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被爆地から戦争阻止の力発信 広島「原爆と戦争展」 世代や国籍を超えた交流に 平和主義覆す軍拡に怒り渦巻く

(2026年8月10日付掲載)

原爆と戦争展で全国から訪れた人々に向かって体験を語る被爆者(8日、広島市)

 米国による広島・長崎への原爆投下から81年目となる8月6日、9日を前後して広島市中区の広島県民文化センターで開かれた広島「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる広島の会)は、広島市内をはじめ全国各地から多くの来場者を集めて8日に閉幕した。ウクライナ、イラン、ガザなどで核保有国が絡んだ大規模な戦争や大量殺戮が続き、日本国内でも戦後初めて殺傷能力のある兵器の輸出が解禁され、平和主義の国是を覆す改憲論や核武装論までが「国防」の名の下に公言されるなかで開催された広島「原爆と戦争展」には、全国・世界から広島の体験や思いを直に吸収しようと強い意欲を持って人々が来場し、熱を込めて体験を語る被爆者の声に耳を傾けた。戦争と原爆の体験を次世代に受け継ぎ、ふたたび日本やアジアを戦場にしないための世代や国籍をこえた交流が5日間にわたりくり広げられた。

 

◇       ◇

 

 2001年に旧日本銀行広島支店で開催された「原爆と峠三吉の詩」広島原爆展を契機に結成され、下関原爆展事務局と協力しながら25年にわたって原爆展運動を継続してきた「原爆展を成功させる広島の会」(末政サダ子会長)は、原爆と戦争展の開催にあたり、「あの惨禍を二度とくり返させない、人類史上最も残虐な兵器である核兵器を廃絶するという被爆地や世界の願いに反し、核大国の利己的な論理で大規模な戦争が引き起こされ」、「唯一の被爆国であるわが国でも、憲法で定められた平和主義の国是を覆す動きが段階を画して進んでいる」と指摘。「たった80年前の誓いを忘れたかのように『新しい戦前』の空気が社会を覆っている」ことに警鐘を鳴らし、「あの戦争がどのようにして始まり、原子爆弾がなんのために投下されたのか。その下にいた市民がどんな目に遭ったのか。展示物や証言から真実を感じ取り、今を新しい戦前にさせないための糧にしていただきたい」と呼びかけている。

 

 展示は、昭和恐慌から日中戦争へ進んだ日本国内の状況や、多くの兵士が飢えや病気で斃れた中国大陸や南方での戦地体験、東京大空襲を皮切りにした全国空襲、20万人以上が犠牲になった沖縄戦、峠三吉や子どもたちの原爆詩で構成された「原爆と峠三吉の詩」など150枚のパネルとともに、戦時中の生活用品や千人針、軍服、被爆資料、被爆体験画など広島や長崎市民から提供された資料も並べられた。

 

 また会場では毎日、90歳をこえた被爆者たちが交代で被爆体験を語り、社会人、高校生、中学生などが被爆者から託された被爆体験記を代読する「伝承朗読」もおこなわれて注目を集めた。

 

「命ある限り伝える」 魂を込めて語る被爆者

 

パネルを見せながら被爆体験を語る被爆者(8日、広島市)

 10歳で被爆した研岡英夫氏(91歳)は、爆心地から約7㌔の場所にあった嚶鳴(おうめい)国民学校(現在の古市小学校)で被爆した体験を熱を込めて語った。

 

 研岡氏は「当時の学校生活は、軍馬にやる草を刈って干す毎日だった。昭和18年には戦時教育特例法が出て、5年だった中学校を4年制に短縮して子どもを早く戦場に送れるようにした。中学生高学年にも赤紙が来た。昭和20年の戦時教育令では、小学校でも授業をやめて子どもたちは軍需工場や勤労奉仕にいかされた。食料がなく、市内の人は着物などを田舎に持って行ってコメと交換していた。電話も水道もない。自家用車もなく、大八車が主な輸送手段だった時代だ」と前置きして語り出した。

