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『万引き家族』が問うたもの 貧困との対決を迫られる社会

転落と荒廃 極限でこそ問われる生き方

 

映画『万引き家族』

 是枝裕和監督の映画『万引き家族』がカンヌ国際映画祭で最高賞パルムドールをとり、日本国内での上映も始まって話題を呼んでいる。映画そのものは何を描き、どのようなテーマを時代に投げかけたのかを考えたとき、「良かった(悪かった)」「感動した(しなかった)」等ではいいあらわせない、どんよりとした重苦しさみたいなものを残している。この映画が捉えた貧困というテーマは、現代社会においては避けがたく普遍的に存在する問題であり、個人の力ではどうすることもできず、如何ともしがたい状況に追い込まれて退廃に身を委ねるというのは決して珍しい話ではない。むしろ、日本列島のそこかしこにゴロゴロと転がっている重たい問題でもある。映画をみた記者たちで座談会を持ち、こうした絶対的貧困の深まりをどう捉え、向き合うべきか論議した。

 

  この映画の舞台は東京・下町の隅田川あたりで、高層マンションにはさまれた平屋建てのぼろ屋で5人が生活している。家族といっても、5人は血のつながりはない。家主は祖母・初枝で、そこに治と信代の夫婦が居候として住み着いている。2人は元夫を刺し殺して一緒になった夫婦だが、正当防衛ということで罪には問われなかった。亜紀は祖母の別れた夫の孫娘だが、家を飛び出してここに転がり込み、JKビジネスで金を貯めている。11歳の祥太は、小さい頃パチンコ屋の駐車場に放置されているところを治が拾ってきて育てている。「小学校は家で勉強できないやつが行くところ」と治にいわれて、学校には行っていない。

 

 2月のある寒い日の夜、治と祥太の2人が近所のアパートを通りかかると、小さな女の子が家を閉め出されて震えていた。2人は見かねて家に連れて帰ったが、その子の身体はアザや火傷だらけで、親に虐待されていることは明らか。夫婦は自分の娘として育てようと決めた。

 

 この家族の生活といえば、治はときどき日雇いで建設現場に行く程度でまともに働く気がない。信代はクリーニング屋でバイトしているものの、一家は主に祖母の月6万円の年金に頼って生活している。そして祖母が死んだとき、葬式代も出せないし、年金がストップされると困るので、密かに床下に埋める。それでも足りない食料や生活用品は、近所のスーパーで万引きすることが常習になっている。治が祥太を引き連れ、店員から祥太を隠すように自分が壁になって立ち、祥太が品物をリュックに落としていく。「シャンプーがないから、今日はシャンプー盗ってきて」という調子で、まるで罪の意識がない。母親も「お店が潰れなきゃいいんじゃない」と平然としている。

 

 変化が起こるのは、祥太と「妹」のりんが近所の駄菓子屋で万引きしようとしたとき、事情をわかっていた駄菓子屋の親父が祥太に2本のゼリーを渡して、「妹だけは巻き込むなよ」といったことだ。それをきっかけに祥太は罪の意識を感じ始め、妹が兄を真似てスーパーで万引きしようとしたとき、わざとみずからが捕まって妹を守ると同時に、今の生活を終わりにしようとする。しかし、そこから家族の素性や初枝の遺棄、りんの「誘拐」(虐待を懸念して勝手に引きとって育てていた)などがすべて警察の知るところとなり、信代は監獄へ、祥太は施設へ、りんは親の元へ帰され、「家族」はバラバラになる。最後の場面、本当の家族の元には戻ったものの、親から満足な愛情を受けられず、遠くを眺めるりんの悲しそうな顔が暗澹たる未来を暗示して終わる。

 

  描かれているのは現代社会のなかでそこかしこにありがちな事例だと感じた。万引きをする子や大人はいるし、貧乏のなかで精神的にも崩れてあんな状態になっているとか、親が死んでも報告しないでその年金に依存して生活していたとか、児童虐待とか、すべてが社会問題にもなって普遍的に存在するものだ。そのありがちな社会の暗部を一つの家族が集中的に体現し、痛みがわかる者同士が身を寄せ合って生活している。エンドロールの後は暗澹たる気持ちになるというか、何ともいえず考え込んでしまう映画だった。

