いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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座談会 60年「安保」斗争の経験を語る 高い政治課題が人民を発動 

  1960年の「日米安保条約」改定阻止の斗争は、労働者を先頭に広範な各階層人民が全国各地で立ち上がり、アメリカ大統領の訪日に門前払いを食らわせ、岸信介売国政府を打倒した偉大な斗争であり、戦後の人民斗争の歴史に輝かしい1頁を記した。現在、安倍政府が憲法まで改悪してアメリカのために戦争をする道を暴走しているなかで、労働者を中心に広範な各階層人民が団結して戦争を阻止し、独立、民主、繁栄の日本をめざす大衆的運動の構築が強く求められている。ここに再録・紹介するのは、1985年6月福田正義主幹が出席して60年「安保」斗争体験者にこの斗争の内容や教訓について語り合ってもらった本紙座談会で、多くの貴重な示唆を与えるものである。

 戦後の政治斗争の集約点
 司会 はじめに60年「安保」斗争が職場や地域でどのようにたたかわれたかという点を出してもらい、その斗争の内容、質といったものを明らかにしていきたい。
  60年「安保」斗争は戦後最大の階級斗争としてたたかわれ、岸内閣を打倒してアイク(米大統領)の訪日を阻止したすばらしいたたかいであった。それは、戦後、戦争反対、民主主義擁護、生活擁護などのスローガンを掲げて、人民が全戦線で支配階級と連続的にたたかいを発展させてきたことの集大成であったと思う。
 サンフランシスコ講和条約の締結をへて池田・ロバートソン会談で再軍備、「自衛」の精神で子どもを教育するという教育の反動化攻撃が露骨になってきたなかで山口県では「偏向教育」問題として「日記帳」事件を機に県教組に分裂攻撃がかけられた。その後、教育委員会の任命制、勤務評定、教育課程改悪ときて、勤務評定反対斗争は、戦後の教育斗争で最大の盛り上がりを示した。59年、山口市の湯田松政旅館でたたかわれた、教育課程反対斗争に結集した中・四国の労働者・教師のあいだから、「次は“安保”だ」という声が出てきて、その2カ月後に反「安保」の第8次統一行動となり、8万人がデモするというたたかいへと発展した。
 山口県では、安保破棄県民会議が指導性をもって労働者、教師、知識人をふくむ各階層の県民を団結させて敵とわたりあった。戦後各戦線でたたかわれてきた斗争が1つに合流して、反「安保」の大きなうねりをつくり出したのではないか。
 第8次統一行動は、「安保」を本当にたたかわねばという決意を固めさせ、翌60年に入っていく。そして5月19日、岸内閣による「安保」条約の強行採決により、この暴挙と絶対にたたかわねばならないというのが全国でほうはいとして巻き起こった。この前後に、山口県では山口大学の学生たちがデモにくり出し、下関と宇部で、「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンを掲げて、はじめて教師だけの市中デモ行進がおこなわれた。
 県教組も移動文化工作隊などを編成して農村などに出かけて行き、紙芝居をやったり、懇談会などを開いていき、「安保」改定の狙いを明らかにし人民の側の世論を精力的に組織していった。
 樺美智子さんが虐殺された6月15日を機に、斗争はもう一段盛り上がった。東京だけでなく全国津津浦浦で長蛇のデモがくり広げられた。それに職場集会とか、休暇斗争とか、実力行使とか、そうしたたたかいも「安保」反対という政治課題を真正面に掲げて、ときの支配階級とその政府とわたりあい、そのなかで階級的立場をだんだん鮮明にしていった。

 各戦線の斗いが大合流
  60年「安保」斗争までは、51年のサンフランシスコ講和条約と日米「安保」条約の締結反対のたたかいにはじまり、米軍基地反対、政暴法反対、勤務評定、警職法反対…と、一定の困難を乗り越えて矢つきばやに政治斗争がたたかわれた。
 51年には広島の荒神小学校で原爆反対の集会が開かれ、それらが講和条約反対の全国的な斗争と結びついていた。文化人や大学の先生らがサンフランシスコ講和条約反対を非常に戦斗的にやるが、それは戦後から蓄積されてきたアメリカ帝国主義とたたかう意識がひじょうに強かったことを示している。60年斗争のときも、そうした意識が、たとえば樺美智子さんが殺されたという事件をとおして労働者と学生が団結してどっと進むようになった。
  電力労働者の場合を見ても、52年に朝鮮侵略戦争反対と結びつけて電産の長期ストが打たれ、組合の分裂攻撃、スト規制法反対の斗争へとつないでいく。そしてこれが当時の基地反対や原水爆禁止のたたかいと呼応し、警職法、「安保」反対へと発展していく。その特徴は、労働者の賃金や労働条件の問題と結びつけて政治課題が正面に掲げられたことだ。それも、政治課題を労働組合が取り上げるべきでないという米日支配層の意を受けた労組指導部の路線との激しい斗争を下部労働者がたたかってかちとった。それが「安保」斗争を下から盛り上げていった力だ。
 もう1つ、2000万をこえる中国人民の支援など、国際的支援に励まされ、それと連帯してたたかったことも重要だ。