 

 「8月6日は雲一つない晴天でとくに暑い日だった。校庭でおこなわれた朝礼で校長先生の話が終わる頃、南の空がピカッと光った。太陽の光よりも黄色く、何倍も熱い。校長先生が“すぐに校舎に入れ!”と大声で叫んだが、それも間に合わないうちに爆風が襲い、大きな噴煙が上がった。私たちは目と耳と鼻を押さえて身体を伏せたが、爆風が校舎にぶつかってガラスが割れ、子どもたちの悲鳴が聞こえてきた」と語った。

 

 「姉は広島駅から勤め先の宇品まで行く途中に電車の中で被爆した。つり革を持っていた腕が焼けて、肩から腕にかけて皮膚がぶらさがっていた。姉は午後3時頃、傷ついた他所の子どもを背負って横川に着き、トラックに乗せられて古市まで帰ってきた。病院に治療にいってもごま油を塗るだけ。郊外の農家の人たちは広島市内の建物疎開作業に動員されており、ほとんど全滅だった。ぞろぞろと歩いて帰ってきた人たちがわが家に立ち寄り“水をくれ”といわれるので、井戸水をあげたら喜んでいたが、後から両親に“やけどに水をやると死んでしまう”と怒られた」と話した。

 

 「兄や姉が帰ってこないので、母親と一緒に広島市内まで探しにいったが、横川まで行くと川に係留された材木の筏につかまったまま多くの人が死んでいた。現在の平和公園のあたりは広島一の繁華街だったが、そこから南にかけて全部焼けて何も残っていない。16歳で己斐に学徒動員に出ていた兄は親戚のところに身を寄せていて、家族が大八車に乗せて帰ったが、全身大やけどで傷口に蝿がとまってウジが湧き、私たちが箸でつまんでとり除いても間に合わないほどだった。この記憶は決して忘れてはならない」と訴えた。

 

 1歳の時に母親の背中に背負われて入市被爆した野曽美智子氏(82歳)は、北海道から訪れた中高校生のグループに、軍人だった父親の戦地体験や母親から聞いた被爆体験、自身が被爆者であるために戦後受けたいじめの経験を伝えた。

 

 「私の父は志願兵として中国大陸に出征したが、戦後も戦争の話はしなかった。それでもあるとき、中国で負傷して苦しんでいる敵兵を殺せと隊長から命令されたことを話してくれた。父は体が震えてどのような行動をとったかもわからず、敵兵の叫び声で我に返ったといっていた。終戦後もその光景が夢に出てきて、兵隊のぎゃーという叫び声で目を覚ますといっていた。その後、マレー半島に送られた父は右の胸と背中に大きな弾痕があり、負傷して帰国してからは日本軍の中国軍管区司令部(広島市)で赤紙を出す仕事をしていたので、夜になると見ず知らずの母親が包みを持ってきては、自分の子どもを戦場にやらないでほしいと懇願されることが続いたという。被爆当時は軍上層部は広島市郊外の可部に避難しており、部下の安否確認のために毎日入市した父は戦後、鼻血や歯茎からの出血、血便が始まり、長く体調不良が続いた。父は戦争や被爆のことを話したがらなかったが、人生を通じて戦争に翻弄された父の苦しさが今になってわかる」と話した。

 

 野曽氏自身に被爆の記憶はほとんどないが、母親が遺した手紙を読み上げた。「私の主人は広島の司令部に務めていた。原爆が落とされたときには、可部のお寺に疎開していた。たくさんの被爆者が屋根のないトラックに乗せられ、次から次へとお寺に運ばれてきた」「若いお母さんが2人の子どもを抱きかかえ、大きな声で泣いておられた。子どもは死んでいたが、母は大きな声で名前を呼び続けていた。可哀想で涙が止まらなかった。みんな丸裸で皮膚が剥がれて垂れ下がり、苦しんで次から次へと死んでいった」「やけどのひどい人には麦をストロー代わりにして重湯を飲ませ、顔や体の傷口にわいたウジ虫を割り箸でとり、亡くなった人たちは川の畔で山のように積んで石油をかけて焼いた。その臭いで食事も喉を通らなかった」――。