 

  社会的に起こる事件で、加害者の側のバックグラウンドを探るというのが是枝監督の視点のようだ。豊かだった時代には考えられない事件がこのように起きているという、現代的な問題を提起していると思う。むしろ、その問題をひとかたまりにしてドカーンと置いていったという印象だ。ただ全般として、貧困によって生まれるモラルの崩壊や退廃的状況について、その如何ともし難い世界がはじめから終わりまで貫かれていて、なんとも絶望的な気持ちにさせられてしまう。終盤に祥太がそんな万引き家族との別れを決心するところは、退廃に身を委ねる道を拒否したというか、育ててもらった思い入れや感謝の気持ちもありつつ、「父」や「母」から離れて自分自身で生きていく旅立ちのようにも見えて、多少の救いみたいなものがあった。ただ、その後この子はどうなっていくのだろうか…という気持ちにもなる。貧困にどう立ち向かって、どうやったらその状況を変えていけるのかという展望は見出せないために、辛さだけが何倍にも募る。では、見終わって明るい気持ちになればよいとかの短絡的な話ではなく、「問題提起をした」というのがこの作品の意味であり、限界性なのだろうと思う。

 

人間としての絶望と隣り合わせのモラル崩壊

 

  貧困をきっかけにしたり、人間としての絶望と隣り合わせのモラルの崩壊というのは、実際にあることだ。綺麗事をいっていても飯は食えないとか、絶望的な状況のなかで社会的規範など吹っ飛んでしまい、開き直ってやさぐれたり、退廃的な道にどっぷりと浸かっていくというのは何も珍しいものではないと思う。現代社会において「貧乏してても心は錦」などといっておれないほど困窮状態に置かれ、労働の誇りが奪われ、なおかつ人間関係が破壊されているなかで、昔以上に境界線がなくなっている。退廃を目の当たりにすることもままある。ただ、いわゆる貧困=退廃ではないし、貧乏していても踏ん張って、人間としての誇りや尊厳を持って生きている人の方が大半だろう。

 

  絶対的貧困が社会的な問題になっているが、かといってみながみな万引き家族のようにはならない。勤労者としてのモラルを持ちながら、そりゃ貧乏で苦しいけれども、地域や社会と切り結んで生きている。決して万引きを是としないし、幼少の子どもが「欲しかった」といって他人様のものを持ち帰ったときには、しっかり叱るし謝りに行かせて常識を教えるものだ。「上手にとってきたね」とはならない。他人を羨んだり、嫉みや僻みを抱くようなさもしい生き方ではなく、誇りを持って生きたいと思うからだ。

 

  北九州では「おにぎり食べたい…」と書き残して、誰にも頼れないで男性が餓死して発見された事があったが、犯罪に走れないで死んでいく人だっている。下関でも無職の50代男性が餓死したり、骨と皮になって心臓だけが動いているような状態で発見されたり、近年は社会的に孤立した人人の不幸が絶えない。職を失って親の年金に依存していたけど、その親が亡くなってしまい、誰からも気づかれなかったとかのケースが大半だ。民生委員の人たちが一生懸命に地域をカバーしようとしているが、それでも漏れてしまう。おにぎり1個を盗むこともせず、ひっそりと亡くなっていく。

 

  下関市内のあるコンビニで話になったのだが、やむなく親の年金に頼って生活しているご近所さんが、その親が病気にかかり薬代が高額で食べ物を買える余裕がなく、残り物はないだろうかと聞きにくるのだという。この家族は生活保護は受けていない。お年寄りは特にそうなのだが、年金が6万そこらの人であっても、「人様に迷惑をかけてはいけない」といって生活保護を受給しない人は多い。養ってもらうことは当たり前ではないのだ、といって。従って生活保護費よりも少ない年金でかつがつ生活している人など山ほどいる。貧困といっても表面的には見えにくいが、我が町のあんな話やこんな話をしているだけでも隣り合わせだ。そして万引きではなく、「捨てるならもらえないか?」とコンビニに聞きに来るのだ。そのコンビニやスーパーからは毎日大量の食べ物が廃棄されていく。何という歪んだ社会なのだろうかと思う。ゴミ収集業の人たちに聞くと、それはもう半端な量ではない。大量生産、大量消費で、売れなければ捨てるシステムのもとでそうなっている。

