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原爆展全国キャラバン隊 沖縄で第2波原爆展開始 本紙沖縄戦号外を各戸配布


 原爆展全国キャラバン隊・第1班(劇団はぐるま座団員・長周新聞社後援)は、20日、米軍による都市型訓練施設反対の炎が燃え上がる沖縄県金武町伊芸区を皮切りに、沖縄県下での第二波行動を開始した。

 “虫ケラ扱いは許せない”
 キャラバン隊は、米海兵隊キャンプ・ハンセンの実弾演習場が目と鼻の先にある伊芸公民館に「原爆と峠三吉の詩」パネルを設営した後、伊芸区民の家を1軒1軒訪ねて歩き、原爆展開催の紹介チラシと長周新聞号外「沖縄戦はせずとも戦争は終わっていた」を298軒の全戸に配布した。
 チラシを受けとった70代の婦人は「わたしは妹2人を連れて北部の国頭方面へ逃げていたが、父も母も兄も島尻(南部)へ逃げたので全滅だった。アメリカはいまも戦争をやっている。自分たちがまた戦争をするために沖縄で20万人も殺したんですよ。この号外は息子たちにも読ませます」と、熱烈な共感を寄せた。70代の男性は「負け戦とわかっていたのだから、原爆も戦争を終わらせるためには必要なかった。祖母はアメリカ兵に撃ち殺された。わたしは小学六年生だったが、この辺りは米軍施設に接収され、その施設内で卒業式をした。戦争には絶対に反対だ」と話すなど、チラシと号外を見ただけで、あふれるように戦争体験を語った。
 また「米軍の演習場が住宅地から300㍍ほどのところにあるので、いまでも実弾演習の弾が跳ね返り、しょっちゅうこっちに飛んでくる。戦争が終わってから60年、ずっとそうだ。今度また都市型ゲリラの訓練施設をつくらせるなんて、とんでもない。なんとかして反対しなくてはいけないと、毎日抗議行動にかよい、とうとう身体を悪くしていまは病院がよいだ。アメリカや日本政府はなにを考えているのか、ほんとうに腹がたつ。わたしも戦をくぐっているから、最後まで反対しないといけないと思っている」(86歳・婦人)。「ここの部落のものは、都市型訓練施設のことがあるから関心がある。わたしの家にも米軍の実弾演習場から20㌢くらいの砲弾の破片が、子どもの遊んでいるところへ飛んできた。アメリカはわたしたちを虫ケラくらいにしか思っていない」(77歳・婦人)など、いまもつづく傍若無人な米軍支配への激しい怒りが語られた。
 どの家でも「がんばってください」とか「行きますよ」などの声がかけられ、「原爆展」という文字を見ただけで「いつまでやっているのですか」と聞いてくる人も多かった。

