いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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ルポ「沖縄戦の真実」 劇団はぐるま座 富田浩史

 沖縄県宜野湾市の米軍ヘリ墜落炎上事件を契機として、日本の主権放棄を象徴する植民地占領状態の横行に大きな憤激がまき起こり、米軍基地撤去を求める国民世論が噴き上がるなか、原爆展全国キャラバン隊第一班(劇団はぐるま座団員・長周新聞社後援)は、沖縄へと飛んだ。


 極東最大の沖縄基地ができた根本には、沖縄戦があり、アメリカによる世界支配の野望がある。しかし沖縄戦の真実は、アメリカ占領者とその追随者、さらには平和勢力を装う共犯者らによって、さまざまに欺まんされ、かくされてきた。わたしたちは出発にあたり、基地撤去の要求を真に力強い運動にしていくために、沖縄県民の大多数のなかに入っていき、アメリカの戦争犯罪をあばき出した「原爆と峠三吉の詩」のパネル展示を各地でおこなうとともに、長周新聞のヘリ墜落問題や沖縄戦をめぐる「論壇」のチラシを読んでもらい、沖縄戦と戦後の米軍支配下での人人の体験と思いを徹底的に聞いていくこと。そのなかで、わたしたちの立場、態度、関心を、県民の感情と合致したものにするための努力を重ね、沖縄の人人のほんとうの声を学び、それを現地に返していこうと話しあった。長周本社でも、沖縄の人人の意見を、沖縄戦をめぐる階級関係、全局観点から研究し整理していき、特集記事や号外を作成して現地と全国に返していこうと、万全の体制がとられていった。


 こうして9月2日から29日までの約1カ月間に、県内7市町村で23回にわたって展開された「原爆と峠三吉の詩」の原爆展による沖縄キャラバン行動は、衝撃的な反響をまき起こした。


 これまで沖縄戦といえば、追いつめられた日本軍が住民を壕から追い出したり、スパイ容疑で殺害したり、あるいは「集団自決」に追いこんでいったことなどが、さまざまに強調されてきた。アメリカの対日戦争の目的は、あたかも日本人民を助ける人道的なものであり、平和と自由と民主主義を代表するものであるかのような欺まんがまかりとおってきた。だが沖縄の人人は、峠三吉の原爆展パネルを食い入るように見つめ、「広島や長崎がこれほどひどいとは知らなかった。沖縄も同じだ!」「本土の人人も同じ目にあわされ、しかもアメリカとたたかうためにがんばっている勢力があったのか!」「アメリカは絶対に許せない!」と、熱烈な共感と支持を寄せた。


 「わたしも艦砲の食い残しだよ」と、ふくらはぎやお腹の無残な傷跡を見せる人。「家族6人のうち4人がいっぺんに艦砲で殺された」「避難する途中、目の前で父親がヤンキーに撃ち殺された」「姉の友人が米兵に乱暴されて惨殺された」と、涙ながらに語りかける人の姿は数知れなかった。


 沖縄戦で、米軍がどれほど残虐な無差別大量殺りくをおこなっていたか。わたしたちは、日本軍国主義の南京大虐殺をはるかに上回る、言語に絶する蛮行のかずかずを、なまなましく知った。また戦後のアメリカ支配下で受けつづけた屈辱と、生きるための苦悩、親や働き手を失って生き残った家族の苦斗がどれほどすさまじいものであることか。そのなかで、いかなる困難にも負けず、家族や地域が助けあい、誇り高く生きぬいてきた人人の、平和と独立への要求がどれほど深く激しいものであることか。キャラバン隊に寄せられた無数の声は、沖縄の人人の基地撤去、戦争阻止のすさまじいばかりのエネルギーを、深い感動とともに実感させるものだった。
 「欺まんのベールは剥がされねばならぬ!」――この言葉は、大多数の沖縄県民の熱烈な共感と支持を呼んでいる。
  
 マグマの様に渦巻く沖縄戦への怒り
 広島の原爆投下の惨状がそうであるように、3カ月にもわたる壮絶な地上戦としてたたかわれた沖縄戦は、けっして過ぎ去った過去の出来事ではない。地形まで変貌するほど破壊しつくされた故郷の大地を広大な軍事基地に奪いとり、以来朝鮮、ベトナム、アフガンにつづき、いまもイラクで残虐な住民虐殺の強盗戦争をつづけているアメリカへの県民感情は、「戦争だったからしかたがない」とすまされるような、甘いものでは断じてなかった。いま道を歩いているあいだにも「ああここにはちぎれた人の腕が落ちていた」「あそこでは友人が惨殺された」といった鮮烈な残像が、非業の死をとげた肉親や友人への痛切な愛惜の念とともに、血と涙と絶望にまみれた人間としての心身に、ぬぐおうにもぬぐい去れない艦砲砲弾の傷跡とともに鋭く突き刺さっているのである。


 沖縄の大多数の人人は、その実感においてアメリカ占領者を「解放者」とみなしてはいない。表面にあらわれる態度や、口でどのようにいうかではない。どれほど凶悪な抑圧構造の支配のもとでも、人人の血と涙に彩られた真実は、胸底深くに生きつづけ、地中のマグマのように激しく渦巻きつづけているのだった。


 最初に展示をおこなったのは那覇市の県庁前だった。そこで出会った白いパラソルを差した六〇代の婦人は「わたしも戦争にあってケガをしているので、広島の人たちの気持ちはよくわかるサ」と、ロングスカートの裾をあげ、深い傷跡が残る左足のひざを見せてくれた。

 署名できぬと複雑な思いも


 「糸満市のいま“ひめゆりの塔”のあるあたりで逃げ場所をなくしたとき、いったんすれ違った米兵に突然銃を乱射され、母はうしろから背中を撃たれて大ケガをして死んだ。叔母もいとこも即死だった。おばあちゃんは“わたしは重傷で歩けないから捨てていってくれ”と頼んだけど、わたしが泣いたのでみんなで背負っていき助かった。わたしはそのとき、左足の関節を撃ちぬかれ、くの字に曲がったまま伸びなくなった。ひどい傷になり、子どものころ体育の時間があると学校に行きたくなかった。復帰まえの娘時代はミニスカートが流行っていたけど、わたしはいつも寝巻きみたいに長いスカートをはいてかくしていた。でも父の弟の奥さんなどは、壕の中でなにかの破片が顔にあたり、鼻がとれて穴があいているだけの無残な顔にされてしまった。“あんたは足だけだから、かくせるからよい。叔母さんのことを思いなさい”とおばあちゃんからいわれて育った。いくら補償してもらっても、わたしたちのこの苦しみはお金にはかえられない。原爆でも戦争でも、やられた人でなければ苦しみはわからない。人としての心があるなら、あんなことはしない」と強く語った。


