いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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福島 4ヶ月も集団疎開し避難所暮らし 段ボールに囲まれた生活

 福島第1原発の周囲で暮らしていた住民たちが集団疎開や避難所暮らしを強いられてから、もうじき4カ月が経とうとしている。1日も早い故郷への帰還を望み、生活をとり戻したいと願っているのになんらメドが立たない。政府が機能しないばかりか大臣辞任のくだらない騒動を見せつけられて、被災地の苛立ちが募っている。
 福島市内にあるあづま総合体育館では、南相馬市など浜通から避難してきた500人近い人人が避難生活を送っている。体育館や施設の廊下には、段ボールや布を利用してバラックのような生活スペースが仕切られ、段ボールに名前を記入した「表札」がかけられている。静まりかえった空間には寝込んでいる老人がいたり、うつろな表情で座り込んでいる人も少なくなく、4カ月の疲れが限界に達していた。
 小高町から避難していた男性は疲れ切った表情を見せていた。「みなが隣に迷惑をかけないよう気遣いながら過ごしている。気を紛らわそうと外を散歩したりする。朝6時に起きて夜9時には消灯。その間ご飯を食べ、風呂に入るだけの毎日が続いて気が滅入る。もう4カ月がたった。それなのに政府はモタモタしてあてにならないし、我慢の限界でだれもがイライラしている。いつになったら帰られるのか、なにもわからないことが歯がゆい。原発がみんなの生活を奪った。だれにこの怒りをぶつけたらよいのか」と思いを語っていた。
 南相馬市から避難している婦人は、7月に入って川俣町の婦人が焼身自殺したことに触れ、「うつ病のように精神的にまいっている人もいる。“がんばろう福島”“がんばろう東北”のかけ声が虚しく聞こえる。集団ホームレスのような状態を早くなんとかしてほしい。年寄りがとくにふびんで、みなが帰りたいといっている。冬までこの状態が続きそうな気すらする。原発など二度とあそこで稼働させたくない。これだけの人間に迷惑をかけて、立地した政治家や電力会社の幹部たちは処刑してほしい」と強い憤りを口にしていた。
 南相馬市から避難していた別の60代の男性住民は、「今回の原発事故が戦後社会のすべてを映し出している」と問題意識を語っていた。「浜通は昔からへんぴな場所で産業が少なく、そこに原発がやってきた。高度成長からこれまで電力供給を支えてきたのに、40年たったらこの顛末で、さんざん都会に電力を送り続けた挙げ句に田舎がむちゃくちゃになってしまった。立地町では電力関係に従事して仕事ができたかもしれない。しかしつくった箱物もみな台無しになって、住む場所もなにもかもなくなっている。まわりに住んでいた私たちからしてもたまらない。地方を翻弄した国策や、政治・経済の姿こそ問題にしなければまた繰り返す。国はなんら避難所にいる私らの気持ちがわかっていないが、そんな政治が今度の事故の根にもある」と語っていた。

 復旧めざし動く飯舘村住民 「原発に負けぬ」と

 「計画的避難区域」に指定され、全村避難を迫られてきた飯舘村では、その後も住民が多数残って暮らしている。盗難などを防ぐためのパトロール隊が結成され、行政が緊急雇用事業として雇う格好で、住民たちが日日村を巡回している。原発から30~40㌔離れている飯舘村は、風向きによって放射性物質が漂着した「ホットスポット」とされ、IAEAまでやってきて被曝線量が高いことを理由に国から避難指示が下りた。ただ、20もの行政区がある村内において、放射線量は場所によってもまばらで、1~2マイクロシーベルトの地帯もざらにある。
 稲作や大豆、ブロッコリーなどの転作で生計を立ててきたという住民の一人は、「飯舘村は集落ごとの絆が強い村で、合併もせず“までい”(方言で手間暇を惜しまずていねいに心をこめるという意味)を合い言葉に農業や酪農で村作りをやってきた。私らの生き様だ。原発に負けてたまるか、と思いながら、みなが分散してちりぢりになっていることに不安がある。飯舘村の土で生きてきたし、この土地を離れた生活など想像できない。子どもたちが少しでも地元に残るように教育にはとくに力を入れてきたのに、そんな蓄積が原発事故で吹き飛んでしまうことを考えると悔しくてならない」と胸の内を語っていた。
 行政関係者の一人は、「2週間前から取材には応じられないようになっているんです…」と言葉を選びながら、国から避難指示が下りたのちに村長が「廃村にするわけにはいかない」と発言するや、都会から「住民をモルモットにするのか」などといってFAXや電話がすごかった様子を話した。「住民を被曝させたいと思っている職員など一人もいない。本意が伝わらないことに愕然とする。避難指示で“逃げろ、逃げろ”だけでなく、住民がどこに行けばよいのか、どう戻れるようにするかの対応が求められていると思う」と語っていた。

