いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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被爆者や学生、沖縄や萩からも力強い決意 原水爆禁止8・6広島集会の発言から

若い世代の参加が目立った8・6広島集会

■平和の大切さと核兵器の廃絶を世界に発信

       原爆展を成功させる広島の会 眞木 淳治


 被爆73年目の夏を迎えた。広島、長崎への原爆投下は一瞬にして多数の人人を焼き尽くし、生き残った人たちも放射能の影響を受け次次と命を失った。昨年8月の時点で広島で30万8700人、長崎で17万5700人の人が亡くなっている。このような大きな犠牲と苦しみは絶対にくり返してはならない。


 私は中学3年、14歳のとき学徒動員の工場で作業中に被爆し、大やけどを負い生死の境をさまよいながら生きてきた。多くの友人が命を失ったことはとても忘れることはできない。縁があって第2回原爆展で初めて体験を語って以来15年間、原爆と戦争の語り部として励んできた。広島、長崎の市民が被爆と戦争の真実を伝え、核兵器禁止を力強く推し進めるとりくみを継続することに意義があり、大きな力になると確信している。


 この国の行く末はどうなるのか、私たちがいなくなった後のことが心配でならない。権力者がいろいろな法律を変え、憲法にまで手を加え、戦争をしない国から戦争をする国に変貌しつつある。私はいつも語りのなかで、世界の平和は対立ではなく対話が大切だと話している。北朝鮮の脅威を煽り、イージス・アショア整備など軍備増強を図り、国民の願いや被爆者の思いと違う方向に進んでいる。あれほど対立した米朝が初めて首脳会談をおこなった。朝鮮半島の非核化を目指すということだ。簡単に信じ安心することはできないが一歩前進したと思っている。日本も圧力一辺倒ではなく、対話の道を考えて欲しいものだ。


 この原爆と戦争展で出会った人人のことを話したい。
 神奈川県茅ヶ崎市のご家族4人、とくにお母さんは2度目の来広で、熱心に質問し語っていった。千葉県船橋市の若い男女で女性は研究者、男性はペルーの人で通訳を通していろいろ話した。外国の人が原爆についてよく勉強しており、被爆者への補償はいつ始まったのか、その内容について詳しく聞かれた。非常にうれしい出会いだった。大阪市淀川区の小学校の先生が訪れ、来年の修学旅行の約束をして帰った。そのほか香川県高松市の教師の母娘とも話した。札幌市の女性教師、滋賀県の2校から訪れた教師などいろいろ話すことができた。埼玉県の中学で先生をしている夫妻、鳥取県の小学校教師は交流会にも参加した。来年必ず修学旅行をすると話していた。教育の熱心さをうれしく思った。


 また広島一中の1年のとき爆心地から900㍍のところで被爆した男性は強烈な放射線を浴び、今までにガンを21回も手術し、これ以上手術できない体になった。それでも被爆体験を語る語り部として頑張っている。


 今年平和学習をして多くの小学生から感想文を頂いたなかでとくに心に残るものを紹介する。

 5月に語った兵庫県の小学校6年生からは、6月に5年生や保護者の前で語り部の会を結成して発表するといううれしい便りだった。6月に語った安芸区の小学校の児童からは「被爆者の人たちは高齢になったので自分たちがかわって語り部になります」という具体的な意志表示を多数頂き大変うれしく思っている。このことに希望を持ち、これからも何とか育てていきたいと働きかけもおこなっている。


 広島大学の先生が今年1月、韓国の大学生約20人と勉強会を開き、その場で話をさせて頂いた。原爆展にも十数人連れて来られた。その先生の通訳で頂いた感想文も素晴らしかった。今まで多数の外国の人人と話す機会があった。広島に来る人人は原爆のことについて知識や平和への思いは驚くほど強い。逆にこちらが教えて頂くようなこともある。このような出会いを大切にし、世界とつながれば必ず世界に平和が広がっていくと私は信じている。今、患っている体を治療中だが、病気に気をつけながら一日一日を大事にし、一年でも長く、一人でも多くの人人に、語りかけ、平和の大切さと戦争反対、核兵器の廃絶を発信していきたいと考えている。