 そして、宮崎や鹿児島へ疎開していた子どもたちが沖縄に帰ってみると、家も焼かれ、家族はみんな殺されて、だれ1人として残っていなかったという悲惨な例が多いことにふれ、「その悲しみはどれほど深いものでしょうか。沖縄の人たちは、そんな子どもを地域で助けあって育ててきた。けれども戦争をやって勝ったというが、アメリカはなにがうれしいのですか。アメリカの考え方には人間らしい心がない。いまもどんどんごう慢になっている。大学にヘリが落ちても、痛みがわからないどころか、まだ戦争をやろうとしているじゃないですか。人を殺して、自分らがいばりたいというのは恥ずかしいことだ。こういう展示をたくさんの人に見てもらい、人の痛みのわかる若い人を育てていかないといけない」と、「アメリカに謝罪を求める広島アピール」に署名していった。


 その人はしばらくしてもどり「いま買い物をしてきたから」といって、アンダギーという沖縄菓子や飲み物などの差し入れをしてくれた。「この暑いなか、ほんとうにありがとう!」と深深と礼をして帰っていった。ところがそのパラソルの婦人が、もう一度もどってきた。いったん書いた署名を「申しわけないけど……」と、消しにきたのだ。こちらから詳しい事情は聞かなかった。婦人はただただ恐縮して「ごめんね、気持ちは変わらないんだけど、ほんとうにごめんね」とくり返し、何度も頭を下げて帰った。


 だが夕方になると、その人は近所の子どもを連れてまたもやあらわれ、みずから説明しながら丹念に展示を見せ、子どもにパネル集の冊子まで買い与えていた。その気弱な微笑みを見ていると、最初わたしたちに傷跡を見せてくれたとき、その人がどれほど深い葛藤(かっとう)をへて語りはじめたことだろうかと、その心中の苦悩を想像せざるをえなかった。同時にまた、いまもなお沖縄の人人のあふれるようなほんとうの思いが、どれほど残酷に抑えつけられているかを思わずにはおれなかった。
    
 短い言葉のなかに息づまる様な葛藤


 同じ那覇市の県庁前で、じっくりと展示を見たあと「アメリカはこうなることがわかっていてやったんでしょうか。やっぱりアメリカは人間じゃないね」と切り出した本部町出身の60代の婦人は「沖縄戦のときは2歳だったけど、あまりに泣くので壕から出されて、木の下に捨てられていた」とみずからの体験にふれ、「そのとき母が壕を出てわたしを守ってくれた。助けてくれたのは母親だった。米兵ではなかった」と語っていた。当時16歳だったその婦人のお姉さんは、敗戦直後、女友だちと2人で歩いているとき、突然あらわれた米兵に襲われた経験があるという。お姉さんは危うく難をのがれたが、友だちは目の前でなぶり殺しにされたそうである。「姉はその場所をとおると“ああここだ。この場所に来たら思い出すんだよ”と、ポツリという。でもそれ以上は語らない。母の戦争体験も聞いたことがない。みんなあまりに残酷すぎて口にしないんです」と唇をかみしめた。


 戦争の体験を語るということは、それが悲惨であればあるほどなま易しいことではない。それは物心両面にわたる壮絶なたたかいなのだった。その息づまるような葛藤を、わたしたちが全身全霊をこめて理解しようとしなければ、気持ちなどつうじるはずもないと思った。


 那覇市でも宜野湾市でも北谷町でも、原爆展を見た沖縄の人人は、「今度こそ戦争を阻止するために沖縄の人人のほんとうの思いを全国に伝えたい」と真剣に呼びかけると、少しずつだが、さまざまな体験の断片を語りはじめてくれていた。「金輪際、思い出したくもない」といいながら、「なぜこんな目にあわねばならぬのか」のパネルにある、炭のようになって死んでいた長崎の少年や、プラットホームの母親と赤ちゃんの無残な遺体、黒焦げになった広島の練兵場の兵隊の写真などを手でさすり、大粒の涙を浮かべて拝むように見つめながら「ほんとうに同じサ。思い出したくないけど、これを見ると思い出さずにはおれないサ」と、血を吐くような思いで、短い言葉に思いの丈をこめるのだ。それは、迫りくる戦争の黒い影にだれもがたちむかわざるをえないなかで、「真実を伝えなければ亡くなった人たちが浮かばれない」という、生き残ったものとしての使命感に人人が目覚めはじめているからだ。


 峠三吉のパネルを見れば熱烈な支持が寄せられ、気持ちがつうじる。例外なくそうであった。だが、声をかけても目頭を押さえて首を振り、カンパだけ寄せて逃げるように去って行く人も少なくなかった。あるいはパネルを遠巻きにしてとおり過ぎ、呼びこみのチラシさえ「写真が怖い」「思い出すから」と受けとりを拒む人もいた。ここからもう一歩、深いところへ切りこんでいくにはどうしたらよいか。わたしたち自身の立場、態度、思想の問題として真剣に考えようと語りあった。
   
 既存の「平和運動」には激しい嫌悪感


 「体験をしているだけに見るのがつらい。原爆で少年が背中にヤケドを負っている写真を見てつらくなって…」と切り出した飲食店経営の婦人(70代)は、「沖縄戦のときは八歳ぐらいで、裸足で歩いて逃げ惑った。艦砲射撃をやられると、鋭い刃物のような鉄の破片が雨のようにバラバラと降ってくる。わたしにも傷跡がある」と、かかとの白くくぼんだ傷跡を見せてくれた。パラソルの婦人と同じように「小学生のときは短パンをはくのがいやだった。いまも艦砲射撃で肩に傷を受け、呼吸が苦しくなるなどの後遺症を持つ人がたくさんいる」と語っていた。しかし「いまはベトナム戦争でBが飛び立っていったときと同じです。いまこそわたしたちが語らなければいけないと思っている。でも、みんなほんとうのことは語っていない」ともいった。そして「戦後米兵がものをくれたというけれど、わたしたちは生きることには変えられないからと、もらって食べていただけだ。あれだけ焼き払っておいてよくいうと思う」と、アメリカを賛美するものへの憤りを語り、とくに既存の平和運動には「むしずが走る思いがする!」と激しい嫌悪感をあらわした。


 「よく革新系の人たちが“日本兵が悪かった”とだけいうけれど、殺したのはアメリカだ。わたしの実家は日本兵の宿舎だったので日本刀がたくさんあった。だから戦後米兵がドカドカと泥靴で踏みこんできたのを覚えている。アメリカが殺したんですよ。わたしたちは道を歩くたびに、ああ、あそこで足があぜ道にちぎれていた、あそこで人が死んでいたと思い出し、いまでも亡くなった人たちのうめき声が聞こえてくる。それなのに本土から観光気分で5・15平和行進などに来て、わいわい騒いで“ひめゆりの塔に行った”とか話されるのを聞いていると“そんなものが平和運動か!”“ほんとうの苦労も知らないでなにごとか!”と、ほんとうにむしずが走る思いがする」というのだった。

