アジア記者クラブ(APC)は5月26日、明治大学駿河台キャンパス(東京都千代田区)で定例会を開き、激動する朝鮮半島と東アジア情勢への理解を深めるため、朝鮮大学校の李柄輝(リ・ビョンフィ)准教授(朝鮮現代史)を招いて講演をおこなった。米朝交渉をめぐる動きが進展する一方、メディアによって流される情報が極めて一面的で事態を正しく認識することを妨げるなかで、北朝鮮の一次情報にもとづく同氏の解説は強い関心を集めた。北朝鮮の国情と米朝交渉を正確に捉える糧として、講演内容を概括して紹介する。(文責=編集部)
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朝鮮半島情勢が急展開を見せるなか、さまざまな視点が朝鮮半島に集まり、さまざまな論調で語られている。6月12日に予定されているシンガポールでの朝米首脳会談をめぐり、朝米間で水面下交渉が続いているが、既存メディアは競い合いながら首脳会談をめぐる新情報に飛びつき、検証もせずに流してしまう一方、そもそもなぜ朝鮮半島にこれほど長く非平和な状態が続いているのか、そのなかで朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)はどのような状況におかれ、どのような動きをしてきたのかについては、日本の言論空間においてはほぼ触れられていない。
2010年に最高指導者として選出された金正恩委員長は、就任にあたり「二度とわが人民を飢えさせることはない」と宣言し、100年大計戦略として「自主、先軍、社会主義の道を歩む」とのべた。先代の敷いた路線を継承しながらも「革新を排除しない」とし、イデオロギーにとらわれず、現実にマッチした政策を幅広く展開する政策をとっている。とくに「科学技術立国」「教育革命」「人材立国」などの新方針を掲げ、技術者などの人材育成に非常に力を注いでいる。
さらに国内では、労働党と人民を結ぶ配給制度が終わり、人民はヤミ市のようなアンダーグラウンドな空間に出向き、生活の糧を得るほかなくなっていた。党や国家は、あずかり知らないところで自然発生した市場を活用するのか、統制するのかを決めあぐねた。現在の経済管理では、市場を活用する形で企業責任管理制が導入されている。産業資本は国家所有であるが、経営権やもうけの分配権は生産現場に移譲する。支配人が国家に多くの権限を委任されており、どの工場で働くかで格差が生まれている。この格差を刺激策にして経済潜在力を引き出している状況だ。農村においてもワークグループを少数化し、ノルマ超過した作物はグループ内で分配が可能になった。改革開放初期の中国と似ているが、経済において市場統制をしながら活用するという流れが奨励されている。
経済成長を安定的に軌道に乗せるためには、遅れているハード、インフラが早急に整備されなければならない。その財源は自立経済からは出てこないため、外から入れるほかない。そのため2013年に経済開発区法をつくり、国土のコーナーである羅先、黄金坪、開城、金剛山に加え、新たに全国13カ所を特区に制定し、そこでは外国資本の直接投資を認めるという画期的な決定をした。とくに力を入れているのは、元山と金剛山一帯の観光地帯構想であり、スキー場や鉄道建設に着手し、ロシアは鉄道に関して250億㌦規模の資金提供をおこなうことで合意している。
先軍(軍事優先)政治においても、軍部隊視察の減少、職業軍人の後退とテクノクラート(科学者や技術者出身の文民)の登用、国防委員会を廃止して国務委員会を新設し、外交委員会を復活させて韓国との対話をすすめる祖国統一平和委員会を国家機関に格上げするなど、軍事から経済・教育・南北統一へと政治的力点を転換している。
1948年
分断された朝鮮民族
