いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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児童虐待の悲劇なくすために  貧困の撲滅こそが急務

 小泉改革やアベノミクスを経て非正規雇用は全労働者の4割へと拡大し、その半数は子どもを育てる20代から40代の世代が占めている。幼い子どもを抱えながら、働いても働いても先の見えない家庭が増加し、「貧困」が精神的にも親たちを追いつめ、離婚、家庭内暴力、無理心中などの悲しい事件が後を絶たない。その精神的荒廃がもっとも弱い存在である子どもへと向かい、虐待、ネグレクト(養育放棄)も社会問題になっている。親たちが厳しい社会の現実から逃避してストレスを子どもに向けたり、あるいは生活苦から子育てに行き詰まったり、誰もが胸を痛めるような事件が氾濫している。このなかで一方では「児童虐待」の撲滅と称して警察や児童相談所(児相)が親や家庭への監視・介入体制を強化しているが、それは根本的な解決につながるものではない。親の未熟さや個人の素性といった個別の問題で片付けられるものではないし、社会的な要因を見ずに、モグラ叩きをしたところで何の解決にもならないのである。児童虐待問題について、教師や保育士、父母、貧困家庭支援にかかわっている人人に意見を聞き、記者座談会を持って論議した。

 別目的の警察、児童相談所介入強化

  A この時期は進級、進学で子どもたちが新しい生活に胸をワクワクさせている。ところが親たちは金銭的負担でてんてこ舞いなのが現実だ。制服にしろ体操服にしろ、学校に通わせようと思ったらカネが飛ぶように財布から出て行く。ある小学校では昨年の入学式の日に、母親から「都合で子どもが入学式に出席できない…」という連絡が入った。急きょ在学中の兄を通じて教師が子どもを家に迎えに行き、保健室でそれなりの洋服を準備して入学式に親子で参加させたという。二人の子どもを抱える母子家庭だったが、「入学式までに子どもの制服が準備できなかった…」のが原因だった。
 新1年生のなかには保育園や幼稚園に通園していない子どもの割合が増えている。保育料が高くて「パート代が吹き飛ぶくらいなら」と自宅で母親が見ているケースも多い。そんな子どもたちのなかには、朝ご飯を食べて着替えて家を出る生活習慣がなく、パジャマで学校に登校する子どももいる。また、制服が買えない家庭は学校指定の高価なカッターシャツではなく、市販のカッターシャツに自分で校章をつけて工夫していたり、校納金の滞納が増えていたり、体操服が臭くなるまで洗濯してこない子どもは学校側が洗っていたりする。「人間らしい生活、あたりまえの生活経験が少なく、えっ? と思うことが増えている」と教師たちは心配していた。貧困とか精神的荒廃を実感させるエピソードは山ほどある。
 B 今、クラスの半数が父子、母子の1人親家庭というのは珍しくない。そういう親たちの生活はどうなっているのかだ。1人で3人の子どもを育てている母親(40代)に話を聞いてみると、昼1時から6時までの5時間はファミレスでパートとして勤めている。それを終えると子どもたちの夕食を準備して、夜は週3回10時から朝6時までコンビニの夜勤アルバイトをしている。小学6年生以下の3人の子どもたちは夜中は母親に預けている。夜勤の仕事は女性への肉体的な負担が大きい。しかし1人で子ども3人を育てるには、時給の高い夜勤の方が収入がいいと思って始めたという。
 「私のように近くに頼れる親がいることが一番の救い。それがあるから気持ちの余裕が少し持てている。もし母親の助けがなければ精神的にパンクして、子どもに当たるかもしれない…」と語っていた。これは一つの事例だが、母親が二足三足のわらじを履いて、複数の職場をかけ持ちしながら子育てする状況はざらだ。夜中のパチンコ店の掃除なども結構若い母親たちがいるという。それで子どもだけで夕食をとって夜を過ごしたり、親のかわりにお兄ちゃんやお姉ちゃんが保育園に妹や弟を迎えに行く光景も少なくない。
  別の小学校では、母親と兄と3人で暮らす小学3年の女子児童が、精神的に不安定になり、両親の離婚を契機に母親が時間的にも金銭的にも追われ、子どもにきつく当たっていることがわかった。担任が子どもに話を聞くと「お母さんには絶対にいわないでね」と念押ししたうえで「私、お母さんに嫌われているかもしれない」「帰っても(お母さんが)いない」「話を聞いてくれない」と母親への思いをぽつりぽつりと話すようになった。九歳の女の子の心は満たされず、それがなぜなのかわからないけれど、「嫌われているかもしれない…」と心配していたのだった。教師は母親に学校での様子を伝え、子どもは家計を支える母親の思いを少しずつ理解するようになっていった。毎日留守番をしながら1人で宿題も頑張るようになり、アイロン掛けや茶碗洗いなどの手伝いも、喜びをもってするようになっていった。教師はその親子とかかわるなかで、クラスの半数を占める1人親世帯が同じような状況にあるのだと感じていた。「子どもも親も厳しいなかで日日たたかいながら生活している。教師はとかく“あの親は子どもを放置している”などと先入観で見がちだ。しかし実は、朝も夜も仕事に追われながら、子どもを遅刻させないようにとか、不自由していると見られないために必死で頑張っている。親と子どもが一緒に頑張っていることを教師が見ないといけない」と語っていた。それは周囲が「ネグレクトだ!」とか騒いで解決するような代物ではない。
  子ども食堂など各地で貧困対策がたけなわになっている。ただ、「子どもの貧困」というが子どもが貧困なのは親が貧困だからであって、その問題を解決しないとどうにもならない。非正規雇用だらけにしたおかげでますます少子化が深刻になっているが、いまや年収122万円未満の「貧困ライン」を下回る世帯が人口の16%をこえている。それで過去最高の2000万人が貧困状態に置かれている。子どもがいる現役世帯全体では15・1%なのに対して、1人親世帯(9割が母子家庭)では約55%に跳ね上がる。年収200万円以下のワーキングプアは、アベノミクス前の2012年の1090万人から14年には1139万2000人へと2年間で50万人も増加している。この増加分の41万8000人は女性だ。働く世代の単身女性の3人に1人(約110万人)が年収114万円未満となっている。そのもとで生活破綻が顕在化している。「子どもの貧困」というより「親たちの貧困」がひどいものになっている。そうした絶対的貧困状況の産物が家庭内暴力だったり、児童虐待、育児放棄にほかならない。