「市民系、革新系、いろいろ動いているけれど、背後に各市の予算などいつも金が動く。だから体験者は語らなくなってきた。わたしは、米軍がくれた物質の幸せはいらない。ほんとうの心の幸せがほしい。米軍基地を撤去して、農漁業をやって、自給自足をしたらいい。そして沖縄戦のほんとうのことを若い世代に伝えたい!」

 そんな熱い思いを語りかけ、自分の店の前を街頭展示の場所に提供するなど、沖縄キャラバン行動をわがこととしてとらえ、惜しみない援助を与えてくれた。


 広島とまったく同じであった。人人のほんとうの苦しみや怒りをわかろうともせずに、アメリカ仕込みの自分1人の「自由」や「人権」を謳歌して、戦争体験者を戦争協力者とみなし、郷土愛や愛国精神といえば時代遅れの軍国主義であるかのようにあざ笑う、頭の涼しいインチキ平和潮流は、沖縄でもダカツのごとく嫌われていた。


 生死の狭間で必死に生きのび、なおかつ自分だけが生き残ったことへの自責の念に切りさいなまれさえして、米軍占領下での苦しい復興に汗を流し、今日まで家族を守り、地域をはぐくんで実直に働きつづけた人たちの、その優しく、たくましく、深い思いにこそ、わたしたちは徹底的に学ばなければならないと強く思った。そうしてなによりも、わたしたちがアメリカ占領者とその追随者、インチキ平和潮流の欺まんのベールを引きはがし、沖縄県民のほんとうの思いを代表して、断固としてアメリカとたたかう立場に立つかどうか。その立場から人人へのあふれるような信頼を持ち、人人から学んだことを返していき、さらに徹底的に学びつづけて歩むかどうか。それこそが分かれ道だと語りあった。
    
 激戦地・糸満市へ 公設市場での展示


 ひめゆり平和祈念館や県立平和記念館などが集中する南部の激戦地・糸満市は、キャラバン隊の目的からして、どうしても原爆展をやらなければならないところだった。だが場所探しに思いのほか難航した。沖縄には鉄道の駅がない。焼けつくような日差しの下で、公園には人が歩いていないし、いくら走っても繁華街というものが見あたらなかった。だが「人が多いか少ないかは問題ではない。人人の生活の場に行こう」と話しあい、探しに探して午後になり、ようやくマチグァーと呼ばれる間口二間ほどの小さな商店が50余り集まった糸満市公設市場で開催することにした。


 はじめは遠慮して市場横にある炎天下の芝生の上に設営していたが、それを見ていた商店主のオジイ、オバアが強い関心を寄せ、かわるがわる見に来ては、声をたてて笑いはじめた。「お兄さんたち、そんな暑いところで展示をやって、いったいだれが見に来るかね」「こっちに来て中の涼しいところでやるといいサ」と、はちきれそうな笑顔で迎え入れてくれたのだ。様子を見に来た市の商工水産課の職員も大喜びで協力してくれ、たくさんのマチグァーに囲まれた市場内の休憩所に展示することになった。オジイやオバアが「みんな協力してよ」と声をかけあいながら設営を手伝い、天ぷら屋の奥さんは「わたしたちも若い世代に伝えたいから、このまえ沖縄戦のパネルを展示したんだよ」と、米軍から銃をむけられている避難民の写真などを出してきて並べてくれた。まったく予想をこえた、驚くべき歓迎ぶりだった。


 沖縄戦は県民にとって語るもおぞましい大殺りく戦だった。アメリカ軍は1500隻もの大艦隊で、沖縄沖の海が見えなくなるほど埋めつくした。そして3カ月にもわたる艦砲射撃をやりつづけ、地形が変わるほど破壊しつくし、圧倒的に優勢な上陸部隊の大群が沖縄本島を南北に分断、日本軍と住民を南部の糸満方面へと追いつめていったのだ。この市場のあたりも当時は海辺で、豚のように白く膨れたおびただしい遺体が散乱していた場所だった。わたしたちをはちきれそうな笑顔で迎え入れてくれたのは、あの凄惨な沖縄戦でかけがえのない肉親を無残に殺され、みずからも心身に深い痛手を負った人たちなのだった。

 最初は遠巻きに見る商店主


 「戦争のときは19歳で、同じだったよ。この写真を見たら泣けてくるサ」と、左下腹と左足のつけ根が大きくくぼんだ迫撃砲の傷跡を見せてくれた70代の婦人がいた。「うちらは女子青年団で兵隊さんといっしょに弾薬の運搬などいろいろな仕事をしていたけど、壕を出たとたん、照明弾が入口付近に投げこまれて、見つかったらいけないと逃げたとき迫撃砲でやられたサ。アメリカ兵に見つけられて担架で収容所に運ばれた。お腹は何回か手術したけど、いまでも痛む。県にいうがなんの補償もない。アメリカはまたイラクに戦争を仕かけて、弱いところに行っては戦争をする。また日本に戦争がくると、みんながいっているよ。絶対に戦争はダメだよ」と語りかけ、「このパネルを見たら戦にあったものは胸が痛む。死体がごろごろしているなかを逃げ、泣いている人やケガをした人でいっぱいだった。あるとき水汲みに行くと、北海道の初年兵が迫撃砲にやられて腕のつけ根からドクドク出血していた。雑嚢(のう)をとってくれというので、とってあげて引き上げようとしたら、手榴弾で自殺した。かわいそうなことをした。原爆展はみんなに見せなければいけない」と、目をうるませて語ってくれた。


 「思い出したくない」と、遠巻きにしてパネルを見ている70代の婦人もあった。声をかけて話を聞けば「戦のときは18歳で、東風平に逃げていた」という。「北部の人は南が安全と思って南に逃げる、南部の人は北に逃げるというふうで右往左往した。結局どこも安全な所はなかった。壕の中にいても、爆弾や照明弾が撃ちこまれて、わたしらは逃げ惑った。壕で日本軍に“出て行け”といわれたが、外に出るとアメリカが飛行機で爆弾を落としていた。10人ぐらいで逃げているとアメリカのグラマンが低空飛行で飛んできて狙い撃ちにして、半分が殺された。最後は海に面した洞穴で捕虜になったけど、苦しくて自分で海に顔をつけて死ぬ人もいたよ。民間人も兵隊も死んで無惨だった。2度とこんなことはさせたくない」と、日本軍への複雑な心情もにじませつつ、あふれんばかりの思いを語った。


 七五歳の別の婦人は「食べ物を与えられたとか、助けられたということはあるけど、アメリカへの憎しみは心の中にはいっぱいある。家族を殺された人は、口でいわないだけサ。わたしは国頭に疎開したから家族も無事だったけど、糸満にいた人はみんな悲惨な目にあった。友だちにもそういう人がいっぱいあるよ」と唇をかんだ。