 

平和の旅の子ども達に体験を語る被爆者(6日、広島原爆と戦争展)

 

■平和の力つくるため命ある限り体験語る

         下関原爆被害者の会 河野睦


 昭和20年8月6日の朝も暑い日だった。真夏の太陽が照りつけるなか、たった一発の原爆で20万人あまりの人人が焼かれ、苦しみもがいた。


 私は昭和20年7月2日、女学校2年生のときに下関空襲により、油脂焼夷弾で家も何もかも失った。広島は空襲がないと人づてに聞き、母と2人で親類を頼って広島へ行った。

 8月から第二県女に入れてもらい、8月6日の朝は学徒動員で建物疎開の手伝いのため東練兵場に行っていた。私たち同級生数人は大きな石碑の陰にいて無事だったが、伏せていた顔を上げると東練兵場の反対側にあった建物はなくなっていた。日向で畑仕事をしていた一年生の女の子たちは衣服がぼろぼろになり、「痛いよ」「お母さん」といいながら逃げてきた。何が起こったのかわからなかった。


 とにかく家に帰れということになったが私は広島の地理がわからない。大火傷を負った1年生の女の子が比治山の方を通って一緒に家の近くまで連れて帰ってくれた。途中で見たのは何もかも焼き尽くされた光景だった。倒れている人は「水を、水を」と叫んでいたが、どうすることもできなかった。日頃は1時間のところを8時間もかかって帰った。

 12月になって学徒軍属で北支に渡っていた兄が帰国し、母と3人で下関に帰ったので、戦後の広島を知らないが、下関でも食べる物も着る物も満足にない生活だった。


 私たちの親世代は焼け野原のなかから「被爆者は嫁にもらうな」という風潮に苦しみながらも屈することなく、たたかいながら復興させてきた。

 

 しかし73年がたち、戦争の現場を一切知らない安倍総理や閣僚が、安保関連法の強行をはじめ、また戦争をしようとしていることに腹立たしい思いで一杯だ。「ミサイルが来たら頭を抱えて伏せる」「地下に逃げるように」といってJアラートの訓練に国民を動員してきたが、原爆が一発落とされれば、そんなことをしても助からない。原爆では頑丈な建物の中にいた人たちも放射能で苦しみながら亡くなっていった。国民の生命と財産を守るためには戦争が起こらないよう平和のために努力するしかないのだ。戦争を経験した者はわかることだが、嘘で国民を動員しようとしている。

 

 アメリカにいわれて6000億円のイージス・アショアを購入したり、山口県では米軍岩国基地が東アジア最大の基地に変貌している。国民が払った税金は国民のために使われず、若い人たちの生活は厳しくなっている。アメリカの方ばかり向いた政治が続けば、本当に日本は潰れそうだ。

 下関原爆被害者の会は平成6年の会再建から、二度とあのような思いを若い世代にさせないため、被爆体験を若い世代に語り継いでいくことを使命に活動してきた。


 初めは話をするのも怖かったが、学校に行ってみると、子どもたちが一生懸命話を聞いてくれる。感想文をいただくが、私たちのいいたいことをしっかり聞いてくれているのに驚く。「戦争をしないように頑張ります」と心のこもった感想文集が届く。宝物だ。戦争が起こればこの子たちが出て行かなければならない。同じ目に絶対にあわせるわけにはいかないという思いで語っている。

