(2026年7月17日付掲載)

参院内閣委員会に参考人招致された(左から)橋本教授、木下教授、伊藤教授(14日)
「国旗損壊罪」法案をめぐり参議院内閣委員会が14日におこなった参考人質疑での木下昌彦・神戸大学大学院法学研究科教授(憲法学)の意見陳述要旨を紹介する。(文責およびかっこ内の注釈は編集部)
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木下昌彦教授
わが国の最高裁判例に即し、自己所有の国旗に適用される場面を想定して、本法案の憲法適合性について見解をのべる。
最高裁は憲法判断の方法として、利益衡量(こうりょう)論という手法を採用している。具体的には、「制限される自由の内容および性質」、これに加えられる「具体的制限の態様および程度」、「自由を制限する必要性の程度」の三つの要素を衡量(秤にかけること)し、制限の合憲性を基礎付ける必要性・合理性があるか否かを判断するものだ。
ここでは、この三つの要素に即して本法案の検討を進める。
「表現の自由」の核心規制
まず、「制限される自由の内容および性質」について。
本法案の第3条が示唆しているように、本法案は憲法21条1項が保障する「表現の自由」と深く関係する。
本法案は、政治演説や書籍出版のような「言語を介した活動」を直接処罰対象とはしていない。しかし、非言語的活動であっても、特定の思想や主張がある者からある者へと伝達される場合には、「象徴的言論」として表現の自由に含まれる。
国旗を燃やすなどの行為は、そのような象徴的言論の典型的行為と位置づけられてきた。象徴的言論は「心から心へのショートカット」ともいわれる。それは時に、言語よりもより直接的に人の感覚に訴えかけ、魂を揺さぶり、想像を喚起し、記憶に鮮明に残させる作用を有するものだ。
本法案も、国旗の損壊行為が「国旗を大切に思う国民感情に働きかけ、人に著しく不快または嫌悪の情を催させるものであること」を前提としている。人の意識や感情に働きかける行為は、まさに表現活動の核心的要素であるといえる。
最高裁は、表現の自由を「民主制国家の存立の基盤」として位置づけ、経済的自由などとは異なり、厳格な基準によって合憲性が審査される旨くり返しのべてきた。また、近年の最高裁判例の中に、「表現の自由」事案において立法裁量(立法府による判断の余地)に言及したものはない。
さらに最高裁は、「公共的事項に関する表現の自由は、特に重要な憲法上の権利」として尊重しなければならないとのべている。
国旗はそれ自体が公共的なもので、負の歴史も含め、その国の歴史とともにある。そして国家のみでなく、時の政権、公権力、さらには国家主義や民族主義とも結びついたものとしても認識されている。それゆえに国旗損壊は、国家・政権・国家主義への批判、さらには特定のシンボルを国旗とすること自体への反発といったメッセージの伝達を担うことがある。本法案が成立した場合には、本法案それ自体を批判するという意義が新たに加わるだろう。
これら国旗を介した表現活動は、公共的事項に関する表現の自由の核心ともいえる「政治的言論」に該当する。本法案は構成要件上、政治的活動としてなされる国旗損壊行為も含むものとなっており、政治的言論に対する規制法規としての性質を有することは否定できない。
刑事罰で自由を制限
次に「自由に対して加えられる具体的制限の態様と程度」について。
まず重要なのが、本法案は刑事罰による自由の制限であるということだ。刑事罰は人権制限の中でも最も厳粛な手段と位置づけられてきた。また、表現の自由に対する規制の強さを測る指標としては、「内容規制」と「内容中立規制」(内容とは無関係に、表現がなされる時・場所・方法のみを対象にした規制)の区別が重視されてきた。
内容規制は、何が有害な表現かを国家が国民のかわりに決めることになること、また、特定の意見や主張のみを排除することで、本来平等な競争であるべき「思想の自由市場」を歪め得ることなどから、特に危険性のある規制形態と考えられてきた。
ここで注意を要するのが、内容規制であるかどうかと、時・場所・方法の規制とは分析の軸が異なるということだ。時・場所・方法の規制であっても、内容規制となる場合がある。たとえば、選挙期間中のSNS上での虚偽情報の投稿禁止は、時や場所の規制であると同時に内容規制でもある。