 だが、いままたアメリカが戦争を起こそうとしていることへの憤りや「アメリカに謝罪を求める広島アピール」署名への共感が文句なしに出される一方で、「19歳のとき、離島の海で漁をしていた父親が米軍機に攻撃されて殺された。浜辺にうちあげられた父の遺体を見た。戦争はやったらダメだ。基地問題はアメリカが勝手すぎる」と強い憤りを語りつつ、「でもアメリカに世話になった」と、ポツンと語る人もいた。

 真意つかめぬもどかしさも


 夕方になり、市場のシャッターがぼつぼつおりはじめたなかで、わたしたちは考えた。このまま帰ってよいものだろうか。市場のオジイ、オバアとはようやくうちとけはじめたばかりだった。はじめは「どこの馬の骨が来たのだろうか」といぶかしげに見ていた人も、少しずつ表情がやわらぎはじめたところだった。沖縄戦を特集した長周新聞の記事などもじっくりと読んでもらい、わたしたちの側もただ「体験を学びます」というばかりではなく、沖縄戦をめぐる欺まんのベールを引きはがす立場から旗幟鮮明な論点をのべ、人人の体験と思いに深く学び、論議のなかでそれらを整理して返していくという意識性が必要だということも、痛感させられていたのだった。まだまだほんとうの思いが聞けていないというもどかしさを、スタッフ全員が感じていた。


 そのとき、天ぷら屋の奥さんが名残惜しそうに声をかけてきた。「せっかく来てくれたのはうれしいけど、ここは市場なんだからもっと早い時間に来ないと人はいないサ。あすも朝からやればいいよ」と。
    
 親近感増す2日目 本音語り合う場に


 公設市場の朝は早い。「お客さんがたくさん来るのは7時ぐらい」と聞いたため、わたしたちは翌日、早朝6時半に到着した。だが市場の人人は、すでに四時からシャッターをあけて準備してくれていた。昨夜から展示したままにしてあったパネルの前には、きのうはいなかった天ぷら屋のご主人が、白い前掛け姿で腕組みをして立っていた。昨夜、仕事を終えて帰った奥さんからチラシや新聞を受けとり、原爆展のことを聞いていたのだ。わたしたちに気がつくと、「よッ、朝からじっくり見させてもらったよ!」と威勢のよい声をかけ、「ご苦労さんだね、協力させてもらうよ」と、てきぱきと机を運び出し、大きなウォータークーラーに氷を入れたお茶をつくって設置してくれた。奥さんができたての揚げ餅と黒砂糖を持ってきて、まわりの人たちにも「みんなで食べようよ」と声をかけた。しばらくすると野球帽をかぶった鰹節店のご主人がやって来て「きょうの昼はすき焼きをつくっていっしょに食べよう」と、原爆展の会場にキャベツやレタス、肉、椎茸、卵などの食べきれないほどの材料と、鍋やホットプレート、炊飯器まで運んできた。


 2日目になると、親近感がいっきに増してきた。「なんだか故郷に帰ったみたいですね」と、キャベツを刻みながら若いスタッフの1人がいった。ひょっとしたらオジイ、オバアたちは昨夜のうちに相談でもしたのではないかと思えるほど、市場あげての歓待ぶりだった。


 やがて「パネルをきのうじっくり見たよ」「あんなにひどいとは知らなかった」と、前日にパネルや新聞を見ていた商店主たちが集まりはじめた。わたしたちが帰ったあとで、じっくり展示を見た人もあるらしかった。缶ビールを持ってくる人もあり、市場の休憩所は、沖縄戦の体験やその後の複雑な思いをふくめて、うちとけて語りあう場となっていった。


 人人の個別の経験はバラバラで、けっして整理されたものではない。「友軍の兵隊さんを見ると、戦地にとられた親や兄弟の顔を思い浮かべてかわいそうでならなかった。戦争さえなければ家族が仲良く暮らせているのにと思うんだよ」と涙を流して語る婦人の話に、みんな「うちもそうだ」と共感していた。だが同時に「でもわたしは日本軍から壕を追い出された」とか「アメリカは親切だった」という断片の話にもなるのは当然のことだった。あっちに飛びこっちに飛びして、二時間ぐらい話しこむ人もあった。そうしてなんの遠慮もなしに安心して思いの丈を語る場が、長いあいだなかったからだった。


 公設市場の人人は、だんだんうちとけてくるなかで、これまで本土の人間にはいいにくかったこともふくめて、少しずつだが本音を語ってくれた。
 70代の商店主の婦人は「わたしは戦のとき12歳だったけど、自然壕に逃げこんだら日本兵がいて、“自分たちは沖縄を守るために来ているのだから出て行け”と追い出された。心臓の悪かった叔母さんは、それで具合が悪くなって亡くなった。だからいまでも内地の人を見ると、日本軍のことを思い出して腹立たしくなることがある。戦争が終わったときアメリカにつかまって捕虜になったけど、食べ物も与えてくれたし、戦争に負けてよかったという気持ちもあった。でもきのう、アメリカに謝罪を要求する署名には名前を書いておいたからね。がんばってよ」と、笑顔で語りかけてきた。

 本土の兵隊達への愛惜の念


 だれもが家族や親せきを、兵隊として出征させていた。日本軍国主義への強い怒りは当然だが、自分の親兄弟と同じように、1銭5厘の赤紙で戦地にかりたてられ、ほとんどが全滅という惨状に追いこまれた本土出身の兵隊たちへの愛惜の念は、沖縄のだれもが抱いているものであった。5冊、6冊と『きけわだつみのこえ』が売れていった。そうして峠三吉の原爆パネルと「アメリカに謝罪を求める広島アピール」に、ほとんどの人人が強い共感を寄せているように、「アメリカがよかったわけでは断じてないぞ」という思いは、口でいうかどうかではなく、人人の体験のなかに例外なく渦巻いているのだった。問題はそこにわたしたちが確信を持つかどうかだった。うわべにとらわれて追随していたのでは、いつまでたってもほんとうの思いはわからなかった。


 「日本軍がひどいことをしているから、本土の人のことをよく思わない人も多いんだ」という人にも、長周新聞の「論壇」や特集記事を見せ、「アメリカの側の戦争目的はどうでしょうか。沖縄の広大な土地を奪いとって、軍事基地をつくり、中国・アジアを侵略するためだったんじゃないですか?」と尋ねると、「そりゃあそうだよ。いまのイラクと同じサ。確かに日本の軍国主義は悪かった。だからといってアメリカが正義だったとか、よかったというわけはない。アメリカの残虐さは日本軍どころじゃなかったサ」と、あふれるような憤りが口口に語られはじめた。


