いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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明治維新の原動力となった町衆  『雷電』長崎公演巡る座談会

劇団はぐるま座の『動けば雷電の如く』の長崎公演のとりくみのなかで、意図的に隠されてきた明治維新における長崎の真実が浮き彫りになっている。それは長崎市民のなかで驚きと誇りを持って受け止められているが、下関でも新鮮な喜びの反響が起きている。本紙では、長崎公演にとりくんでいるはぐるま座団員と取材記者による座談会を持ち、明治維新や原爆と長崎の真実について語ってもらった。

 高杉晋作に強い親近感 振遠隊の存在も表に 
 司会 明治維新以後、山口県内でも奇兵隊子孫は陰に置かれていた。『雷電』公演で、これがやっと表舞台の上に登場したと県民のなかで大喜びになった。伊藤博文や山県有朋などの元勲ばかりが威張って、実際に倒幕戦争を担った百姓・町人は、白石正一郎を筆頭に陰に追いやられてきた。これが登場した人民史観の芝居だった。これを長崎に持ち込んだらまったく同じだった。
  まず驚いたのは、日本3大花街といわれる丸山の料亭で高杉晋作が今でもすごく親近感があることだ。なかでも創業367年の史跡料亭・花月では、高杉のつくったどどいつが歌われる回数が今でも1番多いとか、高杉が薩摩の五代友厚と武器売買の会談をした日本最古の洋間(春雨の間)も「薩長同盟の舞台になった場所」として誇りにされていた。この丸山には、全国各地の情報が集まり、遊女だけはオランダやイギリス商館にも出入りできたので世界の情報が集まっている。しかも「高杉ら倒幕派の動きに目を光らせている奉行所の役人や目付役に酒を飲ませて骨抜きにできる」ため倒幕の密談をするためには格好の場所だったといわれている。
  一方で、丸山では海援隊は「荒くれ者のならず者集団」といわれており、酒を飲んでは大暴れしていたとか、龍馬はヤクザの親分という評価だった。丸山公園に龍馬の銅像を建てようという計画が上がったときも地元自治会が反対して場所を風頭山に変えさせたほどで、最近の龍馬キャンペーンとの間にはすごい温度差があった。
  そこで「実は長崎にも倒幕戦争に参加した人たちがいる」といわれ、振遠隊の存在が明らかになった。長崎の人もほとんど知らないので、調べてみるとどんどん事実が出てきた。知られていないから掘り起こして欲しいという関係者の思いがあった。それを号外にして配ると、子孫の方方が名乗り出てきて、市内中に反響が広がったのが喜びになっている。
  徳川幕藩体制のなかで、長崎は幕府直轄の天領だったが、町の実権を持っていたのは、町人や商人たちで、いまの自治会長といわれる町年寄たちが統括していた。長崎奉行の任期は2年間だったので、長崎のことは右も左もわからない。それで町年寄や地役人に頼るほかはない。天領だから支配が強かったというのは見かけだけで、幕府の権威は乏しかった。振遠隊は天領の警備を目的としてつくられた遊撃隊が元になっているが、これも実態は町人を取り締まるのではなく、横浜開港以後入り乱れるようになった外国人と浪人を取り締まるための自警団のような組織だった。
  幕府は長崎の警備を強化するために慶応3年になって撤兵隊300人を長崎に派遣しているが、倒幕機運が増し、鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争の火ぶたが切られると、翌年には撤退した。さらに、鳥羽伏見の戦いで幕府軍の雲行きが怪しいという知らせを受けた長崎奉行の河津伊豆守は、自分の身が危ないとせっぱつまって公金1万7000両をもって英国船に乗り込んで江戸に逃げ帰った。遊撃隊は一応は奉行所の配下にあったわけだが、倒幕戦争のための振遠隊として再編成され、そこに百姓や町人の次男三男たち約300人がはせ参じた。幕府に対する反発がいかに強かったかということだし、長州に対する共感がはじめからあった。

 徳川封建制と鋭く衝突 国内交易の拠点 
