いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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教育を破壊する権力の抑圧構造打破を いじめキャンペーンの本質

 「いじめ」「体罰」が学校現場の抑圧物となってのしかかり、何か起きればその度に「被害者」を守るような顔をして警察やマスコミ、教育委員会といった権力が介入して大騒ぎをくり広げ、教育を破壊していく構造が出来上がっている。本紙はこの間、いじめ問題の実態について、教師や父母、地域の人人のなかで、みながどのように現在の状況を捉え、問題にしているのか取材してきた。何をいじめと捉えるのかも含めて状況は千差万別であり、十把一絡げにして「被害者」「加害者」などといえるものではないこと、教育的解決ができるものがほとんどであるのに、現状では教師の指導性を否定して権力による統制ばかりが強まり、終いには「死んだ者勝ち」のような本末転倒を助長している実態が明らかになってきた。こうした状況を打開する展望はどこにあるのか、父母や教師、地域も交えて旺盛に論議を交わし、抑圧構造をはねのけることが待ったなしの課題となっている。
 学校という集団生活のなかで、子どもたちが仲間との人間関係を切り結ぶにあたって、いざこざや衝突などは当たり前のように起こる。ところが「被害者」側がいじめられたと感じればそれがいじめと認定され、親だけでなく警察やマスコミ、教育委員会までが加わって、今度ははるかに強い力でもって「加害者側」を総攻撃するというのが流行っている。「いった者勝ち」「声の大きい者勝ち」の世界で、他者を攻撃するために「被害」を叫ぶ者があらわれ、そこに権力が加わって「被害者」側の倍返しどころでない報復攻撃が始まるのである。
 いじめ自殺の報道に触れる度に「死ぬほどつらい何があったのか…」「死ななくてもよいではないか」「悲しければ泣いておけばよいものを、どうして死ぬのか…」と誰もが感じてきた。事情を知らない第三者ほど「可哀想に…」という反応が一般的である。しかしみずから死んでいく行為は決して弱い「被害者」にできることではない。弱いなら泣いておくか、それこそ辛抱しながら耐えるしかない。そして負けるものか! とみずからを奮い立たせていくしかない。なぜ悪口をいわれ、のけ者にされたというだけで自殺しなければならないのかである。弱いのではなく強烈な意志を持って命を絶っていく、命をかけて仕返しをする、犠牲者となって全権力を味方につけて報復していくという凶暴さがそこにはある。そしていじめは解決されず、第二ステージはいつも加害者あぶり出しに発展し、「いじめた方が悪い」という支配的な力によって、学校現場や子どもたちを何倍もの力でいじめていくのである。
 第1の問題は、いじめという成長過程で起こりうる現象を巡って、その解決と称して体制的な抑圧構造ができあがっていることである。教育によって解決できるはずの問題に、親だけでなく警察やマスコミまでが首を突っ込み、それに教育委員会が迎合して権力が学校教育を引きずり回している。いじめの多くは、一概にいじめた側が悪で、いじめられた側が善という単純な代物ではない。その要因は様様で、状況に応じて教育的に解決すべき問題である。しかし一方的に「いじめた側はけしからん!」という世論で包囲し、学校現場の抑圧を強めているのである。この抑圧を取り除き、それこそ教育によって善悪を区別し、子どもたち自身が仲間と団結したり、正しく人間関係を切り結んでいく力を育んでいくよう導いたり、死んで報復するのではなく、生きて他者を思いやるようなたくましい人間に成長させなければ解決にならないことは歴然としている。判で押すように「いじめた側がけしからん!」といって教育を破壊し、真に受けた報復自殺を助長することこそ犯罪的である。
 いじめられて自殺するような凶暴な自己中心、排他的な攻撃性は、もともと「個性重視」といって文科省が進めてきた教育路線の産物である。80年代には教育の機会均等を撤廃し、その後も「個性重視」、興味と関心第一の子どもづくりを推進してきたのは文科省である。自由保育によって動物的な子どもたちを量産し、体罰等等のキャンペーンで教師の手足を縛った結果、小学校も中学校も“子ども天国”のような動物園状態となり、自己中心の攻撃性を伴ったイデオロギーが意識的に培養されてきた。そして、佐世保事件のように興味と関心で友人を解剖する者まで出てきた。それは仲間と団結したり、弱い者や他者を思いやるような人民的で普遍的なイデオロギーと激しく衝突し、子どもたちのなかでもしのぎを削る矛盾として鋭さを増してきた。
 「やられた!」といって何倍もの報復攻撃をするのは、フランスのテロ事件や9・11同時多発テロ以後のアメリカがまさにそうである。為政者はいつも、何万人という民間人を虐殺していく口実として「平和を守る」を標榜している。照応して即物的な人間、動物的な個人主義人間を量産し、戦争になれば「やられたのだから、やり返さなければならない!」「中国に攻められる南方の国国が可哀想だから、自衛隊が守ってあげなければならない!」などと持っていくのと共通である。そのような排他的で攻撃的な人間が戦場に投げ込まれれば、自己防衛のために民間人を殺戮しまくるのである。最終的にみずからも殺されるか使い古され、頭がおかしくなって帰ってくる米兵の問題は、決して他人事ではない。
 教育に国家権力が介入し、統制したがるのはいつも軍事力を発揮したがる時である。安倍政府の教育再生会議が指向しているのがまさにそれで、「いじめ」「体罰」等をテコに上意下達の統制を強め、教育を政治が支配することを願望している。いじめ対応に異常なまでに熱を上げ、メディアや警察挙げて総掛かりで摘発に勤しんでいるのは、いじめを撲滅したいからではない。教育的な解決の道を塞ぎ、教育現場を萎縮させて従わせることを目的にしている。
 こうした環境のなかで、「いじめ」「体罰」に条件反射のようにして振り回され、教育現場が目先のもめごと回避ばかりに奔走したり、親と教師の信頼関係も切り裂かれ、モンスターが発する一言一言に恐れおののいたり、教育的是非を二の次にして隷属していく体制ができあがっている。しかし、これでは教育にならない。
 教育を回復するためには、一連の抑圧構造とのたたかいが避けられない。教師一人一人が切り離れた存在になるのではなく、教育者としての指導性を発揮することが、いじめ対応だけでなく、子どもたちをまっとうな人間に育てるためには欠かせない。子どもたちのお世話係ではなく「師」としてのかかわりが必要とされている。その最大の支えは地域や父母との団結である。学校の狭い枠の中に閉じこもるのではなく、父母や地域の願いとつながっていくこと、圧倒的多数を占めるまっとうな力とともに進まなければ、体制的な抑圧構造をはねのけることなどできない。
 凶暴なる自己中心イデオロギーに敗北するのか、人民的イデオロギーを勝利させていくのか子どもをどっちの側に育てていくのか、教育現場を巡る全権力との勝負が迫られている。それこそ権力にいじめられて「やられた…」ばかり嘆くような被害者面ではなく、立ち向かっていく力が求められている。

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