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福島取材③ 「原発さえなければ…」 みんながもがいた10年間 浪江町や南相馬市を取材

 浪江町では、津波によって町内の6平方㌔㍍もの範囲が浸水、586戸の家屋が流出し、約1000の事業所が被災した。死者は182人(うち行方不明31人、家屋倒壊による圧死1人)。ほとんどが津波によるものだ。

 

 すべて流され、今でもなにもない更地を抜けて請戸漁港に行くと、白魚の水揚げの最中だった。キラキラと光る白魚が次々に水揚げされる。白魚は高級魚のため、イカやエビ、他の魚などが混入しないように仕分けなければならない。市場の競りの時間は決まっているため、それに間に合うよう漁港に船が着くと浜にいた漁師が集まってきて、みなで丁寧にしかし手早く仕分けていく。仕分け作業をおこなっていた女性は「手伝うこともあるし、手伝ってもらうこともある。みんなお互いさまよ」と話していた。

 

水揚げされた白魚を仕分ける(浪江町請戸漁港)

 請戸に揚がる魚は白魚や小女子(コウナゴ)、ヒラメ、エイなどが有名だ。生の白魚はほとんど流通していないため、めったに口にすることができない。北からの親潮と南からの黒潮が交わる福島県沖の魚は「常磐もの」と呼ばれる。年間を通じて200種類以上もの魚が水揚げされ、それぞれ高値で取引されていた。しかし福島原発の爆発事故によって沿岸漁業は自粛をよぎなくされ、2012年に部分的に漁業が再開されてから今も試験操業のまま。漁に出ることができるのは週に2、3回だけだ。月に200~300もの検体をスクリーニング検査し、25ベクレルをこえたものは精密検査、50ベクレルをこえたものは結果を公表し、出荷しないという福島県独自の基準ももうけて操業している。

 

 2020年には、相馬双葉、いわき市、小名浜機船底曳網の三漁協の水揚げ量(速報値)が試験操業開始後最多の約4532㌧にのぼった。前年に比べて26・5%の増加ではあるが、原発事故前の2010年と比較するとわずか17%、水揚げ金額も22%にとどまっている。しかし3月末で試験操業を終え、4月から段階的に操業の日数や海域の規制を緩め、震災前の水準へと戻す準備にとりかかるという。

 

 請戸漁港では、去年の4月8日にようやく市場が完成し競りが再開された。請戸漁港は福島第一原発から約6・5㌔の場所にある。原発事故後、放射線の影響によって帰還困難区域となり、工事すらできず復旧が遅れた。請戸の市場が再開されるまでは、水揚げをしてから1時間以上かけて車で相馬の市場まで持って行っていたという。

 

 漁師の女性は「ほとんどの漁師が家も船も津波で流された。沖に船を出して助かった人もいるが、遅れて沖に行く途中で津波にのまれて亡くなってしまった人もたくさんいる。震災から2カ月後くらいからは、船を出して津波で流された人の捜索や海の瓦礫の除去をしていた。今はまだ試験操業で週に2、3回しか漁に出られないが、4月から少しずつ拡大する準備に入るところだ」と話す。

 

現在の請戸漁港

 

 水揚げされた魚の値段はまだ安い。風評被害もあるが、震災によって仲買などの業者が減っていることの影響が大きいという。それに加え、コロナで各地の飲食店が閉まっているため値がつかない。

 

 男性漁師は「浪江は放射能の影響で町内に入ることもできず、復興が遅れた。津波で崩れた岩壁が修理され、使えるようになったのも3年前だ。そのときは、岸壁だけで漁港はまだ砂地だった。それまではみんな隣の漁港に船を入れて漁に行っていた。福島はずっと放射線の検査もして安全なものを出荷しているが、福島の魚が怖いという気持ちもわかる」と話す。

 

 請戸の漁師は震災前の5分の1にまで減ってしまった。98隻ほどあった漁船も今は28隻。現在2隻ほどつくっているが、これ以上増える見込みはないという。

 

 現在、国と東京電力は福島第一原発敷地内にたまる汚染水について、基準値以下に薄めて海洋放出する方針を示している。男性は、「風評被害を乗りこえようと検査をして安全性を保証したり、10年かけてようやくここまで福島の漁業を立て直してきた。それなのに原発の汚染水を流されたりしたら、また最初からやり直しになってしまう」と訴えていた。