 

 野曽氏は、「母の手紙は“戦争は絶対にしてはいけない。もうこれ以上は書けない。合掌”で終わっている。母は86歳まで生きたが、気づいたときには癌が背中にまで回っていて手遅れだった。私自身も戦後、学校で“汚い”“うつる”といっていじめられた。母に聞いても“あんたはうつるような病気はもっとりゃせんよ”というだけで、被爆したことを聞いたのは結婚後のことだった。当時は差別があり、原爆や戦争について語ることができなかったからだ。今の平和は、戦争や原爆で犠牲になった命のうえにあることを決して忘れてはいけない。戦争をさせないために、対話を大切にして、人に思いやりをもって生きてほしい」と呼びかけた。

 

 体験を聞いた中高生たちは「私たちが思いを引き継いで伝えていきたい」「若い学生にこれだけは絶対に伝えたいという言葉はありますか」などの感想や質問を投げかけていた。釧路から来た女子高校生は「曾祖父が戦争を体験して銃弾を浴びたと聞いている。釧路空襲でも200人以上が亡くなっており、学校で戦争の記憶を伝えるための活動をしている。広島で学んだことを地元に帰ってからの活動に生かしたい」と話していた。

 

 大芝国民学校(現・大芝小学校)6年生のときに被爆した末政サダ子氏(94歳)は、自身の体験を描いた紙芝居を見せながら体験を語った。末政氏が学校近くの文房具店で店主のおじさんと話をしているとき、ピカッと青白い光が稲妻のような轟音とともに走り、爆風で体ごと吹き飛ばされた。学校の校庭で手旗信号の練習をしていた友だちは即死しており、返事がなかったと話した。

 

 家の台所で被爆した母親は、髪が逆立ち、やけどをしたうえに窓ガラスが全身に突き刺さり、血だらけの皮膚が垂れ下がっていた。太田川の河畔に避難すると、人々は水を求めて川に飛び込み、しばらくすると力尽きて死んでいったという。

 

 「母の傷口には大きな蝿が群れをなして飛んでくる。私はドクダミを取ってきて揉んで母の体に貼り付けてやった。蝿が産んだ卵からウジ虫がわき、箸で取ると母が痛がるので、私は口でウジ虫を吸い取って吐き出した」と語り、「母と祖母は10年後に肺がんで亡くなり、弟も後を追うようにがんで亡くなった。私も九四歳だが、今はきな臭い空気が漂っている。これからを生きる若い人たちは、決して戦争をさせないと皆で誓い合ってほしい。これからも命が続く限り私は叫び続けたい」と力強くのべた。

 

 被爆者たちが体験を語り始めると、来場した親子連れや若者たちが続々と集まり、一言も聞き漏らすまいとメモを取ったりしながら真剣に話に聞き入っていた。「生の話が聞ける貴重な機会だった」「広島でしか聞けない話が聞けて、原爆でどれだけの苦労をしたのかが伝わってきた」と口々に感想を語っていた。

 

伝承朗読や交流会も 次世代は何を受け継ぐか

 

若い世代との対話型交流会で語る被爆者(6日)

 会場では連日、社会人、中学生、高校生などが、高齢となったり、すでに故人となった被爆者から直接聞いた被爆体験を感情を込めて厳粛に朗読した。伝承朗読は被爆者の思いを世代から世代へ受け継ぐ新たな試みとして感動を呼んだ。

 

 8月6日には、被爆者や原爆展スタッフに参観者も交えた対話形式の多世代交流会もおこなわれ、「被爆してない世代に何を望むか」をテーマに意見が交わされた。

 

