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下関空襲の記憶を後世に伝える 爆撃のために緻密な計画練っていた米軍

 第二次大戦の敗戦から今年で76年目を迎える。下関も1945年6月29日と7月2日の二度にわたって米軍による空襲を受け、中心市街地は焼け野原となり、多数の市民が死傷、家族や家を失った。中国地方では原爆を投下された広島に次ぐ甚大な被害を受けたが、犠牲者数など被害の全容は今も明らかになっていない。当時を知る市民が減少するなか、下関空襲の経験を現在・未来を生きる世代が知り、語り伝えていくことを体験世代は切実に願っている。下関空襲から76年目の記念日を迎えるにあたり、本紙が聞きとりをしてきた下関空襲経験者の体験と、下関歴史探究倶楽部の大濱博之氏が30年にわたる調査をへて出版した『記録写真と資料による太平洋戦争の記録 下関空襲の全貌』をもとにふり返ってみたい(掲載している一部の写真や資料は大濱博之氏より提供)。

 

焼け野原となった入江・丸山町(下関市)

 

大濱博之氏

 敗戦の前年(1944年)、「確固不抜の要塞」とされたサイパンと、近接するグアム・テニアンが陥落。米軍は太平洋の制空権・制海権を掌握し、マリアナ基地から日本への本土空襲を本格化させた。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲を皮切りに、大阪、名古屋などの大都市から全土の中小都市合わせて六七の市街地を焼き払う無差別殺戮・焦土作戦をおこない、わずか半年のあいだに女性や子ども、高齢者など罪もない多くの国民が焼き殺され、家を焼かれた。全国の本土空襲による犠牲者数は25万人から100万人まで諸説あり、いまだに確定していない。下関空襲もその一環だったが、大濱博之氏が収集した米公文書館などに残された機密資料などから、米軍は関門地区を交通の要衝とみなして重視し、緻密な計画のもとに一般市民を狙って空襲を実行していたことが浮き彫りになっている。

 

6月29日と7月2日 焼夷弾で中心部焼払う

 

 1945年6月29日午前1時10分ごろ、B29の大編隊が壇ノ浦上空にあらわれ、阿弥陀寺町から赤間町までのあいだ、宮田、唐戸、貴船、園田、田中、東南部方面に焼夷弾攻撃を加え、旧市東部地区は焼け野原となった。

 

 その余煙がまだおさまらない7月2日午前零時10分ごろ、再び来襲したB29の編隊は、さらに広範囲に焼夷弾攻撃をおこなった。明け方の4時まで続いたこの空襲は3日前を上回る規模で、豊前田から西細江、観音崎の倉庫群と入江、丸山、東大坪、高尾、南部、西之端、田中、園田、宮田各町など、彦島・新地を除く旧市内中心部が焼き尽くされた。

 

 米軍はつねに四国から侵入し、豊後水道の上空をへて関門に襲来していたため、空襲警報はいつも「足摺岬上空から西北方に進んだ」と知らせ、警報発令後わずか15~20分ほどで関門上空に飛来していたという。多くの市民が、最初にB29の編隊が頭上を通過したさい、ザーザーという夕立にそっくりな音が聞こえたと証言している。しかし、やがて空襲警報が解除され、ほっとした市民が防空壕から出て一息ついたとき、再び空襲警報が鳴ると同時にB29があらわれ、火の玉を投下し始めた。前段の夕立のような音はガソリンをまいた音だった。ガソリンをまかれた木造家屋はあっという間に燃え上がり、火の雨のなかを市民は逃げまどった。

 

 当時14歳で丸山町に住んでいた女性は、「最初のうちはみんなで火を消そうとしていたが、どんどん火が強くなり消火どころではなくなったので、母とともに王江小学校に逃げた。近所の高齢者は警防団の人たちが背負い、私は幼い子の手を引いて逃げ、小学校の一階に身を寄せ合って空襲が終わるのを待った」と話す。ケガした人たちの手当をしようにも赤チンしかなく、包帯もなかった。女性は家がすべて焼かれ、着の身着のまま疎開することになった。

 

 

 市内でもっとも被害の大きかった地域として語り継がれてきたのが幸町の清和園の惨劇だ。炎から逃れようと清和園の高台に逃げた約80人の老若男女が両側から炎に包まれ、高台から下りることもできずにそのまま蒸し焼きにされた。