 最近では若い先生方が熱心にとりくみをして、真剣に聞いてくれる。ありがたく嬉しい限りだ。


 被爆体験を語ることが教育の一環であり平和の力をつくっているのだと、先生方にも勇気と元気をいただいて活動している。下関から始まった原爆展が広島、長崎、沖縄へと広がり、被爆地で若い学生さんたちの支援にてますます発展していること、大変嬉しく思っている。私たちも命ある限り、体験を語り続けていきたいと思う。

 

 

■「命どぅ宝」を堅持して世界の恒久平和求める

          沖縄県・元白梅学徒隊 中山 きく(メッセージ)


 私は73年前の沖縄戦当時、沖縄本島南部の激戦地で、軍の野戦病院で傷病兵の看護に当たった「元白梅学徒隊の一人」です。ここに、戦争体験者としての「平和への思い」を皆様にお伝えして、本日の集会参加とさせて頂きます。まず初めに、西日本豪雨災害で犠牲になられた方方に哀悼の誠を捧げ、心よりお見舞いを申し上げます。

 さて本日ここに、戦後73回目の「原子爆弾被爆の日」を迎えられ、犠牲者の慰霊供養と、現在も原爆症で苦しんでおられる方方に思いを寄せ、「原水爆禁止」と「不戦の誓い」を新たにする集いが開かれました。


 私の年代は、最も強烈な軍国主義教育を施された年代です。食料も衣類も困窮するなかで、「欲しがりません勝つまでは」「お国のために」と軍事基地づくりに励み、戦争への罪悪感もなく、命の尊厳も理解できないまま、軍国主義教育の申し子らしく、なんのためらいもなく学徒動員に応じました。沖縄戦から学んだことは、「戦争は人類にとって最も不幸な忌むべき行為である。戦争は絶対悪である。戦争に正義はない」「次世代に遺したいものは武力をともなわない平和である」ということです。


 戦後7年目には日本は主権は回復しましたが、沖縄だけ27年間アメリカの施政権下におかれ、戦後27年経って、ようやく日本に復帰しました。復帰にともなって、国家公務員だった私の夫は広島県に転勤になりました。2年間の広島滞在で原爆資料館に通い、被爆者の方と交流して原爆体験を学びました。私は、女子学徒としての戦争体験を次世代に伝える使命に気づかされました。「過去を知らないと同じ過ちを犯す虞(おそ)れ」がある。次世代の人人に「私の様な戦争のある人生を歩ませてはならない」と悟ったのです。


 その後、元白梅学徒の仲間たちと戦争体験記録を共著して、戦後50年目から証言活動を始めました。しかし、どんなに手を尽くしても、戦争で失われた命が蘇ることはないのです。遺族の悲しみ、戦争体験者の心の傷は年月とともに深まるばかりです。


 沖縄が日本に復帰してから46年が経ちました。沖縄の現状は「基地の負担過重」「米兵による事件・事故の多発」「オスプレイの強行配備」「辺野古新基地建設のごり押し」など、県民の暮らしを脅かす基地被害は、枚挙に暇がないほどです。


 私の活動は「安心・安全・真に平和な沖縄」を目指して、「沖縄戦の姿と沖縄の現状を伝えること」です。戦前、沖縄県には旧制中学校と女子高等学校が合わせて21校ありました。壮絶な沖縄戦に動員された学徒は約2000人です。戦死者は約1000人です。戦後70余年をへて初めて、私たち元学徒は男女や学校の垣根をこえて連携結束し、戦争体験を若い世代に継承していこうと立ち上がり、全学徒の会を結成しました。活動の原点は「平和維持」「戦争反対」です。もちろん「原水爆禁止」です。


 沖縄の先人たちが残してくれた至言「命どぅ宝」を堅持して世界の恒久平和を求め続けて参ります。

 

集会後、峠三吉の詩を群読しながら広島市内を行進する小中高生たち(6日)

 