 被爆者からは「戦争とは命を差し出すこと。食べ物もなくなり、口を塞がれ、最後に命も奪われる。人殺しや盗みをすれば裁かれるが、戦争は国同士で泥棒も殺人もやり放題で、失われたものへの償いもない。80年たって日本がそこに参加しようとしていることが許せない。そんな国が平和を語る資格があるのか。若い人たちは戦争を絶対にくり返さないために頑張ってほしい」などの意見が出された。

 

 徳島県から来た男性は「この時期に毎年広島に来るが、この原爆展は最も広島市民の思いに触れることができる貴重な場だと思う。母親は徳島から原爆のきのこ雲を見たことを強烈に記憶しており、私に毎年のように語っていた。中学生のときには『はだしのゲン』が少年ジャンプに連載され、子ども心に衝撃を受けた。今はアメリカがどんな悪事を働いても我慢して耐えることが当然という風潮が強く、つい最近もわが国の首相は米軍艦船の上で跳びはねていた。でもこの展示を見ても沸き上がってくるように、ヒロシマの原点は怒りだ。その怒りを私は持ち続けたい」と話した。

 

 神奈川県から来た男性は「被爆者の方の話を聞けるのは今しかない。体験のない私たちが戦争や原爆について伝えるときに“本人から直接聞いた”と自信を持って伝えられるように広島に来た。今は『はだしのゲン』に盗みの場面があるという理由で学校図書館から撤去されたり、子どもに悲惨なものを見せないという教育になっている。だが戦争の現実を伝えなければ戦争を食い止めることはできない。被爆者の話を学んで、説得力をもって戦争の話ができるようになりたい」と話した。

 

 東京から訪れた自治体議員の男性は「広島のとりくみから学ぶために来た。東京にも被爆者の会があり、皆さん“戦争を知らない世代ばかりになったときが危ない”といわれる。すでに国の政治がそうなりつつある。記録を残すことが必要になっているが、伝承朗読が持つ意義について教えてほしい」と質問した。

 

 女性被爆者は「自分の体験を伝承朗読してもらうことで新たな思いが胸に迫ってくる。若い方が自分から名乗り出て体験を伝承して下さる意欲にとても感謝している。この会も以前は被爆者が30人以上いたが多くの人が亡くなり、残った私たちにも残された時間は少ない。一緒に活動してきた若い人たちが思いを受け継いでくれることを非常に心強く思っている」とのべた。

 

 広島の会で伝承活動をしている20代の女性医師は、「伝承朗読にあたっては、ご本人を直接知っているからこそ、書いてあること以外にも伝えられることがあるし、私から見た被爆者の方の人生や人柄に自分自身の思いも重ねて伝えさせてもらっている。だから二人分の思いを伝えていると思っている。被爆者の方の人生を背負う重みも伝承活動をするからこそ得られるものだと思っている。これからも続けていきたい」と話した。

 

 他の参加者からも、「身近に被爆者の方と話ができる機会を得られたことに感謝している。一言一言が心に刻まれた。また戦前のような空気が漂っているが、地元で広げていきたい」(神奈川・女性)、「広島については教科書に書いてある程度しか知らなかったが、8月6日の広島の雰囲気とともに被爆者の方の話を聞くことができ、私も真実を知り、これからの政治について自分の考えをもって行きたい」(埼玉、20代女性)などの意見が語り合われた。

 

若者から高齢者まで 軍事回帰に怒り渦巻く

 

市内外から多くの人々が参観した原爆と戦争展(6日)

 平和式典に参加した足で原爆と戦争展会場を訪れる人も多く、「一般参加者には手荷物検査もあり、持っているペットボトルの水を飲まされたり、過剰な警備で一体誰のための式典なのかと感じた」「高市首相は核兵器廃絶を目指すと口ではいうが、小泉防衛大臣が核武装に前向きな発言をしたばかりではないか」「高市首相は非核三原則を堅持するといわなかった。広島に寄り添うという言葉もその場しのぎのパフォーマンスにしか感じなかった」など口々に違和感が語られていた。

