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『家族を想うとき』 監督 ケン・ローチ

 舞台はイギリスのイングランド北東部、産業革命を牽引した古い工業都市であるニューカッスルだ。この街で暮らすターナー家は、10年前のリーマン・ショックと欧州危機のさい、銀行と住宅信用組合が破綻し、同時に勤めていた建設会社のリストラにあって、家と職を同時に失った。

 

 ターナー家の父・リッキーは、その後職を転転としてきたが、「1日14時間で週6日働けば、2年後には家が持てる。これで借金生活におさらばだ」と、フランチャイズの宅配ドライバーになることを決意する。この宅配ドライバーは本部と契約する独立事業主だが、渡される1台の黒いスキャナーによって、その日どういう道順を通ってどこに向かっているか、荷物一つ一つの動きまで本部に細かくチェックされる。運転席から2分離れるとアラームが鳴るので大急ぎで走り回らねばならないし、駐車違反を取り締まる警察とのいたちごっこにもなる。休憩どころでなく、小便を入れるペットボトルが手放せない。

 

 母・アビーはパートの介護福祉士で、遠くのお年寄りの家まで訪問介護をするため車が不可欠だが、リッキーが宅配のバンを買わねばならないので車を売り払い、バスで通う毎日となる。相手の老人たちは彼女が来るのを待ちわびているし、彼女も自分の親のように接し、高齢者の人生から学ぶことも多いのだが、なにしろ民間の医療会社から派遣されている身なので時間に追われ、入浴介助などを断りつつ次の家に向かわねばならない。1984年の炭鉱ストに参加したことが誇りだというあるお婆さんが彼女の勤務表を見て、「朝7時半から夜9時まで? 8時間労働制はどこへ行ったの!」と叫ぶ。

 

 高校生になった息子のセブは、小さいころは優等生。だが大学に入るには高い学費が壁になるうえ、卒業してもまともな職に就けないことを知り、自暴自棄になって学校は休みがち、夜中に抜け出しては仲間とともにスプレーで町中に「芸術作品」を書きなぐる。でも、本当は家族にも友人にも心優しい彼なのだ。久しぶりの一家団欒の最中、一人でトイレに行けない高齢者から母に「3時間も我慢しているの」と電話が入るが、母を一人で行かせるのは可哀想だと、父のバンでみんなで歌を歌いながら行こうと提案したりする。

 

 小学生の妹・ライザは利発な子で、学校が休みの日には父と一緒にバンに乗り込み、配達を手伝って相手からちゃっかりチップをもらう。夫婦げんかの仲裁に入るのもいつもライザだ。

 

仕事が家族を引裂いていく

 

 そうした家族4人が、しだいに対立し、いがみあい、夫婦関係も親子関係も破綻寸前になっていく。きっかけは長男が暴力を振るったと学校に呼び出され、次には万引きをして警察に呼び出されたことだが、父も母も仕事に追われて、大事なときにそばにいてやれない。そのときフランチャイズ本部のマロニーは、容赦なくリッキーをノルマで駆り立てる。マロニーは企業のもうけと株主利益の最大化をめざす意志の象徴で、個個の家族の生活など邪魔なものにしかすぎないのだ。

 

 父も母も時間と労力を奪われ、家族内で喧嘩がたえず、兄は家を出て行き、妹は不安で夜寝られなくなる。そうしたなか、父が配達中に強盗に襲われて骨を折る大怪我をして病院へ。待合室にいるとき、盗まれた商品の罰金と壊されたスキャナーの弁償を請求する電話をかけてきたマロニーに対し、父からスマホをとりあげた母は「私たち家族をなめるんじゃないよ!」と怒鳴り返す。翌朝、父がこっそり働きに出ようとしたそのとき、父の体を心配して車の前にたちはだかったのは、家を出て行ったはずのセブだった。

 

 見終わって、「救いのない映画」と感じる人もあるだろう。確かにクライマックスには癒やしもハッピーエンドも準備されていない。そこに描かれるのはありのままの現実だ。善意に満ちた庶民が、今の社会の冷酷な無慈悲さのなかでいかに痛めつけられ、どんなにほろ苦い喜びや悲しみの生活を重ねるかを、これが現実ですと観客に提示している。そこに、きれいごとの夢物語しか描くことができない凡百の商業映画との違いがあると思う。

 

人間性失った社会への警告

 

 この映画に込められたケン・ローチのメッセージは明白だ。人間を部品扱いする社会について、「そうなったのはお前のせいだ」という自己責任のイデオロギーを否定し、それは個人の問題ではなく社会のシステムの問題であり、それによってみんなが生きていけなくなっているのだから、みんなの力で社会を変えなければならない、今こそそのときだ、と。それを訴えるためにこそケン・ローチは引退を撤回したのではないか。

 

 そして、この映画に描かれているものは日本の現実でもある。コンビニ店主はフランチャイズ本部と契約する独立事業主で、労基法の適用の範囲外となり、長時間労働による過労死や過労自殺があいついでいる。介護士は高齢者を支える大切な仕事なのに、きついうえに賃金が低く、やめる人が後を絶たない。政府は「働き方改革」といいつつ過労死ラインの残業月100時間を認め、労働組合の連合が政府と結託してそれを支持している。だが、働く者には家族があり、子育ての悩みとともに子どもたちへの愛情があり、それが次世代を育て日本の未来をつくっていくのだ。

 

 主演のリッキー役は、20年間配管工として働き、40代になってから俳優をめざしたという。出演するドライバーもほとんどが現役か元ドライバーの人たちだ。そうした体のごついおじさん、おばさんが、本部の理不尽な仕打ちに耐えかねた仲間を守ろうとする場面は、リッキーら4人が互いに家族を思いやるはしばしの仕草とあわせて、こうした庶民のなかにこそ、人間を部品のように扱う社会に対置すべき、まっとうな生き方があるのだということを考えさせられる作品だ。  

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