■辺野古への新基地建設許さぬ島ぐるみのたたかい  沖縄県 源河 朝陽


 沖縄では、辺野古新基地建設をめぐって米日政府と沖縄県民の激突状況が、この22年間続いてきた。しかし、安倍政府・防衛省は、沖縄県民の強い反対世論を踏みにじり、今月17日にも辺野古沖埋め立ての土砂を投入し、本格的な工事に着手すると一方的に通知してきた。これに対して翁長県知事は埋め立て承認を撤回し、新基地建設を断固として阻止すると並並ならぬ決意を表明した。今、辺野古新基地建設反対の県民運動は、最大の山場を迎えている。

 今年2月の名護市長選挙は、辺野古新基地建設をめぐる鋭い政治的焦点としてたたかわれた。しかし、新基地建設反対を貫いてきた現職の稲嶺市長が自民・公明の新人候補に敗れるという予想外の結果となった。


 長周新聞社がすぐさま現地取材に入り、名護市長選挙の実態を調査分析していった。すると、自民・公明与党、政府は、金力・権力・商業マスコミ・広告代理店を総動員し、誹謗中傷やデマを振りまき、謀略的な選挙に終始していたこと、さらに稲嶺陣営のなかに攪乱を持ち込んだ勢力がいたことが浮き彫りになった。長周新聞社は名護市長選挙の全貌、明らかになった真実をすぐさま号外にして大量配布をおこない、県民世論を変えていった。


 こうしたなか、沖縄戦に動員された90歳前後の元学徒の男女が、戦後初めて結束し、戦争体験を若い世代に継承していこうと立ち上がり、「元全学徒の会」を結成した。また、戦争体験者の立ち上がりと連動して、新基地建設の賛否を問う「『辺野古』県民投票の会」が発足した。保守・革新といった従来の枠をとり払い、沖縄の未来をどうつくっていくのか、一人一人がみずからの問題として捉え、自主的に行動していこうという新しい青年学生運動が台頭してきた。この活動を支え多大な援助をしたのは、県内有数の企業家グループだった。「基地は沖縄経済発展の最大の阻害物である。保守・革新に分かれて党利党略に走ってはならない。島ぐるみの運動を展開することだ」との主張が強まってきた。


 「話そう、基地のこと。決めよう、沖縄の未来。辺野古県民投票を実現させよう!」をスローガンに、署名活動が全県各地で展開されていった。はじめの1カ月余り、署名活動は伸び悩んでいたが、街頭署名活動が精力的に展開されてから終盤の4週間で爆発的な伸びを見せ、2カ月で10万1000筆を突破した。これは、沖縄県民の一人一人の心のなかに深く渦巻いている米軍基地反対、戦争反対の切実な思いが引き出され、束ねられ、形となってあらわれたものだ。それは、73年前の沖縄戦で米軍が県民大殺戮をおこない、銃剣とブルドーザーで土地を奪い、膨大な軍事基地をつくったこと、これにたいする沖縄県民の積もりに積もった激しい怒りに根ざしている。


 今まさに、沖縄では島ぐるみの県民運動が展開されている。アメリカと北朝鮮の戦争状態が終結に向かう趨勢となり、東アジア情勢が劇的な変化を遂げるなか、「アメリカは核も基地も持って帰れ!」の世論が県民のあいだに広がっている。沖縄と本土の人人が団結し、真の独立と平和な社会の実現を目指してともに奮闘していこう。

 

 

■熱帯びるイージス・アショア配備撤回の運動 山口県萩市 安井 誠治


 山口県北浦の大地は、今熱く燃えている。安倍政府はアメリカ製の地上配備型迎撃ミサイルシステム、イージス・アショアを全国2カ所に配備することを閣議決定し、秋田市新屋演習場と萩市むつみ演習場をその候補地としている。


 萩市では配備計画の撤回を求める住民の会が立ち上げられ、毎月学習会が開かれ、宣伝と組織活動がすすめられてきた。その中心を担っている人は、「山口県には戦後、米軍の演習場になっていた秋吉台をとり返した歴史がある。豊北原発建設計画をうち破った経験がある。それらに続く勝利を勝ちとるために、豊北原発を阻止した人民勝利の路線でたたかいたい」といっている。


