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堰切って語る長崎維新の真実 『雷電』長崎公演の取組進む

長崎市内では『動けば雷電の如く―高杉晋作と明治維新革命』長崎公演にむけてのとりくみが進んでいる。本紙号外「長崎と明治維新の真実浮彫り―倒幕戦に参加した町衆の誇り」が、約1万枚配布され、これまで表立って語ることのなかった振遠隊の子孫たち、振遠隊を祀る佐古招魂社で慰霊祭をおこなってきた地域住民、商業者など幅広い人人から深い共感を呼んでいる。そして、明治維新で活躍した町衆の誇りある歴史を偽造・抹殺する力が働く中でも、その底には市民の反骨精神、結束力が流れており、脈脈と受け継がれてきたことがあらためて見直されている。
 明治元年、長崎からも町衆300人が振遠隊士として戊辰の役・奥州戦争に参加しているが、号外を読んだ子孫たちは「これまで語ることができなかった。初めて光を当ててもらった」と口口に歓迎し、語りつがれてきた父祖たちの歴史を語り始めている。
 振遠隊に参加して以来、5代目となる子孫の1人は、代代受け継がれてきた朱鞘の農兵刀や300人の隊士の名前が記された冊子をショーケースに入れて大事に保管している。朱鞘の農兵刀は高杉晋作が考案したもので、奇兵隊が使用していたものだ。振遠隊隊長・石田栄吉(土佐藩)は、四境戦争に参加した奇兵隊士であり、長州との密接な関わりをしのばせる。しかし、これも身内のなかで語られるだけで他人にはあまり公表してこなかったという。また、他人の目に触れることを恐れて、家のふすまのなかに入れられていた振遠隊の死没者名簿が10年前に出てきたという話もある。
 また、幕末期の長崎では、長州をはじめとする倒幕勢力の勢いに呼応して町衆の力が沸き立ち、幕府を追いつめるうえで大きな役割を果たしていたことが強調されている。
 黒船の脅しに屈した幕府の開国政策で、長崎では貿易による収入はガタ減りし、経済的な大打撃を受けたことに加えて、「外国人の我が儘な行動が多く、日本人に乱暴しては逃げる、捕らえても縛ることができない、犯罪人と知りつつも治外法権により黙過せねばならないという状況であった」(「振遠隊始末記」籏先好紀著)。
 そのなかで、江戸幕府が配置していた長崎奉行は無力に等しく、実際に町をとりしきっていたのは町衆であり、植民地化に対する町衆の危機感は日増しに高まっていったと語られている。
 ある振遠隊子孫の男性は、「当時の長崎は、長崎の情報や全国の貿易関係や相場などを本藩に伝える“長崎聞役”がおかれるなど情報の集積地だった。長崎奉行は九州全体を統括していたが、江戸から来ているので町のことを知らない。すべての情報は町衆たちが握っており、長崎奉行は貿易をとりしまる格好をしながら商人からの賄賂や貢ぎ物を懐にして肥え太るという関係だった。町のことは、町年寄が1番の実権をもっていた」と語る。

 植民地にさせぬと町中話題
 倒幕勢力の勢いが増していた慶応4年、鳥羽伏見の戦いでの幕府敗戦の報を受けて、長崎奉行・河津伊豆守は、黒田藩や佐賀藩の聞役にあとを任せ、自分だけ船に公金を積み込んで逃げようとしたところを町衆に見つかり、「金を置いていけ」と脅され、命乞いをしながらいくらか置いて逃げ帰った。「だからこそ長崎の自治意識はますます強まった」といわれている。
 ある老舗企業家の男性は、「長崎の貿易の実権は幕府にはなく、実際には町の商売人たちが金を出し合ってやっていた。奉行はそのピンハネをしていた。長崎は唯一上海と繋がっていたのでアヘン戦争以降の上海の植民地的な有り様は事細かに伝わってきて“このままでは植民地になる”と町中で話題になっていたのは疑いない。町を取り仕切っていた町年寄たちが“長州に力を貸そう”と声をかければすぐに結束するという素地があった。小曽根家、大浦ケイなどといった豪商は志士たちに隠れ家を提供したり資金的な援助をしていた。しかし、元勲となった人人は世話になった商人たちを冷遇し、明治以降に没落した豪商は多い」と語った。
 また別の子孫男性は、「遊撃隊は奉行所が呼びかけてできたものだが、幕府が不利になると奉行所は江戸に逃げ、“幕府はガタガタだ。長州軍につこう”となり、薩摩や長州からもかなりの情報が入っていた。時の情勢は長州軍の方になっていた。それから再編され、町衆や百姓たちが集まってきて振遠隊がつくられた」と話す。
 さらに、長崎における幕末期の寺の役割も重要である。「表面上は勤王は暗殺されるため、諸国の志士たちは陰で動いていた。長州の人もそうとう来ていたが、長州屋敷に入ると長崎奉行の目があり危険だったので、そういうときは寺に来ていた」と語られている。高杉晋作をはじめ、倒幕派を陰で支えたのが長崎の寺院である。
 幕藩体制下では寺には寺社奉行しか立ち入ることはできなかった。そのため全国から集まった諸国の浪士たちが寺にかくまわれていた。その1人、春徳寺の和尚は書物改役という役人でありながら、勤王僧であった。桜田門外の変で井伊直弼を斬り殺した水戸藩士をかくまい、檀家の養子にしている。幕府とも繋がっていたので幕府の情報も入り、長崎という土地ならではの日本全国の情報、またオランダ船が伝える諸外国の情報まで知っていた。ここに「伊藤博文や三条実美らが会いに来ており、当時の勤王の志士たちが和尚に会いに来ていることは間違いない」。寺が単にかくまうだけでなく、志士たちにはできない情報の集積地として寺・僧侶が陰の存在として多いに支援していたのだ。