 知識人が大きな役割 労働者が職場から決起
  文化人というのは、あまり政治にかかわらず、芸術だけやっておけばよいという傾向が強かったが、朝鮮戦争のころからか再軍備から戦争というものを感じ出し、戦後の日本はどう進むべきかという政治意識が芽生えてきた。アメリカが日本政府を強力に支援して戦争の方向へ日本を引きずりこんでいる、そのテコ入れとして「安保」があるんだという認識があった。
 文化人というのは孤立しているが、「安保」の前年の59年に『長周新聞』が〈春の夜の詩祭〉をやってくれて、はじめて各ジャンルの文化人が一堂に集まり、「安保」斗争に大きな役割を果たしたと思う。私たちもあのおかげで周辺の文化人と横のつながりができ、反「安保」の関門文化人会議を呼びかけたとき、すぐ応じられる状況ができた。ただ、私もふくめて政治的意識はまだ低く、自分のイデオロギーをもって日本の将来をどう見ていくかというふうにはなっていなかった。その意味では、礒永(秀雄)さんが1番その方向を見定めていた。
 私たちが「安保」斗争をたたかったことは、文化人に政治的意識を持たせるという大きな意味を持っていた。文化人がデモ行進したのはあとにも先にもあれが初めてで、商売人も「安保」をたたかっていたから、街を歩いていると、みな手を振ってくれた。
  50年代をとおして反戦平和の基地反対斗争が発展したのが特徴だ。53年の石川県・内灘、55年の砂川、北富士演習場の斗争、57年には米兵ジラードの農婦射殺事件があり、このころ全学連が原子戦争反対斗争への決起を指令する動きがあった。59年8月の第5回原水禁世界大会では「安保」反対が決議された。共産党指導部が「安保を入れると幅が狭くなる」と主張したのにたいして、全学連や外国の代表が「安保」をたたかうことこそ平和を守るたたかいなのだと強力に主張して決議にまでさせた。
 こういうジグザグをへながら59年3月には「安保」改定阻止の国民会議ができ、4月15日から第1次統一行動が組まれる。不発で流れたこともあったが、第8次統一行動では、全学連が先頭に立って国会構内に突入、それにつれて労働者の部隊が入っていく。それを社会党や共産党の幹部が「出ろ、出ろ」とやるわけだ。
  学校の先生が独自で「安保を批判する会」などをつくってデモにくり出す。樺美智子が殺された晩には、東京の先生が教え子がやられたというので1000人くらいが押しかけ、「教え子を殺すならおれを先に殺せ」と権力に迫った。あのころの、先生と子どもの関係は本当に美しかった。
  確かに大学の先生が「安保」斗争で果たした役割はものすごく大きかった。51年のサンフランシスコ条約のとき、東大学長の南原繁、同志社大学の田畑忍ら日本の中心的大学の学長が連名で全面講和を要求したし、その後の勤評反対斗争、60年「安保」斗争でも、山大や九大の先生が先頭に立った。だから私ら勤評や湯田松政の教育斗争をとおして、敵は権力だということを認識していくことになった。「安保」斗争となると、これをもう1つ発展させなければならなかった。教育と政治の関係でも、敵は相当に教育中立主義の攻撃をかけていたわけで、それをうち破っていく必要があった。その意味で教育と「安保」、賃金と「安保」の関係とかを学習会で深めることが大切であった。
  「安保は入らん」といわれていたが、山口県や下関では、活動家をオルグ団に組織し、つじ説法とか演説会、交流会、学習会、討論会などをやって「安保」反対の世論をつくっていった。「安保と合理化」「安保と賃金斗争」などをテーマに認識を深め、その蓄積が「安保」斗争と結びついていった。そのなかで、公務員共斗が12・4%の賃上げを勝ちとり、あとで政治斗争をやれば賃金も上がるということがわかった。
 60年の5、6月になると、今日はサンデン、明日は大牟田の三池炭鉱へという具合に連続した斗争となり、階級的な連帯感も強まった。下関では6者共斗(市職、水道、全日自労、教組、採石など)をつくり、早朝集会や時間内食いこみストをやったが、夕方のデモでは駅構内にまでくりこんで乗客から拍手で迎えられるような状況であった。5月19日の強行採決、樺虐殺などで火がついたように燃え上がるし、北京で100万人集会がやられたりして、みんなの視野は、全国へ、世界へと広がっていった。ともかくおれたちが日本の命運を握っているのだという気分があった。
  樺虐殺となると、もう組合の統制もきかない、関東周辺ではバス何100台を仕立ててどんどん国会へ乗りこんでいった。もう1つ、学生運動も第8次行動の国会突入が南朝鮮などに飛び火してかいらい李承晩を倒してしまう、それがまた日本にもどってきて6月15日の国会突入となる。
 樺美智子が殺されて33万人が国会を包囲するが、そのとき、全国の主要都市から中小都市までみなが街頭に出てデモをやった。労働者の6・4ストでもはじめは賃上げスローガンだったものが、下からの突き上げで、最後には反「安保」にいった。上層部がそれを抑えるから、スト現場の駅によその労働者や勤労者が押しかける、高校生も座りこむといった具合に、労働者の決起を全人民が支持し、政治ストとして成功させるのに必死となったわけだ。
  あの当時国鉄にしろ市職員にしろスト権がなかったからストには弾圧がつきものだった。それを相当な支援もあって下から乗り越えていった。
  60年当時は国際、国内の情勢討議をかなりやっていたから、世界の流れのなかで日本の位置、「安保」の位置というふうに問題が立てられた。神鋼の場合、59年ごろから三田村労研ができて、労働組合の指導権争いが激化していた。他方で第1次のアルミ産業の「合理化」が55年にはじまっていて、職場での政治活動が弾圧されるようになっていた。こうして、「合理化」や職場の締めつけに対する怒りが「安保」や三池の斗争に結びついていった。