 

 漁師だけでは漁業は成り立たない。水産卸売り・加工会社の「柴栄水産」は、請戸漁港市場の再開にあわせ、9年ぶりに操業を再開した。社長の柴孝一氏は「家も工場も倉庫も冷蔵庫も車もすべてを津波で流されてしまい、当初は再建するつもりはなかった」と話す。8回も避難先を転々として千葉に移り住んでいた。

 

 しかし震災から2年後、浪江町役場の職員や漁師たちと一緒に築地市場に視察に行ったさいに、築地の仲買人から「築地でのトップ引き(一番最初に値をつけるほどの良い魚)は請戸の魚だ」といわれ、みなが「絶対に請戸で漁業を再開させるぞ」と意気込み、「もう一度会社を再建してほしい」と要請され、会社の再建を決意したという。請戸の漁業を再建するには市場が必要だ。仲買がいなければ市場も再建できず、漁師が魚をとってきても買い手がいなければ値がつかない。しかし、震災前、請戸の仲買協同組合に28社いたが、戻ってきているのは柴栄水産だけだという。

 

 操業を再開して1年が経過するが、今はまだ試験操業のため会社の経営は厳しい。「水揚げが上がらないと仲買としてはどうしようもない。週に2回の水揚げでは厳しいため、元に戻るまでは我慢するしかない。会社としても今からだ」と話す。請戸の魚は新鮮で評判もいいため、風評被害としての値崩れは少ないものの、全国的な魚離れ、コロナの影響でヒラメなどは震災前の3分の1から半分ほどの値段だ。白魚も200㌘で2000円以上していたものが、今では450円ほどまで下がっている。

 

 柴社長は「放射能があったから請戸の復興はこんなに遅くなった。10年も経てばみんな避難先で生活を再建しているから戻ってこれない。それでもここまで立て直してきたのに、ここで原発の汚染水を流されると今まで頑張ってきたことに水を差される。政府は風評被害が出ないようにするというが、そんなことがどの程度できるのだろうか。判断するのは消費者だ。消費者が買わなくなれば魚の値段は落ちる」と語った。

 

 浪江町で飲食店を営んでいる40代の男性は、18歳で浪江町を出てからずっと関東で働いていた。しかし、震災後浪江に復興のための仮設商店街をつくることを聞き、「浪江を復興させたい」と戻ってきたという。

 

 「住民がいない町に戻って商売が成り立つのだろうかと最初は不安だらけだった。それでも自分が育った故郷がなくなるのが嫌だった。何かできないかと思っているときに仮設商店街の話を聞き、浪江に戻ってくることを決めた」と話す。戻ってきた当初、あまりにもどんよりとした町の空気に衝撃を受けたという。

 

 それでも「安全な数値まで線量は下がっている」と、出される数値を信じてやるしかない。「放射能は危ないかもしれないけれど、そんなことをいっていたら何も進まない。避難していた両親も浪江に戻ってきている。人生が80年だと考えると、放射能を浴びたとしても残りの人生に与える影響は少ない」。

 

 最初は除染などの作業員ばかりだった客も、今では地元の人など一般客が増えてきたという。このたび、商売を始めた仮設商店街を出て、新しく町内に店を建てた。「今戻ってきている人たちはみんな浪江をなんとかしたいという思いが強い。そうでなければ何千万円も借金をして店など始めない。絶対に浪江を復興させる」と強い思いを語っていた。

 

南相馬市 事故後の酪農家の苦悩

 

 福島第一原発の爆発によって飛散した放射線は、福島県内の農業にも大きな影響を与えた。農地が汚染されているため、何年もかけてすべての農地の表土を4~5㌢ほど除去した。汚染されていない地域でも風評被害によって作物の値段は大きく下がった。現在ほとんどの農地で除染作業が終わっているものの、それまでに離農した農家は少なくない。16年に避難指示が解除された南相馬の小高区では、トラクターの置いてある家を訪ねてもすでに離農したという人ばかりだった。

 

牛にエサをやる畜産農家(南相馬市原町区)

 