国会審議では「本法案は内容規制ではなく、方法の規制である」との説明もあったが、その説明は法的分類としての疑義を含むといわざるを得ない。本法案が方法の規制だというのは「不快または嫌悪の情を催させるような方法」という規定の文言を根拠にしたものと考える。しかし、そこでいう方法は実質的に「表現の内容」に等しい。なぜなら、不快または嫌悪の情を催させることそれ自体が、表現の内容やメッセージの伝達そのものを構成するからだ。
また、これまでの審議の説明では、方法に該当するかどうかの判断を「客観的におこなう」ことも強調されている。だが、わいせつ規制などの典型的な内容規制でも、客観的に構成要件該当性が判断されている。判断の客観性が、内容規制としての側面をどう解消するのか、正直よくわからない。実質的に見ても、本法案は表現行為について「何が不快か否か」を国家が一義的に決めるものとなっている。まさに内容規制が持つ危険性をそのまま内包している。
さらに、そもそも国旗それ自体が憲法において確定したものでもない(憲法上の規定がない)。何を国旗として扱うべきか、扱うべきでないかも公の議論の対象となり得るものだ。日章旗を国旗と考えないこと、また国旗とすべきでないと批判することは自由だ。その中で本法案は、国家が日章旗に「敬意を示す」とみなすものは許容し、「不快を催す」とみなすものは抑圧の対象とする。
国旗国歌法の規定に批判的な立場からすれば「不快」でも何でもない表現活動を、国旗国歌法を是とする立場から処罰するわけだから、それは単なる内容規制ではなく、内容規制の中でも特に制限の程度の強い「見解規制(特定の見解を狙い撃ちにする規制)」に属するものと考える。
本法案は「内心の思想には踏み込まない」と説明されているが、人々が思想を形成する過程である「思想の自由市場」に介入するものであることは明らかである。
萎縮効果大の危険性
三番目の要素である「自由を制限する必要性の程度」について。この必要性の程度は、保護法益の重要性と、制限の必要性を基礎付ける立法事実の内容に大きく依存している。
まず保護法益である「国旗を大切に思う国民感情」は、生命・身体・財産のような具体的・実体的法益ではなく、抽象的な法益にとどまる。近年、「国民の理解」のような抽象的な法益は重要なものではないとした判例がある 。「国民感情」は抽象的な法益という点で「国民の理解」とほぼ同様の性質を有するものであり、同じく重要なものとはいえないだろう。
仮に、特定のものを大切に思うという「国民感情」なるものを、表現の自由を規制しうる重要な法益であるとした場合には、表現の自由に対する規制が際限なく広がり、社会的に反感を買うような表現はおよそ認められなくなる危険性がある。
そもそも「国旗を大切に思う国民感情」というようなものが、憲法上保護に値する感情として規範的に正当化できるかも疑問がある。わが国は「表現の自由」を保障する憲法を採用している。その憲法のもとで生きる国民としては、仮に国旗が燃やされる状況に接したとしても、その状況を「表現の自由が保障されている以上、必然的に想定される事態」として受忍するというのが、本来求められるべき姿であるように思う。
最高裁は、自衛官合祀事件判決(昭和63年6月1日)において、「他人の宗教的行為が不快であっても、信教の自由が保障されている以上、そのような不快な気持ちは法的保護に値しない」としている。同じ論理は「国旗を大切に思う国民感情」についても妥当するだろう。
加えて、国民感情を保護するために本法案が必要であることを示す立法事実にも乏しいことも指摘せざるを得ない。「予防的立法事実」なる新たな概念が登場しているが、そのような概念は、必要性がないとはいえないことをいわば作文するだけのもので、高度な必要性まで論証するものではない。
確かに生命や身体のように、とり返しのつかない法益であれば予防的措置も必要だろう。しかし、抽象的概念である「国民感情」がとり返しのつかない法益であるとはいえない。むしろとり返しがつかないのは、本法案ができることによって発生する萎縮効果である。政治的表現は、まさに必要な時におこなえないと意味がない。
明白な憲法違反の法令
以上の利益衡量をまとめる。