 

 広島市内の20代の女性は、「今日は平和式典にも参加し、憲法改正や武器輸出などを進める高市首相が広島でどんな話をするのかと思って聞いていたが、きれいな言葉を並べただけの挨拶や、平和宣言も上の空の表情で聞いている首相の顔つきを見ると悔しくて涙が出そうだった。憲法を変えなくても日本を守れる方法を一緒に考えるので、どうか平和憲法を変えないでくれと叫びたい思いだ」と話した。

 

 「この展示には、原爆だけでなく、戦地や空襲、沖縄戦などの体験もつなげて記されていて、広島市民として知るべきことが詰まっている。現政府の動きを見ていると、広島、長崎への原爆投下の犠牲、日本がアジアにも侵略してたくさんの犠牲者を出した戦争から何も学んでいないと思う。憲法改正も国民的な議論もなく、議員の数で押し切られてしまうのではないかという不安がある。自分は演劇をしているので、演劇を通じて平和のための発信をしていきたい」と語った。

 

 広島市内から訪れた男性は「父が被爆でやけどを負っていたが、亡くなるまで原爆のことは一切話さなかった。この展示には父から感じた厳しい雰囲気がある。だから毎年見に来ている」と言葉少なに思いをのべた。

 

 広島市内の90歳の男性は、職業慰霊碑前での慰霊祭後に会場を訪れた。「私は当時小学生で、原爆投下の1カ月前に田舎に疎開したから生き延びた。15人の親族が原爆で死んでいる。私も黒い雨を浴びた。その影響で病気になり、亡くなった友人もいる。戦後は損害保険会社に長年勤務し、平和大通りに原爆の犠牲となった損害保険会社職員89名をまつった慰霊碑を建立して毎年欠かさず慰霊祭をおこなってきた」という。

 

 「今は政治家が偉くなったと勘違いして暴走している。日本には原発がたくさんあるのにどうやって軍事力で国を守るのか。私は中国電力の重役の人間に“上関原発計画をやめてくれ”と話したことがある。何十万人もの生活、瀬戸内海の漁業を壊滅させる可能性のある計画を3000人程度の多数決で決めていいはずがない! と。それには相手も納得していたが、金もうけの行き着く先は戦争だ。今は戦争が日常化しているが、平和運動をもっと盛んにやらなければいけない」と期待を込めて話した。

 

 平和式典参加後に会場に足を運んだ京都の男性は、「妻が広島出身なので、毎年この時期は広島に思いを寄せている。日本もアジアに対してひどいことをしたが、アメリカがやったことはそれに輪をかけてひどい。この現実を見れば、第二次世界大戦でアメリカが軍国主義やファシズムと戦って民主主義を守ったという論議は通用しないと思う。来年は孫も連れてきたい」と話した。

 

外国人も深く共感 「広島の心」を伝えたい

 

被爆者の体験を学ぶ中高校生たち(6日、広島市)

 広島市内在住の30代の女性は、「知っているつもりだったが、戦地や空襲、また戦後、戦争を忘れさせるために東京では慰霊碑が建てられなかったことも初めて知った。やっぱり峠三吉や子どもの詩が胸に迫る。原爆資料館もこのような伝え方をすれば、子どもから“怖い”“気持ち悪い”という感想は出てこないのではないか。夫が仕事でカナダに赴任しているが、カナダはロシアと米国に挟まれているため、冷戦期には核戦争の舞台になる不安があったため原爆についての関心が高い。だからカナダでも原爆を伝えるイベントをしている。被爆者の方が減り、次世代に受け継ぐ過渡期にある。私もこれから伝える側になれるように頑張りたい」と話した。

 

