いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

文字サイズ
文字を通常サイズにする文字を大きいサイズにする

26兆円かけて復興できぬ被災地 「創造的復興」路線の残酷

 被災地では津波被害にあった浸水地域が災害危険区域に指定され、その地域のほとんどが居住施設の建設を制限する建築規制がしかれている。人人がもともと住んでいた街に帰ってもとの生活をとり戻そうと望んでも許されず、仮設住宅や親族を頼ってほかの地域への転居を余儀なくされてきた。最近になって仮設から災害公営住宅や高台防災集団移転団地へ移り住むことが出来るようになっているものの、依然として被災者の生活再建に向けた問題の解決が遅れている。被災者がばらばらになり、地域コミュニティを喪失している間に、一方では国、県、市による大規模事業を散りばめた“創造的復興”がやられてきた。震災から五年を経てその復興がどのようなものであったのかを取材した。
 
 ゼネコンの山盛り大会の様相

 宮城県石巻市のなかでとくに復興の遅れが顕著にあらわれている雄勝地区は、とり残された街として一つのシンボルになっていた。
 雄勝町は2005年に石巻市と合併していた。震災前から、同じ石巻市でありながら政策や公共サービスが行き届かなかったり、後回しにされてきた。
 震災前には雄勝町には約1600世帯、人口4300人が暮らしていたが、震災後の5年間で人口は減少し、現在では約500世帯、人口1300人となっている。雄勝地区では震災・津波により20地区のうち半島先端部を除く15地区が壊滅的な被害を受けた。とくに被害が大きかったのが町の中心部で、618世帯のうち96%が全壊し、総合支所、病院、金融機関、学校などの生活関連施設を全て失った。
 かつて街の中心部だった地域は現在、みな災害危険区域に指定され、建築規制がかかったままだ。住民が住んでいた場所は更地のままの状態か、高台への防災集団移転計画のための宅地造成工事が進められているが、五年が経っていまだに盛り土の状態で、その土盛り作業すらも終わっていない。道路を車で走ると、津波によって破壊された岸壁が当時のままの状態でいたるところに残っていた。
 街には総合支所跡地に仮設商店街「おがつ店(たな)こ屋街」のほかに、飲食店や食料品店などが10軒ほどある。その周辺にはタクシー会社、硯工房、カフェ、八百屋、鉄工所、海産物屋が点在する。この商店街にはもともと中心部に住んで商店を営んできた人人が、「雄勝に残ってまた復興させて生活をとり戻したい」と集まって営業を再開させている。しかし、今は元住んでいた場所に家を建てて生活することはできないため、みな仮設や避難先から通っている。夜になると誰も人がいなくなるのが雄勝だ。
 被災地では雄勝に限らず、建築規制がかかった地域はどこでも、かつてその地に住み、“生業”を形成してきた人人が遠く離れたよその仮設に追いやられ、仮に商店や漁業を再開したとしてもただの「職場」でしかなくなっている。店こ屋街まで毎日1時間半かけて通っている男性は「もう震災から五年経つが、数年ぶりに雄勝へ来たボランティアの人たちが“数年前に来たときから全然変わっていない。とっくに人が住めるようになっていると思っていた”と驚いていた。街がただきれいになっただけで生活は震災直後とほとんど変わりは無い。津波に街は流されたが、多くの住民がこの地でまたやり直そうと思っていた」と語った。
 最低限必要なコミュニティが整わず、買い物も石巻市街地まで一時間以上かけて行かなければならない。仮設暮らしの高齢者は一緒に車に乗せてもらうしかない。住民が離散した状態のまま五年が過ぎ、今後自分の生活をどこでどのように営んでいくのか、先が見えず計画も立てられない状況に立たされている住民も少なくない。

