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下関市・河原部長の議員侮辱答弁  公務員精神放棄し出世する異常 「市民の為」が本来の使命

 下関市議会の6月定例会一般質問のなかで、河原明彦総合政策部長が市長の出張日数や庁舎に出てくるべき公務の日数を尋ねられた際、質問内容には答えずに「算数でもなさってください」と議場で本池妙子市議に侮辱答弁をしたことについて、下関市役所の現役職員やOBはもちろん、県内他市の市役所や山口県庁、北九州市役所といった官庁はじめ、市民各層のなかで「あり得ないことだ」と驚きの反応が広がっている。同時に、下関市役所や下関市議会はいったいどんなところなのかを問う声が上がっている。部長個人の資質もさることながら、地方公共団体とはなんなのか? 公務員とはなんなのか? という問題について改めて考えさせるものとなっている。一連の反響とあわせて記者座談会で論議してみた。

 中尾市長を真似る部下 「あり得ぬ」と他市では唖然

  まず反響から出し合ってみたい。
  県内のよその役所でも大話題になっている。県庁でも各課で本紙が読まれて相当数が目を通している。消防を海峡沿いの埋立地に移転することとあわせて、「下関は大丈夫か?」と真顔で心配している職員も少なくない。県の関係者に聞いてみると、「考えられないことだ。県議会でこのような答弁をしたら大問題になる。答えられない場合でもその質問にお答えできない理由を含めて丁寧に答弁する。下関の総合政策部長のような言動にはならない」と話していた。とにかくビックリしていたし、唖然としていた。
  他市の市役所を回っていた際に、ある部長が「長周新聞さんと話したいことがあるから待っていてほしい」と部下に伝えていてしばらく待っていたら、帰ってくるなり話し始めたのが侮辱答弁の問題だった。「下関ではあんなことが許されるのか?」と驚いていた。その職場の部下たちも含めて話題になり、終いにはネットの中継録画にアクセスして「本当にいっている」と顔を見合わせていた。女性議員がその市にもいるが、男性議員よりも激しいくらいなので、相当に気を遣って答弁していることや、幹部職員が議場で議員を小馬鹿にすること自体が考えられない事だと話していた。「いったいどんな議会なんだ?」と。
 D 北九州市役所でも似たような反応だった。保守系のベテラン市議が「北九州市議会だったらただでは済まない」といっていた。議会のなかで執行部がおかしな答弁をすることもあるが河原部長のような発言をした場合は、質問議員がだれであれ、議会として「その対応はなんだ!」とみんなが抗議して訂正させるのが常識だと指摘していた。議会そのものが侮蔑されたと見なすのがまともな対応だと。「侮蔑答弁を処分する議会の運営規程があるのではないか?」というので、議会事務局に聞いてみると、「そのような処分規定はない。なぜなら部長というのは一般公務員から経験を積んで上がっていく人だから、通常そのような対応をすること自体が考えられないから」と理由を説明していた。
 一般職員のなかでも総合政策部長といえば役所内の花形で、そのような対応をする人物がポストにいること自体が考えられないし、信じがたいという表情で話題になっていた。「部長でしょ? 本当にこんな答弁したんですか?」と。地方自治に詳しい北九州大の教授は、「議会がどのような対応をするのかが一番の問題だ。抗議するなりしないとケジメがつかない問題」と指摘していた。部長の侮辱答弁を笑って眺めている市議会というのも、異常極まりない世界として映っている。