 そして地元住民のなかに入って懇談会を開き、そこで語られた内容に基づいて要望書をつくり、地元住民とともに自治体首長に申し入れをくり返してきた。隣接する阿武町では農事組合法人女性部の人たちや全自治会長、全農事組合法人組合長が町長に申し入れをするなど、地域あげての運動へと発展している。


 防衛省が6月と7月に開催した住民説明会は、回を重ねるごとに不安と不信を増大させ、配備計画の撤回を求める場となり、適地調査のための入札と開札を延期せざるをえない状況に追い込んだ。


 演習場のすぐ隣にある農事組合法人の代表は「われわれのような中山間地の農村は、少子高齢化のなかで、自分たちの住むところをどうやって守ろうかと必死に考えて地域をつくってきた。山口県の食料基地になることを目標にして、安心・安全なものをつくっていこうと邁進し、新規就農者やIターンの人を呼び込むような環境がやっとできたところだ。その矢先の配備計画で、住民説明会は不安を解消する内容はまったくなかった。国は農業や農村をどうとらえているのか。国を守るために一部を捨ててもいいと考えているのか」と強く訴えている。

 

 演習場から4㌔くらいに位置する千石台の農業者も、「千石台でも新規就農者が増えている。萩市には野菜はもちろん、果樹もあれば畜産もあり、おいしいコメもたくさんとれる。山口県最大の食料基地をミサイル基地にしてはならない。これが農業者の気持ちだ」と力強く語っている。

 

 むつみ演習場がある火山性台地に蓄えられた豊かな地下水は湧水となって周辺住民の生活と農業を支えており、大切な水資源に影響が出ることを多くの住民が危惧(ぐ)している。ミサイル基地が発する強力な電磁波の影響が懸念されているが、「どの程度の電磁波を出すのかと聞いても防衛機密で答えられないといわれた。影響ないという説明に終始した」と不信感が高まっている。

 

 演習場近くで働く農民は「(ミサイル基地は)テロの対象になり、武装工作員が来るかもしれないから100人くらいの警備員がいるという。地域住民はそういう厳戒態勢のなかで心労とストレスを抱えて10年も20年も暮らしていけというのか」と問いただしている。

 

 そして「多くの学識経験者は北朝鮮が日本にミサイルを撃ち込む可能性は〇%に近いといっている」「ミサイル迎撃実験は2回続けて失敗している」「そのようなものに何千億円もの血税を使うのをやめて、被災地の復旧、復興をなによりも優先すべきだ」という声が圧倒している。


 7月28日に住民の会が開催した地元懇談会にこうした人たちを中心に約100人が集い、思いを共有しあう場になった。防衛省は近く3回目となる住民説明会をおこない、あくまでも配備を強行しようとしているが、これらの人人とともに白紙撤回に向けて奮闘したい。

 

被爆者から体験を聞くドイツ人や米国人(広島原爆と戦争展会場)

 

■鋭さ増す外国人参観者の反応  原爆展キャラバン隊 鈴木彰


 原爆展全国キャラバン隊は今年一年、毎月第1・第3日曜日に、平和公園で街頭「原爆と戦争展」をとりくんできた。また、原爆と戦争展開催期間中も今日まで毎日開催しており、全国各地、世界各国から広島を訪れる多くの人人が熱心に参観している。この間とりくんできた原爆展活動のなかで感じたことを報告する。


 世界各国で核兵器廃絶、非核化へ向けたとりくみが広がるなかで、改めて今、世界で唯一の被爆国である日本、広島・長崎の被爆体験への関心が高まっている。国内からの参観者とも共通しているが、教師や大学教授、大学生の関心がとくに強くなっている。展示を見るなかで日本人の一般市民があの戦争や原爆でどのような体験をしたのかについて関心を持ち、より理解を深めることであの戦争がなんだったのか、だれが犠牲になりだれのための戦争だったのかについて認識を新たにしている。アンケートにも「ここに来て自国では知ることができない情報を知ることができた」「日本人の視点で描かれた展示に衝撃を受けた」という声がとても多い。