 当時18歳で、壕を転転として逃げていたという70代の婦人は、壕の入口で赤ん坊にお乳を飲ませていた母親が、米軍による戦車砲の一撃で惨殺されるさまを目撃していた。「お母さんは即死だった。お乳を飲んでいた赤ん坊の目玉が飛び出して、“アンマー”と泣くたびに、目玉が時計の振り子のように動いていたことを思い出す。オバアが“生きているから”と赤ん坊を背負っていったけど、喜屋武岬に着いたときには死んでいた」と、涙をこらえながら語ってくれた。


 四歳のとき国吉の壕にかくれていた婦人は「壕の中には父、兄、姉、母、弟とわたしの家族六人がいた。するとアメリカが手榴弾を投げこんだ。わたしは父が上にかぶさってくれたので無傷だった。弟も母が抱いていたので無傷だった。でも母は足に傷を受け、父は死んだ。兄と姉は“おっかー”といって亡くなった。戦争がなかったらまだ元気だったのに……いくらいっても帰ってこない」と、絶句した。


 「摩文仁の方は一歩歩くたびに、ズボッと足が腐敗した死体に埋まる状況だった。むこうから来る人が笑ったような顔をしているので、なんで笑っているのかと思っていると半分顔が艦砲でやられて崩れていたという話も聞いた」。


 そう切り出した60代の男性は、子どものころ「大和魂がなっておらん」と皮のベルトでなぐられた経験を語り、「軍国主義の地獄からはい出るときに、ポケットからチーズやチョコレートを出して、優しい声をかけてきたのが米兵だった。戦後はよく“軍国主義が勝っていたらもっとひどかった”といわれていたので、アメリカのことはいいにくかった。しかし現実はアメリカに物乞いをさせられていたんだ」と、米軍支配下での屈辱的な生活をふり返った。「アメリカがよいことをしたというのは違う。アメリカは最初は援助したが、三年目に民政府ができたころから“おれたちが解放してやったんだ”といばり出し、強姦事件がふえてきた。最初はわたしもアメリカには情があると思い、基地に行くとまるで御殿に行ったような気分だった。だが五、六年たつと子どもたちの色が変わるし、女の人が基地に行くのを見ると“エサにされる”と思いはじめた。父親を戦争で亡くして生活できない娘さんが集められ、米兵専用のAサインバーに連れて行かれてひどい目にあわされた。部落中の女性が米兵に襲われたところもある。住民のなかにも米軍のスパイがいて、戦後もずっとアメリカとのたたかいだった」と、怒りをこめて語り出した。

 広島に通ずる民族的な誇り


 沖縄戦のとき中学1年生だった男性は「真実は一つしかない」と語気を強め、「戦後、ほんとうの敵はアメリカなのに本土の人が敵にされてしまった。アメリカは朝鮮戦争のように、同じ日本人同士をけんかさせようとするんだ」と切り出した。そして兵隊に志願して戦死したお兄さんのことにふれ、「戦争全体を見るか、個個を見るかでまったく違う。実際は兄たちのような日本の兵隊が一番犠牲になっている。ところが……それがばかあつかいにされているんだッ」と、悔しそうに拳をふるわせた。


 「アメリカが親切にしてくれたとか、物をくれたなど冗談じゃない。そういうことも、あるにはあるが、アメリカの戦争が正義だったなんて、どの面をさげていえるのか。アメリカはわたしたちに暴動を起こさせないためにアメをよこしただけのことですよ」と、別の70代の男性は声を強めた。「そんなことはだれもが知っている。親を亡くした広島の子どもがドロボウをしたという展示があったが、わたしらもあれと同じだった。アメリカの軍政下では米軍の配給所があって、そこへ子どもたちが集団で行って野戦用の缶詰などを平気で盗んでいた。みんな“戦果、戦果”といっていたが、アメリカ兵は見て見ぬふりをした、それもアメだった。辺野古でも基地を移設すれば年間10億円の金を出すというが、これもアメだろう。糸満市の真栄里、国吉、新垣などは屋敷だけが残っても位牌(はい)しかないという家がものすごく多い。一家全滅で家をつぐ人がいないのだ。アメリカの司令官バックナーが日本兵にやられたあと、仕返しのために民間人が皆殺しにされた部落もある。壕の中の人は、火炎放射器や爆弾で殺された。亀甲墓も避難場所になっていたので、全部あけられた。そんな目にあっても、沖縄の人たちは祖先を敬い、“ゆいまーる”といって、生きている人間がおたがいに支えあって生きてきた」


 「ところがいまの世の中はアメリカ社会で、思いやりの心がなくなっている。学校教育もおかしすぎるじゃないですか。先生たちも苦労していると思うが、人の痛みや苦しみを知らなくて、理屈ばかりの教師が多い。悪いことをしたら、きびしくしつけるのがほんとうなのに、少し教師がきびしくすると、親が文句をいうようになっている。アメリカはもともとインディアンを武器で殺して、追い出してできた国だ。力は強いかもしれないが、心では絶対に勝てない国ですよ。戦後のアメリカ社会の一番のアメは、物質文化だ。目先のことや自分さえよければよいという物質文化が、ほんとうの日本人の心をなくさせてきた。“教育勅語”だって天皇万歳はよくないが、親を大事にするとか、夫婦仲良くとか、そんなあたりまえのことをいって“あんたは軍国主義か”と責められたのではたまったもんじゃない。アメリカ世になって以来、よいことなんか一つもないよ!」と。
 解き放たれたようにいい放つと、声をたてて痛快そうに笑いはじめた。


 糸満の市場のまんなかに立っていて、まるで広島の被爆者と語りあっているような、錯覚にとらわれた。あたりまえといえばあたりまえのことだろうが、ほんとうになにからなにまで同じだった。広島でも沖縄でも、人人のなかには例外なく、消そうにも消し去れない歴史の真実が、民族の誇りとともに脈脈と息づいている。わたしたちの沖縄の人たちへの信頼感は、この糸満市公設市場のオジイ、オバアとの交流をきっかけに、しだいに確信へと変わっていった。
   
 “チビチリガマ”の読谷村の底流には


 米軍上陸直後に「集団自決」が起こったチビチリガマのある読谷村で「戦跡ガイド」をしている50代の婦人は、「原爆投下は戦争終結に必要なかった」という展示に加え「戦争終結に沖縄戦は必要なかった」「基地略奪のための大殺りく」というアメリカの野望に満ちた戦争目的にきわめて大きな衝撃を受けていた。


 「チビチリガマの“集団自決”は、アメリカ軍が攻めてきたこともあるけれど、それよりまえに日本の軍国主義教育によって、出ていったらひどい目にあわされたり辱められたりするから、自決した方がよいという教育がそうさせた、悪いのはアメリカ軍ではなくて日本軍だと聞いていた。でも一般のオジイ、オバアはほんとうのことを話そうとしてくれない。戦争体験のないわたしたちが、どうやって子どもにもわかるように話せばよいかと悩んでいた」というのだった。