 南相馬市原町区のある肥育農家では約200頭の牛を飼育している。福島第一原発が爆発してから、ありったけのエサと水を牛に与えて避難した。しかし6日後に近所の畜産農家から「牛が鳴いているよ」と連絡が入り、農場に戻ってきた。1週間離れただけでも生後3カ月の子牛は死んでしまっていた。農場の女性は「放射能から逃げたくても牛がいるから逃げられなかった」と話す。家を離れている間に生きている牛も痩せてしまい、その後元に戻すのに苦労したという。

 

 しかし南相馬市など、福島県内の農家が出荷した牛から食品衛生法の暫定規制値をこえる放射性セシウムが検出され、またエサとして牛に与えていた稲わらからも1㌔当り9万7000ベクレルもの放射性セシウムが検出された。

 

 それにより1頭が百数十万円だった和牛の値段が30万円まで急落した。「当時は牛だけでなく、野菜も魚も“福島”とつくだけで売れなくなった。30万円なんて子牛を買うときと同じ値段だ。エサ代は上がるのに牛の値段は下がる。牛を連れて逃げるわけにもいかないし、いきなり未来が見えなくなる。本当に死活問題だった」と語る。200頭もの牛を飼っていると、エサ代だけでも月に何百万円もかかる。

 

 原発事故から3カ月後、この状況を悲観した相馬市の酪農家が堆肥小屋の中で「原発さえなければ」と書き残して自殺するという痛ましい事件が起き、全国に衝撃を与えた。それにより、福島の畜産農家に対し早急に補償がおりるようになった。「亡くなっている人がいるから、こんないい方が正しいのかはわからないが、あの人が亡くなっていなければ福島の畜産関係者はもっと死んでいた。酪農に関しては生乳は全廃だったから本当に苦しかったと思う。乳牛は毎日乳を搾らなくてはいけない。毎日エサをやり乳を搾って、それを捨てないといけないというのはとても苦しい」。

 

 補償金がおりるようになったが、それでも足りず無利子無担保で借り入れをした。原発事故後牛の頭数を減らすことも考えたが、借金を返さないといけないのでそれもできず、必死に金の工面をしたという。

 

 女性は「浪江や飯舘、小高区など避難指示の出た地域は牛も豚も鶏も置いて逃げなければいけなかった。その後は、福島県中の獣医師を駆り出して全頭処分だ。うちは牛がいたから立て直すことができたけれど、全頭処分したところは避難指示が解除になって戻ってきたところでやり直せない。小高区で再度畜産をしている人はいないと思う」と教えてくれた。

 

 農業や漁業、商業など人々が必死に生活を立て直そうとしている一方で、被災者が補償金で働かずとも生きることができてしまうという状況に疑問の声も上がる。

 

 畜産農家の女性は「最初は何もかもを失ってかわいそうだと思っていたが、急に大金を手にしてしまったからか、立派な家を建て、今まで軽トラだったのに急にレクサスやベンツなど高級車を買い、毎日パチンコに入り浸って心も頭もおかしくなってしまった人たちをいっぱい見てきた。補償金で大金を手にしてもまともでいられた人は2割くらい。8割は働かなくなってしまった」という。 

 

 今でも「生業訴訟」がおこなわれ、女性の家にも「生業訴訟の原告団に加わりませんか」というチラシが投函されていたという。「いつまで補償金にすがるつもりなのだろうか。本気でふるさとに帰ってやる気のある人たちはとっくに戻ってきている。いつまでも“生業訴訟”なんてやっていても福島は復興しない」と語っていた。

 

 南相馬市で事業を営んでいる男性は、震災後1カ月で事業を再開させたという。しかし当時は、働いて収入があればその分受けとることのできる補償金が減るため、働かないことを選択する人も多かったという。「働く人よりも、働かない人が得をするという制度が間違っていた。人間は5年間も働かずにいたら働く気がなくなってしまう。本当に福島を復興させるのであれば、もっと別の方法があったのではないか」と疑問を語っていた。

 

 福島県内を取材するなかで、福島を復興させたいという人々の強い思いを知ることができた。その一方でいまだにふるさとに帰れない人々をそのままに、ゼネコンや自動車産業などの大企業が復興を利用してもうけていることも。そして同じように原発の被害を受けた福島県内でも、補償金を受けた人、受けられなかった人、ふるさとに戻ることができた人、今でも戻ることができない人、さまざまな感情があることも知った。「原発さえなければ…」と多くの人たちが口を揃えて語っていた、この言葉がすべてのように思う。

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