 造成の為住民追出し 帰還の見込みは28世帯

 雄勝中心部では現在、130億円をかけて高さ9・7㍍、延長3・5㌔の防潮堤を建設する計画が進んでいる。また、中心地の雄勝上地区にある大原川では現在、もともとあった川の堤防を震災前の4㍍から9・7㍍へと高くする工事がおこなわれている。この計画はもともと流れていた川の河口部分を潰して隣に新たな人口の川と堤防を造り、元の川と合流させる大がかりなものだ。防潮堤と河川工事はどちらも県の事業で、100年に1度の割合で発生が予想される「レベル1(L1)」の津波に対応する考えに基づくものだが、この地域には建築規制で人は住めない。住民の住む場所の整備、生活の復興を後回しにして、人が住めない土地の整備に大金をつぎ込む事業となっている。
 加えて「雄勝中心地区拠点エリア整備事業」なる高台造成事業をおこなっている。沿岸部を通っている道路を8・9㍍の高台へ移し、そこからさらに高い15㍍の高さの場所に居住施設建設が制限された商業店舗やグラウンド、体育館などを建設するための土地を整備。さらに20㍍の地点に高台住宅団地や雄勝総合支所・公民館、消防署などを建設するというものだ。
 この事業のために、今の仮設商店街や周辺の商店、鉄工所などは立ち退きが決まっている。仮設商店街で働く男性は、「この仮設商店街は震災直後、津波に呑まれた街に住民たちが戻り、全国から来てくれたたくさんのボランティアの人たちとともにヘドロのなかから資材をかき集めた。津波の被害で窓ガラスもない吹きさらしの総合庁舎の一室で、暗くなっても携帯電話の灯りでお互いの顔を照らしながら何度も雄勝の街の将来のために話し合いを重ねるなかでやっとの思いで再建してきた。この高台造成事業は仮設商店街のあとから出来た計画だが、市はわざわざこの仮設商店街に範囲が被るような計画を出した。みな本設に戻るために仮設で頑張っていたのに、立ち退きによって仮設の仮設へ追い出されることになる。行政の神経を疑ってしまう」と憤りを語った。
 住民の1人は「事業が遅れれば遅れるほど雄勝へ帰ることをあきらめざるを得ない。完成は29年6月と聞いているが、今の様子だともっと遅れる。そうすればさらに帰還を望む人は減る。高台計画にみな振り回されるだけで自分の生活すらまともに計画できないのが現状。完成しても2、3年後にはゴーストタウンになるのではないかと話になっている」と話した。
 高台事業の計画が出た当初は、まだ高台の防災団地への帰還を希望する世帯は50軒ほどあったが、平成26年3月末時点で28世帯、65人まで減っている。中心部をみても震災前は618世帯、1668人が暮らしていたが、将来世帯数は77世帯、173人にまで減る見込みだ。塩漬けにして帰還を長引かせれば長引かせるほど、帰還する人間は減っているのである。膨大な金を投じて人が住まない土地を創出するという本末転倒がやられている。
 かつての中心部であった地域を最大20㍍かさ上げし、何年間も住民を外へ追い出して大規模な事業を進めても、そこに住む見込みのある住民は現時点でわずか28世帯、65人のみ。計画には商業店舗エリアもあるが、住む住民が少なければ商店も商売にならない。この「拠点エリア整備事業」が、これまで現地に住んできた人人の生活形態や意識、自然のなかで形成されてきたその地域の特性とはことごとく食い違ったものであり、住民たちにとっては受け入れがたいものとなっている。
 雄勝に限らず三陸沿岸の人人は歴史的に津波の被害を身をもって経験してきた。10~20㍍の防潮堤やかさ上げを施したところで、自然の猛威には太刀打ちできないことを肌身に感じてきた。津波からは「てんでんこ」の教えの通り、逃げるしかないのだ。今回の津波も最大で40~50㍍地点まで駆け上がったという記録がざらで、とくにリアス式海岸に押し寄せてくる津波の場合、逃げ場がないために威力を増し、人工構造物を駆け上ってくることは容易に想像がつく。「いざとなったら自然の力に人間の力では太刀打ちできないことはわかりきっている。逃げるしかない。だからこの辺りの人たちは車を停めるときは必ず山手に向けたり、駐車場の出口に向けて停めている。防潮堤を作るよりも、すぐに高台へ避難する大きな避難道路を作ってくれた方がよっぽど金もかからないし、この辺りの土地の構造からしてもマッチしていると思う」とある漁師は語っていた。「防潮堤よりも避難できる施設や道路を」という意見が被災地域では圧倒的に多い。
 雄勝の中心部の地盤は固い岩盤でできており、震災のときにマンホールが浮いた所はなかった。その土地の上に20㍍も土を盛り、わざわざ軟弱な土地を造ってその上に新たな“街”を形成するというのがこの事業だ。ある男性は、「本来なら土を盛れば5年ほど寝かすのが常識だが、29年の完成まであと1年ほどの段階で土盛りも終わっていない。そんな突貫工事で造られた土地に家や総合支所、消防署や警察署を建てるという。街の“形”だけできればそれで良いのか。地震が来たらどうなるのか、素人の目で見てもどうなるかは目に見えている。この計画を考えた人には“自分が家を建てるときにこんな土地に建てようと思うのか”といいたい。これでは誰のための施設建設なのか分からない。外見だけのパフォーマンスのための復興ならいらない」と語った。
 住民が望まぬハコモノ事業が持ち込まれ、それにより一向に生活環境が整わない状況が五年も続き、さらに今後も先が見通せない。そのことが住民たちを郷土雄勝から遠ざける要因になっている。大規模なかさ上げや防潮堤建設が終了するまで帰還はお預けにされ、その間に被災者は絶望して帰還をあきらめる。完成した頃には本来戻るべき被災者は人口流出して出て行き、年寄りだけになった…という事態が十分に予想されるものだ。あるいは、広大な空き地を企業が接収していくという顛末にもなりかねない。「浸水地域」というだけで建築規制がかかり、このままでは五年たって戻れないだけでなく、10年たっても戻れる確証などない。住民を戻す、生業を復活させるための復興ではなく、ゼネコンが丸儲けしていく設計思想が貫かれているからにほかならない。住民の暮らしを二の次にして、何をやっているのか? 誰のために復興しているのか問わないわけにはいかないものだ。