 山口県の安保共斗の経験 世界の人民が注目
  山口県の場合、安保破棄県民会議の果たした役割は非常に大きかった。日本全体でも安保共斗の役割はそれなりに大きかったと思うが、あの典型とされた群馬民擁連など真先につぶれ、非典型といわれた山口県のが残った。よその安保共斗では共産党はオブザーバーだったが、山口県では共産党、社会党、県労評が主体になり、そのもとにさまざまな団体が加わって安保共斗をつくっていた。あれがなかったら、諸階級諸階層を組織した運動も、労働運動を中心にしてあのような発展をとげることはなかったと思う。
  山口県の場合、共産党が県民会議や市民会議のなかにいて全体を導くことができた。サンデンなどの職場では、共産党、社会党、その他を入れた職場安保共斗がつくられていた。
 司会 「安保」斗争の状況についてはかなり出されたので、このへんから「安保」斗争の評価の方へ話を進めたい。
  「安保」斗争が正面の敵であるアメリカの大統領の訪日を阻止し、岸内閣を野たれ死にさせたという結果から見て、あの斗争が戦後15年間にわたる日本人民と日米支配階級との斗争の1つの結節点としての位置を持っていると思う。
  沖縄まできていたアイゼンハワー米大統領に門前払いを食らわせたことは、当時のアメリカの世界における力からして相当なたたかいであった。日本の労働者階級や学生の斗争は、ヨーロッパをぬいたと思う。
 「安保」反対というような政治スローガンであったから、諸階層が立ち上がった。賃上げ斗争も大切だが、その基礎の上にああいう政治斗争を組んでいくことが重要だという教訓を示している。
  山口県の安保共斗が他と違うのは、やはり参加団体の独自性を思い切って発動したことだ。中央の方から「あれをやるな」「ここまでやってはいけん」と圧力がかかるなかで、山口県の安保共斗では1人1人をどう立ち上がらせるかということを真剣に追求し、大衆の戦斗性を思い切って発動した。それが商店主の2時間ストや単車パレード、知識人の決起となった。

