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遙かなる西方からの声―中村哲医師の死を悼む 東京大学名誉教授・長沢栄治

 ながさわ・えいじ 専門は近代エジプト社会経済史。著書に『エジプト革命 アラブ世界変動の行方』(平凡社新書)、『近代エジプト家族の社会史』(東大出版会)など。安保法案に反対する中東研究者のアピール呼びかけ人。

 

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アフガニスタンの人々に語りかける中村哲医師

 まだ記憶に新しいことであるが、昨年12月4日、アフガニスタンの人たちのために、長年、全身全霊をもって尽くしてこられた中村哲医師が殺害された。中村先生の死は、日本と世界の平和を考える上で深刻な意味を持つものである。


 中村医師を殺したのは誰か。ここで問うているのは、直接的な実行犯が誰かということではない。究極的な意味において、先生を殺したのは誰なのかを問うているのである。先生の死は、日本に暮らす私たち自身のこれまでの行動とは関係のない出来事なのか。


 世界において現在、中東ほど戦火の絶えない地域は他にない。それはなぜなのか。中村先生は、この中東で絶え間なく続く暴力の渦に巻き込まれて殺されていった。


 この戦火の渦が発生したのは、それほど昔のことではない。たとえばパレスチナ問題について2000年来の民族・宗教対立などという誤った解説を述べる人がいるが、世界の文明の十字路である中東が、古代以来、絶え間ない紛争の地であったわけではない。現在に続く中東における暴力の渦が始まったのは、たかだか40年前、およそ1980年代以降のことである。


 この暴力の渦の中心にあるのは何か。しばしば、偏見をもって語られるのは、渦の中心には、戒律が厳しいだけで民主主義の価値も理解できないイスラーム過激派の野蛮な暴力がある、という見方である。しかし、この中東で40年続く暴力の渦は、むしろ外部からの軍事介入が繰り返されることにより、拡大してきたと考えるべきではないか。また、「暴力の連鎖」という表現を使う人もいるが、「連鎖」を引き起こす根本的な原因に目を向けなければ、真の平和の道に向かうことはできない。たとえば、外部からの軍事介入とイスラーム武装勢力のテロとの関係は、映画「風の谷のナウシカ」(宮崎駿監督)を例に取ってイメージすると分かりやすい。人間が“腐海”の森を火で焼き払うたびに、その森の奥深くから“王蟲(オーム)”の大群が攻めてくるというシーンである。もし、このイメージの意味を理解できない人がいるとしたら、それは映画において蟲の世界に擬された異文化に生きる人たちへのナウシカ的な共感と敬意が欠けているのであろう。

 

   
 過去40年の暴力の渦を作りだしてきた外部からの軍事介入、戦火の波は、ほぼ10年おきに中東を襲った。これらの4つの戦火の波とは、以下のとおりである。第一の波は、1979年のイラン革命の後に起きたアフガニスタン内戦とイラン・イラク戦争である。第二の波は、1990・91年の湾岸危機・戦争に始まる。第三の波は、2001年の9・11事件の後に起きたアフガニスタンとイラクへの米英軍の侵攻である。そして第四の波は、2010年末に始まるアラブ革命に際して起きた、リビアとシリアの内戦への軍事介入である。


 中村哲医師が医療支援のためにアフガニスタンの隣国、パキスタンを初めて訪れたのは1978年であった。その翌年、79年にイラン革命が起き、アフガニスタンの親ソ政権を支援するためにソ連軍が侵攻した。アフガニスタン内戦の始まりである。アメリカは直接、武力介入する代わりに、アラブ諸国などから集まったムジャーヘディーン(ジハード戦士)を支援して、ソ連に対抗した。この内戦が激化していた84年、中村医師はパキスタンに赴任して医療支援活動を開始し、さらに86年以降、戦火を逃れてきたアフガニスタン難民の医療に本格的に取り組むことになる。ソ連軍は88年に撤退し、内戦の戦火は収まるかと期待されたが、まもなく反政府勢力の軍閥同士の交戦が激化する。この当時の事態は、2011年のリビアの内戦後の混乱とよく似ている。「保護する責任」を名目にNATOやアラブ諸国の一部が軍事介入してカダフィー体制が打倒された後、リビアは現在まで軍閥間の抗争で無政府状態に陥っている。