 読谷村史編集室による資料を見ても、「アメリカ軍上陸直後に、壕の中から男女3人が竹やりを持って出て行き、男2人が壕の前でバタッと倒れた。すると壕内の住民は絶望感でパニックにおちいり、集団死がはじまる」と、はっきり証言されている。


 確かに「集団自決」があったチビチリガマとは対照的に、少し離れたところにあるシムクガマでは、ハワイ帰りの人が「アメリカ人は人を殺さない」と説得して投降に導き、1000人前後の避難民の命が助かった。しかし、だからといって「チビチリガマの住民はあの時代の教育を信じていたから救われなかった」というのでは、「“教育勅語”を真に受けたオジイやオバアが悪い戦争をやったから、原爆を落とされてもしかたがなかった」というのと同じことである。米兵から「出て来い」といわれても、それまで米軍に惨殺される多数の同胞を見ていたため、恐ろしくて足がすくんでいるところへ、手榴弾や爆弾を投げこまれて皆殺しにされたという話は無数にあるのだ。

 米軍の無差別攻撃が絶望へ


 沖縄戦では、追いつめられた日本軍が、住民をスパイ容疑で殺害したり、集団自決に追いこむことが事実としてあった。それは軍国主義のもたらしたものであり、日本の軍隊が国民を守るものではなく、天皇の支配を守る軍隊であったことを示している。


 しかし天皇と軍国主義を激しく憎めば憎むほど、国民を軍国主義教育によって戦場にかりたてた天皇と支配層が、戦後てのひらを返したように隷属していったアメリカの「民主主義」や「人道主義」に感謝する側から、軍国主義教育を信じた国民がばか者であったと罵倒されて、どうして体験を語る気になるだろうか。それこそ戦没者にたいする冒涜でなくしてなんであろうか。


 沖縄沖を真黒になるほど埋めつくしたアメリカ軍の艦隊司令官バルゼーは「ジャップを殺して殺しまくれ。もしみんなが自分の任務を立派に遂行すれば、各人が黄色い野郎どもを殺すのに寄与することになるのだ」と檄(げき)を飛ばした。都市全体を無差別に焼き払う絨毯(じゅうたん)爆撃の創始者であるルメイ少将は「日本を打倒して暗黒時代に逆もどりさせる」と豪語していた。そして米軍はそのとおりの残虐行為をはたらいた。北谷町美浜に上陸した米軍部隊は、女・子どもの区別もなく無差別の皆殺しをおこない、遺体を股裂きにして海に投げこんだ。「それを目撃した人人が、声をあげて泣きながら逃げてくるのを見た」という人がいる。読谷村でも「友軍が上陸してきたと思って歓迎に出た住民が皆殺しにされた」という話を聞いている。


 また沖縄市の70代の婦人は「親せきといっしょに13人で伊計島から国頭へ船で避難するとき、日本の特攻機がアメリカの軍艦に体当たりした。するとアメリカが反撃をはじめたので、“攻撃されたらたいへんだ”と10歳の弟が降参旗を振ったが、アメリカは容赦なく艦砲を撃ちこんできた。弟は撃たれて海にほうり出され、親たちが海に飛びこんで捜したが見つからなかった。残ったものが必死に手を振って“助けてくれ”と叫んでいるにもかかわらず、民間人だとわかっているのに、今度は機銃掃射をやってきた。弟がどんな思いで亡くなったか、思い出しても腹がたつ」と、煮えたぎるように語っていた。


 「アメリカ軍は人を殺さない」といわれても、それを信じるのは、博打にかけるのも同然であった。基地略奪を目的としたアメリカ侵略軍の残虐きわまりない無差別攻撃が、沖縄住民をどれほど極限的な絶望状態へ追いこんだか、それは明らかなことだった。


 沖縄戦のときには10歳で、家族といっしょに国頭へ逃げたという読谷村の男性は「シムクガマで命拾いした人人には、ハワイ帰りの住民が、みんなを助けてくれたことへの深い感謝がある。しかしアメリカが沖縄の人たちを助けたなどとは思っていない」とはっきり語った。「いまだに58号線からむこうの土地は、全部アメリカの軍用地にとられている。うちの土地もアメリカの弾薬庫に使われているので入ることもできない。読谷のものは、収容所から帰ってきたあとも、米軍によって2カ所ぐらいに囲いこまれて生活し、そのあと何度も転転とさせられ、結局自分の土地には帰れなかった」と、アメリカの戦争目的が基地略奪のためであったことを強調した。そして「アメリカは怖い。なにをするかわからない」と、激しい怒りをこめて語っていた。
   
 アメリカの残虐を今語らねばならぬ


 読谷村の役場玄関前でも、峠三吉のパネル展示とともに長周新聞の沖縄戦特集の号外は、衝撃的な反響を呼んでいた。そして「これまで黙ってきたが、やはり語らなくてはいけないと思った」と、アメリカの残虐行為への怒りをこめて、筆舌に尽くしがたい体験を語り出す年配者があいついだ。


 60代の男性は「最後まで展示を全部見たが、涙が出る。わたしも体験しているから」と、手と足を見せてくれた。左手の小指がなく、ズボンをあげると左足のふくらはぎがざっくりと抉(えぐ)れていた。「母がわたしと妹を連れて本部方面に避難したが、米軍に艦砲を撃ちこまれたんですよ。妹が4歳で、わたしは6歳。妹は即死でした。わたしは艦砲の破片にやられた左手の指が腐ってきたので、石部隊の獣医が麻酔なしでペンチで指を切りとった。アメリカはひどいもんですよ。日本軍が悪くて米軍がよかったなんてことは、まったくない。この写真を見たら、わたしの体験とも重なってこみあげてくる。たくさんの人に見せてください」と、喉をつまらせながら激励してくれた。


 「これを見ると少年時代にもどっていくような気がする。見るだけで腹立たしい」と語りかけてきた70代の男性は「沖縄戦のときは12、3歳だったが、10・10空襲でもやられ、艦砲の攻撃にもやられ、ヤンキーが上陸してきたのもこのあたりだ。無残な死体がごろごろしていた。このパネルの写真を見ていると、じいちゃんや親父が目の前でヤンキーに撃ち殺されたときのことを思い出す」と、凄絶な体験を語りはじめた。