 底流に流れる市民侮蔑 地方自治の後退懸念 

  下関市役所のなかでも大半の職員がそう思っている。あの答弁をチェックしていた職員の多くが「えっ?」と引っかかっていたし、直後から問題にしていた。ある職員は「あの答弁を素通りしてよいのだろうか。議長に申し入れるなり対処した方がよいのではないか」といっていた。質問した議員がだれであれ、答弁の際に議員を嘲笑したり侮辱すること自体が前代未聞だということと、答弁拒否できないから行政への議員の監視が機能し、二元代表制が成り立つのだと話していた。執行部をチェックするために議会があるのに、逆に小馬鹿にするようなことが許されていけば、議会だけでなく行政そのものの自浄機能が失われて、地方自治が後退していくと心配していた。おかしなのが幹部職員に登用されて、下関市役所がもっと乱れていくという懸念だ。議会が議会でなくなると同時に、役所が役所でなくなる姿とも重なっている。
  何年か前に退職した元部長の男性は、「本来なら即座に議長が執行部を静止しなければならないし、撤回を求めて発言を訂正させなければならない。それを笑って見ている議員がいること自体、議会というものをまるきり理解していない低レベル集団になってしまっている。自分たちが執行部だった頃から考えてもあり得ないことだ」と話していた。「下関の市議会は終わっている」という意見もあった。河原部長について「あぁ…。アイツか…」とさもありなんという表情で語るOBも多い。「こんなのが部長をやるようになったか…」という人もいた。
  中小企業の男性は紙面を読んで“官尊民卑”を問題にしていた。市議会議員というのは市民を代表して議場に立っているのに、その市議を侮辱するとは何事かと。ただ、今に始まったことではなく、江島市長時代にも気に入らない業者を何年にもわたって指名停止にして公共事業から締め出したり、ダンピング競争で業者がバタバタ倒産してもへっちゃらだったり、市民を侮蔑しきった態度がずっと底流に流れていると指摘していた。「行き着くところまで行き着いた姿を正直にさらしたんだ」と。
 E 庁舎内では「中尾市長の真似をしたんだ」と話されている。以前、答弁拒否を1時間貫いて問題になったが、気に入らない議員の質問には中尾市長が好き放題に反問権(議会条例では削除された)を行使して大声でまくしたてたり、一切答弁せずに無視したりしてきた。それを部下が真似して答弁拒否や侮辱をやり始めた。議会もオール与党の一元代表制意識が支配して、議会がバカにされたという意識もない。女性議員と思って侮蔑していく議場の空気も異様なものがある。
  庁舎内では、河原部長の姿が世間に知られたということで、大部分の職員が大喜びをしている状況がある。直接下で働いた経験がある職員ほど「懲りない男だから徹底的に追及してくれ」という。かねてから部下イジメがひどいのが有名で、「河原」じゃなくて「パワハラ」部長と隠語で呼ばれる存在だ。そういう人望のなさでは他の追随を許さない嫌われ者といわれている。しかし中尾市長にとり立てられて、議場では副市長の隣に座る部長のなかでも筆頭部長で、その上の副市長が次の目標といわれている。職員はたまったものではないといっている。
 河原部長は江島市長時代には有料ゴミ袋や奥山清掃工場、リサイクルプラザ建設、し尿処理施設建設など環境利権で賑わせた環境部で出世した。中尾市長になってからは福祉部長として老人休養ホーム・満珠荘の閉館をごり押しする仕事をやり遂げるなどして、ついに総合政策部長に昇格した。総合政策部は四階に部長室があったのに、「河原が五階(市長部局が置かれているフロア)に上がりたい! と駄駄こねた」とかで、この春には五階の副市長室の隣部屋をあてがわれるなど、特別扱いの登用を受けていた。