 

 すぐ下に住んでいた女性は清和園で同じ組の7人の子どもや主人と甥っ子も犠牲になった。市内が燃え始めたため、女性も清和園を通って宮田町の方に抜けようとしたが、通り道の角の家が燃えていてひき返したため助かった。周囲から火が迫り、近所の人はみな空地の畑に集まったが、持ってきた行李の中の衣類に火がつき、すぐそばが燃え始めた。逃げる場所もなく、この世の見納めと思って法福寺が燃え上がるのを見ていたという。突風が起こり、竜巻のようになって炎がなめるように迫ってきた。髪の毛もなにもかもカラカラで、ぼーっとしてわけがわからなくなった。しばらくして火が収まり、ぼーっとしたまま助かったのだと思ったという。

 

 「清和園の上に兵隊さんがいて、気が狂ったように日本刀を持って火の中に飛びこんでいく姿を見た」と証言する体験者もいた。この地に市立幸町保育園が設立されたさいに犠牲者の遺骨が発掘され、保育園と地元有志が相談して犠牲者の慰霊のため「幸せ地蔵」を建立し、毎年地蔵祭りが催されている。

 

 この2回の空襲でB29が下関に投下した焼夷弾は420㌧(7月2日は360㌧)にのぼった。市街地108万9000平方㍍が焼け野原となり、上水道は給水戸数の約44%(8674戸)、ガスは需要戸数の約78%(3500戸)、電話は加入者数の約40%(1539口)、電車電線は2300㍍など、すべてが破壊され、都市機能が停止する壊滅的な打撃を受けた。

 

 官庁の公式資料では、二度の空襲で市民324人が死亡、1100人が重軽傷を負い、焼け出された市民は4万6000人をこえたと記録されているが、被災者は「その程度のものではなかった」と共通して語っている。「戦災直前の人口21万2000人は、その直後15万5000人に激減してしまった」(野村忠司編『カンナ炎える夏』)ともいわれ、被害の全貌はいまだ明らかにされていない。

 

 市民が暮らす市街地が焼き尽くされる一方で、貴船にあった要塞司令部や三菱、神戸製鋼所などは無傷で残った。大濱博之氏の調査によると、米軍は事前に関門海峡や下関の偵察写真をもとに立体模型を作成するなどし、周到な計画のもとに下関に対する空襲を実施していた。爆撃地の指定カ所を指示した偵察写真には、市の中心部であった唐戸地区に黄色い円が描かれ、この一帯への焼夷弾投下を指示しており、海風の変化があることも赤線で指示している。白枠で囲まれているのは三菱などの工場や下関駅などで、「1846」の三菱、「772」の下関駅(写真にはないが「143」の神戸製鋼)は、爆撃してはならない箇所として指示していた。

 

関門海峡の偵察写真から爆撃地の指定箇所を示している。上部の円の中が唐戸地区で焼夷弾攻撃を指示。「1846」三菱、「772」下関駅などは攻撃しないよう指示していた。

下関の立体模型(彦島からみもすそ川付近まで)。関門トンネル下関側の出口の部分や彦島と下関駅を結ぶ橋(江の浦橋)の部分がきわめて精巧につくられている(米国立公文書館)

関門トンネルの探索命令書。トップシークレット扱いになっている(米国立公文書館)。B29が撮影した写真から関門トンネルの位置を推定していた

米軍が正確に把握していた関門トンネルの位置(米国立公文書館)

 

 このことは、多くの下関空襲経験者が「市街地は無辜(こ)の市民が焼夷弾の絨毯爆撃で多大な犠牲を受け、命だけでなく家財もすべて失ったが、三井、三菱の工場も長府の神戸製鋼所も要塞司令部も下関重砲連隊も、憲兵隊本部(旧市立中央図書館の辺り)も爆撃を受けず無傷で残った」「下関は要塞があるからやられたといわれたが不可解だった。アメリカは日本を占領しやすくするために、民衆を徹底してたたき、殺した」と指摘していることと一致している。

 

