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映画『オッペンハイマー』(クリストファー・ノーラン監督)を考える

映画『オッペンハイマー』の一場面

 ハリウッド映画『オッペンハイマー』(クリストファー・ノーラン監督、2023年)が3月29日から全国で公開されている。広島・長崎に投下した原子爆弾を開発した「マンハッタン計画」。映画は科学者としてその先頭に立ったロバート・オッペンハイマーの伝記、実話をもとに、その「栄光と不遇の人生」に焦点を当てたドラマである。2023年7月にアメリカと世界各地で公開されたが、日本での公開は見送られてきた。試写段階で「原爆を扱った映画なのに、なぜ投下直後の広島・長崎の情景が出てこないのか」という疑問や批判が飛び交ったからだ。このような経緯から、この映画がはらむ欠陥と製作側の後ろめたい感情がある程度は推測されたが、上映された実作を通してこの問題を考えたい。

 

 映画は、物理学者のオッペンハイマーが人類初の核実験を成功に導いたことで「原爆の父」と英雄視されるが、核兵器の破壊力を目の当たりにして衝撃を受けたことから、水爆開発に反対し迫害を受けた半生涯を描いている。だが、そのストーリーは客観的な視点に立ったドキュメンタリーではなく、科学と戦争、科学者と倫理の狭間で苦悩するオッペンハイマーの内面世界をさまざまな技法で表現することに眼目がある。

 

 ノーラン監督自身、「私が目指したことは、歴史の大転換期の絶対的中心にいた人物の、魂と経験の中に観客を導くことだ」と明言している。主人公の苦悶とともに鮮烈な光の点滅、打楽器を交えた激しい音響が連続するなかで、時系列を飛び越えた断片映像が飛び交い、カラーとモノクロの転換で視点を錯綜させる。こうした異例の手法は、観客をオッペンハイマーの強迫観念にまで没入させるためだとされる。それが登場人物の多さとあいまってこの映画の難解さを生み、観客の思考を混乱させることも計算のうちにあるといってよい。

 

 ドラマのメインストーリーは、若き秀才のオッペンハイマーが「マンハッタン計画」の原爆開発プロジェクトの責任者となり、計画を指揮したグローブス将軍のもとで科学的な難題や科学者同士の確執などさまざまな障害をはねのけて原爆開発に邁進するという筋書きである。

 

 オッペンハイマーは当時の科学者が進言した「ナチスに原爆を先行させてはならない」という思いを胸に、ニューメキシコ州の荒れた砂漠にロスアラモス研究所を設立し、一つの町を建設して家族とともに移り住む。その途上で、ナチス・ドイツが敗北したことが伝わる。原爆開発の前提が崩れたことから、科学者の間で日本に原爆を使用しないよう、少なくとも遅らせるようトルーマンに求める署名入り嘆願書が回覧される。これに対して、実験成功を急ぐオッペンハイマーは署名を拒み、「科学者の責任は原爆開発までで、それをどのように使うかまで口出ししてはならない」と説得する側に回るのだ。

 

 そして、ようやく最初の核爆発を成功させ、スタッフたちが夜間の色鮮やかな原子雲に魅入り喜び合う場面がこの映画のクライマックスで、全体として暗さが漂うこの映画のもっとも晴れやかな瞬間として描かれる。

 

 しかし映画は、アメリカがその原爆を使って広島、長崎で女性や子どもら21万人以上の民間人を一瞬にして焼き殺したこと、さらに多くの人々が放射能の影響で苦しみ次々に息絶えたことについては映像はもちろん、言葉でもふれぬままである。そのうえに、トルーマンの「原爆を投下しなくては、戦争は終わらせることができなかった。原爆は戦争終結を早め、多くの人々の命を救った」とのラジオ声明が追い打ちをかけるかのような効果をもたらしている。

 

 ノーラン監督は、「オッペンハイマーの主観世界を忠実に描くために、原爆投下後の広島・長崎の光景は取り入れなかった」と弁明するが、オッペンハイマーが広島での原爆効果を伝えるスライドを見て驚愕する場面でも、スライドの中身は見えないようにするという徹底ぶりだ。

 

 さらに戦後、オッペンハイマーが水爆の開発に反対し核兵器の共同管理をとなえたことで「ソ連のスパイ」の嫌疑をかけられ、妻や弟が元共産党員でありオッペンハイマーもその集会に参加していたことなどを追及され、機密情報へのアクセスを断たれ科学者の道を閉ざされる場面では、当時の「赤狩り」に身を投じたトルーズ(原子力委員会委員長)や水爆開発をリードした科学者テーラーらのオッペンハイマーを陥れる証言にも無抵抗で甘んじる様子が映し出される。

 