 一般市職員も深い怒り 利権道具と化す役所 

 A 市役所の一般職員や市民の反応は怒りが深い。この質は何かだ。下関市政は安倍・林代理の江島市政から中尾市政にバトンタッチした後も、新自由主義市政のモデルとして先行してきた。江島市長は「効率化だ」と突っ走って、聞く耳のない箱物散財と市民生活切り捨てをやりまくってきた。中尾になってからは自分を社長と呼び、「経営者の視点」などといって、簿記の講習会やあいさつ運動の「明元素」教育などやりはじめた。その職員教育を受けて中尾がもっとも「成績優秀」と認めて一番出世したのが河原だった。江島――中尾と続いた役所の私物化、「株式会社下関」でやってきた結果、市民のためにという精神がなくなった職員が一番出世するようになったということだ。このへんが下関の悲劇となっている。
  公務員として雇われる際、いかなる職員も任命権者や上級幹部の前で「服務の宣誓」をしている。下関市役所では「私は、ここに主権が国民に存することを認める日本国憲法を尊重し、かつ、擁護することを固く誓います。私は、地方自治の本旨を体するとともに公務を民主的かつ能率的に運営すべき責務を深く自覚し、全体の奉仕者として誠実かつ公正に職務を執行することを固く誓います」という宣誓書に記名押印する仕組みになっている。特定の奉仕者、安倍晋三や林芳正、中尾友昭、山口銀行やJR西日本などの奉仕者でもなく、「全体の奉仕者」というのが重要なようだ。
  総合政策部はもっぱらお金を使う部署だが、税金を徴収する財政部や生活保護など福祉行政に携わる部署に行くと、公務員精神の大切さを改めて口にする職員も少なくない。市民生活がいかに窮乏化しているか肌身で感じているし、失業状態がどれだけ深刻かも日日接している市民を見ていたら痛いほどわかる。下関はよそと比べても低収入世帯が多い。このなかで行政がなにをなすべきか、が突きつけられている。一方で中尾市長はじめ上層部が脳天気な箱物散財をするから、窓口に来る市民は怒り心頭に発して怒鳴っていく。職員一人一人もこの板挟みのなかで葛藤しているし、「市民のために」という使命感がなかったらやっていられない。
  消防庁舎の移転でも、要するに市役所駐車場をつくるために「現在地から出ていけ」とやっている。おかげで岬之町の岸壁から数㍍ほどの埋立地に追い出されようとしている。市民の生命や財産、安全を守るためにという基準ではなく、新庁舎建設の都合、駐車場の都合によって、津波や高潮がくれば使い物にならないような事業をごり押しする。だれのためのなんのための消防機能なのかが抜け落ちている。他市の消防では高台移転が進められている折りに、これも全県の消防関係者のなかで「なにやっているんだ?」「下関は大丈夫か?」と唖然とした表情で語られている。地方自治体の使命とはなんなのかを考えたとき、共通する問題としてある。
  市立大学も天下り役人が私物化して、おかしな箱物利権を繰り返して問題になってきたが、特定の企業や政治家、役人が私物化して恥と思っていない。大学は何のためにあるのかという本来の目的が吹っ飛んで、目前の個人の利益追求をやり始めるからろくでもない事態になる。この問題も公務員精神とかかわる問題だと思う。大学でデタラメをやった市退職者も部長クラスの幹部職員だった。中央病院も退職幹部が天下ったが、真似を始めたら市民の生命にかかわってくる。
  江島市政の14年で、公共の利益にとってどうかとか、市民にとってどうかとかは問題にせず、効率化とか、損か得かとかの株式会社基準になってきた。そこへ中小企業の変人オーナーが現れて、使用人にカツを入れる「社員」教育をやった挙げ句に、今回のような事態までたどり着いた。ウソの公約を吹聴して有権者を愚弄する、この政治がつくり出した公務員精神放棄の幹部職員登用となってあらわれている。
 今度の問題は地方公共団体とは何か、公務員とは何かが投げ捨てられている問題だ。市民の生活や福祉、生命、財産を守るという建前まで否定するものとなっている。そして一部の者の営利のための役所、出世と金もうけのための職員がはびこる方向が奨励されている。それならなぜ市民から税金をとるのかとなる。職員にとってもそれは深刻な葛藤だ。そういう上の方向と経済的な疲弊のなかで困難にある市民の間に挟まれて、心の病とか自殺とかになってあらわれる。利権政治の道具になるより市民の役に立つことに、自治体職員としての喜びがあるはずだ。

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