 

  万引きが癖になってしまい、まったく悪びれない人は実際にいる。ただ、そのすべてが金を持っていないわけではない。この下関の街でも「あそこの社長夫人は手癖が悪い」とか、街の噂になるような金持ちだっている。「金持ちなのに人のものをとる」のか「金持ちだから人のものをとる」のかわからないけど、貧乏であるか裕福であるかにかかわらず、「他人のものをとる」行為には変わりない。そのようなモラルの壊れたイデオロギーの浸透について、貧乏だから仕方がないといって壊れていくのでは、とんでもない社会になってしまう。

 

  下関市内のある中学校の話だが、生徒がスリルを味わいたいと集団万引きして問題になっていた。教師は「法に触れることとか人に迷惑をかけることを何とも思わない子が増えている」と嘆いていた。万引きする子は昔もいたが、家庭の厳しさがあると表情に寂しさを出したり、葛藤があった。だから、事件を起こす前に気づいてやることもできたし、罪を犯しても寄り添って教えることもできた。しかし今の子はやる前もやった後もケロッとしているという。どうやって指導したらいいかと、教師が悩んでいた。別の小学校でも駄菓子屋で集団万引きをしていたのがわかり、子どもたちを教師たちが引き連れて謝りに行ったと話題になっていた。

 

  映画では家庭崩壊と対置して血のつながりのない家族の絆みたいなテーマも描かれていたが、親が余裕を失って子どもをみてやれないとか、自分のことで精一杯という状況も普遍的だ。これも下関だが、ある母子家庭の母親が男の家に入り浸っていて、朝500円玉だけが置いてあって、いつ帰ってくるかわからない。それで子どもはお金がなくなったら万引きしていたということがあった。自分は化粧もするし携帯も持っている。車も持っているけど、子どもに朝ご飯を食べさせない。そんな親が昔に比べて増えていると教師は話していた。貧困ももちろん無関係ではない。余裕のない経済状況や環境下で、親自身が崩れてしまったりする。

 

  小学生と保育園の子どもをもつ母親で、子どもに食事をさせていないことがわかって民生委員が訪ねてみると、電気も水道も止められているのに、携帯を握りしめて男からの電話を待っていたという。使い捨ての非正規雇用で各地を転転とするなかで精神の拠り所を失っており、母親を支えるものがないと周囲が心配していた。

 

  子どもを虐待したり育児放棄したりする親は、周囲に支えがなく孤立している。そういう親を支えよう、親も育てないといけないということで、地域の人たちが子ども食堂などのとりくみをやっている。「親が悪い」というだけではどうにもならないといって。モラル崩壊がけしからん! とかの話ではなく、そのようなどん底、綺麗事だけでは済まない社会状況が普遍的に存在しているなかで、ならば助け合ってみんなで支え合おうじゃないかという力が働いている。根本的な解決にはならないかも知れないが、何もしないで手をこまねいて見ているよりも、何か行動しようというものだ。貧困なのは努力が足りないからとか、自己責任で知ったことかというのではなく、退廃の泥沼から引きずり出すような努力をしている人人がいる。それが子どもの胃袋を満たすという救済的な意味合いにとどまらず、地域コミュニティの向上につながっているのも特徴だ。分断され、孤立して崩壊するのではなく、人間とつながって支え合うことで心に余裕ができたり、子ども自身が社会性を身につけたりしていく。

 

 F 子ども食堂やホームレス支援にかかわっている大学教員が『万引き家族』をみて、「いいか悪いかで切り捨ててしまうことは簡単だけど、それでは何も解決しない。どうかかわらないといけないかを考えさせてくれたということで、みるべき映画だと思った」と話していた。「この問題は家族の中だけとか、個人的に解決しようとしてもできない」という問題意識だった。まさに社会的な問題だ。

 

尊厳を奪う社会の中で

 