  長崎の成り立ちではっきりしたことは、1580年にキリシタン大名の大村純忠が長崎の地をイエズス会に寄進する。それを知った豊臣秀吉が怒って禁教令を出して宣教師らを国外に追放する。徳川時代は、鎖国になって出島でオランダ貿易だけをしていたと一般にはいわれている。だが実際には中国貿易が盛んだった。これは出島なんか使う必要がなく、ちゃんと長崎の港に着いていた。出島に出入りするオランダ船は年に2隻だったが、中国船は平均して60隻、多いときで200隻近く入っていたといわれる。文書には残らない沖で取引する貿易も含めれば相当なものだ。
  華僑の人の話では、「鎖国」というのは事実と違うという意見もあった。それだけ長崎と中国との関係は深い。幕府は1634年に出島をつくってポルトガルやオランダ人を閉じこめたが、中国人らは市内に散在していた。孔子廟も儒学の学問所として1647年につくられている。それは不平等ということで唐人屋敷をつくるが、奉行所と遊女しか入れない出島に比べて、唐人屋敷には紹介があれば誰でも自由に出入りできた。そこには3000人もの華僑がいたという。地役人の中でも唐通司(通訳)がもっとも位が高かったことをみても、中国との関係の深さがわかる。
  現在の中華街周辺の海岸にも直接中国船が入っていたといわれていた。周りは全部問屋街がひしめき合っていたという。奉行所の統率力は弱いし、中国貿易が大部分だったというのも世間の認識としてはない。
  長崎は、中国交易を基本とする国内交易の拠点となって発達した商業都市だ。密貿易というのは幕府の言い分であり、「わしらはちゃんとした信用で取引をしている」というのが町商人の方だ。密貿易を認めさせるために長崎奉行には賄賂をつかませて、丸山に連れて行って骨抜きにして2年間の任期で帰らせるという関係だった。長崎は新興ブルジョアジーの商業都市で、徳川封建制とはひじょうに鋭く衝突していた関係だったということだ。長崎はお上の言いなりでおとなしいというものではない。
  戦後の長崎は水産業が中心で加工とか造船とかが発達したが、日中間の国交が断絶したなかで、民間漁業協定を結び日中友好漁業としてやってきた。反中国の政府に逆らってやってきた。これも歴史的な伝統を受け継いでいる。
  アヘン戦争で中国との取引がガタ減りし、横浜開港で貿易ルートをよそに取られて一気に貿易による収入が減っていく。物価が高騰するし、外国人居留地などもどんどん増えて、町のなかを外国人が好き勝手にうろつきはじめる。困窮した農家の娘が外人相手の遊郭をつくったりするなど風紀が乱れ、治外法権で外国人が犯罪を犯しても捕らえることもできないという状況になっている。
  全国から浪人が集まってきているが、みんな一攫千金狙いだといわれていた。高杉は、京都の公家衆の間を渡り歩いて「尊皇攘夷」をエサに成り上がろうとする志士たちを、「功名勤王」といって軽蔑していたが、幕末の長崎でもそれ以上にひどかったようだ。
  龍馬についても同じだ。いまでは長崎の町人は「龍馬を助けた」程度の扱いしかされていないが、実際には逆で、町衆の倒幕機運の盛り上がりの中で龍馬が一儲けを狙ったという関係だ。長崎の商人たちは、「龍馬の借金を何百両かぶったのかなどと聞かれるが、その程度ではない。家の財産がつきるまで倒幕軍を支えた。自分たちが世直しをやるという気概でないとそんなことはできない」と語っている。

 植民地化の危機も熟知 振遠隊も結成へ 
  ペリーが来たときなど、外国との交渉事にはすべて長崎から通訳がいっているが、もともとは長崎の地役人だ。中国との国家間の文書にも長崎の唐通司がサインをしていたほど実際の外交では幕府よりも力をもっていた。北海道や東京の台場の建設など防壁の指導もすべて長崎の地役人がいっているとか、海岸沿いの豪商が家に砲台を備え付けているとか植民地化に対する長崎町衆の抵抗意識はすごかった。「奉行所が警備を放り投げて逃げたので、町衆の自治意識はさらに強くなった」「長崎の人間には、日本を植民地にさせないためには、まず長崎を植民地にさせてはならないという気位があった。その意識が、振遠隊の結成にもつながっていった」と語られている。