 大濱氏は「唐戸は焼き尽くされたが、英国領事館だけはピンポイントで残していて、いかに爆撃精度が高いかもわかる。三菱造船所や神戸製鋼所を残したのも、下関が大陸に近い重要な軍事的要衝として扱われ、朝鮮戦争などを見据えて重要な駅や工場は残している。アメリカはそこまで考えていた」と指摘している。戦後、下関に来た進駐軍が駐屯地としたのは、攻撃しなかった神戸製鋼所だった。

 

 また、米国立公文書館に残されていた資料のなかに、7月2日の空襲当日、まだ煙が上がっている市街地を上空から撮影した航空写真も残されていた。

 

 

空襲後の下関市街地。写真は明け方4時まで続いた7月2日の空襲後、被害調査で飛来した偵察機が撮影したもの。

 

関門海峡の機雷投下 日本全国の半数が集中

 

 市民が焼夷弾攻撃に虚を突かれた要因の一つに、同年3月以来、B29による関門海峡への機雷投下がくり返され、毎日のように空襲警報が発令されていたことがある。毎夜毎夜襲来するのに一向に地上攻撃をしなかったため、市民は緊張しつつも気を緩めていたところに焼夷弾攻撃がおこなわれたのだ。

 

 機雷によって日本を海上封鎖するアメリカの作戦は、「スターベーション」(飢餓作戦)と呼ばれた。米海軍提督ニミッツが米第二一爆撃軍団に提案したその狙いは①日本への原材料および食料の輸入の阻止、②日本軍隊への補給および移動の阻止、③日本内海の海運の崩壊の三点にあった。このなかで、もっとも重視されたのは交通の要衝だった関門海峡だ。米軍が全国に投下した約1万1000発(日本側調査)の機雷のうち、半数にのぼる約5000発が関門海峡に投下された。

 

関門海峡に投下された機雷

 

 関門地域では3月27日夜、99機のB29が来襲し、機雷1000個を投下して以後、敗戦前日の8月14日まで、ほぼ連日、昼夜の別なく機雷を投下した。このため、この期間内だけで下関での警戒警報発令は102回におよんだ。同海域では毎日のように航行する船舶が機雷に触れ、水柱を上げて沈没する光景が目撃され、船舶のマストが林立する「船の墓場」と化した。市民のなかでは、彦島には数多くの船員や兵隊などの遺体が流れ着いたこと、沈没した船から流れ出たコメやコーリャン、大豆、麦など、海水を含んだ食料をすくい上げて食べていたことが語られている。日明地点(北九州市)で病院船「ばいかる丸」が触雷して撃沈し、200体もの少年航空兵の無残な遺体が六連島に漂着し、荼毘(だび)にふされたことも語り伝えられている。

 

 この時期、すでに海軍はおもな戦艦を失った段階であり、大半の犠牲は関釜連絡船や戦時輸送を担う商船、貨物船、機帆船、漁船やはしけなど民間船に強いられた。だが、記録に残っているのは350隻ほど(うち5000~1万㌧級の大型船が157隻)で、犠牲者の数や身元、埋葬先など多くは不明のままだ。

 

 この機雷投下についても、『下関空襲の全貌』に掲載している1945年3月27日の機雷投下作戦の響灘側の計画図(米国立公文書館)から、海中のどの位置にどれほどの機雷を投下するかを細かく計画していたことがわかる。

 

 米軍はこのほか、関門トンネルを「日本における最も重要な輸送目標」と位置づけ、綿密な調査をおこなっていた。機雷によって海上輸送が困難になるなか、九州と本州とのあいだの軍隊の移動や物資輸送の手段として関門トンネルの役割がますます重要になっていると分析。偵察写真に写った下関側の出口の位置や施設の配置などから関門トンネルの位置をほぼ正確に推定していた。1945年4月7日に発せられた「関門トンネルの構造を探索せよ」という命令書は「トップシークレット」の印鑑が押されている。写真だけではわからないコンクリート部分の厚さなどの情報を捕虜やスパイなどを通じて収集したのだろうという。同年7月31日に関門トンネルを爆撃する計画があったが、実際には投弾せず、関門トンネルも無被害で残った。

 

 下関は九州と本土、大陸を結ぶ交通の要衝であり、日清・日露戦争のときから「国防の拠点」として位置づけられ、西日本で最大の軍事的要塞地帯となってきた。貴船町(元済生会病院の辺り)に要塞司令部が置かれ、その周辺には下関重砲兵連隊、大畑練兵場、倉庫や火薬庫、兵舎など軍事施設が密集していたほか、各地に砲台を備えた要塞が置かれていた。