では、なぜ経済発展を最優先に目指す金正恩委員長があれほど激しく核・ミサイル開発をしてきたのか。その理由を知るうえでは、朝鮮半島情勢を根底から規定している「停戦体制」への理解が必要だ。
今年は1948年から70年目を迎える。70年前、朝鮮民族は誰も想像しなかった分断をよぎなくされた。1948年には、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国という2つの政府が出現した。米国が朝鮮問題を国連に持ち込み、国連が米ソ占領下の朝鮮において「国連の選挙監視団の下で選挙をおこなえ」と提案した。当時、ソ連側は「選挙をおこなうのであれば米ソ両軍が撤退すべき」と主張したが、米国はそれを認めなかった。「国連監視」の実体は、米軍の監視下の選挙であった。そして、国連は米軍占領下の北緯38度線の南側(のちの韓国)だけで選挙をおこなうことを決定した。
それに対して朝鮮の主たる政治指導者たちは、南北左右の垣根をこえて1948年4月、平壌に結集した。この「4月連席会議」は、「南側だけの単独選挙には絶対に反対である。米ソ両軍の撤退を求め、朝鮮人の手で選挙をおこない、新しい朝鮮の政府を樹立する」との声明を世界に向けて発信した。当時、後に大韓民国の大統領となる李承晩(イスンマン)一人だけが米国が進める単独選挙を支持したが、その他すべての政治家たちは右側の人も含めてみな反対を唱えた。だが、この朝鮮人の一大結集の力を米国は無視し、南側に分断国家である大韓民国を樹立し、それを追って南に対抗する形で「4月声明」に賛同するものたちが朝鮮民主主義人民共和国を作った。このように2つの政府が生まれたが、国連は同年、南の大韓民国を正当な政府として認める決議をしている。
この2つの政府は、双方が唯一合法政府を主張し合っている。朝鮮民主主義人民共和国の初代憲法では、首都はソウルであると明記し、あくまでも共和国の国土は済州島まで含むという考え方だ。大韓民国側の李承晩は「失地回復」といい、「本来領土である38度線の北側は“アカ”に占領されている。いずれ“アカ”を追い出して、白頭山の頂に太極旗をなびかせなければいけない」と主張した。双方が排他的に正当性を主張しあうのだから、統一をめざせば必然的に戦争の危機が高まり、平和を求めるなら分断を甘受しなければならない。1948年に朝鮮半島はそのような相克関係に置かれ、2年後には朝鮮戦争が勃発した。
朝鮮戦争停戦
南には米国の軍事覇権
朝鮮戦争は1950年6月に勃発したが、1年後には停戦交渉が開始された。戦火を交えたのは3年だが、後半の2年間は停戦交渉と戦闘行為を並行しておこなっている。停戦交渉が始まってから米国の動きは極めて早かった。朝鮮戦争の戦況が膠着して停戦状態が長期化することを見越して、「日米安保」とセットで日本との単独講和を急ぎ、米国の仲介のもとに日本と韓国の国交正常化交渉を51年にスタートさせている。2年後には停戦が成立するが、そのときにすでに軍事境界線の南側には米国の軍事覇権が成立している状態だった。
停戦協定では、4条60項に「3カ月以内に関係政府による政治会談を開き、戦争状態を完全に終わらせ、朝鮮統一を実現する交渉をもつべきである」と明記しており、54年にはスイスのジュネーブで政府間会議がおこなわれたが、この会議はまったく歩み寄りを見せずに平行線のまま決裂した。停戦協定4条60項に従って戦争を終える手立てが頓挫し、平和が回復しない以上、停戦状態は延延と続くことになる。
今年の7月27日で、停戦協定から65周年を迎える。日本の戦争の場合、連合国との講和条約締結は1951年9月であり、ポツダム宣言受諾からのタイムラグは約6年だった。朝鮮ではその10倍以上の歳月をかけても平和の回復なき停戦状態が続いてきたわけだ。