 「米軍が上陸するとわたしたちは馬や馬車で辺土名の山のなかへ逃げていった。辺土名からずっと歩いた安波川という、いま水力発電所がつくられているあたりだった。わたしたちがかくれたり歩いたりした道がいまもある。経験のない人たちは“あれは戦争だったからしかたがない”と切りかえもきくが、子どものころに経験したわたしには、いまだに思いきることができない。アメリカのやつは、わたしらには考えられないようなことをやる。何十人という米兵が敗残兵を捜しに川の下からずらりと並んで上がってきた。そのとき、逃げようと身構えた親父とじいちゃんが撃ちぬかれた。じいちゃんは即死だった。親父は血まみれで倒れていたが、生きていた。米兵はかくれているわたしたちを引っぱり出してきて、隊長がわたしたちと同じ顔だちをしたアジア系の米兵に命令し、目の前に倒れて苦しんでいる親父のとどめを刺させた。親父の遺体は、顎が2つに割れていた。米兵が壕の中から死んだ人たちの足をつかんで引っぱり出し、物のようにほうり出しているのもこの眼で見た」と、唇を震わせた。


 さらに男性は、友軍の特攻機が何機も来たが、網の目のような砲火を浴びせるので敵艦まで届かないうちに落ちていった光景や、航空服を着た若い少尉の遺体が海岸にうち上げられていた様子などをふり返り、「あの人たちが気の毒でたまらない。わたしらも竹槍で米軍を突き殺せといわれていたが、そういった軍人たちがアメリカの指図で自衛隊をつくり、いまではイラクでアメリカの戦争に協力しているとはどうしたことか。沖縄戦はいまのイラクと同じだった。アメリカのために子や孫が召集されていくのでは、戦争で亡くなった親父やじいちゃんたちは浮かばれない。地元の人間はヤンキーにとっては虫けらと同じだった」と語気を強めた。そして「あまりに悲惨なので、みんな体験を語ろうとしない。しかしこれを見たら思い出すのではないか。思い出すのはつらいことだが、やはり伝えなければならないと思う」と、大きく息を吸いこんだ。


 米軍が上陸したとき2歳だったという女性は「わたしは泣き虫だったので、壕にかくれているとき米軍に声が聞こえたらいけないと、おしめを口の中に入れられていたと姉たちから聞いている。学徒だった母親の弟は、読谷飛行場で亡くなった。サイパンへ働きに行き、身体をこわして帰って来たおじいさんは、兄弟を2人、子どもを2人沖縄戦で亡くし、1家でたった1人の男手になってしまった。長男はいまだに帰らないままだ。おじいさんは“どこかに生きている”とずっと捜しつづけ、慰霊の日にもお参りには行かない。“戦はちゅ(人)くえむ(食う)”(戦争は人を食う)というが、戦争が終わった後は、食うことも家を建てることもみんな自分たちでやらなければならなかった。カヤで家の屋根を葺(ふ)いて、しょっちゅう葺きかえて、食べるものもなく、生き残ったものもたいへんだった。二度とこんなことをさせてはいけない」と、訴えるように語りかけた。


 8歳のとき、馬車や牛車に家財道具を乗せて山へ逃げた体験を持つ67歳の婦人は「水は絶対に必要だったので、川沿いにできるかぎり山奥へと逃げた。途中から馬も入れないような狭くて険しいところへ来たときには、母、祖母、姉の四人で、それぞれが頭の上に重い荷物を担いであがった。長い避難民の列の最後の方の人が砲弾にあたって亡くなった。老人や女、子どもばかりで、軍隊の隊列でないことはわかっていたはずだ。それでもアメリカは見境なく攻撃してきた」と、唇をかみしめた。「戦後、トラックが復員兵を乗せてくるたびに、父がもどってくると思って母といっしょに出迎えに行ったが、何度行ってもだめだった。これが最後のトラックだといわれた日は、ほんとうに悲しかった。アメリカは絶対に許せない。広島の写真を見たらよけいにそう思った。原爆もそうだが、沖縄戦もなにがなんでも占領しようとむりやりにやったのだ。父親を返せといいたいですよ」と声を強めた。


 「催涙弾を投げこまれた壕の住民は、みんなオレンジ色の鼻汁を出していた」と語る67歳の婦人は、「わたしは栄養失調で立つこともできない状態だった。捕虜になったら殺されると思って大騒ぎになっていたところへ、アメリカは食事やお菓子を与えて手なづけたと思う」と憤りこめ、「兵隊にとられていた父親は数年後に帰ったが、米軍基地に土地をとりあげられたので、よその土地を借りて生活しなければならず、長いあいだ貧乏だった。昔住んでいたところは米軍基地になっており、ふるさとの面影などはない。普天間基地は返還してもらうにこしたことはないが、米軍がひきつづき沖縄に居座っているのでは問題の解決にはならない。静かで豊かな沖縄にもどしてほしい」と、心底からの願いをこめた。


 また、小学校へ入学する年に読谷村から国頭村へ疎開したという65歳の婦人は「母と姉が食料を探しに行ったとき、米兵に見つかって狙撃され、2人とも殺された。母が49歳、姉は21歳だった。戦争が終わってもしばらくは国頭に残り、ようやく茅葺屋根の家が建ちはじめたころ読谷の方へおりていったが、そのときにはなにもかもがアメリカの支配のもとにあった。これがアメリカのやり方だと思った」と、はっきり語った。
   
 特攻隊で死んだ若者たちへの思い

 読谷村で2日目の展示を終えようとしていたころ、白髪の男性が「暑いなかほんとうにご苦労さまですね」と、親しげに声をかけてきた。「この役場の前の広い道路は、昔の読谷飛行場の滑走路なんですよ。日本軍がつくったときには、北飛行場といっていましたがね。その道のむこうに、特攻隊の慰霊碑があるんです」と教えてくれた。


 わたしの手元に史料はないが、男性によれば米軍が占領した後、九州から2機の大型機が飛来して胴体着陸し、中から飛び出した特別攻撃隊の若者が斬りこみをやり、米軍機を破壊した。そして全員が惨殺されたそうである。「地元のものが建てたのではなく、本土から来た戦友の人たちが建立したものですが、わたしはあの若者たちは立派だと思う。せっかくだからお参りをしてもらえたらと思うんですよ」というのだった。


 つい先ほど、「戦跡ガイド」の50代の婦人が「チビチリガマの“集団自決”も、日本軍のせいだった、悪いのは日本軍だと聞いていた」と話していただけに、少し意外な気もした。しかし考えてみれば、沖縄県民が米軍基地に反対する根拠は、沖縄戦であれだけの住民が米軍によって虐殺されたことにある。そのうえに、戦後の米軍支配によるさまざまな怒りがあるのだった。命をかけてアメリカの艦船に体当たり攻撃をしていった特攻隊の若者への心情も「ばかだった」で切り捨てられるような単純なものではけっしてなかった。