 呉市から来た年配男性は、「子どものころ神社の夏祭りにいくと、参道にずらっと並んだ出店の横で、手足がなく包帯を体に巻いた人が四つん這いになり、空き缶を置いて浄財を募っていた。戦地から帰ってきた傷痍軍人だった。お国のためといって戦場に送られ、戦後は不自由な体を見世物にして物乞いをしなければ生きていけなかった人たちがいた。忘れることができない。呉は海軍を誘致して一時的には栄えたが、そのために大空襲で焼け野原にされた。それがついこの前のことなのに、また軍事に活路を求めて同じ道を進んでいる。自分は書家として、峠三吉の詩を書いて展示会に出品しているが、この展示を全国各地でやってほしい」と涙をこらえながら話した。

 

 広島市内の84歳の女性は、父親が硫黄島で玉砕し、遺骨収集活動に15回出向いたことを明かし、「これまでは黙っていたが、今年はとくに戦争について伝えなければいけない! という気持ちが強くなってこの会場を訪れた。父の記憶はなく、出征前に生まれた私を抱いて離さなかったというエピソードを母から聞いてきた。硫黄島の遺骨収集では、歯が一かけら出てきただけで“お父さん!”と叫んでしまうほど跡形もない惨状で、壕の中からは陶器製の手榴弾まで出てきた。今の政治はあの戦争の苦しみを忘れている。若い人たちが安易な方向に流されているように思え、戦争の苦しみを伝えていくために私も何かしたい」と語り、協力を申し出た。

 

 メキシコから訪れた女子学生は、「交換留学で日本に来て、広島をテーマに研究論文を書いている。メキシコは米国から歴史的に脅威を受け続けてきたので、広島や長崎についての関心が強く、私は“広島の心”を学びに来た。この展示には、政府レベルでは決して語られることのない真実が溢れており、アメリカが戦後プレスコードまで発して、市民に原爆について語らせなくしていたことも初めて知った。被爆者の話にも胸が苦しくなり、深く感動した。メキシコでは今、トランプが何をするのかわからないので緊張状態にあるが、こういうときこそ広島の経験に学ぶことに意味がある。ここに来て学んだことをメキシコに帰って伝えたい」と感動の面持ちで語った。

 

 会場には市内外の教員らも訪れ、修学旅行や平和学習で体験を語ってほしいという要望もあいついで寄せられた。

 

・アンケートより

 

 ▼戦争全体の悲惨さをここまでダイレクトに感じ取ったのは、これが初めてかもしれません。それと同時に「日本を守るため」に軍拡を容認していく空気感や、犠牲という想像力も働かせずに「強い日本を」と大日本帝国時代の日本を神格化する言説の広まりに強い怒りを覚えます。私の行動一つで日本を、世界を平和にすることはできません。しかし、この小さな力の集まりが、抵抗できないとされている世界の大きな流れ、構造に歯止めをかけられると信じ、平和を希求する姿勢をとり続けていきたいです。(22歳、男子学生、広島)

 

 ▼核武装をタブー視しないで議論を始めようなどと、政治家が平気で言い放つような時代になり、そんな状況に危惧を抱き、改めて核・原爆について考えてみようと8月6日の広島にやってきました。少しずつ、少しずつ、そして気がつけば後戻りができない…そんなことがないように何ができるか考えようと思います。(男性、京都)

 

 ▼今は広島市民ではありませんが、出身は広島です。祖父母、両親とも被爆者手帳を持っており、すでに死亡しています。原爆の辛い体験やむごい状況など、祖母からよく聞かされてました。戦争は決してやってはいけないこと。展示を見せていただき、こんなに詳しい資料があることに驚きです。自分も後世に伝えていかなくてはならないと改めて思う。(68歳、女性、パート、岡山)

 