 歴史抹殺の抑圧に強い危惧
 その後の問題として強調されているのは、「戦後、明治維新から軍国主義になった」などといわれて戊辰戦争に参加した父祖たちの歴史を語れない雰囲気がつくられていったことだ。振遠隊を祀っていた梅ヶ崎招魂社は移設と同時にまったく面影がなくなったこと、西南戦争や台湾の役などの戦死者と統合された佐古招魂社も「慰霊碑への補助金は、政教分離に反する憲法違反」などとキリスト教から裁判沙汰にされ、長崎地裁も「違憲」判決を下すなど徹底して封じ込められてきた経緯がある。
 1981年、市議でもあったキリスト教牧師が、市内14カ所の慰霊碑、忠魂碑に補助金が出されているのはおかしいと訴えをおこし、振遠隊が祀られている佐古招魂社だけが「憲法違反」とされた。その後、福岡高裁では「合憲」とされるも、それまで大大的におこなわれてきた招魂祭は、市長も参加しなくなり、参加者も減っていくなど急速に下火になっていった。
 招魂祭を長年に渡って切り盛りしてきた戦地体験者の男性は、「中国からマレー半島までの戦役でたくさんの戦友を失った。生き残ったものとして、亡くなった戦友や先輩たちの供養は当然のこととしてやってきたのだが、いきなり“憲法違反”とされて忠魂碑も排除されるようになった」と憤り深く語った。
 「倒幕戦争に参加して新しい時代をつくっていった人たちを供養することがなぜ憲法違反なのかわからないが、これが時代の流れなのかと痛感した。とくに長崎では“原爆は侵略に対する報復”などといわれ、戦地の体験などは語れなかった。だが、自分たちがやらねばだれがやるのかという思いで費用を出し合って慰霊祭を60年間続けてきた」と思いをのべた。
 招魂社に対する公的な補助金はなく、これまで遺族や地域住民、戦地体験者たちなどが出資して自力で続けてきた。招魂祭には全国からも遺族が集まってきており、継続が望まれている。
 あるPTAの父親は、「長崎は長崎だからこその戦前の否定があり、戦前は暗黒というのがある。明治維新や近現代史のことをまったく学校で教えないが、日本人が培ってきた歴史を教えないでどうするのかと思う。学校教育が大人の都合や楽なことに流れていることには危惧(ぐ)している」と話した。
 町衆の歴史的な地方自治における誇りは当時もいまも長崎の市民のなかに流れており、今回の公演をその糧にしようという声が強まっている。
 商店街役員の男性は、「長崎はいわゆる“英雄”は出ていないが、長州と薩摩を結びつけ、薩摩とイギリスを結びつけるなど、町づくりにおいては天才的な力をもっている。全部町衆たちの出資で、外国との貿易を始めた。はじめからお上に頼ってことをするという感覚はない。町衆の知恵と努力で全部町づくりができているのに、そこに外資や大型店を入れて活性化することはない」と話した。
 振遠隊とゆかりの深い家の男性は、「長崎は歴史的に地方自治の模範的な地であり、独立の意識の強い地だ。しかしそれが戦後、アメリカの下で60年のぬるま湯でおかしくなっている。教育の問題も含め、全部アメリカにコントロールされている。今までのリーダーや既成のものに頼ってはだめだ。高杉は上海に行って見て来ているから植民地化に一番反対したしよくわかっていた。今の長崎を見ると、大きな建物を建てて納税者が塗炭の苦しみをするのではないかという憂いをもっている」と語った。

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