  長崎は資本主義の先進地であり、植民地の危機について1番よく知っている。華僑はたくさんいるし、上海のだれそれの店が潰れたとか、どの町がどうなったということまでわかるような関係だから、アヘン戦争以降の中国の変貌についてはこと細かに伝わってくる。あの大国である清国がやられたなら次は日本に迫ってくるし、まずは長崎が危ないと危機感をもつのは当然だ。
  長崎には中国人が建てた4つの唐寺があるが、慶応元年に唐寺に華僑が集まってアヘン戦争以降の中国の国情の乱れを訴え、日本人に助けを求めたという。そのときに日本側と中国側の代表が書いた掛け軸をもっている人もいた。
  沖を見張る遠見番が入港してくる貿易船を発見すると、「それを待っていたかのようにワッと町が活気づいた」というほど貿易によって成り立ってきた町だから、アヘン戦争以降の物価の高騰にはかなりの打撃を受けている。だから、イギリスなど列強の侵略に対する敵がい心が沸き立っていた。
  長崎にはそういう活気があり、馬力がある。封建制は没落していくが、勃興する資本主義は活気があり、不断の変革と進取の気概が強かった。そういう町衆の息吹を吉田松陰も高杉も肌で感じて帰っている。
  ある男性の先祖は吉田松陰とも親交があり、長崎で眼科医をしながら国学を唱えており、日に日に教えを請う人が増えていたという。その家は一族をあげて長州に加勢していたので、危険人物として安政の大獄で彦根藩に捕まって獄につながれた。その弟が振遠隊に入っており、奥州戦争で持ち帰ったという埋木を見せてくれた。
  寺や神社も陰から支えている。幕藩体制の中では寺には寺社奉行しか入ることが許されていなかったので勤王の志士たちは寺にかくまわれていた。桜馬場にある春徳寺の和尚は、「唐物書物改役」という奉行所直轄の役人でありながら勤王僧で、井伊直弼を斬った水戸藩士をかくまって檀家の養子にしたり、「伊藤博文や三条実美などもきており、幕府や諸国の情報をもらっていた」と語り継がれている。寺は情報集積地として大きな役割をもっていた。

 奇兵隊と同じ農兵刀も 振遠隊子孫が保管 
  百姓町衆の部隊というのは長州の奇兵隊を除いたら他にない。長崎で同じように振遠隊がつくられたということは、町衆の倒幕熱、攘夷熱がすごかったということだ。隊の結成に当たっては新政府要員として長崎にいた井上聞多(馨)が関わり、隊長も奇兵隊の経験者だし、高杉晋作がつくった奇兵隊を直接のモデルにして組織している。
  振遠隊の子孫の家では奇兵隊が使っていたものと同じ赤鞘の農兵刀が保管されていた。奇兵隊の場合と同じように「この農兵刀が振遠隊のシンボル」だったという。これまであまり人に見せたことはないそうだが、ショーケースに入れて家の誇りとして大事に保管されていた。
  慶応元年に、高杉が長州藩の藩論を統一するため、俗論党打倒をしたことは日本中に響き渡る。それによって幕府の討伐軍を撤退させ、倒幕体制を固めて突き進んでいるというのは長崎でもすごい権威だったはずだ。だから高杉と農民、商人が参加した奇兵隊・諸隊は長崎町衆のすごい共感があり、高杉は奉行所が監視する長崎で堂堂とふるまえた。町全体が倒幕・独立要求の長州びいきだし、四境戦争で幕府軍を打ち負かすところまで来ると長州の奇兵隊・諸隊への共感がすごかったのは当然だ。
  振遠隊は直接にも長州奇兵隊との親交がある。振遠隊が駆けつけた秋田では秋田藩の武器が新鋭のもので、長州軍は苦戦していた。そのときに長崎から新式の連発銃をもって加勢にいった。ともにたたかっている仲だし、明治維新の原動力そのものだった。しかも、明治新政府になってから「幹部は勝った、勝ったと騒いで成り上がったが、ほとんどの町民たちはスッともとの町衆にもどっていった。これが長崎のいいところなんだ」と誇らしく語られている。
  県庁移転反対署名にきていた自治会長は、「長崎市民というのはいつも一致団結してやる。おくんちでも、金を出す町年寄(金持ち)もいれば、金はないが体を動かす人もみんな平等だ。金がすべてではなく、金があるものは金を出し、力があるものは力を出す。それを1つに束ねたときに全体がまとまるし、力も発揮される。長崎の町衆はそうやって成り立っている」といっていた。振遠隊は抹殺されたが、その伝統はいまも生きている。