 ▼日本の侵略戦争や沖縄戦、東京大空襲など、加害と被害の歴史を詳細に展示されていた。戦争の実相や被爆者の苦悩を、峠さんの詩と一体で見ることでリアルに感じとれた気がする。被爆された人、それぞれの悲痛や叫びが伝わってきたと同時に、その声すら上げることができなかった人たちの無念な思いを考えると、今を生きる私たちがもっと声を上げ、行動し、被爆者の声を代弁する責務があると感じた。(32歳、男性、山梨)

 

 ▼戦争は始めてしまったら終わりが見えない。権力者を止めるのは、民衆の一人一人の強い心、人間の善の心が勝てないと人の心はなくなってしまう。権力者という人間の皮をかぶった悪魔に心を売ってはならない。(67歳、女性)

 

 ▼原爆の製造、貯蔵…今世界中がこの事実に目を向けなければ、取り返しのつかないことになってしまう。このような形で活動をどうか続けていただきたい。私自身、被爆2世としてできることを周りの人に伝えていきたい。毎年繰り返し開催してほしい。(58歳、女性、広島)

 

 ▼戦争に人権はない。その人が感じるはずだった幸せや喜び、愛しいと思える人に出会い、その人との子どもを育てる幸せも奪った。戦争は何も生まない。恨み、悲しみ…ずっと消えることのない怒りしか生まない。もっと若い人たちに戦争のことを伝えるために、修学旅行などで必ず長崎か広島には訪れてほしい。「世界で唯一の原爆を落とされた国」である日本人として、とても大切なことだと思う。(18歳、女性)

 

 ▼沖縄に住んでいて、今まで平和学習等でも沖縄戦についてしか知らず、本土の方や広島の原爆についてあまり知らなかったが、今回の展示にある実際の証言や写真、遺品を見ることで、どんなことがあったのか、米軍は日本に対してどんなことをしたのか、当時は死ぬことが名誉であったことや沖縄戦の真実など、知らなかったことを知ることができた。このような展示会や被爆体験の証言会を今後も続けてほしい。SNSなどで発信したり、日本各地、沖縄でもやってほしい。(16歳、女子高校生)

 

 ▼広島だけでなく、長崎、沖縄戦などの当時の状況まで細かく住民の声やメモが中心に扱われ、戦争を絶対に起こしてはならないという強いメッセージを感じ取った。私は沖縄出身で、平和学習も沖縄戦を中心に学び、原爆について正直あまり知らなかった。これを知らなければ、高市政権が軍事化が進める日本の先行きを考えられなくなるのではないか、今一度改めて平和が難しいものだとしても追い求め続けなければならないと思った。このような展示を、広島に来られない人々のためにもいろいろな場所でやっていただきたい。(21歳、女子大学生)

 

 ▼戦争をなくすことは困難を極めると思いますが、戦争を語り継ぎ、残酷な被害を語り継ぐことが、私たちの肉体的感覚を保ち、時代により他者への共感を喪失せず、平和を望む強固な意志をつくると思う。このような被害を知れる貴重な場を提供してくださったことに感謝したい。(17歳、男子高校生、広島)

 

 ▼ドイツの学校教育を受けてきた身として、日本の視点から戦争の展示を見るのは興味深い体験だった。ドイツでは第二次世界大戦について学ぶさい、ナチスドイツの罪責が非常に強く強調される一方、広島を除けば、米国による戦争犯罪はほとんど取り上げられない。人類史上初めておこなわれた二度の原子爆弾投下が最大級(あるいは最大の)戦争犯罪の一つであることは疑いようのない事実だ。広島の惨状についてはある程度は知っていたが、この展示は非常に印象深く、心を揺さぶるものだった。人類が非常に悪い方向に向かっていることがとても悲しい。プーチン、ネタニヤフ、トランプといった指導者の傲慢さや人命を軽視する姿勢には怒りを覚える。些細な理由で争うのでなく、互いに協力し、ともに成長していける時代が再び訪れることを願っている。(ドイツ、45歳、女性)

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