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日本とイランの友好関係壊すな 先人たちが築いてきた交流の歴史 支持された平和外交

(2026年3月20日付掲載)

テヘランの平和博物館で開かれたイラン学生たちの広島被爆体験プレゼンテーション(2019年8月)

 アメリカとイスラエルが国連憲章や国際法を乱暴に踏みにじってイランへの侵略戦争を始め、イランが対抗してホルムズ海峡を封鎖すると、今度は米大統領トランプが日本やヨーロッパ諸国などに対してホルムズ海峡に軍艦を派遣せよといい出した。これにはほとんどのNATO諸国が「われわれの戦争ではない」と拒否しているが、そのやりとりの真っ只中に高市首相が訪米し、トランプがどういう要求を出してくるのか、それに対して日本はどういう態度をとるのかが焦点になっている。一方、イランは中東のなかでも親日国として知られる国だ。そんな今だからこそ、日本の先人たちが長年月の間にどのようにしてイランとの友好関係を築き、国益を守ってきたのかを、改めて思い起こしてみたい。

 

◇◇    ◇◇

 

 下関市在住の外航船乗組員のA氏は、1970年代(オイルショックからイラン革命の前後)、大型貨物船でホルムズ海峡を何度も行き来した。オーストラリアやニュージーランドで羊の冷凍肉を積み込んでイラクに運んだこともあるし、シリアには20年余り前、ラタキアの南のタルタス港にフィリピンのバナナを積んでいったこともあるという。当時も危険性が高く、欧米諸国は近づかなかったが、日本の船はその中を航行していた。A氏の船はパナマ船籍だったが、日本人の乗った船だと遠くから見てもわかるようにしていた船もあった。

 

 A氏は「中東の人たちは、“アメリカやフランスは穏やかな話は通じない。力でやってくる”と見ている。しかし日本には一目置いていた。“日本は平和国家で、悪いことはしない。穏やかに話せば通じる”と見ていた」と語っている。

 

 ホルムズ海峡は、イラン、サウジアラビア、UAEなどの産油国から世界各国へ石油を運ぶ海上交通の要衝で、世界の原油輸送の約20%がここを通過する。日本は原油輸入の約9割を中東地域に依存しており、タンカーの多くがホルムズ海峡を通る。現在、ホルムズ海峡奥のペルシャ湾内に日本船主協会に所属する船舶が45隻停泊しており、乗組員は合計1000人、うち日本人の船員が24人いるという。

 

 アメリカとイスラエルがイランに対して国際法無視の戦争を開始し、イランがホルムズ海峡を封鎖するなか、インドは独自にイランと交渉して船舶を通過させており、フランスとイタリアもイランとの協議開始に動いている。そんななか、もし高市政府がトランプにいわれるままに自衛隊を派遣するなら、それはイランと敵対関係になり、民間船舶を含めて日本が攻撃対象になることを意味する。

 

 A氏は、「かつては日本とイランは友好関係にあった。しかし、アメリカのイランに対する経済制裁に追随し、今は石油を一滴も輸入していない。いまや日本はアメリカの一の子分とみなされている」と警鐘を鳴らしている。

 

包囲網突破した日章丸 イランの石油買い付け

 

 歴史を振り返れば、日本とイランの両国民は長い歴史のなかで友好的な関係を培ってきた。

 

白瑠璃碗〔正倉院所蔵〕

 両国の交流の歴史は古い。今から約1500年前の飛鳥時代、東西を結ぶシルクロードの大半を支配していたペルシャ帝国(224~651年)から、ガラス碗などが日本にもたらされている。奈良県の東大寺・正倉院にある白瑠璃碗(はくるりのわん)がそれだ。奈良時代には唐(中国)の高官と一緒にペルシャ人が来日した記録が残っている。

 

 また、中東研究者のなかでは、ロシア帝国に苦しめられてきたイラン人が日露戦争でアジアの小国日本がロシアに勝利したことを見て、親日感情を抱くようになったと指摘する人は多い。

 

 戦後の出来事のなかで特筆すべきは、イランが1951年に石油産業を国有化したさい、イギリスがイランを経済封鎖するなかで、日本の出光興産がペルシャ湾までタンカーを送り、原油を買い付けに行った「日章丸事件」だ。

 

