いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

文字サイズ
文字を通常サイズにする文字を大きいサイズにする

『人類と病――国際政治から見る感染症と健康格差』 著・詫摩佳代

 著者は東京都立大学法学政治学研究科教授。グローバル化が進む今、感染症は簡単に国境をこえてしまうので、国際保健協力なくして人類は感染症にうち克つことはできない、という問題意識から先月、本書を世に問うた。

 

 複数の国が感染症対策のために協力した最初は、黒死病(ペスト)の流行に直面した14世紀のヨーロッパだった。19世紀になるとヨーロッパの諸国間でチフスやコレラへの共同対処を話し合う国際衛生会議が定期的に持たれるようになり、第一次大戦後には結核に対するBCGワクチンが初めて使用され、ペニシリンが実用化されるなど、科学技術の発展が病とのたたかいを大きく助けた。その活動は第二次大戦後、WHO(世界保健機関)に引き継がれ、天然痘、ポリオ、マラリアの3つの感染症対策プログラムが実行された。

 

 WHO憲章は、「健康への権利」をすべての人の基本的権利の一つとしている。それは医療・医薬品への平等なアクセスや、健康な生活を可能にする幅広い要素――安全な飲み水や衛生インフラ、安全な食料、健康に関する教育と情報――の提供を意味する。

 

 しかし現実には、新しい薬やワクチン、治療法が次々と生み出されているにもかかわらず、人々がそれにアクセスすることは容易ではないし、むしろ薬を入手できる人とそうでない人との格差が広がっている。世界人口の3分の1にあたる約20億人には必須医薬品へのアクセスがない。それがあれば年間約1000万人の命を救うことができるのに。それはなぜか? この問いが本書の全体を貫くテーマである。

 

トリップス協定で20年保護 新薬に排他的権利

 

 著者によれば、医薬品へのアクセスが阻まれているのは、医薬品の流通や価格が市場メカニズムに依拠しているからだ。だから医薬品の開発は、どれだけ必要とされているかよりも、いかに多くの利益を生み出すかによって決まる。

 

 アメリカは世界の医薬品売り上げの33%を占め、アメリカと西ヨーロッパ15カ国だけで市場全体の55%を占めている。2019年度の製薬企業売上高世界トップ10を見ると、1位ロシュ、2位ファイザー、3位ノバルティス、4位メルクで、10社中6社が米国の巨大製薬企業である。

 

 とくに1994年の世界貿易機関(WTO)の設立協定とともに知的財産権保護の枠組みとトリップス協定が決まったが、それが医薬品へのアクセスを阻んでいる。トリップス協定はWTO加盟国に対し、医薬品の特許を20年間保護することを求めており、その間新薬(先発医薬品)の特許を持つ製薬会社は、その新薬に排他的権利を持ち、高い価格を維持できる。トリップス条約成立前は、途上国は「健康への権利」を守る目的で医薬品を特許から除外していたが、今では製薬会社に高額の特許料を払って許可をもらうか、あるいは独占期間が過ぎるまでジェネリック医薬品(新薬と同じ有効成分や効き目を持つ、低価格の後発医薬品)の開発・利用をあきらめるしかなくなった。

 

子どもの肺炎死者は年100万人 ワクチン高く

 

 たとえばこの40年間で約7800万人が感染し、約3500万人が死亡したHIV(エイズ)に対して、有効だとされる抗ウイルス薬は年間数十万円から数百万円もする。だからアフリカの患者はもちろん、アメリカでも患者の四4割が治療を受けられない。それがジェネリック医薬品の開発で価格が1%程度まで低下し、多くの患者の命を救った。

 

 米国政府は自国の製薬企業を守るために、自由貿易協定で医薬品の特許期間を延ばしたり、ジェネリック薬が市場に入りにくくする規制をかけようとし、命よりもカネを優先してきた。これに対してインド政府は、ノバルティスファーマが抗がん薬の特許をとろうとするのを、基準を厳格化して許さず、国産の抗がん薬を10分の1の値段で売り出すという、国民の健康を優先させる政策をとった。本書のなかで詳しく紹介されている。

 

 また、肺炎は世界的に子どもの主要な死因であり、毎年約100万人の子どもが肺炎で亡くなっている。だが肺炎のワクチンはファイザーとGSKの2社だけが製造しており、高額であるため、世界の3分の1の国は導入することができないでいた。これに対して国境なき医師団がワクチンの価格を一人当たり5㌦にまで下げるキャンペーンを始め、170カ国・40万人以上の署名が集まって、2社は9㌦に下げると発表した。

 

顧みられぬ熱帯病は10億人 開発も儲け優先

 

 医薬品へのアクセスを阻むもう一つが、途上国にとって大きな問題になっているにもかかわらず、もうけにならないために製薬企業が放置している「顧みられない熱帯病」だ。サハラ砂漠以南のアフリカや東南アジア、南アメリカをはじめ74カ国以上・10億人をこえる人が「顧みられない熱帯病」の主要な5つの病気(リンパ系フィラリア症、オンコセルカ症、住血吸虫症、土壌伝播寄生虫症、トラコーマ)の少なくとも一つを病い、年間約53万人が死亡しているという。それは最貧困層の人々が貧困から抜け出せない原因にもなっており、経済の停滞を招いている。

 

 ちなみに2015年にノーベル賞を受賞した大村智氏は、寄生虫病オンコセルカ症の特効薬を開発し、多くの人の命を救ったことが受賞理由だった。

 

 感染症に対する有効な薬があるのにそれが手に入らず、多くの人が死んでいかざるを得ないのは、製薬企業の利益を優先する現在の経済システムに原因がある。これに対して国民の健康と生命を守り、よりよい世界をつくろうとする努力がさまざまな分野でやられていることが読みとれる。

 

 (中公新書、238ページ、定価820円+税)

関連する記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。なお、コメントは承認制です。