 多くの国では、教育上原爆について少しはふれるものの、アメリカが広島市民がもっとも多く外出している時間に原爆を投下し、一般市民を標的にした大量殺戮をおこなったことさえも教わる機会がないと語られている。「原爆投下は戦争終結のために必要だった」という主張もあるなかでなにが本当なのか実際に現地へ足を運び、自分の目で確かめたいという思いを抱いて広島を訪れている外国人は増えている。


 とくに鮮明なのは、戦争を起こす側に立ち向かう問題意識が国籍や世代を問わず鋭くなっていることだ。それは、アメリカが日本を単独占領する目的の下に全国各地の空襲や原爆、沖縄戦で一貫して一般市民を標的にして殺しておきながら、財閥や軍需工場は都合よく温存し、天皇の戦争責任も問わず巧妙に利用して戦後の占領政策をとったことをあからさまにした展示の記述を読むことでより整理されている。


 そして日本人が経験してきた戦争体験に真摯に学び、国際的に多くの人人の共通した教訓にして平和を築いていくことを強く望んでいる。そのうえで、改めて「原爆投下は戦争終結に必要なかった」という主張に参観後にはより明確な根拠を持って共感を示している。


 ペルー出身のアメリカ人男性は「権力者はその汚い目的を隠して利潤追求のために、人人が母国を愛する気持ちと彼らの目的を勝手に結びつけて戦争をする。この展示はこれまで彼らが隠し、今も隠したがっている鋭い内容を赤裸裸に暴露しており、日本人が置かれた境遇は米国人の自分にとってもよく伝わる。この活動に感謝する」と感動を隠せぬ様子で語った。


 韓国人の大学生グループは「韓国では原爆について学ぶ機会はほとんどなかったが、関心を持っている韓国人は独自に勉強している。朝鮮戦争の歴史も事実は学ぶが体験者の話などは聞いたことがない。韓国では20歳になると兵役義務があるが、今回の南北和解によって軍事的な緊張が終わることを多くの若者が期待している。戦争や核兵器の恐ろしさについて日本と韓国で共通した理解を深め、日本との交流を通じて戦争のない平和な関係を築いていく努力をしていきたい」と連帯の意志を強めている。


 このパネルの内容は、世界中から広島を訪れる参観者の真剣な思いにこたえるものであるということをこの間の反応からつかんできた。この展示は、どこかにあった情報を集めてきたようなものではなく、私たちの先輩方が戦争体験者や被爆者の方方から直接体験を学び、地道な活動の集大成として形となったものだ。市民の体験に根ざし、ありのままの体験を具体的に描いてつないでいけば、戦争を起こす者やそれに加担する者が浮き彫りになり、平和のために何とたたかうのかをより明確に示すことができるし、その構図は世界中で共通していることを強く感じる。どれだけ戦争や原爆が悲惨であったかとか、原爆の威力がどうだったかという面だけではなく、もう一段階前に進んだ現実的に差し迫った戦争と平和の問題としてとらえようとする意識はこれまでになく強まっている。


 広島県内の大学生をはじめスタッフと協力し、今後も世界中の人人の役に立つ活動を目指して努力していきたい。

 

外国人参観者が大半を占める平和公園での街頭原爆展(5日)

 

■有志グループで原爆展を開催   広島大学学生

 

 広島大学の学生有志の活動について報告する。まず今年2月に、東広島市西条地区の文化交流センター「くらら」において、この地域では初となる原爆と戦争展を開催した。この展示会を成功させるために、広大生による有志グループが発足した。これまでのボランティアは個人個人での参加だったが、グループをつくって学生主体に展示を運営しようという試みは過去にない動きだった。