 

 しかし、日本の支配層が降伏するのは時間の問題だと知っているアメリカは、これら軍事施設や軍需工場は無被害のまま残し、一般市民を無差別に殺戮したのである。これは東京大空襲をはじめ全国の本土空襲で共通するものでもある。体験者が語る経験と米軍が残した資料は、戦争で犠牲になるのは一般市民・国民であることを明確に示している。

 

空襲で焼き払われた田中町界隈

 

空襲体験の記憶(2005年本紙聞き取りより)

 

新町3丁目 三好寿和子

 

 昭和20年6月と7月の下関空襲のときは28歳だった。新町3丁目、今の山口銀行新町支店の田中川を挟んだ斜め前あたりで、菓子の製造販売をしていた。大通りに面して店があり、裏側が工場になっていた。2回目の7月2日の焼夷弾爆撃で新町3丁目は、時計や宝石、蓄音機などを売っていた新田宝寿堂のところまで焼け野原となった。

 

 焼夷弾の炎が木造の壁にぺたっと付くと、あっという間に家が燃え上がる。うちは菓子の材料の砂糖や蜜があったのでよく燃えた。

 

 私は幼児だった長女を連れて必死に逃げた。子どもの夏布団を濡らし、火の粉をよけるためにかぶって走るのだが、これが乾くほどのすさまじい火力だった。うちの町内では、私が一番あとに逃げることになった。みんな下関重砲連隊(今の済生会病院跡、公共職業安定所、県総合庁舎のところ)の東駅側から椋野に逃げた。

 

 夜が明けて戻ってみると新町3丁目から田中町、西之端、唐戸にかけて焼け野原で、遠く離れた宇部が米軍の空襲で燃えるのが見えた。新町にあった記念病院(今のひろさき眼科医院)は、火傷をはじめ負傷者が次々に運び込まれ、病院に入りきれずにあふれる惨状だった。

 

 ところが、下関重砲連隊も、今の図書館のところにあった憲兵本部も燃えなかった。強制疎開させられていた田中川を挟んだ貴船側は燃えなかった。「下関は要塞があるから、やられた」といわれたが、不可解だった。あとでわかったが彦島の三井や三菱の工場も燃えなかった。アメリカはみんなわかっていた。

 

 主人に赤紙(召集令状)がきて、台湾に派遣されることとなり、部隊は鹿児島に行ったが、米軍の攻撃で鹿児島から出港できず、引き返してきて門司港から出港した。私は壇之浦にあった神社に何回も行って、台湾に無事に着くことを祈った。11隻の船が台湾に着いたことを聞き安心した。このように、もう日本の敗戦は決まっていた。なのに、なぜ民家の密集地にこれほどの焼夷弾爆撃をしなければならないのか。心の中で引っかかっていた。下関には重砲連隊があり、要塞もあったが、あっただけで役に立たなかった。アメリカは日本を占領しやすくするために、日本の民衆を徹底してたたき、殺した。

 

 主人は敗戦後すぐに引き揚げてきた。まだ焼け野原だった唐戸に店をつくった。戦争ほど人の命を犠牲にするものはない。命は、本当に必死で守らなければならない。またきな臭い世の中にしてきているが、戦争は二度と起こしてはならない。

 

入江町 78歳女性(2005年当時)

 

 7月2日の空襲を経験した。入江町で花火のようにきれいだと思いながら見ていると火が迫ってきていた。家を飛び出して逃げた。その後に焼夷弾のものすごく大きいのが家を直撃していて、もし家にいたら死んでいたと思う。

 

 江戸金(亀の甲せんべいのお店)のご主人さんが「家が焼ける」と叫んでいたのを覚えている。また真っ暗ななかを逃げる人の腕に焼夷弾が直撃し、腕がぽーんと飛んできて、まわりの人でその人を防空壕の中に担ぎこんだが、防空壕も煙が入ってきてなにもできないままその方は亡くなられた。日和山も火が下から上がってくるから逃げられない。みな海の方へ、水上署の方へ逃げた。でも水上署の人が軍刀をかざして「来るな!」と気が狂ったようになっていてそれからも逃げる状態だった。真っ暗な空に焼夷弾が落ちてくるので、早く夜が明けて飛行機がどこかへ行ってくれないかなと思い、やっとうっすらと夜が明けてくると飛行機の音も聞こえなくなり、やっと終わったとホッとした。