 「育児放棄」の背景 親たちへの支えがない

  親自身が生活に行き詰まって子どもの養育を放棄する「ネグレクト」が増えていることも関係者は指摘していた。子どもを構ってやる余裕がないというか、片親になって自分自身が構ってもらえないという寂しさだったり、誰かに依存したい、頼りたいと現実逃避的に異性に走っていったり、先行きに絶望して無気力になってしまったり、あらわれはさまざまだ。
 下関市内でも、小学校と幼稚園の子どもがいる母子家庭で、30代の母親が子どもにご飯を食べさせておらず、若い男に走っているという例があった。電気や水道を止められても携帯代だけは払って生きており、男性からの電話を待って暗い家の中で携帯を握りしめていたという。そうやって養育放棄された子は、服が汚い、髪が汚れている、爪が汚いなどですぐにわかるし、なんともいえない目元になっているのだという。人間を支える3度の食事をとっておらず、コンビニのおにぎりやスナック菓子ですませ、偏った食生活になっている。そして体臭を理由にいじめの対象にもなる。ボランティアが食料を持っていくが、一時しのぎにしかならないと語っていた。
 また、親が保険料を払っていないので保険証がなく、学校で病院に行けといわれても行けない子がいたり、なんでも100円均一で買うので、うわべは物がそろっているが、“ダイソーっ子”といじめられる子がいたりする。そういう子は頑張って勉強しようとならないため、学力低下が進んで不登校になったり、中学校へ上がると疎外されて暴れたりするようになる。
 D 支援に携わっている人の話では、そのような母子家庭、父子家庭は圧倒的に派遣社員が多い。職を求めていろんな土地を転転と渡り歩き、安定した生活ができない状況も共通しているようだ。「親たちを支えるものがなく、崩れているのだ」と話していた。安心して暮らしたいとか、家族みんなで笑って暮らしたいという思いを当然持っているのに、それがかなわない。子どもが誕生したときは泣いて喜んだかもしれない。この子のためにも頑張ろうと誓ったかもしれない。しかし現実社会の厳しさにそれこそ虐待されて自暴自棄になったり、どうしようもない鬱憤を家庭内に持ち込んでしまったり、それで不和が生じて離婚したり、子どもたちも巻き込んだものになってしまう。いわゆる豊かといわれた時代、現在のような貧困状況ではなかった時代に、これほど児童虐待や家庭内暴力、離婚は問題にならなかった。家庭生活に余裕がなくなることと比例して、そうした悲劇が膨らんでいる関係だ。
 C 朝から晩まで働いて、働き過ぎて身体を壊したり、職場の人間関係で鬱病やパニック障害のような精神的な病気になって養育能力がなくなっていくという例もある。彦島にあった三井金属の関連会社で働いていた父親が、最盛期には毎月40万円ほどの収入があったのに解雇され、途方に暮れて精神を煩ってしまい、幻覚症状で包丁を持ち出すようになったりして別れた話も聞いた。それぞれに事情もあり千差万別だが、途方もない社会の現実が個別家庭に襲いかかり、似たような状況をつくり出している。