  映画にしてもテレビドラマにしても、現実の社会とはかけ離れたエンタメ系や夢物語があふれているなかで、この映画は現実の貧困問題を真面目にとりあげた数少ない作品ではあった。映画のクライマックスで祥太がだらしない「父」と決別していく場面に、この子どもたちの世代にこうした社会を受け継がせてよいのか? という監督のメッセージみたいなものを感じた。ただ、それだけでは弱く、救いがたい荒廃が世の中にはゴロゴロと横たわっている。社会のなかに無数にいる「祥太」や「りん」にこの腐敗し荒廃した社会をそのまま受け継がせていいのかという問題は残されたままだ。もちろん単純ではないのだけど、「どうしたものか…」という悩みだけが置いていかれて、幕が下りる。

 

  モラル崩壊という点だけに限ると、個別の貧困家庭のなかだけに起きている問題ともいえない。政治のモラルも崩壊しているし、経済のモラルも崩壊している。報道のモラルもしかり。官僚のモラルであったり、安倍晋三や麻生太郎のモラルとか、あげればきりがない。テーマから逸脱してごちゃ混ぜにしても仕方ないが、それが現実だなと思う部分もある。

 

  貧困は社会構造の産物だ。そして万引き家族までではないにしても、転落していく要因が無数にある。そんな貧困者を餌食にしていく貧困ビジネスまで揃っている。パチンコ市場はいまや20兆円をこえるが、それだけ下層の一攫千金の夢をくすぐって身ぐるみ剥いでいるし、成人年齢を18歳に引き下げたが、サラ金やマルチ商法のターゲットにすることを認めるようなものだ。生活保護に群がるビジネスまである。そして世の中に自己中心が蔓延し、貧困ではないが自分が挫折したのに他人を殺して鬱憤を晴らす者まで出ている。社会の規範が総じて壊れている。お友達を優遇するために三権分立や法治国家の在り方までぶっ壊しているのがいるくらいだ。

 

  「今だけ、カネだけ、自分だけ」という言葉が見事にいい当てているが、そういった自己中心的なイデオロギーが社会の上から下まで相互浸透をして領域を拡大している。人間としての尊厳がもてあそばれる社会的な環境のなかで、敗北して崩れていくのか、それとも誇りを持ってこれに抗っていくのか、どっちに転ぶかの抜き差しならない時代だ。そのなかで「仕方がない」とか「かわいそう」では何も変わらない。みんながみんな敗北して転落していくという人生を選んでいないし、働いて働いて生きていくという人はいくらでもいる。今の時代だからこそ、人間としての誇りや尊厳まで投げ捨てて腐っていくことと明確に一線を画すメッセージがいると思う。万引き家族の登場人物はそれぞれ他人の痛みに敏感で繊細な人人でもあるが、やはり転落した家族像としてある。

 

  東日本大震災の被災地に取材に行ったさい、あのような極限的な困難のなかで、その土地に根を張って、みずからの手と足によって復興を遂げようとする被災者、とりわけ生産者の姿を見てすごく尊いものを感じた。現地では義援金に胡座をかいてパチンコに通い、働かずして堕落していくことが心配されていて、「骨病みを増やしてはならない」と問題意識が語られていた。義援金や行政的な支援が必要ないとかの話ではなくて、それは当然必要ではあるけれど、自分で働いて誇りを持って生きていくことが人間として一番大切なのだと痛切に感じた。「かわいそう」といってカネだけを与えられる受益者になったのでは人間はダメになってしまう。どんなに苦しくてもみずからの努力によって立ち上がっていかないといけないのだと東北の人人に教えられた。勤労に生きる人人のモラルとはまさにそれだと思う。みずから生産し、未来を切り開いていく発展的なものだと思う。働かずして盗んでいくのとは対局だ。哀れみの目を向けられて、「同情するならカネをくれ」と手を突き出していくものではない。貧困といってもルンペン的なものや寄生的なものとそうでないものとは明確に区別しなければならないし、ある場合には批判を加えなければならない。

 

  家族なり個人が頑張ったからといって貧困から抜け出せるようなものでもない。『万引き家族』がテーマにしている貧困問題は、今後ますます大きな社会問題になっていくと思う。貧困を社会的な問題としてとらえて解決していかなければならないし、貧困との対決を社会全体が問われている。資本主義が腐朽衰退していくなかで、それはますます露骨な形で噴出しているし、解決が求められているテーマだ。

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