しかも停戦協定は、詳細にわたって戦争再発防止策を明記している。たとえば、中立国監視委員団が、朝鮮の主な港で朝鮮、米国、韓国双方が外から武器を持ち込まないように監視するという条文がある。ところが5年後には米国は協定に違反して核兵器を韓国に持ち込んだ。停戦協定もこれらの監視団も、この協定違反を阻止し得なかった。停戦協定という「撃ち方やめ」の約束はすでに58年の時点で白紙化、形骸化した。
つまり65年続いてきた朝鮮戦争の停戦状態は、関係する双方が停戦協定を守って停戦が成立しているのではなく、朝鮮半島における軍事バランスにより、かろうじて停戦が維持されている。世界一の軍事大国である米国と、朝鮮の4倍の軍事費を投じる韓国、その後ろに控える「日の丸」という、日米韓の巨大な軍事力をもってしても、朝鮮に対して軍事オプションを行使できないように、朝鮮側が一定の抑止力を常に用意しておかなくてはならない。つまり瞬時の平和の連続こそが、65年の停戦そのものだった。
それでも1990年代までは軍事バランスを保つことができた。朝鮮は61年7月にモスクワと北京との間で実質の軍事協定を結んでいる。韓国は米国の核の傘に入ったが、朝鮮はモスクワの核の傘に入ったわけだ。その大国の核の力が拮抗し、朝鮮半島のバランスがとれていた。だが90年にソ連が崩壊し、中国は敵側である韓国と国交を結び、朝鮮にとってはその「核の傘」は信用ならないものとなった。朝鮮半島と東アジアの軍事秩序は、すべてが大国の核の傘の下に入るなかで、朝鮮だけが丸腰状態に置かれることになった。
そのため朝鮮は、朝鮮半島の非核化を目指して米国に平和交渉を望んできた。74年にはじめて米国に平和協定締結を求めて以降、一貫して平和交渉を求めたが、米国はこの提案を受け入れなかった。そして毎年、春と秋に大規模な合同軍事演習を韓国で展開し、とくに90年代以降の軍事演習は、北側の攻撃に備える防衛型ではなく、体制転換を進める戦術としてきた。全国力を投じてかろうじて停戦を維持している朝鮮に向けて、戦略手段をつぎ込み軍事的プレッシャーをかけるなら、朝鮮側はさらに軍事のために国力を削がなければならない。
これは、かつてレーガンがソ連に対してやったのと同じ方法だった。サウジアラビアに石油を増産させて石油の国際取引価格を下げ、ソ連の外貨収入を目減りさせたうえで軍拡競争を挑む。するとソ連はお金がないのに米国に対抗して軍事費を積み上げていかなければならない。10年後には体力が持たずにソ連は崩壊した。
同じ発想を朝鮮に向けたもので、朝鮮の体力をそぎ落とすという明確な戦術としての米韓軍事演習といえる。これは米国の評論家ジョン・フェファーが指摘しているものだ。
そのなかで、朝鮮がいくら米国に平和協定を求めても米国は一向に出てこない。そのなかで朝鮮はついに核開発に踏み込んだ。だが、金正日時代は核開発をしながらも、それをカードにして米国に対して交渉を挑んできた。核開発と対米交渉を併走させてきたわけだ。そして94年に「朝米枠組み合意」、2005年には六者協議において「9・19声明」を出した。これらの米国との合意について、米国は「朝鮮が反古にした」といったが、クリントン政権もブッシュ政権も究極的には朝鮮の体制転覆を求めてきたわけだ。いずれ朝鮮の政権は崩壊する、もしくは崩壊させるという強い意図を持ちながらの交渉だった。よって朝鮮側は、米国への敵視政策を転換し得なかった。
その状況が続くなか、金正恩政権はより明確に交渉よりも核武装へと政策の舵をきった。核武装しなければ米国からは国を守れず、米国と対等に交渉はできないと判断し、2013年には核開発と経済建設を同時に進める「並進路線」を採択した。
対米交渉途絶え
核武装の完成へと進む