 A 下関市議会が3月議会で児童虐待撲滅を掲げて、現在よりさらに警察や児相が家庭に介入するよう求める決議を上げた。全国的にそのような趨勢で、権力がここぞとばかりに懲罰やとり締まり、監視体制を強めようとしている。今度は警察や児相が「悪い親」を摘発して「虐待」するというものだ。これでは本当の解決にはならない。無抵抗の子どもをなぶり殺しにするような児童虐待は決して許されるものではない。しかし、問題はこうした親たちの精神的荒廃をつくり出している社会状況、絶望的になってやけを起こすような状態をどうにかしなければ、モグラたたきにしかならないということだ。
  政府は今国会で、児童虐待の対応強化を掲げて児相の体制・権限を強化することを盛り込んだ児童虐待防止法と児童福祉法の改定案の成立を目指している。改定内容は児相の体制強化策として、臨検に先立つ保護者への「出頭要求」手続きを省略化することや、医療機関や児童福祉施設、学校は児相や市町村の求めに応じて被虐待児に関する資料を提供できるようにするというものだ。
 A 親が社会的に虐待されて荒廃し、それが子どもに向かう。そこに第三者の児相が入って一時的に親子を切り離すということはできても、根本的な解決にはならない。現実的には親を立ち直らせ、親子の関係をとり戻す以外にはない。その援助はないままとり締まりだけが強まろうとしている。これはいったい、何をしようとしているのか? だ。
 D 児相が親子を引き離して、最悪の場合は施設に子どもを入れてしまったりする。その将来に責任を持って育てるというならまだしも、養育責任はない。こんなことをいったら腹を立てる人もいるかもしれないが、役人なので異動がくればさようならだ。「悪い親」を摘発するだけでは何も解決しない。
  近年は通報件数の増加に対応して児相の職員を増やしている。下関の児相を見ても児童福祉士は3人から5人体制になり、児童心理士は2人から3人体制になっている。平成26年で下関の児童虐待件数として公表した件数は、通告件数が113件、そのうち虐待認定件数が31件となっている。「子どもが大声で泣いている」「(親が)叩いているようだ」「虐待ではないか」という周囲からの通報があると、仮にガセネタであっても実情を調べ、その結果、子どもを一時保護したり、施設に入所させたり、様子を見るという措置をとる。最近は学校にも近所から虐待を知らせる通報が入ることもあり、そのさいは教師が「手足に不審なアザはないか」や「服は汚れていないか」などを注意して見たり、時には家庭訪問をしたりする対応をとり、児相に知らせる場合もある。
 C 児童虐待が社会問題になって、「かわいそうな子ども」と誰もが思う。ただ一方で、それで過剰な周囲の監視体制が強まって、親たちが子どもを叱るのに「どこまでが虐待なのか…」と心配しながら叱らなければならないなど、気苦労も多くなっている。「虐待ではないかと近所から通報があった」と突然家に行政関係者や警察が訪ねてきて虐待を疑われ、誤解をとくのに親が神経をすり減らしたという話や、親が子どもを必死で育てる過程で叩いたり、善悪をしっかり教えようとしたことを逆恨みした子どもが「親に叩かれた」「親が虐待をしている」と児相に訴え、親が尋問を受けて犯罪者扱いされる本末転倒も起こっている。下関児童相談所の通告件数113件のうち82件が「児童虐待」といえるものではなかったというのは、それを端的にあらわしていると思う。