  長崎は土地を基本にして百姓を縛る大名がいない商業都市だ。天領だからおとなしいというものではない。倒幕と独立の精神が旺盛だったということだ。

 龍馬売出しの欺瞞露呈 長崎では強い批判 
  最近の坂本龍馬キャンペーンだが、龍馬のなにをほめているのだろうか。
  長崎でみんなが感謝するようなことはやっていないといわれる。長崎で何をしていたのかわからないから勝手な作り話になる。薩摩と長州との交易は、龍馬の方は商売としてやっているので、商売になるのなら幕府でも何でもいい。もともと勝海舟の弟子で、薩摩や長州ともかかわっている。いまでいう市場原理主義的なタイプだ。
  慶応3年に海援隊が他藩から借り受けた船が紀伊藩船と衝突して沈没した事件でも「我が国最初の海難事件」と持ち上げられているが、このときに龍馬は、船と積み荷の賠償金として紀伊藩に約7万両の賠償金を払わせている。この賠償金の行方もわからないといわれていた。
  亀山社中がかすめ取っている。長州藩が幕府との四境戦争に備えて買ったユニオン号も薩摩藩の名義で取り引きし、長州藩が金を出しているが、船は亀山社中が自由に運用するというやり方をしている。海援隊が解散したのちに長州藩が取り上げているが、そういうコソ泥のようなことをやっている。
  最大の功績は薩長同盟の立役者ということだが立て役者は当事者の長州と薩摩であり、龍馬が決めたわけではない。すでに薩長の間では、江戸でも京都でも付き合いがある。それ以上に、長州と薩摩と長崎は交易ルートがあり、商人同士を通じて動静はこと細かにわかっている仲だ。薩摩の島津久光は公武合体派だから幕府側にたって「長州を弾圧せよ」とやり、禁門の変では薩摩と会津が長州を攻撃したし、第1次長州征伐軍の総督参謀は、西郷隆盛だった。島津久光と西郷以下の倒幕勢力、および薩摩藩内の商人、百姓はどんな動静かなど、商人ルートでつねにわかる関係だ。第1次長州征伐で高杉の俗論派討伐の決起を見て西郷が幕府軍を引き上げさせたのを見た高杉が、薩摩が長州側について倒幕の方向に動くと見たのは疑いない。
 この俗論政府打倒の直後に、高杉は長崎で五代友厚と会い、「銃の購入を手伝ってくれ」ということで両者が動き出す。高杉の判断があれば、薩摩は信頼する。武器を買うというのは幕府と戦うという意味だし、そのための薩長同盟だ。
  薩摩内部では島津久光を越えて動かねばならず、長州藩では薩摩にさんざんに殺されたという恨みがあるなど矛盾は大きかった。それを最高実力者の高杉が出ていって「協力してくれ」とやったことの信頼が大きいのは明らかだ。
  慶応2年の薩長同盟の密約というのは、戦争を実際にやる計画だ。そこに龍馬がいて立ち会ったという話だ。その前に銃や軍艦の購入への協力などで基本的に成立していた。その後龍馬は「船中八策」を出して、公武合体による大政奉還を唱えている。これは天皇を頭にして徳川幕藩体制を続けるというものであり、倒幕をめざす薩長同盟とは対立した方向に行った。龍馬の路線は、倒幕のための薩長同盟でなく、薩摩とも長州とも幕府ともパイプをつくって商売するということのようだ。
 市場原理、グローバリズムにつながるし、持ち上げる根拠だ。長崎町衆は薩長側の倒幕のために参戦した。徳川幕府の武力を解体し、領地を没収し、身分制、交易の自由など社会制度の変革に進んだ。
  岩崎弥太郎についても批判は強い。岩崎弥太郎は、土佐商会の商売で長崎に来ているが、維新後は土佐の藩船を使って海運業をやって儲けた。海援隊の延長線だ。今やっている「公設民営化」「指定管理者制度」のようなものだ。そして、明治政府が農民から搾り取った税金を投入して官営長崎造船所をつくり、外国の技術者などを呼んで船を造れるようになったところで払い下げをする。この辺に伊藤博文などが関わっているのではないかと思われるが、世話になった長崎の商人などではなく岩崎に払い下げる。「かんぽの宿」的というか民営化だ。三菱も本をただせば税金だ。
