いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

文字サイズ
文字を通常サイズにする文字を大きいサイズにする

人類の幸福めざす科学者の生き方 湯川秀樹の日記公表と関連して

湯川秀樹

 日本人として、初のノーベル賞を受賞した物理学者・湯川秀樹(1907~81年)が1945年の敗戦前後に書いた日記を21日、京都大学基礎物理学研究所・湯川記念館史料室が公表した。湯川が日本軍の原爆開発研究にかかわったことや、広島への原爆投下や戦局に関する記述もある。

 

 敗戦に向かう1943年ごろ、海軍は極秘に京都帝国大学の物理学者・荒勝文策教授に原爆開発研究を委託した。この研究は「F研究」と呼ばれた。1944年10月、大阪・中之島で京大と海軍による「F研究」の初の会合が開かれ、湯川が核分裂の連鎖反応について報告したことは、これまで知られていた。だがこの研究は、陸軍が理化学研究所の仁科芳雄博士に委託した「ニ号研究」とともに、原爆の製造には遠くおよばぬまま、失敗に終わった。

 

 湯川は戦中、戦後にかけてアメリカの原爆開発計画「マンハッタン計画」にかかわったオッペンハイマーやアインシュタインらと親交があった。戦後は、彼らとともに科学者の深刻な反省のうえに立った核廃絶と平和に向けた国際的な運動を推進する役割を担った。

 

 湯川は戦後の一時期、「反省と沈思の日々」として沈黙を貫いたことで知られるが、日記からその間、哲学者や文学者らと会っていたことがわかるという。科学史家らの専門家は、湯川の生き方とかかわった思想と行動の軌跡を示す貴重な資料として注目している。

 

湯川が到達した世界観示す 講演「科学と人生論」

 

 湯川秀樹は戦後になって、「科学と人間性」にかかわる発言を講演や随筆、評論を通して数多く発表している。1963年の徳島での「科学と人生論」と題する講演は、湯川が戦前、戦後の体験を通して到達した世界観、ひいては戦後日本の科学者の良心を示した業績の一つだといえる。

 

 湯川はそこで、戦前の物理学者一般の認識は、「一生懸命物理の勉強をしておれば良い」というもので、物理学者も人間であるにもかかわらず、「とくに人間の問題、科学と人間、あるいは人間社会とか、あるいは科学と平和とか、そういうふうな問題に頭をつっこまなくてもよかった」とふり返っている。そこには、物理学の研究によって、「人類に貢献する、また日本の国にも貢献する」ことが、「科学者としての自分の責任を果たす、唯一無二の方法であると信じて、私は当時なんの疑いも持っておらなかった」という反省の念がにじんでいる。

 

 湯川はそのうえで、19世紀の終わりごろからの科学の急速な発展、とくに電子工学(エレクトロニクス)の進歩によって、「非常に便利な世の中」になったが、その一方で「機械の奴隷になるおそれ」が出てきたことを強調している。その「一つの深刻な問題」として、科学が進歩することによって、「人間が自由にできる破壊的力が非常に大きくなったこと」をあげている。その最大の問題が核兵器である。

 

 そして、人間が「機械の奴隷」になることの筆舌に尽くせぬ深刻さを肝に銘じ、「人間自身が科学を進歩さしてきたこと」を明確にすることの重要性を強調するのである。湯川はそこから、「科学とはなにか」「科学の本質」について、次のように論を進めている。

 

 「自然界というものは、一見したところ気まぐれなもののよう」であるが、「全体に共通する規則がある」。人間は法則性をもった自然界に生きている。「われわれのからだも、そういう自然界のほかのものと同じもので、別のものじゃない」。どちらも「同じような規則に支配されている」のだ。「そういう意味での真理というのは、非常な普遍性を持っている」。

 