 被災地全体に共通 住民帰れぬ更地の創出

 この問題は雄勝だけにとどまらず、被災地全体で問題となっている。岩手県の陸前高田市では、津波被害にあった街全体の広大な土地が土の山で覆われ、高台造成工事が進んでいる。高台にある市役所付近にたどり着くまでは、周囲の景色は土ばかりである。まるでゼネコンの山盛り大会かと思うような唖然とさせる光景が広がっている。高台では防災集団移転のための住宅建設が進む段階で、仮設住宅の住民はいつまでも釘付けにされている。終の棲家を求めて出ることすらできない状況だ。住民たちはかつて住んでいた郷土に延延と土の山が広がり、なかなか終わらない土盛り作業を高台の仮設住宅から見ることしかできない。いつ終わるともしれない壮大な山盛り大会の傍らで、高齢者の要介護度の上昇が問題視されはじめ、仮設住宅から出ることをあきらめる人も出はじめている。
 宮城県の南三陸町でも陸前高田と同じように広大な土地の造成工事がおこなわれている。土の山山の間を縫うように道路が走っており、道路からは海など見えない。
 気仙沼市も市場周辺の水産加工団地の区画整備や道路の舗装工事などは石巻の市場周辺と比べればかなりの遅れがあり、加工団地の周りの道路は行き止まりや砂利道も多く、護岸工事もまだ完了していない。巨大防潮堤を作るか否かで紛糾して迷走し、その後の遅れにつながっている。「巨大防潮堤を作り、かさ上げしてから街作り」というコースを歩んだ街ほど生活再建は遅れを見せ、ひどい置き去り状態にあるのが特徴だ。雄勝地区の隣接にある女川町、石巻と気仙沼など、「かさ上げ」「巨大防潮堤」を選択したか否かによって復興の進捗には差がつき、隣接地区や同じ水産都市によっても差異が生じている。
 被災地全体の復興状況やそれにともなってあらわれている現象や問題点は地域によって異なる。しかし、どこでも住民たちの地域コミュニティの形成、生活再建よりも先に国が主導する創造的復興路線が主人公を気取り、膨大な復興予算を投じながら人人の生活は後回しにされている。26兆円もの復興予算をつぎ込んで被災地でおこなわれてきたことは、津波被害にあった地域から住民を追い出し、建築規制をかけて住民からぶんどった土地で住民たちの望まない大規模工事による更地創出であった。福島の人人は放射能で帰ることができずにいるが、宮城でも岩手でも結局住民は故郷に帰れず、“復興”は成し遂げられていない。国民の生命や安全を二の次にした政治、統治の残酷な姿を被災地があらわしている。

関連する記事

Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterEmail this to someone

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。なお、コメントは承認制です。