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『餓死した英霊たち』 著・藤原彰

ガダルカナル島の争奪戦で全滅し、テナル河畔に倒れた日本兵(1943年1月)

 1937(昭和12)年に本格化した日中戦争と1941(昭和16)年に始まり45年まで続いた太平洋戦争で、日本軍の戦没者は約230万人だったが、そのうちの半数以上、約140万人が餓死か、または栄養失調によって伝染病にかかって息絶えた戦病死だった。「戦闘で華々しく戦って名誉の戦死を遂げたのではなく、多くが飢えと病気にさいなまれ、やせ衰えて無念の涙をのみながら、密林のなかで野垂れ死んだ」のであり、それがある場所の特殊な状況ではなく、戦場の全体で起こっていた。

 

 みずから中国戦線の戦地体験者で、一橋大学社会学部教授の著者による以上の研究が社会的な注目を浴びたのは2001年のことだったが、その後、「あの戦争は何だったのか」「おかしな戦争だった」という問題意識の高まりのなかで、2018年に筑摩書房から復刻版が出た。それが本書である。

 

 一つの典型が、1944年3月にビルマ方面軍が決行したインパール作戦だ。この作戦は第15軍がチンドウィンの大河を渡り、インドとビルマの国境のアラカン山脈をこえ、インドのアッサム州に侵入するというもので、10万の大軍が徒歩で大河と密林と山脈を何カ月もかけてこえるのに、補給を確保する見込みは初めからなかった。制空権は連合軍側に移り、昼間の行動も制限されていた。参謀長も師団長全員も作戦に異を唱えたが、大本営のお墨付きを得た軍司令牟田口中将が決行した。

 

 すでにこの年の2月にはマーシャル諸島のクェゼリン、ルオット両島の守備隊は全滅、連合艦隊の最大の拠点トラック島も壊滅していた。日本軍の敗戦は避けられなかった。にもかかわらずインパール作戦は実行された。

 

 実際、大本営が作戦の失敗を認めて7月3日に中止を命令するまで補給は皆無で、餓死や栄養失調が蔓延し、マラリアなどの患者が多発したが後送もままならなかった。その後、退却に移ってからはさらに悲惨だったといわれる。雨期に入ったアラカン山系の密林の中、退路は兵士の死体が埋め尽くす「白骨街道」と化した。

 

 「遺棄された死体が横たわり、手榴弾で自決した負傷兵の屍があり、その数がだんだん増えてきた。石ころの難路を越え、湿地にかかると、動けぬ重症の兵たちが三々五々たむろしていた。水をくれ、連れて行ってくれ、と泣き叫び、脚にしがみついて離れないのだ。髪はのび放題にのび、よくもこんなにやせたものだと思うほど、骨に皮をかけただけの、憐れな姿だ。息はついているが、さながら幽霊だった」と生き残った兵士が書き残している。

 

 著者の調査では、ビルマ戦線全体の日本軍戦没者は18万5000人で、そのうち78%、ほぼ14万5000人が栄養失調死と、体力の低下によるマラリア、アメーバ赤痢、脚気などによる病死だという。

 

 アジア太平洋の戦場で、もっとも多くの戦没者を出した地域はフィリピンだ。1944年6月にサイパンが陥落し、日本軍の敗戦が濃厚になった後、大本営はフィリピンが次の決戦場だといって61万3600人という大兵力を投入したあげく、米軍との戦闘に敗れた後は何の対策も講じず、大兵力を飢餓にさらされるままに放置したからだ。こうして兵力の81%、49万8600人が戦死、戦病死した。

 

 フィリピンでの戦闘前、日本軍の輸送船は米潜水艦に次々と沈められ、6~8月の間だけで1万7000人が海没した。続いて派遣された兵士たちは、大本営の気まぐれな作戦指導によって、ルソン決戦からレイテ決戦、再びルソン決戦と方針転換に振り回され、米軍によって空母のすべて、武蔵以下の軍艦多数を失う壊滅的損害を受けた。上陸した陸軍部隊は、兵器も弾薬も食料もなく、住民部落から離れた山中での持久戦に追い込まれた。そのため極限の人肉食いまで生まれた事実がある。

 

 第14方面軍の参謀長が大本営の指導部を名指しして「一体何人殺せば作戦課は気が済むのか」と激怒した、という記録が残っている。フィリピンの戦没者約50万人のうち、純然たる戦死者より、栄養失調を原因とする病死や餓死の方がはるかに多かった。

 

 一方、中国戦線での戦没者は45万5700人である。死者がもっとも集中したのが最後の2年間であり、そこでは戦病死が戦死者の3倍以上にも達していた。病気の大部分が長期間の不十分な食料で、栄養失調状態にあって病気に対する抵抗力を失っていたため、マラリアや赤痢などにかかって戦病死に至ったという。

 

 ある従軍軍医が、1944年5月から始まった大陸打通作戦の中の湘桂作戦の惨状を書き遺している。大陸打通作戦とは、インパール作戦と同時期に大本営が命じた作戦で、黄河を渡り華中、華南を通って仏印に至るまでの1400㌔に及ぶ長大な距離を、16個師団50万の大軍を動かした、日本陸軍始まって以来の作戦だった。そしてこの作戦は、一体なにを目的として企てられたのかさっぱりわからないのが特徴で、当初、大本営は中国軍の本拠地・重慶を攻略するといい、結局、中国奥地の米軍航空基地を占領するといったが、サイパン陥落で米軍航空基地がマリアナ諸島に移って以降も、無意味となった作戦を中止せず実行した。食料の補給はなく現地調達であり、長距離の行軍で疲弊して多大な餓死者が出た。

 

 従軍軍医は、44年5月下旬から11月下旬までの半年間に、戦死1万1742人、戦傷死2万2764人、戦病死6万6543人を出したと書いている。戦争栄養失調と診断した者の死亡率は98%に達したという。

 

 著者は後半、日本軍はなぜこのような大量の餓死者を出したか、その原因を究明しようとしている。そして、日本軍特有の、天皇への忠誠と死を要求する精神主義を主な原因とし、その精神主義が火力の軽視(三八式歩兵銃という旧式銃で武装させたこと)、食料や武器・弾薬など補給の軽視、歩兵の銃剣突撃至上主義や、「生きて虜囚の辱めをうけるな」という捕虜禁止と「玉砕」を生んだとのべている。

 

 こうした精神主義が広く浸透していたのは事実で、戦地体験者も多く語っている。だがそれだけでは、戦争の帰趨が明らかになった後も、負けるとわかっていた戦争をズルズルと引き延ばし犠牲を拡大したのはなぜか、という疑問に答えられない。また、あれだけ「鬼畜米英」を叫んでいた為政者が、戦後は掌を返したように対米隷属の道を進み、国益を投げ出してはばからない現状を説明できない。

 

 アメリカは早くから日本を単独占領してアジア侵略の拠点にすることを意図し、天皇をかいらいとする戦後支配のプログラムを持っており、そのために日本人をイエローモンキーと呼んで眉一つ動かさず広島・長崎の老若男女に原爆を投げつけた。一方天皇や日本の権力中枢は、44年には「敗戦は必至。米英は国体の変更は求めず。もっとも恐るべきは国民による革命」だという認識を持っており、自分たちに戦争責任が及ぶことを避け、その地位が保障される形でアメリカに頼って戦争を終結させる道を探った。異常な餓死者の多さがあらわれたのもこの時期にあたる。

 

 著者はすでに故人となったが、その研究成果を受け継ぎ、発展させることが期待される。

 

 (ちくま学芸文庫、274ページ、定価1100円+税

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