 半径20㌔圏内は厳重に封鎖 放射線量落着いても

 福島第1原発から半径20㌔圏内は、7万人もの住民を追い出した後、許可車両以外は入れない状態が続いている。原発へと続く道路は10カ所近くにわたって封鎖され、全国の県警・府警が毎日交替で検問を実施。どこのだれがなにをしに来たのか、身分証明を求めたり、車両ナンバーをチェックしたり、根ほり葉ほり聞き出す対応となっている。ところが「危ない!」「被曝するから近寄るな!」と強制的に立入制限しているものの、被曝線量は既に落ち着いている箇所も少なくないことが話題になっている。
 郡山市から大熊町、双葉町に向かう国道288号線では、都路村から向こうには進入できない状態が続いている。検問所では文科省が実施しているモニタリング調査を電力会社が輪番で実施しており、毎日定時に訪れて記入していく。4日午前中には「電力支援班」のゼッケンをつけた中国電力の社員がやってきて、手短に作業をすませていった。1時間あたりの放射線量は0・36マイクロシーベルトで、極めて低い数値であることを示していた。マスクをしているのは機動隊員だけで、電力社員たちはそのような防具はなに一つしていなかった。
 南相馬市の市街地から国道六号線を下っていくと、太田川の手前に検問所が設けられ、先に進めない状態になっている。検問所のすぐ手前にはセブンイレブンや食堂が軒を連ねたドライブインがあり、マスクやゴーグルを付けた機動隊員たちとは裏腹に、目と鼻の先で人人が普段と変わらぬ日常生活を送っていた。Tシャツ半パン姿の住民たちが、自転車を漕いで通り過ぎたり、食事にやってくる作業員などの姿がひっきりなし。五日午前中に訪れた時点での放射線量は0・25マイクロシーベルトとこちらも低い数値を示していた。
 食堂を40年間経営してきたという婦人は、「6号線は青森や北海道からのトラックが東京に向けて走っていく基幹道路。運転手たちが立ち寄って食べてくれていたのに、行き止まりにされて商売は上がったりなんです…」と困り果てていた。
 20㌔ポイントには研究者や報道記者などが多数やってきてみなが放射線量を測定していく。そして決まって「えっ、こんなに低いの?」「郡山の方が高い数値だ」と驚いて帰っていくのだと様子を語った。自宅の庭で被曝線量をはかってもらってもまったく問題はなかったこと、それなのに「20㌔圏内」といって数十㍍先の検問所から向こうの住民たちとは運命を二分され、みなが避難所暮らしを強いられていることに疑問を語っていた。
 男性住民たちも「この中でいったいなにをしているのかが不思議でならない。秘密の場所になっている。問題ないのなら帰してあげればいいのに、あまりに乱暴すぎる。20㌔圏内といって区切る根拠がなにもないのに、地図にコンパスで半円を書いただけで“危ない”といっているんだ」
 「放射線量を調べに来る電力社員もヘラヘラしてセブンイレブンで買い物をして、談笑しながら帰っていく。機動隊員たちも任務を外れた休憩時間の若い衆は、マスクやゴーグルを外して、上着だけ私服を着てブラブラ歩いてやってくる。キャッキャと騒いでいるのもいる。安全地帯とわかっているからだ。一方で避難所に送られた者がいつまでも途方にくれている。こんなに矛盾したことはない」と語っていた。
 南相馬からは原発のおかげで中通や会津に避難させられた人も多い。津波でやられた海側を除くと、街では以前の活気を取り戻そうと懸命な努力が続いており、行政も避難民を一日でも早く故郷に受け入れようと積極的な動きを見せていた。市民病院も制限していた入院患者の受け入れ枠を拡大するなど、通常業務に戻そうとしている。
 被曝線量は落ち着いているのに除洗のための作業をしようともせず、封鎖だけ力を入れている国の姿勢や、機動隊や警察車両ばかりが物物しい雰囲気で走り回る、異様な光景を見ながら、「核のゴミ捨て場にしようとしているのではないか」「そのために追い出されたのではたまったものではない」と原発周辺の住民たちは口口に語っていた。

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