 第二次大戦が終わって、イランは連合国の占領からは脱していたものの、当時世界最大とみなされていたイランの石油資源は、イギリスの石油メジャー「アングロ・イラニアン・オイル・カンパニー(AIOC)」(後のBP)が独占していた。これに反発したイランのモサデク政権は、1951年に石油の国有化を宣言し、AIOCの資産を接収した。激怒したイギリスは中東に軍艦を派遣し、イランから石油を購入しようとするタンカーは撃沈すると世界に宣言した。

 

 一方、日本はアメリカの単独占領の下に置かれ、独自のルートで石油を輸入することが困難だった。そのなかで出光興産は、イギリスの行動に国際法上の正当性はないと判断し、独自にタンカー・日章丸をイランに派遣すると決めた。交渉役を第三国経由でイランに派遣し、モサデク首相らと交渉をおこない、イラン側も出光興産との石油取引を受け入れた。

 

英海軍の包囲網を突破してイランで原油を積み、川崎港に帰還した日章丸(1953年)

 日章丸は1953年3月23日に神戸港を極秘裏に出発し、約3週間かけてイランのアーバーダーン港に到着した。すると、日本の一民間企業がイギリス海軍にケンカを売った事件として、国内外のメディアが大きく報道した。

 

 ガソリンと軽油を積んだ日章丸は、4月15日、アーバーダーン港を出港。闇夜に紛れてホルムズ海峡を通過し、イギリス海軍の裏をかくように大きく迂回してインドネシアのスンダ海峡を通過。さらにジャワ海の危険な暗礁海域を通過し、イギリス海軍の包囲網を突破して日本に帰還した。この日章丸の行動には、日本人もイラン人も拍手喝采した。

 

 直後にAIOC社は、積み荷の所有権を主張して、出光興産を東京地裁に提訴した。また、英国政府は日本政府に対して出光への処分を要求した。しかし、世論の後押しと、イギリスと矛盾のあるアメリカの黙認のなか、行政処分はされず、裁判も出光側の勝訴となった。6月7日、日章丸がアーバーダーン港に再び到着すると、数千人のイラン人による熱烈な歓迎を受けたという。

 

 この事件は今も年配の日本人のなかに印象深く残っているし、イランでも多くの人が鮮明に記憶に留め、若い人たちにも伝えている。

 

独自外交で信頼深める 米国の圧力下でも

 

 かつて日本政府は、アメリカがイランと敵対的な関係にあるなかでも、歴史的に築いてきたイランとの信頼関係を背景に、アメリカとは異なる独自の対中東外交を展開していた時期があった。第四次中東戦争と第一次オイルショックの時期がそうだったと、現代イスラム研究センター理事長の宮田律氏は指摘する。

 

 第4次中東戦争は、1973年10月6日、イスラエルと、エジプト、シリアをはじめとするアラブ諸国との間で始まった。これを受けて10月16日、石油輸出国機構(OPEC)に加盟するサウジアラビアやイランなどのペルシャ湾岸6カ国が原油の公示価格を70%引き上げることを発表。翌17日には、OPECが原油生産の段階的削減を決定した。

 

 さらにOPEC諸国は10月20日以降、イスラエルが占領地から撤退するまでイスラエル支援国への経済制裁を決定した。親アラブの友好国にはこれまで通り石油を供給するが、イスラエルを支援する反アラブの国には石油を売らないというのだ。この頃日本では、スーパーからトイレットペーパーや洗剤が消え、それを求めてパニックが起こっていた。

 

 その最中の同年11月15日、キッシンジャー米国務長官が来日し、田中角栄首相に「親イスラエル外交を」と詰め寄った。そのとき、田中首相は「日本は石油の99%を輸入に頼っており、その80%を中東から輸入している。石油が来なくなったとき、アメリカが供給してくれるのか」と応酬した。キッシンジャーは答えられなかったという。

 

 田中内閣は同11月22日、閣議で石油危機を打開するため中東政策をアラブ寄りに転換することを了承。二階堂進官房長官は中東和平について、パレスチナ人の民族自決権を認め、すべての占領地からイスラエル軍の撤退を求める内容の談話を発表した。また、田中内閣は三木武夫副首相を政府特使として産油国に派遣。イスラエルに対して占領地からの撤退を求めた国連安保理決議242号の履行を求め、アラブ諸国から「友好国」の認定を得るように努めた。

 