 第二の軍事介入の大波は、1991年の湾岸戦争である。その頃、中村医師はアフガニスタンで医療施設を次々に建設していた。アフガニスタンへの難民の大量帰還が始まりつつあった時期である。他方、同じ頃、それまでソ連軍と戦ったジハード戦士たちは、出身国に帰り、各地で政府との間で抗争事件を引き起こしていく。アルジェリアで10年続いた内戦がその代表である。この時期に、アフガニスタン内戦に集まったジハード戦士たちの国際的な武装組織として成長したのがアルカーイダであった。同組織は、湾岸戦争における米軍のアラビア半島駐留をイスラームの聖地の冒だとして反発し、サウジの米軍基地攻撃などテロ作戦を拡大させていった。同組織を庇護したのが、九六年にカーブルを制圧し、アフガニスタンに軍事政権を樹立したターリバンであった。


 第三の波は、2001年の9・11事件をきっかけに始まった。この頃のアフガニスタンは100年に一度という大干ばつに襲われ、400万人以上の人びとが飢餓線上の危機にあった。「100の診療所よりも一本の用水路」と考えた中村医師は、井戸掘りなど灌漑工事に乗り出した。その最中になされたのが、9・11事件への報復として米軍などNATO軍が行なった「不朽の自由」作戦による空爆であった。

 


 当時、国会の「テロ特措法」審議で参考人として呼ばれた中村医師は、自衛隊の派遣を「有害無益」と明確に反対の意見を陳述した。しかし、10年前の湾岸戦争に際し、多国籍軍に巨額の資金を提供した日本は、さらに踏み込んでアフガニスタンを攻撃する米空軍に対し、海上自衛隊が燃料補給をすることにより、戦争に加担した。当時、中村医師たちの支援活動の車両からは、安全のため日の丸のマークが消されたという。しかし、こうした戦火の下でも、3億円の市民の拠金によって「緑の大地5か年計画」が実行に移され、2003年3月には用水路建設が始まった。しかし、この同じ月に米英軍がイラクに侵攻し、同じ年に陸上自衛隊がイラク南部の「非戦闘地域」の復興活動に派遣されたのであった。


 第四の波は、アラブ革命の混乱に付け込んだ軍事介入であり、現在もその戦火は消えていない。リビアのカダフィー体制の崩壊に続いて、シリアのアサド政権の打倒のため、欧米と一部のアラブ産油国は、イスラーム過激派を主体とする反政府武装勢力を軍事的に支援した。イラク侵攻が招いた悲惨な混乱について何の反省もなされなかった。その結果が、怪物IS(「イスラーム国」)の台頭であった。ISはその後、シリア内戦に参加した他のすべての勢力に包囲攻撃されて、支配地域を縮小させた。しかし、残存する勢力は、他の国々に活動の拠点を求めて拡散した。その一つがアフガニスタンであった。生前、中村医師が語ったところによれば、ISが支配を拡大した地域は、まだ灌漑工事の恩恵が行き届かず、干ばつがひどい地域と重なり合っていたという。


 中村医師の訃報が届いた日本では、「調査・研究」のための海上自衛隊の中東派遣への動きが進んでいた。中村先生の死と同時期に、海上自衛隊の中東派遣の決定がなされたのは、決して偶然ではない。そのように将来、歴史は語られるであろう。「『世界平和』のために戦争をするという、こんな偽善の茶番が長続きするはずはない」と中村先生は語っていた。この言葉は、被爆地長崎でローマ教皇が述べた「恐怖と相互不信を土台にした偽りの確かさの上に平和と安全を築」こうとする核保有国の欺瞞に対する批判(昨年11月28日演説)と通底するものである。


 遥かなる西方より平和を求める声がする。その声に全身全霊をもって応えた人はもういない。その後に続く私たち市民は、偽善や欺瞞を暴き、具体的な行動をもって、西方からの声に応えていかなければならない。

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この記事へのコメント

  1. 京都のジロー says:

    世界平和の為という目眩ましの茶番で戦争を繰り返し無関心でいる私たち
    私たちが暮らす土台の地球が壊されることに無関心。
    中村哲さんの死を無駄にしないためにも、私たちは学び、目を開かなければなりません。

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