金正恩委員長が最高指導者に就任した2012年4月に、朝鮮は人工衛星を打ち上げたが失敗した。その直前にはオバマ政権との間で「2・29合意」があり、アメリカは朝鮮を敵視せず食料支援をする、それに対し朝鮮は核を凍結させて放棄するプロセスに入ると決めた。人工衛星の打ち上げは失敗したとはいえ、オバマ政府は「合意違反」として合意を撤回した。それでも金正恩委員長は米国批判を抑えながら、米国との水面下交渉をしていたが、2012年8月に米国が大規模な米韓軍事演習をして以来、一気に軍事指導者としての色合いを濃くした。軍隊を回り、「米韓側が一発でも朝鮮領内に攻撃すれば一気に反撃せよ」という命令を下した。そのような緊張状態に入るなか、同年10月9日、共和国の国防委員会スポークスマン声明が出る。ここで金正恩政権としてはじめての反米宣言をした。「われわれはかわることなく米帝国主義とたたかっていく」と。これは一つの潮目の変わりだった。
直接的な発端は、この声明の2日前に米国が韓国に対してミサイル開発の規制を解除したことだ。実は朴正煕(パクチョンヒ)政権以来、米国は韓国の弾道ミサイル技術における射距離、弾道の重さを統制している。しかし、オバマ政権は、これまで300㌔だった射距離を800㌔に伸ばすことを認め、韓国はすぐに「ミサイル政策宣言」を発表した。直接にはこれに反発したわけだ。
声明では、より本質的な問題として「オバマ政権は、ブッシュ政権と違って朝鮮を敵視しないと何度もいってきた。CIAやNSCの中堅政策立案者たちと2012年4月以降、水面下交渉をしていたが彼らも敵視しないと何度も口にしてきた」と明かし、「しかしながら大規模軍事演習をし、韓国のミサイル射距離を伸ばした。オバマの言葉は信じられない」と宣言し、これ以降はオバマ政権との交渉は完全に断絶した。
同年末、朝鮮は人工衛星打ちあげに再チャレンジし成功する。すると米国は反発し、国連安保理で制裁決議を採択した。これまで国連安保理は、核実験には制裁決議、人工衛星については議長声明止まりだったが、人工衛星発射に対してはじめて制裁を発動した。これに朝鮮は強く反発した。「これまでオバマ政権との交渉において前提になってきたのは主権尊重の原則ではなかったか。われわれは宇宙条約にも加盟し、国際法に則って他国にも認められている人工衛星打ち上げの権利を行使したにもかかわらず、なぜ朝鮮だけが制裁を科されなければならないのか。国際法は安保理決議よりも上位にあるはずであり、制裁は主権平等を逸脱している」というロジックで、今後オバマを相手にしないという立場を固めた。そして2013年には核実験をし、並進路線を採択した。
2014年に入ると、2月に朝鮮通として知られるドナルド・グレッグ元駐韓米国大使が平壌を訪れ、李勇虎次官(当時)と会談した。ソウルと東京を経由して帰国するさい、李次官の発言として「金正恩委員長はまだ若く、われわれに時間は十分にある。オバマはもう相手にせず、次を待つ。ただ、われわれは日本と韓国との関係改善を進めるので米国は介入するな」という内容を日韓メディアに知らせている。
その発言の通り、直後に李東一国連大使は、国連の場において「デッドライン」発言をした。「米国が体制転換を目指すならいつでも核実験に踏み込む。体制転換の手前で踏みとどまるならおとなしくしておく。ただ対米交渉はしない。日韓とはする」というものだ。この発言で対米関係を凍結しながら、2014年以降は南北、日朝会談を稼働させた。この時、南北間では、米韓軍事演習がされているなかでも離散家族の再会を果たし、10月にはアジア大会の閉幕式に朝鮮の高官3名が急きょ派遣された。朴槿恵政権であっても南北交渉を進めようとしたのだ。日本との関係では、安倍政権であっても日朝交渉を進め、5月には「ストックホルム合意」が採択された。朝鮮にとっては当時、日韓が慰安婦問題で揉めていたので、その間に南北、日朝関係を開き、いずれ米国を揺さぶろうと考えていたとみられる。
