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『ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ。』 著・具志堅隆松

 沖縄では戦後76年をへた今も、沖縄戦で犠牲になった多くの兵士・民間人の遺骨が採集されないままガマ(洞窟)や構築壕、崩れた土砂に埋もれている。本書は、米軍辺野古新基地建設の埋め立て用の土砂を、沖縄戦最後の激戦地である南部地域から採取することに抗議してハンガーストライキでたたかう具志堅隆松氏(沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表)が、10年ほど前に著したものである。戦没者の遺骨をめぐって一歩も退くことのできない人道上の問題を、その採集現場から長年の経験を通して具体的に骨太い骨格をもって伝えている。

 

 著者が初めて沖縄戦の遺骨を収集したのは1982年、本土の団体による遺骨収集活動に参加してのことであった。このとき、地上戦で死んだ人の骨がそのまま放置されている現実にふれて、日常生活との乖離を思い知ったという。そして、遺骨とともに出た遺品、遺物を手がかりに一日でも早く遺族のもとへ帰さねばという思いが、また都市の再開発で激戦地が遺骨を埋めたまま消されていくことへの痛恨の念が、一人で遺骨収集活動に踏み出すバネとなった。

 

 沖縄戦の遺骨は沖縄と本土の兵隊、鉄血勤皇隊の少年、「鉄の暴風」と形容される戦火にさらされた住民のもので、兵隊よりも民間の犠牲者の方が多い。また、そこにアメリカ兵のものはないという(遺体はすべて収容して帰還)。遺骨は、無残に殺されたそのままの位置、形で残っている。ある者は水筒や目がね、万年筆、ボタンなどの遺品とともに全形をとどめて。ある者は砲弾をまともに受け散乱した骨片となって。手榴弾を胸に抱いた自決で下半身だけを残したものや、ひっそりとミイラ化した遺体もある。

 

 遺骨を掘り起こす作業は遺骸を崩すことなく、竹串や刷毛で遺骨のまわりの土を少しずつとり除き慎重に浮かび上がらせる緊張した作業だ。そしてその形状や遺品の位置などを写真にとって記帳していく。長期にだれにも顧みられなかった遺骨は、沖縄戦の無言の証言者だといえる。沖縄戦の真実がだれも否定できない形で、貴重な情報を秘めて後世に語り伝えるように残されているからだ。

 

 遺骨の周りには砲弾、迫撃砲、機関銃、小銃の弾丸や手榴弾、薬莢とその破片、不発弾が大量に散らばっている。鉄帽と頭蓋骨に銃弾の穴が空いていたり、遺体が炭化するまで火炎放射器で焼かれた兵士。オイルをかけられたあと焼かれたような遺体とその周囲の焼かれた痕跡。狭い壕にかくれていた戦死者に対して、米軍が持てる爆弾、銃弾すべてを使って何百発となく注ぎ込んだこと。さらには、足の骨の並びから正座して集団自決した住民の最期の様子など……。

 

 遺骨収集は、こうしたことをどんな正確な戦史よりもなまなましく検証し、戦争を起こした者への怒りとともに、無理やり動員され引き込まれた人々への哀悼の念を肌身に積み重ねていく作業である。

 

 兵隊の遺品には母親から渡されたかんざしや、五銭硬貨を縫い付けた千人針の破片もある。家族や近隣の人々が心を込めて預けた武運長久のお守りを身につけて、生きて帰る決意を秘めたまま息絶えた無念さに思いをいたさざるをえない。

 

 著者は、こうした死者や家族の思いに応えて収集現場から得られた情報をもとに、DNA鑑定によって判明した遺族のもとに帰すことができるよう国や自治体に求めてきた。だが、為政者にはそのような思いが通じないことから、その後市民のボランティア活動を中心にした活動を続けることになった。

 

 戦争を国策として遂行し多くの国民を戦死させた国が最初にやらなければならなかったのは、戦死者の遺体や遺骨を家族のもとへ帰すことであったが、国はそれを放置したままできた。著者は国がそのような国民に対する責任を放棄したうえ、遺骨を収集するのに「地表の骨は対象にしない」とか、営利事業として業者にまかせ早く遺骨収集を終息させたいという姿勢を押し通してきたことを厳しく批判している。

 

 沖縄では、戦没者の遺骨が毎年80~100体も出てくるという(執筆当時)。著者は遺骨収集作業への子どもたちの参加を歓迎し、沖縄戦を肌身でつかむ平和教育の一助とすることに力を入れ、成果を上げていることも報告している。

 

 (合同出版発行、A5判・172ページ、1400円+税

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