第一に、本法案は政治的言論を規制対象とするもので、制限される「自由」は憲法上極めて重要な権利となる。
第二に、その内容や見解に着目して刑事罰を加えるもので、具体的制限の程度も極めて大きいもの(見解規制)といえる。
第三に、立法目的は「国民感情」という抽象的なものにとどまり、制限の必要性を基礎付ける具体的立法事実もないことから、必要性が高いとはいえない。
結局、利益衡量の三つの要素すべてが違憲の方向に評価できるものであり、本法案の合憲性を論証することは困難、すなわち本法案は憲法21条1項に違反する「違憲」なものだと考える。
なお最高裁は、制限される自由の内容や具体的制限の態様などに基づき、必要性の程度の閾(いき)値を変化させてきた。特に厳格な基準が適用された事例として、公民館の利用拒否や未決勾留者の新聞閲読禁止の事案がある。本法案はそれらの事案と比較しても、具体的制限の態様および程度が大きく、高度の必要性が要求される「厳格な基準が適用される事案」であると考える。
もっとも、これまで検討したように、単純な利益衡量でも違憲性は明らかであり、立法事実に乏しいことにも鑑みると、経済的自由に適用される立法裁量を前提とした基準を用いたとしても、本法案を合憲とすることは困難である。
また、本法案は「明確性」の観点からも深刻な問題を抱えている。表現の自由は、刑罰法規の明確性が特に要求される分野だ。私が国会審議を拝聴して想起したのは、アメリカの有名な教科書に登場する「公共の場での発言は処罰する。ただし、それを処罰することが違憲となるような場合は除く」という仮想的条文だ。論理的にこの条文の適用が違憲になることはない。しかし、このような条文は「不明確なもの」として、文面上違憲になると考えられている。なぜなら、何が但し書きにより免責されるか・されないかを、一般人が事前に判断することが不可能だからだ。このような条文があれば、免責の但し書きが仮に存在したとしても、公共の場で誰も発言しなくなるだろう。本法案は、まさにこの仮想条文と同じ構造を持っている。
これまでの質疑では「政治的意見表明を目的としている場合には、違法性阻却事由の対象となり得る」とされ、憲法上保護されるべき表現には処罰が及ばないかのような説明がなされている。しかし違法性阻却の判断それ自体が不明確で、結局、違法性阻却の適用可能性があったとしても、刑罰を避けたいと思う者は国旗を用いた政治的表現をおこなうことはしないだろう。まさに憲法上保護された行為に萎縮効果が及ぶことになる。
諸外国にも国旗を保護する法律はある。しかし、先進民主主義国で、単純に「国民感情」を保護法益とし、「不快」や「嫌悪」を構成要件として国旗損壊を処罰する国を私は見つけることができなかった。
「自由な言論」喪失の端緒
最大の懸念点である本法案の憲法法理全体への影響について。
本法案は、わが国の憲法法理によって合憲性を肯定することは困難である。逆にいえば、本法案を合憲にしようとすれば、従来の表現の自由に関する憲法法理をほぼ解体する必要がある。本法案が成立すれば、これまでできないと考えられてきた法律が、実はできるものであったことが確証されることになる。
内閣法制局の実務も変わるだろう。たとえば、わが国は、人種差別撤廃条約のヘイトスピーチ処罰の義務付けも、憲法上の疑義を理由に留保をつけてきた。本法案が仮に合憲であるとすれば、そのような外交上の立場さえ引き続き維持できるのか疑問がある。
本法案は、単なる新法制定にとどまるものではなく、憲法的現象としては「憲法改正と同じ効果を持つ」といっても過言ではない。この意味での危険性は、仮に本法案による検挙者がまったくいなかったとしても消えることはない。本法案が成立した時点で、表現の自由の憲法法理は大きく動揺することになるからだ。
実際、ほとんど検挙者がいなかった外国国章損壊罪が、本法案を呼び寄せ正当化したように、本法案は新たな規制を呼び寄せ、正当化するだろう。
私は本法案には二つの運命しかないと考える。最高裁において違憲無効とされる運命か、さもなければ、わが国の自由な言論の喪失の端緒になったと、後世の歴史家によって記述される運命である。
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