 このようなおよそ7、80年も前のオッペンハイマーの主観世界を無批判に再現しようとする映画は必然的に、観客がアメリカの原爆開発の「偉大」な事業を懐かしみ、広島・長崎への投下の正当化を印象づけられたまま、戦後のオッペンハイマーの転落に同情を抱いて帰宅の途に着くように促すものとなっている。

 

アインシュタインとの対比

 

 この映画でも克明に描かれているが、グローブスらが人類最初の核実験の成功を急いだのは、戦後のソ連との世界での覇権争いを睨んでのことであった。そのために、日本の敗北がすでに決定的であったにもかかわらず、ソ連の参戦前に日本に原爆を投下することが至上命令とされた。

 

 しかし、オッペンハイマーはアメリカの原爆開発を成功させたことに晩年にいたるまで誇りを持っていた。アイゼンハワーら少なからぬ政府・軍の要人が「戦争を終わらせるうえで原爆は必要でなかった」と発言するなかでも、広島・長崎への原爆投下を正当化する主張を撤回することはなかった。そのことは、1960年に日本を訪れたとき「原爆開発の技術的な成功に関わりをもったことは後悔していない」とのべ、広島・長崎を訪れようとしなかったことにはっきり見てとることができる。

 

 また、映画ではオッペンハイマーがプリンストン高等研究所の所長に赴任したとき、同所にいたアインシュタインと出会う場面がある。どこか精神的に穏やかでないオッペンハイマーと落ち着いた風貌のアインシュタインの対比が印象的だ。それは、同じユダヤ人のアインシュタインがマンハッタン計画に参加せず、原爆開発を進言した一人となったことを反省し、戦後は原爆投下を許した科学者の責任として湯川秀樹らと原水爆に反対する宣言を発し世界の科学者運動の先頭に立つなど、オッペンハイマーとは常に対極的な位置で活動したことと無関係ではないだろう。

 

 オッペンハイマーのこうした頑固な自己愛、古い世界観の限界を、この映画は擁護しそのまま踏襲している。そのため、広島、長崎の原子雲の下の地獄絵の惨状を明らかにすることはできなかったし、しなかったのである。オッペンハイマーが固執した原爆投下の正当化は、これまでアメリカ政府やメディアがやってきたように、ナチスをはるかに上回る広島、長崎での世界史上最悪の大量虐殺の実態を覆い隠すことによってしか成り立たないのだ。


 また、そうすることによって映画『オッペンハイマー』はエンターテインメント作品として、今年1月のアカデミー賞で作品賞、監督賞ほか演技、撮影、音響などの技術面から最多の7部門で、ハリウッドで最高の評価を受けたのである。SNSを炎上させた「バービーハイマー」ブームは、そのことを理解するうえで十分ともいえる現象であった。

 

アメリカでどう観られたか

 

SNSで拡散された「バービー」と「オッペンハイマー」のオマージュ画像

 アメリカの興行では『オッペンハイマー』と同時公開されたコメディ映画『バービー』と合わせたチケットを販売する「バービーハイマー」という用語を生み出したが、そのなかで原子雲を背景にバービー役の女優がオッペンハイマーの肩に乗って笑顔ではしゃいだり、髪の毛をきのこ雲に置き換えて揶揄する合成画像が出回った。バービーの公式Xのアカウントがこの画像を利用したことで、若者を中心に怒りが噴出し、ワーナーズ・ブラザーズが謝罪を出すまでに追い込まれた。この事件はハリウッドが『オッペンハイマー』をどのように位置づけているかを隠しようもなくさらけ出すことになった。

 

 『オッペンハイマー』は世界興行収入で、高い業績をあげたという。アメリカの観客の6割は34歳以下の若者だとの報道もある。ハリウッドでは原爆をとりあげた長編映画や劇映画はほとんど製作されてこなかった。そうしたもとで、学校教育でも原爆投下の真実を教えられないアメリカの多くの若者が原爆開発を扱った『オッペンハイマー』にある種の期待をもって劇場に出向いたことがわかる。

 

 日本のマスコミはこの映画をめぐっても、原爆投下についての「日米の温度差」をことさら強調し、アメリカにはアメリカの論理があることを理解するよう唱えている。

 

 だが、アメリカの世論調査(ピュー研究所)でも、原爆の使用を「正しかった」というアメリカ人は終戦直後は85%だったのが、2015年には56%にまで減っている。とくに、18歳から29歳の若者は47%と過半数を割っていた。また、2020年の調査では、18歳から24歳までのZ世代の52%が「アメリカは日本に謝罪すべきだ」と考えており、「謝罪すべきではない」と考える23%を大きく上回る現実がある。

 

 映画『オッペンハイマー』の日本での公開を機に、原爆問題についての論議が広がっている。これを、唯一の被爆国日本と原爆投下国アメリカの新しい世代が広島、長崎への原爆投下の犯罪を糾弾し、核兵器の廃絶に向けた平和の絆を固めあう契機にすることが期待される。

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