 昨年の10月から本格的な活動を始めた。メンバーは広島大学での展示会および夏の展示会で活動に関心を持った学生だ。ポスターを新しく作成し、そのレイアウト、文章一文一文について、くり返し話し合いをした。また、展示会場周辺のお店の一つ一つに挨拶してまわり、ポスターの掲示を依頼した。受けとってもらえないかもしれない不安があったが、快くポスターを受けとってくださる方が多く感動した。周辺の小・中学校へも足を運び、全校生徒へ配布するチラシを渡した。私がうかがった学校の校長先生が平和教育に熱心な方で、校長室で学校のとりくみについて話していただくなど、貴重な経験をした。くららの展示は6日間で約600人が参加するなど盛況だった。被爆証言には親子や教職員の姿も多く、関心の高さがうかがえた。


 新学期になり、新入生のボランティアを増やすため活動内容や会についての説明会をおこなった。残念ながら説明会の参加者はゼロ人という結果で悔しい思いもした。しかし、六月に大学で開催された展示会と証言会を通して、現在3人の新入生がボランティアに参加してくれている。この調子で学生がどんどん参加してくれればと思う。


 また現在ツイッターやSNSを使った宣伝にも力を入れている。少しでも多くのメディアを活用し、より多くの人に関心を持ってもらえるよう工夫していきたいと思う。最後に広島大学だけでなく、広島修道大学、広島経済大学などでも、学生のグループが原爆や戦争について発信するような活動を始めている。次の世代を担う私たちがしっかりと交流し、相乗効果でお互いの活動を発展させていければと思う。

 

■曾祖父母の思い受け継ぎ  広島市 男子高校生


 僕は8月に入ってから友だちを3人連れて原爆展に行った。友だちは展示を見て「考えが変わった」と影響を受けていた。今日も街頭展示のお手伝いをしたが、広島は初めてだという外国人の方がたくさん来ていた。


 僕がなぜ会の手伝いをしようと思ったかというと、母方に2人の曾祖父がいて、2人とも医者で、広島と長崎に住んでいた。8月6日、広島に原爆が落とされたとき、広島に住んでいた曾祖父は翌日から被爆地に入って治療した。被爆地の方向からケガをした大勢の人たちが歩いてきたと聞いている。長崎の曾祖父は、家を開放して、雨戸を布団のかわりにしてケガ人を治療したという。


 そこにいた祖母は、黒焦げになって倒れて亡くなっている人がたくさんいて、人間の焼けた何ともいえない臭いがしてすごく可哀想だったといった。


 僕は年長のときに初めて原爆資料館に行ったのだが、そのときにはケガをした人の写真を見てトラウマになるくらい恐怖心を覚えてしまった。でも、祖母が可哀想だったといったとき、心が動いた。その後よくよく考えてみると、僕たちは戦争を経験していないので原爆については資料を見たり聞いたりしてしか学ぶことができないが、祖母や曾祖父からすれば、実際にそれまで生きていた人人が一瞬にして亡くなってしまったということだ。身近な人が亡くなってしまう悲しみを僕たちはどれだけ感じていけるかなと考える機会になった。


 そして、原爆展を見ていたときに声をかけてもらい、曾祖父とか祖母の話を僕のなかだけにとどめてはいけないなと思い、それでお手伝いをさせてもらおうと思った。


 今若い人たちのなかで戦争にあまり興味のない人が多かったり、考えの偏りがあるという理由で平和学習をしない学校が増えていると聞く。僕は平和学習をしないということに違和感を感じた。若いか高齢かに関係なく、戦争とか原爆といった悲しい歴史に耳を傾けて、しっかり理解して、それを正しく次の世代に伝えていくことが大事だと思う。またそのように原爆展を通して考えさせられた。

 

 

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