 1980年9月の国連総会では、伊東正義外相が「わが国は中東和平の実現のためには、イスラエルが第3次中東戦争の全占領地から撤退し、かつ国連憲章にもとづき、パレスチナ人の民族自決権を含む正当な諸権利が承認され、尊重されなければならないと考えている。最近のパレスチナ自治交渉の停滞は、その一義的原因が占領地における入植地の建設、東エルサレムの併合措置等イスラエルの占領政策に起因しており、非常に遺憾なことだ」と発言した。

 

アザデガン油田(イラン南西部)

 イランとの関係では、王政時代だった1970年に三井物産が中心になってイラン・ジャパン石油化学(IJPC)を設立し、イランで最初の総合石油化学コンプレックスの建設に着手した。当時はイランと日本の国民はビザなしで相互に観光訪問ができていたし、テヘランの日本人学校にはプラント関係や商社の子弟が500人以上いたという。IJPCは結局、イラン・イラク戦争で破壊され、日本は撤退することになるが、この時期たくさんの日本人技術者がイランに行き、ダムや鉄塔などのインフラ整備にかかわってイラン人から感謝された。

 

 1980年代のイラン・イラク戦争中も、日本はアメリカとは異なる独自外交をおこない、敵国同士だったイランとイラクとの和平調停もおこなった。それは王政時代からのイランとの信頼関係を背景とするもので、アメリカはイラン革命後にイランと断交したが、日本は大使館を置き続け、イランから石油を買い続けていた。また、日本はイラクとも1974年に経済協力協定を結んでいた。イラクは当時、日本企業の投資先としては世界最大だった。

 

 イラン・イラク戦争後は、多くのイラン人が日本に出稼ぎに来て、日本で稼いだお金でイランで会社を設立し、安定した生活を送っている人も少なくないという。日本製品は壊れないと評判になり、日本の家電がイラン市場を席巻したこともあったそうだ。

 

 2010年には、日本がイランのアザデガン油田開発から撤退する事件もあった。イラン南西部のアザデガン油田は、イラクとの国境地帯に広がり、原油埋蔵量は推定260億バレルと中東最大級といわれていた。日本の国際石油開発帝石(INPEX)は、2000年代初頭には開発権の75%を取得していたが、アメリカがイランに対して経済制裁を強めるなかで、2010年にイランから完全撤退した。

 

 アメリカに隷属してみずから国益を放り出し、結局中国が石油利権を確保することになったが、当時は日本企業がイラン国営企業と共同開発をおこなう関係にあったことを示している。

 

被爆地との民間交流も テヘラン平和博物館

 

イラン平和博物館に展示されている広島・長崎の写真やパンフレット(テヘラン)

 イランを訪れたことのある人は、異口同音に「イランの人たちはみな、広島、長崎をよく知っている」「被爆体験はイランの学校でも教えている」「被爆国である日本に対する同情心が非常に強い」と語る。

 

 広島市東区に事務所があるNPO法人モーストは、2004年から20年以上にわたって、毎年イランから毒ガス被害者の人たちを広島に招き、8月6日の平和記念式典に参列するとともに、被爆者との交流をおこなっている。また、毎年8月に広島で「広島イラン愛と平和の映画祭」を開催し、昨年が12回目となった。

 

 モーストのメンバーがはじめてイランを訪れた2004年、イランには民間人を含めて約10万人の化学兵器被害者がいると伝えられた。イラン・イラク戦争(1980~88年)で、アメリカの援助を受けたイラクは国際法で禁止されている化学兵器や毒ガス兵器による攻撃をくり返し、イラン側は多くの死傷者を出しただけでなく、今もなお肺を焼かれた後遺症でたくさんの毒ガス被害者が苦しんでいる。

 

 モーストのメンバーは、化学兵器の攻撃を受けたサルダシュトを訪問した。すると住民たちから、「この毒ガス被害の事実を世界中の人たちに知ってほしい。広島の原爆投下の悲劇は世界の人がみんな知っているけれど、自分たちの毒ガス被害は誰も知らないから」との訴えがあった。そしてサルダシュトの人たちは、広島の被爆者のために、街の通りの一つを「ヒロシマ」という名前に変えた。

 