2015年には、交渉はしないと決めた米国に向けても数数の提案をした。1月以降は、米韓軍事演習を臨時中断すれば、核実験を留保するとし、李容浩外相は平和条約の締結を提案した。「朝鮮の平和を保つ方法は2つしかない。つまり、力の拮抗による冷戦的方法か、対話により信頼を構築する方法かのいずれかだ」とし、平和交渉を呼びかけた。しかし、オバマはこれにまったく応えなかった。「朝鮮はいずれ崩壊するであろう」という挑発的な発言をし、人権カード(国連人権理事会非難決議など)を切った。
その後、冷え込んだ日韓関係を回復させるため、3月のハーグ首脳会談において米国が仲介して朴大統領と安倍首相を引き合わせて以降、米国は日米韓同盟の再生に向けて日韓に圧力をかけた。その帰結である15年末の「慰安婦合意」は、安保問題において日韓の間のトゲを抜くことで日米韓3国の軍事同盟関係の再生を目的としたものだ。この後、日韓首脳はオバマに対して感謝の意をのべている。これは朝鮮側からすると、南北、日朝の交渉を通じて米国との対話を実現しようという道が途絶えたことを意味する。そのため朝鮮は2016、2017年と核武力の完成に向けて一気にギアを上げた。
南北が主導し対話局面へ
朝鮮戦争の終結を宣言
そして今年1月以降の対話局面に入るわけだが、南北は4月27日の首脳会談で「板門店宣言」を発表した。これまで分断が深まれば深まるほど、それへの反作用として絶え間なく展開してきた朝鮮民族の統一運動の到達点が、この宣言に集約されている。
これまでの南北対話を通じて、すでに朝鮮民族のなかでは朝鮮統一における見解の合意がある。そのゴールは、緩やかな連邦制統一であり、既存の南北体制をほぼすべて据え置き、両者を緩やかに繋ぐ非常に権限の小さい連邦政府と象徴的な国家首脳を置く――というものだ。その合意に立ち、これまで朝鮮側が嫌がっていた経済・文化・人的交流を積極的に進め、それによって信頼を築いていく。その信頼に基づき、今度は逆に韓国側が嫌がっていた軍事対立を解消していく。つまり、信頼構築と対立解消という2つの柱をもって連邦制統一を実現する。これがふたたび板門店宣言に明記された。
今回の会談で金委員長は、「失われた11年」と何度も口にし、「どれほどすばらしい合意があっても実践しなければ意味がない。多くの失望をより多くの人に与えてしまう」と強調した。
なぜ、これまでの統一に向けた議論やロードマップが画餅に帰してきたのか。それは、和解プロセスの前途にはばかる「停戦体制」という隘路(難所)があったからだ。
今回の「4・27南北首脳会談」で新たに確認されたことは、「既存の合意を前進させるためには、必ず平和問題を解決しなければならない。それは朝鮮戦争の終結であり、平和が訪れるなら核も放棄できる。つまり、非核化と戦争終結はコインの表裏であり、この二つを対にする平和だ。この平和を南北が力を合わせて実現する」というものだ。これにより朝米会談につながる対話の第一幕は非常に成功裏に終わった。
もっとも重要なのは、「わが民族の運命をみずからが決定する」との民族自主の原則に立ち、南北が手をとって朝鮮戦争を終わらせることを明確に宣言したことだ。2007年の「10・4宣言」でも、3者もしくは4者において終戦宣言をやろうということが明記されたが、今回は国名を明記し、時期は今年内と具体的に明記した。それができたのは、当事者の確認がとれているからにほかならない。
3月末からの首脳外交
皮切りとなった電撃訪中
昨年までの緊張から今年の対話局面、1月以降の慌ただしい外交局面を整理すると、3段階に分けることができる。まず文在寅大統領の呼びかけにより南北対話が進み、1月には高官級会談がおこなわれ、平昌五輪を通じて南北互いに特使を交換し、南北首脳会談、史上初の朝米首脳会談までが設定された。
