に向けて投下するのか」という記者の質問をさえぎり、「原爆の使用は軍部が決めることだ。その決定は現地の司令官(マッカーサー)がおこなう」と公言した。

 

 本来、原爆投下の決定権は大統領にあるにもかかわらず、当時開発中の戦術核兵器を戦場の判断で使用させるというものであった。また、「アメリカは原爆の使用については国連の許可も求めないし、国連の許可を待ちもしない」と放言した。

 

 そして、この記者会見と同じ日、戦略爆撃機に警戒態勢に入るよう命令を下した。「中規模の爆撃編隊を遅滞なく極東に派遣できるように準備せよ……この増強には核攻撃能力も当然含まれる」というものであった。トルーマンは実際に、分解したままの原爆を朝鮮沖合の航空母艦にこっそり運ばせた。

 

 12月に入ると、マッカーサーは「原爆使用の権限が司令官に与えられることを望む」と言明した。そして、「敵の攻撃目標をすべて破壊するには26発(さらに危険な敵軍に対して8発)の原爆が必要である」と、求めた。マッカーサーは死後に公にされた生前のインタビューで、「われわれの背後に、日本海から黄海にかけて、放射性コバルトの帯をくり広げるはずであった。放射能は60年間から120年間有効だ」と得意げに語っていた。

 

 アメリカは1951年の春には、原爆投下の寸前まで入った。3月10日、統合参謀本部は「中国が新しい大部隊を編成して戦闘に参加させた場合、あるいは中国の爆撃機が満州から発して米軍に攻撃を加えた場合には、ただちに満州の中国軍基地に原爆で報復せよ」と、命令していた。

 

 3月末、沖縄の原爆装填装置が稼働状態に入った。翌4月6日、トルーマンは統合参謀本部の要請を認め、一定数の組み立て済み原爆を「軍部の管理下に置くこと」を承認した。アメリカがこの年の9月から10月にかけて、「ハドソン湾作戦」と名付けた原爆投下を準備する作戦を極秘のうちにおこなった。そこでは、単独飛行のB29爆撃機が何回も北朝鮮に飛んで、原爆投下テスト用の模擬原爆や通常とは異なる危険な爆弾を投下する演習であった。

 

われらの詩の会 原爆・反戦詩が世界に広がる

 

 1951年の広島における第2回8・6平和大会の一環として、広島では多くの催しがおこなわれた。このとき発表された峠三吉が主宰する「われらの詩の会」のメンバーによる原爆・反戦詩が、その年の夏、ベルリンで開かれた世界青年・学生平和大会へも送られた。広島の惨状とともに日本国民の平和への意志を全世界に伝えるはつらつとした作品は、世界中に熱い感動とともに広がった。

 

 それは、この年、峠三吉が発表した『墓標』が、トルコの詩人ヒクメットに影響を与え、原爆で死んだ女の子や朝鮮戦争でのアメリカの残虐さを告発する作品を生み出す契機になったことにも示されている。

 

 峠三吉らが中心になってこの年8月、広島ではじめて原爆被害者の会が組織された。この会は、アメリカの弾圧をはねのけ、被爆者の治療を放置して原爆使用をたくらむABCCを暴くなど、広島の本当の声を全国、世界に発信するために献身した。また、1952年、ウィーンで開かれた世界諸国民平和大会に代表を派遣した。その後続けて、広島で開かれた世界連邦アジア会議に広島の被爆市民を代表して、「朝鮮戦争の即時中止を実現する力」になるよう期待するメッセージを送るなど、広島と連帯して原爆使用を許さぬ世界世論を大きく促した。

 

 11月3日、本川小学校で開かれた世界連邦アジア会議に届いた原爆被害者の会を中心にした市民諸団体のメッセージは、峠三吉が起草したものである。

 

峠三吉らメッセージ 朝鮮戦争の即時中止求める

 

 そこには、「海峡一つへだてた朝鮮においては朝鮮戦争が2カ年以上も続けられ、世界をあげての戦争準備の中で、原爆、水爆の威嚇的実験、細菌戦による恐るべき非人道的大量虐殺が行われております。私ども原爆によって親や子や夫や妻を焼き殺され、原爆の地獄を体験した広島の市民は今こそ、いっさいの戦争準備、とくに原子兵器の即時廃棄を全世界に向かって強く強く要求します」と、朝鮮戦争での原爆使用を許さぬ決意がみなぎっていた。

 

 メッセージは、さらに「私たち広島の市民はいかに政府が弾圧しようとも肉体に受けたケロイドが消えることのないように、ノーモア・ヒロシマの声が途絶えるものではありません」「帰国後この大会の報告をなさる場合、どうか広島市民が全世界の平和を心から望み、そのためにあらゆる国の人々と団結して力をつくしたい熱意を固く持っているということをぜひ1人でも多くの人にお伝え下さるようお願いいたします」と、熱い思いを伝えていた。

 

 この会議では、広島の声にこたえて、「原水爆製造・使用の禁止」の宣言採択がおこなわれた。
 日本で初めての国際平和大会、第1回原水爆禁止世界大会が広島でおこなわれたのは、その3年後のことであった。このような被爆地からの発信が、朝鮮戦争で原爆を投下しようとしていたアメリカの手足を縛り、マッカーサーを解任させ、その後のベトナム戦争や中東でも原爆を使わせない力となった。

 

 トランプの居丈高な核威嚇は、アメリカが「世界最強の国」どころか、その衰退と国際的な孤立の自己表現でもある。広島・長崎から、いかなる民族の頭上にも原爆を投下させぬ国際的な強靱な世論を築く条件は成熟している。

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