いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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『〈弱さ〉を〈強み〉に 突然複数の障がいをもった僕ができること』 著・天畠大輔

 1981年、広島県生まれの著者は、14歳まではよく食べ、体の大きい、ガキ大将気質な「普通の」子どもだった。それが14歳のとき、若年性急性糖尿病で救急搬送された病院の処置が悪く、心肺停止に陥った。そして約3週間の昏睡状態の後、全身が自由に動かせず、目が見えにくく、耳は聞こえるけれど、自分の口で話すことができずコミュニケーションがとれないという重い障がいが残った。

 

 自分の意思とは関係なく身体が動いてしまう不随意運動があり、さらに筋肉の緊張がとても強く身体の動きをコントロールすることが難しいため、機械による意思疎通も無理。そのとき母が「あかさたな話法」を編み出した。

 

 たとえば「テーブル」と伝えたいとき、まず介助者が著者の腕をとり、「あ、か、さ、た、な…」と読み上げると、著者が「た」行で腕をひく。さらに介助者が「た、ち、つ、て、と」と読み上げ、「て」で腕をひくことで、最初の文字は「て」だとわかる。他の文字も同じ方法で読みとり、組み立てていく。介助者が「こ、ん」まで読みとって「こんにちは、ですか」と確認したり、嬉しそうな顔から「お会いできて嬉しいです」と先読みして相手に伝えたりする。

 

 文章を書く場合は、著者が先に「あかさたな話法」で論旨を伝え、介助者がこれまでの著者の文章を参考に膨らませて文章化し、それをたたき台にねりあげていく。アウトプットされた文章を何十回も読み直し、修正し、最終的な文章にする気の遠くなるような作業。著者と介助者の共同作業であり、深い信頼関係がなければ成り立たない。この本もこうしてできたと知り、その長い長い道のりを想像して思わず空を仰いだ。

 

 当初、自分の思い通りに動かず、コミュニケーションもとれない身体。管理され、自由のない施設での生活。わずかだが救いを感じられる存在だった友人の死。それらが負のスパイラルとなって、一時は「死んだ方がマシ」と自暴自棄になったこともあるそうだ。

 

 しかし、養護学校の教師の「まず1年、生きてみないか」という言葉を励ましに、次第に前を向くようになる。高等部2年のときから施設を出て親と一緒に暮らし始め、大学進学をめざす。だが、そもそも重度の障がい者の大学受験の前例がない。受け入れてくれる大学はあるのか? そのとき立ち上がったのが5年間で70人にのぼる学生ボランティアたちで、友人同士として著者の受験勉強を支えた。養護学校卒業から4年目の春、著者は大学生となるが、それが重度障がい者への大学の門戸開放の先駆けとなる。

 

 しかし、大学生活には授業時間のノートテイク(講義内容の筆記)、板書やプリントの読み上げ、コミュニケーションの介助、教室の移動、トイレ、食事…などの介助が不可欠。ボランティア頼みに限界を感じた著者は、学生たちと「ルーテル・サポート・サービス」という団体を立ち上げ、大学に運営予算をつけてもらい、学生の介助サポートを有償にするシステムを実現する。「障がいを持っていても誰もが安心して学べる大学に」というのが彼らの合言葉で、それを自分たちの行動で切り開いていった。

 

 著者はその後、大学院へ進学して博士号をとり、24時間365日の介助とともに自立生活を送りながら、介助者を派遣する事業所を立ち上げ、日本学術振興会特別研究員として中央大学で研究・発信を続けている。

 

 この介助者派遣事業所というのも、自分の研究活動を続けるためだけでなく、自分の経験を生かして他の重度障がい者の相談・支援をおこなうために創設したもの。当事者が介助者を雇うことで、介助者の人生を支える責任が生まれ、自分と介助者がともに支えあっているという実感が、当事者の生きる意欲につながっていると書いている。また、介助者を雇用することで地域に雇用の受け皿を創出するものであり、このしくみを全国に広げたいという。

 

 本書を読むと、重度の障がい者が社会の様々な分野で活躍していることがわかる。そしてその活躍は介助者に支えられている。当事者である重度障がい者と介助者との関係を、著者はどう見ているのか。

 

 かつて1970年代の障がい者運動は、「健常者は差別する主体だから黒衣に徹するべき」という論理に立っていた。それがその後の、「やってほしいことだけをする」介助=手足論に発展する。

 

 これに対して著者は、それだけでは障がい者の生活は成り立たないとのべている。介助派遣事業にしてもたんなる契約関係ではなく、当事者と介助者がともに過ごす時間を積み重ねるなかで、お互いのことを理解し、ともに創り上げていくものであり、ある程度介助者が「勝手に動く」ものだ。介助者は同志であり、ときにはNOといってくれる存在であり、尊敬しあい切磋琢磨しあう関係なのだ、と。そこに一人ではできない新たな可能性も生まれる。

 

天畠大輔氏

 著者は、身体が自由に動かず、話せず、よく見えず、残された「考える」ことしか自分を活かす道がないと思って研究者を志したが、研究者として不可欠な文書作成などの発信も介助者の能力に「依存」しなければならない。それは研究者としての「弱さ」に違いない。しかし、だからこそ多くの人に関わり、深く繋がり、ともに創り上げる関係性を築いていけるし、それが自分自身の「強み」なのだという。他者に依存しながら、同時に力をあわせてなにかを生み出すというのは、人間誰しもそうではないか。

 

 かつて施設に収容され、管理され、生きる主体性を与えられてこなかった重度障がい者たちは、先人たちの血のにじむ運動によって地域で生活する権利をようやく獲得するようになった。そして今、制度を利用して自立生活を送っている障がい者の多くが、「成長したい」「やりがいのある何かに挑戦したい」「社会のために役立ちたい」と願っているそうだ。著者は今、「企業に雇用されながら介助を使うことは認められない」という公的介護制度の問題点を改善しようと、「介助付き就労」の普及・啓発をおこなっている。

 

 ちなみに著者は、今の参議院選挙に、れいわ新選組の全国比例区候補者の一人として立候補している。 
    
 (岩波新書、238ページ、定価880円+税

 

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この記事へのコメント

  1. 京都のジロ- says:

    『〈弱さ〉を〈強み〉に 突然複数の障がいをもった僕ができること』
    図書館で借りて早速読みました。

    想像できない苦労をご本人、ご家族はされてきたと思いますが、諦めずいつも前向きにできることを
    考えながら一歩づつ進み解決される姿に心打たれました。
    彼なら国会議員になって福祉行政を変革できることでしょう。

    障碍者である天畠大輔氏を擁立した理由を,れいわ・山本太郎代表が明快に答えています
    ご参考にお聴きください。

    https://www.youtube.com/watch?v=8tlJ2GuuDts&list=PL0ZvGj4h6g8HYA7PvvJQCzGUK3cUaB8DR&index=1

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