 モーストのメンバーは、同年8月6日の広島の原爆慰霊祭にサルダシュトの毒ガス被害者たちを招待した。毒ガス被害者たちは原爆資料館を見学し、被爆者たちがみずからその体験の語り部をしていることに感動して、自分たちもイランで同じように記念館を建て、毒ガス被害を訴えていきたいと思い立った。本人たちの努力と、テヘラン市の協力、そしてモーストをはじめ様々な広島の人たちの支援を得て、ついに2007年6月、テヘランに平和博物館が完成した。平和博物館は、広島を手本にした毒ガス被害者の証言活動や、広島・長崎の原爆資料の展示、イラン人学生の広島への派遣活動などをおこなっている。

 

 モーストの理事長・津谷静子氏は、こうのべている。「戦争が始まった今こそ、民間の文化交流が重要だ。どんな正義を振りかざそうと、人を殺していいわけがない。私は政治家でも宗教家でもないが、生身の人間が傷を負った、そこからの発信に努めてきた。昨年の“12日間戦争”でイランの空港は破壊されたが、それでも毒ガス被害者たちは広島にやってきた。今年は戦争が始まったので無理だろうと思っていたら、“広島に行くことが私たちを支え、希望を与えてもらっている”と連絡があり、今週から準備を始めたところだ。改めて広島、長崎が持つ大きな役割を考えさせられている」

 

 また、全国に数百人の会員を持ち、東京都美術館で年1回の公募美術展を開催してきた群炎美術協会は、2012年、創立50周年記念の一大イベントとして、イランの古都イスファハーンと首都テヘランで、半月間の「イラン国内巡回交流展」をおこない、イランの人々と友好を深めた。会員の絵画や写真美術、金工・木工・陶芸とともに、東日本大震災の衝撃的な写真や被災地の子どもたちの絵画も展示した。交流展は、連日長蛇の列ができる大盛況となった。

 

群炎美術協会による巡回展の参観者たち(2012年、テヘラン)

 このとりくみは日本とイランの文化交流の先陣を切るものとなり、その後、日本イラン芸術家交流協会が発足した。

 

 同協会前会長の盛山重信氏は、「日本のメディアは、イランは核兵器開発に固執する“恐い国”“危険な国”と、偏った報道をしている。だが、はじめて体験したイランは、日本のメディアが報道する状況とは大きな落差があった。今では私の口癖は、百聞は一見にしかず、一度いったら好きになる国はイランだよ、だ。一度イランに行ってみたら、いかにイラン人が日本びいきかということがよくわかる」とのべた。

 

 また、盛山氏は「イラン人は、黒澤明や小津安二郎の映画をよく見ており、『七人の侍』は人気だ。NHKの朝の連続ドラマ『おしん』は、イランで放送されたさいの視聴率が90%にもなったといっていた。親や家族を大切にするということを含め、日本人は自分たちと同じ感情を持っていると思ったようだ。原爆でたくさんの人が死に、焼け野原になったけれど、貧しいなかから頑張って経済を復興させてきた日本人に、尊敬の気持ちを持っている」とのべた。

 

 そして今の戦争について、「毎日のニュースに腹が立って仕方がない。日本とイランとの間では、有史以来の長い交流と友好の歴史があるし、イラン人は親日感情がとても強い。それを壊していいのか。戦争を始めたのはアメリカなのだから、訪米する高市首相はトランプにイランへの戦争をやめてくれといって当たり前だ。しかも日本は、アメリカに原爆を落とされた被害国ではないか」と語っている。

 

外交資産生かし仲介を 親日感情を裏切るな

 

 日本とイランをはじめとする中東諸国との間には、これまで多くの先人たちの地道な努力によって築かれてきた友好関係がある。

 

 その根底には、アメリカから原爆を投げつけられ国土を焦土にされても、再び立ち上がって国を復興させてきたことへの尊敬の念と、少なくとも中東の地においては、欧米諸国のように軍事力を使って支配と服従の関係を迫ることとは一定の距離を保ってきたことへの敬意があった。

 

 ところが今、もしアメリカとイスラエルに与して自衛隊を中東地域に派遣するなら、日本はイランから敵国と認定され、攻撃の対象になるほかない。そればかりか、「平和国家」「戦争をしない国」として親日感情を抱いてきた中東やアフリカの国々の信頼も失うことになる。派遣される自衛隊員にしても、米軍の弾除けになってイランと衝突することを望む者はいないだろう。

 

 日本政府がやるべきことは、過去の平和外交の経験から学び、アメリカとイスラエルの侵略戦争に加担することを拒否し、第三国として即時停戦のために動くことだ。世界の力関係は大きく変化し、トランプとネタニヤフは世界の中で孤立している。

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