いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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ファシズムと対峙した戦前の政党人 現代に響く浜田国松の「腹切り問答」

 安倍晋三とその閣僚・官僚たちが国会で連日くり広げるみっともない振舞は、マスコミと野党が騒いだ「安倍一強」なるものが、砂上の楼閣でしかなかったことを万人の目に焼きつけている。だが、安倍政府の憲政破壊を追及する政党は与党内はもちろん、野党も及び腰のなまくら刀で、その切れ味はさっぱりである。国民の多くがもはや、みずからの運命を腐敗しきった政党にゆだねることはできないことを見てとり、この事態を歴史的社会的にとらえ直し、根本的に打開する展望を志向している。そうした論議を発展させるうえで、戦前、5・15や2・26事件を契機に軍部主導のファシズム政治へと傾斜するなかで、まだ健在であった少数の気骨ある政党人が、憲政擁護のために果敢にたたかった事実をふり返ることは、意義あることである。

 

尾崎行雄を訪ねた浜田国松(左)

 1937(昭和12)年1月、前年に永田町に竣工した新しい帝国議会議事堂(現国会議事堂)での最初の議会(第70回帝国議会)が開催された。ここで、「護憲派の老政客」といわれる政友会の浜田国松が、寺内寿一陸軍大臣とのあいだでくり広げた「腹切り問答」は、当時の国民のあいだで評判となり、熱い論議を呼び起こした。

 


 当時の広田弘毅内閣は「庶政一新」「行政改革」を掲げるがその実、地方税制の大変革や外交手法など財政、増税、教育、国策全般にわたって、ナチスのやり方にならった官僚的独裁政治へと移行しつつあった。


 議場で質問に立った浜田国松は、5・15事件や2・26事件、さらに「軍部大臣現役武官制」(文武の分離を否定し、陸・海軍大臣は現役の軍人でなければならないとする制度)の復活をとりあげ、「国民の有する言論の自由、通信の自由は数数の事情によって圧迫を受け」「粛軍の進行とともに独裁的思想の重圧」が増しているとして、次のように主張した。


 「この独裁思想、軍部の推進的思想というものが、すべて近年の政治の動揺の本になっている。これらの人は、動揺があるから安定するために政治の推進力が必要である、われわれの唱える政策によって安定しているという。このようなことが、近年におけるわが国の政治的“イデオロギー”である。この底を流れる“ファシズム”というか、独裁思想というか、われわれの耐えがたい政治の欠点である」


 浜田は続けて、「軍人は政治に関わってはならないはずである。軍という立場で政治を行うところに危険がある」と迫った。


 答弁に立った陸軍大臣の寺内寿一は「浜田君が種種お述べになった言葉の中には、軍人に対しいささか侮辱されるような感じを受ける」と反発した。浜田は、「私の発言のどこに軍を侮辱した部分があるか」と切り返し、次のようにのべた。


 「封建思想や官僚独善主義から言えば、あなたは役人で私は町人かも知らぬが、そうじゃない。私は公職者、ことに九千万人の国民を背後にしている公職者である。あなたより忠告を受けねばならぬようなことをこの年をとっている私がするなら、私は割腹して謝する。天下に謝さなきゃならん。速記録を調べて私が軍を侮辱する言葉があるなら割腹して君に謝罪する。なかったら君が割腹せよ」


 浜田国松は、三重師範学校を卒業後小学校教員を経て、日露戦争の前年1904年、衆議院議員に立候補し、1925年の普通選挙法成立の中で立憲政友会に参加した。尾崎行雄の盟友として憲政擁護運動に参加し、衆議院議長をも務めた経験の持ち主である。この問答では、浜田の方が当時議場からも国民からも喝采を浴びた。すぐに激昂する寺内陸軍相は「瞬間湯沸かし器」と揶揄された。

 

政党腐敗でファッショ台頭      現在とそっくり

 

 当時、『門司新報』のコラムは次のように書いていた。


 「二十数年の長年月と、巨万の工費を投じて完成した“日本憲政の殿堂”であるべき新議事堂だが、さてできあがったころには憲政どころかこの国にはファッショ野郎どもが時を得顔にはびこっており、政党は何をしているのやらサッパリわからず、政党の親方達は、かたや去勢されたトラのようであったり、かたや人民の支持なく代議士選挙にさえあえなく落選したりで、新豪華議事堂の方が内容の貧弱に反比例して立派すぎ、代議士先生ども少々恥しくはないか」


 「ところが軍部の行革問題にはさすが奴隷のように忍耐強い押され押されの政党もたまりかねたとみえ、……軍部にたいして痛烈な質問を投げ、当の陸相寺内クンの出席を執拗に要求し、テレンパレンの煮えたとも煮えんとも知れぬ広田クンをキュウキュウいわせ、まず第一弾を勇敢に放った」


 「もともと日本帝国は、ファッショどもがどうワメこうと、議会政治の国であり、立憲政治の国である。その根本をゆるがされはじめたのは、何もいまにはじまったことではなく、満州事変を契機としてだんだんはなはだしくなったのである。政党は腐ってしまって、所属代議士がいるという形式だけで、事実は人民の信頼はまったくなく、そのことの一反動として、人民は政党以外のものにある種の期待を持った。人民はファッショが大嫌いであるが、信ずべき何ものもないことが、それがファッショであるかどうかを見極める余裕もなく、ここにファッショの台頭を促したのである」


 コラムは続けて、「陣頭に立ったのは決して政党総裁ではない。二人とも護憲三派時代生き残りの老政客、一人は政友会の浜田国松であり、一人は斎藤隆夫である。……人民のすべての期待はこれにかかっている」


 コラムはこうのべる一方で、当時の社会民主主義を掲げた合法政党「無産党」の体たらくを次のように批判していた。


 「それにしても、自ら無産階級の代表のごとくいい、人民の反ファッショの希求によって圧倒的勝利を博した無産党はいったい何をしているか?アともスともいわないのである。ここにおいて、この国に労働運動華やかなりし時代にしばしばいわれたように、資本主義が最高の段階に達したとき、社会民主主義者たちが、決して真の民衆の味方でないことが、どうやら明らかになったようであり、人民たるもの大いに考えねばならぬことである」(福田正義『猿とインテリ』所収)。

 

広田弘毅内閣は総辞職へ     国民世論に押され

 

 広田弘毅内閣は「腹切り問答」をめぐる国民世論に圧倒されて、総辞職に追い込まれた。同時に国民の憤激を束ねて進む「左翼」政党が消滅しているなかで、近衛文麿内閣のもとでファシズム政治がいちだんと進み、中国への全面侵略戦争に突入していった。


 ノンフィクション作家の保坂正康は『国会が死んだ日』(中公文庫)で、当時、軍部の議会支配とたたかった生き残りともいうべき政党人と、今の議場で上っ調子で声高に責めるだけの野党議員との間には、その意気込み、真剣さ、憲政擁護の使命感において「天地の開きがあるように想う」と書いている。今日の議会をめぐる状況は、当時とよく似た局面にあり、国民の憤激を束ねるために奉仕・献身する不撓不屈の政治勢力の登場が決定的であることを教えている。

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