 

 下関商業にけが人がたくさん連れて行かれ、夜が明けると全部が焼け野原になっていた。そこらに死体が転がっているのも見た。家は焼夷弾が落ちて生活できないので、防空壕の中で生活した。その後も関門海峡に落とされた機雷で船が爆発し、「また海軍さんがあがったよ」と近くの人が見に行き、水ぶくれした遺体が海の上をぷかぷかと浮いているのを何度も見た。

 

 今警察署になっているあたりが山陽百貨店で下関でも一番にぎわいのある場所で、近くに映画館もあったが、空襲で焼け落ちた。

 

 焼夷弾の攻撃は夜中だから防空壕にいても窒息するし、外に逃げても直撃を受けるので大変だった。防空壕で窒息する人が多かったように思う。自分の家の床下に防空壕を掘っていても家が焼けてしまえば防空壕も意味がないので、一緒に焼け死ぬという状態だった。

 

 南部町の海の所には三井の倉庫があったが、そこも焼かれ、焼け跡に飴が溶け出して明くる日はものすごい数の人がとりに来ていた。焦げ臭くても、踏んでいる足下が溶けた飴なのだが、人が踏んだ飴でも汚いとか関係なしにいっぱいすくって持って帰る状態だった。食糧難でそんなことはいっておれなかったと思う。

 

 空襲でも戦争だから殺さないと殺されるという感じでやるのだろうが、やっぱり戦争はいけません。

 

金比羅町・消防署員 奥藤久馬

 

 私の勤務していた下関消防署が、下関警察署の指揮下に開設されたのが昭和18年1月15日。空襲が近づいてきたので防備をしないといけないということだった。当時、焼夷弾対策といって、竹の棒の先に縄をくくりつけた火消しの道具の作り方を、隣組に出向いて指導していたが、いまから考えるとなんの用もなさないものだった。

 

 下関は昭和20年の6月29日と7月2日の2回、空襲にあった。あの夜は、B29が超低空で飛んできて、焼夷弾をバラバラバラバラと落とし、上空で火がついて、それはまるで長い提灯行列のように見えた。見るとB29は、街中に焼夷弾を落とすばかりでなく、関門海峡の上空をグルグルと旋回して、関門海峡に機雷を落としていった。またB29は焼夷弾とともに50㌔爆弾も落とした(金比羅にあった自宅のそばの大きな農家の屋根を突き抜けて落ちたのでわかった)から、消火作業といっても命がけだった。当時下関消防署には消防車が3台と、うちトヨタのポンプ車と、あとはフォードとダッチの車で、消防士も20~30人しかいなかった。

 

 私は昭和19年から彦島出張所に勤務していた。軍需工場である三菱重工を重点的に守れということだった。7月2日の空襲のときも三菱を守るために待機していたが、そこには焼夷弾はまったく落ちてこなかった。数十分待機するうち、見ると対岸の豊前田の盛り場あたりから火の手が上がり大火事になっている。「豊前田の谷を消火してくれ」と連絡が入り、本村から旧橋を渡った。

 

 しかし焼夷弾がどんどん落ちてくるし炎がものすごい。そのままでは前へ進めないので、上条から長崎町を通って回り込み、貯水槽にポンプ車をつけて消火作業を始めた。遊郭のイロハ楼から上は絶対に燃やすなということで必死だった。細江から豊前田はみな焼けたが、茶山の方への類焼はわれわれの力で止めた。しかし逃げ遅れた女郎さんたちが焼夷弾の直撃を受けて、道路上に死骸がゴロゴロと転がり、それはひどいものだった。

 

 また、南部町の倉庫地帯の道路の下に防空壕が掘ってあり、そこに逃げようとして、南部の住民が列をなして何十人とおりていたところを焼夷弾が直撃し、バタバタと亡くなったが、それをまのあたりにしてもどうしようもなかった。当時救急車はなく、ひどい火傷の人は多かったが、それを消防車で運んでいた。

 