 基地略奪のために無差別大量殺りくの猛攻撃をおこなったアメリカより、日本軍の方が悪いとする流れから見れば、広島・長崎の被爆者にも「加害者」としての面があり、特攻隊などにいたっては「ばかの典型」ということになるだろう。だが多くの戦争体験者は、イラクに派遣される自衛官にたいしても、かつての出征兵士の姿に重ねて「日本の若者が戦場へ引きずり出されている」と、胸がはり裂けんばかりの愛惜の念を抱きつつ、政府の戦争政策をきびしく批判している。「イラクで殺されてくればよいのだ」とか「日本へ帰ってくるな」と罵声を浴びせるような論点とは、まったく質が異なっているのだった。そして沖縄でも広島でも、抑圧構造として見た場合、この自称「進歩派」の流れこそ、アメリカ支配を補完するもっとも悪質な支柱となっている。金武町でいたいけな少女を集団で暴行した米兵に、満腔の怒りを持つ婦人たちが「鬼畜米兵!」と非難すれば、「それは軍国主義だ」と切り返して黙らせようとする風潮すら、「進歩」派を自認する勢力はつくり出してきた。


 糸満の公設市場のオバアたちもそうだったが、だれもが同じように身内を出征させているだけに、一銭五厘の赤紙によって戦地にかり出された兵隊への人人の心情には、かれらの家族と同じ感情が流れている。特攻隊にたいしても、簡単に「軍国主義」と切り捨てるようなものではけっしてなかった。

 「命かけ米軍とたたかう」


 沖縄市の87歳の元特攻隊の男性は、中国大陸で「沖縄は玉砕した」と知らされた。「自分だけ生きていては申しわけが立たない。命をかけて、沖縄を攻撃している米軍とたたかおう」そう決意して志願したと語っていた。わたしたちに特攻隊の慰霊碑を教えてくれた男性も、そうした若者たちの心情を深いところで受けとめているのにちがいなかった。


 元特攻隊の男性はこうも語った。「わたしの長兄は島尻の壕の中で死んだと戦友が知らせてくれた。次兄は中国の海南島で戦死したそうだ。しかし佐世保にいて、むこうで召集された弟は沖縄に派遣されてきた。ところが出征するとき、弟の妻のお腹には子どもがいたので“生まれた子どもと妻に一目会いたい”と、伝令の任務の途中で、姉の家を訪ねてきた。しかし米軍が上陸する直前のことで、すでに弟の妻は子どもを連れてどこかへ避難しており、どこにいるかもわからないので会わせることができなかった。姉が卵とお金を渡すと弟は喜んでいたというが、それきりになってしまった。弟はいまだにどこで死んだかさえわからない。あの弟のことを思っただけでも、アメリカは許せない。国のために尽くしたものがばかにされ、アメリカの番犬がのさばるような世の中は絶対に許せない!」と、激怒していた。


 また那覇市の牧志第1公設市場で出会った伊江島出身の商店主は、「米軍の上陸作戦がはじまって玉砕状態になった慶良間から、小船で久米島へのがれてきた兵隊たちがいた。ほとんどが海の上で亡くなったが、船が転覆して海岸に漂着した1人の兵隊を、うちで2カ年ほど世話したことがある。新潟出身で30歳ぐらいの伍長だった。とてもよい人で、よく働き、てのひらのまめが破れて血を流しても畑仕事に精を出していた。彼は戦斗が終結したあとも、“絶対にアメリカの捕虜にはならない”といって、アメリカからもらった服も身につけようとしなかった。ことあるごとに“自分一人が生き残って申しわけない”といっていた。やがて久米島に米軍と警察が残留している日本兵を捜しにきたとき、手榴弾を握りしめて“捕虜になるならここで死ぬ”といったので、“うちがどんな思いをしてあんたを助けたと思うのか!”と、親父が涙ながらにしかりつけると、彼は重箱につくった料理を海辺に供えて戦友たちの供養をし、遺骨がわりの石を抱いて自分から出頭して行った。日本の戦争も大まちがいで、わたしらは天皇などをあがめる気持ちはまったくない。軍国主義の教育も恐ろしいものだと思っている。しかもきのうまで“鬼畜米英”といっていたものがてのひらを返したように“アメリカ万歳”となるのでは、国を信じて死んでいった人は浮かばれんでしょうが」と、痛切な思いを語っていた。


 他人がどれほどたくさん死んでいっても、自分の命さえ助かればそれでよしとするような、いわゆる「左翼」や「人権」派の眼から見れば、このような心情は、「保守・反動」としか映らないだろう。だが、アメリカの植民地支配への憤激はもちろんのこと、アメリカに国を売り渡した天皇への憤激という点でも、深い郷土愛や愛国精神を抱くこの人たちの方が本物であると思う。

 集団自決経験した老人の話


 中学生のとき慶良間の船舶特攻部隊で監視所勤務を命じられ、3月26日の米軍上陸直後には凄惨な「集団自決」を経験した七五歳の男性は、「自分は真先に米軍に投降して捕虜になった第1号だと、手柄顔で自慢している元将校もいるが、かれらには集団自決で亡くなった人たちや戦死した戦友にたいしてすまないという気持ちが少しもない。人間として最低だ!」と、声を震わせて怒っていた。


 「わたしは米軍が上陸してくると、いっしょに監視所にいた3人の中学生で、山の稜線を突破しようと谷間からかけ上がった。まさかそれほど近いところに米兵が迫っているとは思っていなかった。しかしかけ上がったとたん、いっせい射撃をくらわされて、2人は米軍の銃撃で殺された。わたしは必死で壕へ逃げこんだが、壕の中の住民は上陸した米軍を見て、もう日本軍はあてにはならないと絶望して集団自決がおこなわれた」と、語っていた。


 その人はなによりも「戦争終結に原爆投下は必要なかった」というパネル展示に強い共感を寄せていた。「たしかに日本軍もひどかったが、沖縄戦は地上戦でしかも長期にわたったので、いろいろな残虐行為が米軍側からもあった。しかも復帰まえの沖縄はアメリカによる弾圧の島だった。沖縄戦も同じだが、原爆投下の残虐行為はアメリカがやったことだ。広島の慰霊碑に“過ちは繰り返しません”と刻まれているが、あんなものは撤去するべきだ。アメリカの残虐行為を、なぜ日本人が反省しなければならないのか。アメリカは日本の軍部よりもっとあくどいことをやっている。“安保”が憲法よりも上にある、いまの日本は独立国ではなく、アメリカの傀儡(かいらい)だ。まず“安保”をなくして、アメリカには日本から出て行ってもらうべきだ。普天間のヘリが落ちても、学者はだれ一人として“安保”破棄をとなえない。あれらはみんな御用学者だと思う」とのべ、与野党の政治家をはじめ、権力にものをいうべき学者や言論人を、政府の委員のポストやテレビ出演などの餌でことごとく買収し、金の力で反米の骨をぬいてきた米日支配層の陰険狡猾なやり口を指弾した。
(つづく)

※全編は本紙発行冊子「沖縄戦の真実」に収録

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