 科学の発展を通して、昔の人が知らなかった自然界の法則性がわかるようになる。その法則性をつかんで、技術の発達により実際に現実化することができるようになる。電子計算機(コンピューター)はそのようにしてつくることができた。湯川はこれと同様に、量子物理学の発展が「悪知恵」による技術と結びつき、核兵器という「非常に強い破壊力」を生み出したことを強調している。

 

 湯川はここで、自然界と人間の関係について、自然界は人間のためにあるのでもなければ、人間社会をつぶすためにあるのでもないことを確認している。自然界が歴史的に発展するなかで、人間というものがあらわれて、その人間が科学を発展させてきた。自然界には、人類全体を幸福と繁栄に導くような可能性とともに、「人類を恐怖と破壊に追いやってしまうような、そういう可能性」をはらんでいる。そのことがはっきりわかってしまったことが、現代の大きな特徴だというのである。

 

 「そこで科学者が、自分は真理のために真理を発見するだけで、あとは野となれ山となれ、あとの人におまかせしますというわけにはいかなくなってきた」「世の中の仕組みや、また人間の心の中で起こる現象を含めて、だんだんものが見えてくると、見えてこなかった昔には戻れない」

 

 湯川はそこから、科学を含めて新しい規律、道徳というものが必要になっていると主張している。それは、科学者であろうとなかろうと「平和を守ってゆこうという気持が、現在ほど、世界中の多くの人たちの間に強くわき起こっている時代はない」「しかも、そういう世論……多くの人の声が集まって出てきた声というものが、世界情勢に大きな影響を与えている」という時代認識にもとづくものである。

 

 また、いくら声を上げても「核兵器廃絶」に向かわないから、それを口にするのはムダではないかという敗北的な考えに対して、「歴史は宿命ではない」として次のように批判している。「人間の歴史というものは、人間一人々々、あるいは人類全体が作り出してゆくもの」である。「目の前に効果があろうとなかろうと、絶望せずに、やはりわれわれ一人々々が参加することによって新しい歴史を作ってゆくのだという気持になって平和のために努力する」こと。「これが唯一の正しい生き方」である。「私たちにとって大事なことは、努力に努力を重ねて、なんとかしていい世界を作り出そうとすること自体の中にある」と。

 

 湯川はさらに、「科学というものは、進み過ぎたのではないか。あまり進まなかった方がよかったのではないか」という、後ろ向きの考え方にも批判を加えている。湯川は科学は急速な発達を遂げてきたが、「やはり進み方が足りない」とのべている。それは、「人類の打ち立てた科学というものは、まだまだ不十分なもの」であり、とくに「よい方への利用が足りない」というものである。

 

 科学技術の発達でコンピューターや自動車のスピードが速くなったが、その一方で人間の生命や安全を守るために、「科学をよりよく利用」すべきであり、それは「多少は費用がかかってもやらなければならない」ことだと訴えている。それは、原子力の平和利用を理想としていた湯川が、アメリカに従属する政府の原子力政策に抗議して、原子力委員会の委員を辞任したことと重なってくる。

 

 また、自然科学に比べて、相対的に社会科学、人文科学の方面の遅れに目を向けている。そして、現代はこのアンバランスをなくしていく過渡期であり、「その先には、人類にとって本当に幸福な時代がくるに違いない」「非常に生き甲斐のある時代でもある」と、揺るがぬ確信と展望を示している。

 

 湯川はこの講演を「過渡期の世界というものを……人類全体がうまく生き通したならば、それからあとの子々孫々からほんとうに感謝されるようになる、そういうふうにわれわれは生きてゆきたい」と結んでいる。

 

 湯川秀樹の深刻な戦争体験に根ざした、科学者として社会に向き合う姿勢は、日本の物理学者をはじめ多くの科学者の学問的気風に脈脈と受け継がれている。それは今日、大学や研究機関の軍事研究や原発政策に反対する発言や行動のいきいきとした発展に見てとることができる。

関連する記事

Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterEmail this to someone

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。なお、コメントは承認制です。