 一番ひどかったのは幸町の清和園で、70人以上の人が亡くなった。紅石山に避難していて、火が上がってきて焼け死んだ人もいた。私は空襲のあとも一週間ぐらいは不眠不休で働いた。なかなか火が消えなかったからだ。

 

 思うに米軍の目的は、兵站や食糧輸送の重要拠点である関門海峡に機雷を落として船舶運航を阻止することが第一で、それと同時に民間に焼夷弾を落として焼き払うということではなかったか。金比羅や火の山にあった高射砲台や、砲兵隊のいた六連島にはまったく焼夷弾は落ちていない。高射砲が発射する弾(実際にはあたらなかったが)の流れはキャッチできるはずなのに、それを狙えばいいのにそうしなかった。米軍は事前にそうとうな偵察をして、用意周到に攻撃したのだと思う。それにしても民間があれほど焼き払われるとは夢にも思わなかった。

 

 当時は情報が入り乱れ、警察は警察で、軍は軍でそれぞれの持ち場で必死で、一元的な統率はとれていなかった。死者数など正確な数字はわからないのではないか。

 

 私が消防に勤めはじめたのは、世のため人のためになにかすることはないかと考えたからだ。しかしあれから60年たった日本を見ると、まるで植民地のようになり、道義は地に落ち、教師が体罰をしたといって親が学校を訴えるような時代になった。日本の将来のためにも、歴史を語り継ぐために頑張ってほしい。

 

長崎新町 上原浩

 

 下関空襲のあったころは、昭和18年に工業学校を卒業して長府の神戸製鋼所で働いていた。毎日配属将校がうろうろするなかで、戦闘機の翼や各種部品になるジュラルミンの板、パイプ、骨組みとなる材料を生産していた。軍需工場だったが、二度の空襲で一発の爆弾も焼夷弾も落とされることなく、まったく無傷だった。敗戦の日まで、毎日「増産、増産」の連続だった。ただ毎日のように警戒警報が鳴るたびに、学徒動員で来ていた野田女学校や阿部女学校の生徒を連れて、豊浦中学校の裏山に避難させていた。

 

 直接の空襲の体験といえば、たしか7月2日の空襲だったと思うが、当時東大坪住宅密集地に自宅があり、火の手が入江、丸山から迫ってきたので、延焼を食い止めるために街の角にあった商店を近所の男衆と一緒に打ち壊した記憶がある。とにかくすごい火勢だったので、必死になってやった。空襲になって焼夷弾が天井に止まると火災になるからといわれて、おふくろが顔を真っ黒にして、泣きながら天井をはがしたけれども、なんの役にも立たなかった。

 

 この朝、丸山を下って出勤したが、関門海峡沿いは一面焼け野原でまだ火がくすぶっていた。電車も止まっていたから、歩いて長府まで行った。入江から唐戸、壇之浦の先まで、焼け落ちた電線や瓦、焼け焦げた家屋の柱などをよけながら歩いた。空襲があっても飛行機の材料生産は止めなかった。

 

 空襲のあと、高台から見たり歩いてみてわかったことだが、山の口から東駅一帯にあった軍事施設や兵舎などはみなやられていなかった。要塞司令部、重砲兵連隊、今の中央病院裏の練兵場でよく通信訓練をやっていた部隊の兵営など、みんな無傷でもとのままだった。かなり正確に住宅街や商店街などが狙い撃ちされたわけだ。

 

 8月15日の天皇の放送は意外な気がした。なにせ歴代天皇の名前や教育勅語などを暗記させられ、神国日本は負けることはないと、徹底的にたたきこまれていたから…。それに「聖戦だ」といわれ、なんの疑いも持っていなかった。

 

 とにかく戦争をやってはならない。死んだり傷ついたりするのは民間人であって、えらいさんではない。首相の靖国参拝にしても、自分の意地をとおさないでもっと他人のことを考えなければならない。世界各国が平和になるようにしなければならない。私たちは食べ物もない、家もない焼け跡からここまで復興させてきた。もっと年寄りを尊敬して、いうことに耳を貸すようにしてほしい。年金は下げる、医療負担は増える、何一ついいことはない。最近人殺しがあたりまえのようになっているが、それもなんの苦労も知らずにアメリカの個人主義の影響を受け、いいたい放題、勝手気ままになっているからだと思う。

 