そして3月末からは、連鎖して首脳外交が展開されたが、その皮切りになったのは、だれも想像しなかった金委員長の電撃訪中(3月27日)だった。私は、金委員長にとって最初の外国訪問地は「北京ではない」と見ていたが、このニュースを見て驚いた。
なぜあれほど険悪の仲だった中国を訪問したのか。それを解く鍵として注目するのは、昨年3月27日の『環球時報』(中国紙)の社説だ。それは当時の中国政府の立場を示している。概略すると、「トランプ大統領が、核を放棄しない北朝鮮をピンポイント爆撃するのなら中国は目をつぶる。そのかわりにソウルが火の海になることは肝に銘じておくべきである。しかし、米軍が38度線を越えて金正恩体制の打倒に向かうなら中国は軍事介入する」といっている。中国は、非核化については米国と手を組むが、金政権打倒は望まないということだ。朝鮮側は基本的に中国の立場をわかっていたが、朝鮮にとって許せないのは対米共同戦線という伝統的な「血盟関係」を中国側が破ったことだった。
これまで朝鮮労働党と中国共産党はたくさん揉めてきたが、二者間でなにがあろうとも、米国を前にしたときは必ず手を繋ぐのが、金日成―毛沢東以来の「朝中血盟」の内実だった。だが今回、習近平は米国と話しあって朝鮮に制裁を加えた。これは朝鮮にとっては許せるものではなかった。
しかし、南北会談、朝米会談までスケジュール化されていくなかで、中国は「蚊帳の外」の孤立化を感じた。習近平は米国に対して「今後は四者でやっていくべきだ」といい、王毅外相は「南北融和を歓迎する。ただし今後は中国の役割が必要になるだろう」とのべた。金委員長はこれを聞き逃さず、対中関係修復のためには、中国が孤立を恐れる今訪中してこそ交渉の意味が高まると判断し、電撃訪中に踏み切った。
昨年までの『労働新聞』を見ると、中国に対して非常に厳しい批判をしているし、平壌に行くと反日意識も強いが、反中意識も尋常ではない。人民のあいだでは、中国を侮蔑する「大きい奴ら」という言葉があからさまに交わされるほど反中感情が強い。私は金委員長の北京訪問はないと思っていたが、金委員長は感情で動くのではなく、戦略的かつ合理的な判断で訪中に踏み切った。
中国では、対米共同戦線を再確認し、朝鮮半島の非核化および和解のプロセスに中国が参与するということを話し合ったとみられる。つまり、朝鮮戦争の終結に中国も積極的に関与し、経済的にも協力を密にしていくということだ。それ以降、相互の訪朝、訪中が頻繁におこなわれ、ある朝鮮の高官は10日間も北京に滞在し、習近平もわざわざ会って、今後朝鮮が「改革開放」に進んでいくという話し合いが持たれたと報じられている。
この電撃訪中で「平壌が北京を後ろ盾につけた」と見なした米国は、すぐさまポンペオ長官を訪朝させた(3月31日)。裏返せば、朝鮮はポンペオ長官と話し合う前に習近平と話しあい、伝統的な対米共同戦線の形に戻ったといえる。ポンペオ長官が帰国した後、金委員長の口から初めて「朝米会談がある」という事実が伝えられ、帰国したポンペオ長官はワシントンで「金委員長は真剣に非核化を考えている。その代償として米国にどのようなパッケージを提示するか検討しているはずだ」と発言した。そして、一昨日「金委員長は安全保障、経済投資、平和協定を米国に求めた」と明かしている。
つまり、朝鮮戦争の当事者である南北と米中の4者間では、朝鮮戦争を終える枠組みについて合意が整っている。トランプ大統領も、日米首脳会談の席上でわざわざ安倍首相を隣に置きながら、「今南北が朝鮮戦争の話し合いをしているが、これを祝福する」と発言した。朝鮮戦争の終結は、関係国の既定路線であることを明らかにした。これは非常に大きな歴史的転換だ。(②につづく)