  三菱は昔から派遣制度のようなことをしていて、戦前でも「圧倒的に多い工員のボーナスは2週間分、職員は10カ月分だった」という。「三菱のおかげといえば、ただ飯にありつけて飢え死にしなかったという程度だ」といわれていた。

 消し去れぬ町衆の伝統 抹殺図った米占領軍 
  長崎の振遠隊を抹殺するということが明治維新における町衆の役割を抹殺するということとセットだった。この自治意識、独立精神、結束力を戦後のアメリカ占領軍がものすごく嫌った。そして、「祈りの長崎」「おとなしい長崎」と描いてきた。
  振遠隊を祀っていた梅ヶ崎招魂社は、下関の奇兵隊士たちの桜山招魂場のように同じ高さの石柱がずらりと並び、戦時中まではたくさんの市民が参拝していた。ところが、昭和37年に西南の役や台湾の役などの戦没者をまつる佐古招魂社と統合され、当時の面影はまったくなくなった。昭和59年にキリスト教の牧師が市内にある14カ所の忠魂碑に対して市から助成金が出ていることに対して、「政教分離に反している」と裁判を起こし、長崎地裁は振遠隊を祀っている佐古招魂社だけを「憲法違反」とした。それ以来、助成金はおろか、招魂祭に市長も参加しなくなり、今ではほとんどの市民が存在を知らないという実態だ。
  だが、26聖人の碑をつくって、振遠隊の碑を潰すのかという疑問がある。キリスト教会群の世界遺産化などを行政が推進していることなどはどうなるのか。
  おくんちでも明治24年に「長崎振遠隊凱旋踊」をやっていたというのには、みんなが驚く。おくんちの出し物になるというのは相当に有名だったということであり、長崎における維新の誇りとして語り継がれていたということだ。それが「戦後になって、それ以前の歴史は暗黒という扱いをされてすべて消された」といわれる。振遠隊の子孫の人も「明治維新から軍国主義になったのだ」といわれるようになり、表だって語れない雰囲気がつくられていったといっていた。
  慶応元年に長崎にフランスが大浦天主堂をつくっているが、正式名称は「日本26聖殉教者天主堂」だ。居留民のための教会というのならあんなでかいものは必要ない。「お前たちはキリスト教を弾圧した」といって、文句をいわせないで植民地支配するという脅しの要素を持っている。
  明治維新で果たした長崎の役割が明らかになったことは、「祈りの長崎」などといってきた原爆投下以後の欺瞞も吹き飛ぶ。長崎では、明治維新以降は土佐がきて、戦後はアメリカ占領軍がきて長崎の歴史をねじ曲げてきた。しかし、町衆の伝統は堂堂と流れている。
  号外を読んだ市民が「さだまさし」などの批判をすごくいう。「長崎はもっと活力がある」「精霊流しの歌をやっているが、長崎の精霊流しはあんな不景気なものではない」という。
  長崎のさるく博や龍馬キャンペーンもNHK大河ドラマに合わせたもので、はじめから東京受けを狙っているから地元には基盤がない。亀山社中跡を1億円くらいかけてきれいにして公開するといっているが、「龍馬が長崎でなにをしたのか」と市民は首を傾げている。
  長崎市の町歩き観光の「さるく幕末編」は、安政の開港150周年といううたい文句でペリー来航と長崎の植民地化を「近代化の始まり」ともちあげている。ペリーの意図に反して植民地化をひっくり返したのが明治維新なわけだが。
  横浜開港と日米修好通商条約が日本近代化の始まりという描き方だから高杉や振遠隊が出る幕がない。「ペリーの日本占領の目的をひっくり返した男・高杉、振遠隊はけしからん。ペリー大先輩に逆らった輩だ」というアメリカの対日支配の意図につながっている。長崎植民地化の賛美という線だ。
  この公演の取り組みを通じて、振遠隊をはじめとする明治維新の町衆の誇りが消されてきたことと、原爆投下後ずっと語れなかった被爆者の思いとがつながった。明治維新当時の植民地化に対する先人たちの斗争は、現在の原爆による植民地化反対の世論を大いに励ますものになっている。戦後の長崎は、植民地化反対の独立世論を戦後一貫して封じ込めようとする欺瞞の象徴的な存在にされてきたことがはっきりしてきた。その長崎の真実を全国に知らせる意義は非常に大きい。

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