彦島南風泊 柴﨑照夫

 

 昭和19(1944)年春、関中(現、山口県立下関西高校)を卒業し、江浦小学校の代用教員となった。昭和20年春先から下関は毎日のように空襲警報が鳴り、米軍が関門海峡に磁気機雷、音波機雷を投下した。

 

 南風泊の自宅から江浦小学校に通う途中、荒田の海岸で門司港を出港したばかりの病院船ばいかる丸が機雷に触れ、轟音とともに大きな水柱が上がり、水柱がおさまったときには、すでに船影はないというすさまじい戦場を目撃した。その後、荒田の砂浜に少年兵の多くの死体が流れ着いた。若い命が無残に奪われたことに近所の人々は悲しんでいたが、すぐに軍部が来て一般の者の目に触れないようにした。 

 

 今の荒田の岸壁は戦後埋め立てたもので、当時は砂浜で、私は江浦小学校の教え子たちと海水浴をした。この砂浜が少年たちの死体が浮く惨状となった。当時、小学校(国民学校といった)には軍隊が駐屯していた。江浦小学校には機雷処理班が駐屯していた。あれだけの機雷を投下されて、手も足も出なかった。敗戦はすでに決定的であった。

 

 その後、私は師範学校へ進んだ。私は、学徒動員で大竹海兵団に送られ、勤労奉仕で帝国海軍航空隊岩国基地(現、米海兵隊岩国基地)の整備をしていた。ここで、米軍艦載機グラマンの来襲を受けた。米軍は占領後、接収するつもりだったのだろう。爆弾は投下せず、グラマンの機銃掃射をやった。軍人は、機銃掃射の逃げ方を知っていたが、われわれ動員学徒は逃げまどうばかりで、多くの学友が犠牲となった。グラマンの攻撃はきわめて執拗だった。

 

 私は結核性の病気となり、広島に原爆を投下される前には下関に帰っていた。米軍が投下した機雷は陸上にも落ちた。海に落ちたら海軍、陸に落ちたら陸軍と、処理の担当が決まっていた。私が大竹海兵団に行っているあいだに南風泊と竹の子島を結ぶ昭和橋(昭和4年、架橋)の下に機雷が流れてきて橋桁にはさまった。海軍と陸軍で意見が異なったということだったが、爆破処理することとなり、私の家族を含め、近所のものはみな避難した。

 

 級友の話によると、この機雷爆破で、昭和橋はこっぱみじんとなり、近所の民家40~50軒は海水をかぶり、ガラス窓はこなごなに飛び散り、傾いた家も少なくなかった。一発の機雷であるが、その破壊力はすさまじいものだった。昭和橋は戦後復旧したが老朽化し、いまの鉄筋コンクリートの橋は近年につくりかえた三代目だ。

 

 機雷は、磁気機雷だけでなく、音波機雷も多数投下したので、木造の機帆船もやられた。戦争末期は大型鉄船はごく少なくなり、大陸や台湾から食糧の穀物を運ぶのに木造機帆船が動員された。昼間走ると米軍機にやられるので、夜、灯を消して島づたいに走った。これが関門海峡の機雷で沈没させられた。

 

 食糧は配給で、「ほしがりません勝つまでは」と、みんなひもじい思いをした。だから、アワやコーリャンを積んだ船が浅いところに沈むと、みんなそれをとりに行って、水で洗ってむしろに広げて乾かし、分けあい、助けあって食べた。コメやモチゴメは軍が先に押さえ、これが敗戦前から敗戦直後に配給となり、臭いモチを食べたことを覚えている。

 

 戦後も食糧難はたいへんなもので、サツマイモしか食べられないというのが庶民の生活だった。私の家が畑で少し野菜をつくっていたので、友人が「イモしか食えない」とうちに来て、その他の野菜を一緒に食べた。

 

 政府はまた戦争をやろうとしている。絶対に阻止しなければならない。定率減税を廃止し、公的年金控除をはじめとする各種控除を縮小・廃止し、在日米軍再編につぎ込む。冗談ではない。有権者の四分の一しか支持がない者が、国会で大勢を占める。戦中・戦後と苦労したわれわれの世代もそうだが、アメリカいいなりで国民を犠牲にする政治を変えなければ、戦争で犠牲になった者が浮かばれない。

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