 涙流し体験語る年配者
 2人連れで参観した70代の婦人は、あふれる涙をハンカチで拭きながら「小学校を卒業する2日まえの3月23日にアメリカ軍の攻撃がはじまった。上陸した米兵は恩納岳にむかってどんどん砲弾を撃ちこんできた。うちのおばあさんは部落の近くの壕にかくれていたが、“出てこい、出てこい”という米兵の呼びかけに答えなかったので、むりやり壕から引っぱり出されてジープに乗せられ、そのまま帰ってこなかった。骨もないのでお墓には石ころを入れている」と語った。
 「わたしたちも攻撃がひどくなったので、山奥へと逃げつづけた。日本軍は住民が枕にして大事にしていたコメまでとりあげたが、ほとんどの人はアメリカに殺されている。わたしたちも最後は石川市の収容所に連れていかれたが、着物のあいだにかくしていたコメなど、食べ物は全部アメリカ兵にとりあげられてしまった。寝るところもなく、カバヤ(麻布)を屋根にして、床には木の葉をとって敷きつめて寝た。石でカマドをつくり、空き缶で煮炊きをした。六カ月ほどして金武町にもどったが、部落にはアメリカが居座ってアンテナをはりめぐらせていたので帰れなかった」と、米軍の蛮行を訴えた。
 沖縄戦のときは小学校6年生で、米軍の潜水艦に撃沈された対馬丸に乗る予定だったが、担任の先生が行けなくなったため、危うく助かったという70代の男性は「兄は志願して海軍兵学校に入り、ソロモン群島で戦死した。遺骨も帰らず、骨箱の中には石が入っていただけだ。すぐ上の兄は、護郷隊に強制的に引っぱり出された。兄が戦死しても“軍神の母”に奉られて、母は悲しい顔も見せなかった。しかしどんな思いだったかと思う。わたしも体育の時間は竹槍、手旗信号、棒術ばかりだった。そこまで国民をかりたてたものが、アメリカ万歳になるのだからたまらない。ほんとうに冗談じゃないと思う。
 いまの政治家はアメリカといっしょになって利権のための戦争をやっている。沖縄戦も同じだが、アメリカのどこに正義があるというのか。欲のあるものが頭に立つとろくなことはない。今度の都市型訓練施設の問題でも、あれはどの方向へ実弾が飛ぶのか予想もつかないほど危険なもので、日本政府が合意するなど考えられないことだ。アメリカは区民を虫けらぐらいにしか思っておらず、占領者意識丸出しだ。
 わたしは高校を卒業すると5年ぐらい軍で働いたが、反米感情がどうしてもぬけなかった。“なんでおまえらに安い給料で使われないといけないのか”といつもぶつかっていた。しかし鉢巻きを巻いて復帰運動をやっていたら、CIAに写真を撮られた。“おまえはアカか”と決めつけられ、首を切られて東京に出た。だから東京でコザ暴動を知ったときには心が震えた。わたしが沖縄にいたら、ヤンキーゴーホームと叫んでいっしょに車を燃やしていただろう。
 日本はアメリカに守ってもらっているというより、たてにされている。なにかあったら真先に犠牲にされるのは沖縄だ。一時期“琉球独立論”というのがあったが、それどころか日本が植民地になっている。沖縄は太平洋に浮かぶ空母だからアメリカは手放したくないのだろうが、日本はいい加減に独立するべきだ。ものが豊かになって便利になっても、もともと人間のあるべき姿がなくなってしまった。親が子どもを殺したり、子どもが親を殺したり、いまの世の中は狂っている」と声を強め、「アメリカに謝罪を求める広島アピール」に力をこめて署名した。

 日本全国との団結切望
 毎年「慰霊の日」には全国の沖縄戦戦死者が各県ごとに祭られている“魂魄(こんぱく)の塔”へ行き、とくに広島出身の兵隊の慰霊碑には花とごちそうをつくって供えつづけているという60代の婦人は、「広島の人は家族も原爆死され、お参りに来る人もないかもしれない。わたしたちにできることはそれぐらいのことですから」と語り、本土と沖縄の人人の同胞としての固い絆を強調した。
 「60年の“安保”斗争のとき、樺美智子さんが殺されたことはよく覚えている。あのとき、わたしたちも復帰斗争をたたかった。それなのに、いまは日本という国はなく、アメリカの一州になっている。あの斗争はなんだったのかと思う。自衛隊もアメリカといっしょに実戦の訓練をしているし、思いやり予算で米軍に好き放題のぜいたくをさせている。このままいけば、日本は戦争に突きすすんでいく。復帰斗争では、国道五八号線でジグザグデモをやったり、B52撤去斗争など“基地なくせ”“核なくせ”といって燃えに燃えた。戦争で苦労した親たちの姿を見ていたし、“アメリカから絶対に独立するのだ”という誇りがあったからたたかった。
 ところが、運動を利用して自分たちの利益に走ったものが出てきて信用がなくなった。それからは、政府は沖縄の政治家が陳情に行っても“お金がほしいんだろ”と腹の中で笑っている。だから、都市型訓練場などを平気でつくるのだ。自力で努力して暮らしをたてていく沖縄の誇りが失われ、基地による報酬めあてがあたりまえになることが、子どもたちに悪影響を与えている。沖縄の誇りを子どもたちにとりもどしてほしい。ヘリ事故を発端にして、基地撤去、民族独立の運動がまた大きく盛り上がることを期待している」と熱く語った。
 仕事で全国を転転として、2年まえに伊芸にもどってきたという30代の主婦は「身近でこういう展示をしてもらってありがたく思う。区民も多くが基地で働いていたり、軍用地を持っていたりするが、いくら生活のためとはいえ、危険とひきかえとはとんでもない話だと思っている。いまの日本は、日本国とはとてもいえない。毎日ニュースを見て腹が立つ。アメリカの一州になってしまって、情けないかぎりだ。マスコミもほんとうのことを書かないし、こういうことをつうじて多くの人に知らせるのは大事なことだ。広島の資料館にも行ってきたが、峠三吉の展示はなかった。ありのままの思いが排除されているという点では、沖縄も同じですね」と強い共感をあらわした。

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