 子供が親訴えた事例 親子の関係に亀裂も…

  最近ある中学校で、1年の女子生徒が母親に部活や勉強をサボったことを厳しく注意されたことに腹を立て、「お母さんに殴られた」と学校で訴え、その直前に母親に頼んで切ってもらった前髪についても「母親に前髪を切られた」と主張したのがきっかけで、学校側がすぐに児相に通報するということが起こった。
 児相は「子どもが虐待と感じたら虐待」という定義にもとづいて、母親を何度も呼び出して「虐待」の有無について面接をした。その結果、家庭内で親子の関係がまるで「加害者」と「被害者」のようになってしまった。母親はわが子が苦手な勉強や部活から逃げ出すような弱い人間になってはいけないという思いで厳しく教えてきたのに、「虐待」の疑いは晴らせず、最終的には一緒に住む祖父母の証言もあって、やっと「虐待」の疑いがとけた。
 結局、その生徒は「病気」という扱いになり、母親もこれまでのように厳しくしつけたり教育することがはばかられるようになり、親子関係に亀裂が入ってしまった。
  これも何年か前だが、中学生の女の子が勝手にお金を使ったか何かで親に叱られると察知して警察に駆け込み、児相が動いたことがあった。子どもは「虐待されている」と主張するが健康体そのもので、身体にアザなど何もない。警察の方が困ってしまって、家に帰す有様だった。しかしそのようにして警察なり児相が個別家庭に踏み込んでいく構造ができあがっている。
 A 「いじめ」「体罰」が学校現場の抑圧物となってのしかかり、何か起きればその度に「被害者」を守るような顔をして警察やマスコミ、教育委員会といった権力が介入して大騒ぎをくり広げ、教育を破壊していく構造ができ上がっている。「児童虐待」もそれと同じ構造のなかにある。解決できるものがほとんどなのに、教師や親の指導性を否定して個別家庭にまで権力による監視や統制が向けられている。それで「被害者」面をした子どもが親に反旗を翻す道具として利用するという事態も起こっている。
  いじめでもそうだが、十把一絡げにして「被害者」「加害者」といえるものではない。集団生活のなかで、子どもたちが仲間との人間関係を切り結ぶにあたって、いざこざや衝突はあたりまえのように起こる。ところが「被害者」側がいじめられたと感じればそれがいじめと認定され、親だけでなく警察やマスコミ、教育委員会までが加わって、今度ははるかに強い力でもって「加害者」側を総攻撃するというのが流行っている。「いった者勝ち」「声の大きい者勝ち」だ。他者を攻撃するために「被害」を叫ぶ者があらわれ、そこに権力が加わって「被害者」側の倍返しどころでない報復攻撃が始まる。そうしたものを助長するのでは教育にならないし、親子関係もズタズタになってしまう。「かわいそう」というだけで、真実を見極めなければ大変なことになってしまう。
 A 「いじめ」「体罰」「児童虐待」等をテコに上意下達の統制を強め、教育や家庭を政治が支配することを願望している。メディアや警察あげて総掛かりで摘発に勤しんでいるのは、いじめや児童虐待を撲滅したいからではない。本当に児童虐待を撲滅したいなら、親たちの精神的な荒廃の土壌になっている貧困を撲滅するのがもっとも近道な解決策だ。それこそ親たちに対する大企業や金融資本による虐待を撲滅することだ。しかし現状では、少し大きな声で叱っただけでいいつける通報システムができあがり、児相が駆けつける体制が強まろうとしている。
 虐待でも何でもないものまで含めて摘発し権力が暮らしの中に介入して目を光らせるものだ。マイナンバー等で国民監視体制が全般的に強まっているもとで、まさに戦中の隣組のように暮らしを規制しあうものにつながっている。
 親が子どもを産み一人前に育てていくというあたりまえの営みが崩れている現実は、法律で規制したり、親を監視するだけで解決する問題ではない。社会全体は人間を人間扱いしない残酷な弱肉強食で、その社会構造のなかで子どもを育てる親自身が人間としての心の豊かさが失われ、精神的な荒廃がもたらされている。ますます冷酷で世知辛くなっていくことは疑いないが、これに敗北して荒廃していたのではやられてしまう。どうにもならない生活苦というのが個人の能力云々以上に社会構造としてでき上がっている以上、この解決がなければ離婚、家庭内暴力、児童虐待の悲劇はくり返される。個別家庭の問題ではなくきわめて社会的な問題だ。

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