 「安保」と結合できなかった 三池斗争での教訓
  三池では60年の1月に指名解雇があって3月から激突となり、三井資本のつくった第2組合による生産再開をピケで阻止するなかで、久保さんが暴力団に殺された。労働者のところでは主婦もふくめて、賃金とはなにか、階級斗争とはなにかを黒板に書いて学習も盛んにやっていたが、どうしても「安保」に結びつかなかった。
 編集部 そこは1つの問題になるところじゃないか。たとえば今原発反対をやる場合、漁業破壊反対、産業構造転換反対、原爆、核武装化につながるから反対というようにいく。だが三池の場合、石炭「合理化」反対だけで、この「合理化」も「安保」という大きな政治の一環というようにとらえられていなかった。学習会もいろいろやっているが、政治としてそれが結びつくようになっていない。また、三池の斗争が石炭労働者全体の斗争にならず、三池にだけ集中し、最終的にはホッパー決戦というふうになっていったが、そこには斗争における戦略上の問題がある。戦斗的にやるのはいいことだが斗争の戦略が全人民的な内容を持たないとだめだということだ。
 「安保」問題が初期には大衆のなかになかなか入らなかったという問題にしても、戦後アメリカが民主主義をやるのではないかという認識であったのが51年の「安保」条約締結まできて、アメリカが敵だという認識になった。日本独占資本もアメリカにくっついて人民の生活を圧迫しているし、政府はそれらの代表者だということが広範な人民の認識になった。これは、偉大なことだ。「安保」という高い政治で結集する場合、個個の認識を「安保」に集約してきたわけで、前段に「安保」が入らなかったというのは大衆の意識が低かったからではなく、「安保」が戦後10数年間の大衆の政治的経験を総結集してくるというように考えられていなかったからだ。だから山口県では、経済主義の観点でなしに、「安保」が人民の生活とどのような関係にあるか、物価と政治の関係がどうかということを相当やった。それが大きな効果を発揮した。
 また、ヨーロッパで人民斗争が起こってくるのは60年代の末期68年5月のパリの学生斗争のころからだ。それまでヨーロッパでは、アメリカは反ファッショ戦争での解放者という認識がかなり強く、それがうち破られるまでは斗争が起こらなかった。その点で、日本では大衆がアメリカ帝国主義を敵と認識するのは早かった。

 屈服を深める労働官僚
  60年以後の斗争を見ると、サンデンでも60年の斗争では勝つのに、61年には大斗争になりながら、私鉄総連の中央から安恒良一らが来て指導して2人の共産党員が首を切られる。
  安恒は原水爆禁止運動を破壊した、張本人でもある。「いかなる国の原水爆にも反対」を61年に出してきた。労働組合の幹部で「大使館グループ」といわれ、アメリカと結びついていた連中の1人だ。
  全電通でも、「安保」後「6・24中央合意」なるものが出て、むこう1年間斗争をしないことを宣言した。
  日教組でも61年になると、運動路線の転換を公然とやってきた。教育斗争や政治斗争をうしろに追いやって、賃金、権利第1の方向に転換しようとした。共産党指導部はその路線転換を容認してしまう。日教組からも米国務省とかの招へいで幹部がよく渡米した。
  同盟系は、生産性本部ができてから、毎年のように訪米代表団を出し労資協調路線を学んで帰っていた。総評系の自由労連系の組合でもそうだったのではないか。敵の側は労働貴族をつくるという方針だったわけだ。
 編集部 敵は「安保」斗争の前から、「高度成長」政策でやってきて、「安保」斗争からまた多くのものを「学んだ」。それにひきかえ、人民の方はあれほどたたかったが、あまり学ばなかったということだ。とくに指導部が「勝った勝った」といっているうちに、2~3年たったら職場の状況ががらっと変わり、活動家は手も足も出せん状況になっていた。
  三池斗争でも、60年7月になると炭労中央への白紙委任をやって完全に足をすくわれ、がたがたと崩れていく。それから下部の怒りと斗争力は、「政策転換」斗争にもっていかれ、街頭主義に落ちこんでいく。
  あの三井三池の“ホッパー決戦”では、警官隊の襲撃に備えて、みんな腹に週刊誌を巻き決死の覚悟をきめていた。ところが、その一方で太田総評議長は池田首相とトップ会談をやっていたことが報じられ、大混乱になった。
 編集部 60年の7月に宮本顕治が三池に行くが、彼は三池に対して全然政策を持っていなかった。
  下関でも、サンデン、三菱、大丸とつぎつぎに分裂攻撃がきた。63年ごろになると、狙い撃ちされて活動家がバタバタとやめていった。
  『長周新聞』が「安保」1年後に「情勢の誠実な検討」を呼びかけた。「政策転換」斗争という東京にむけての陳情に流れ、生産点ではたたかわなくなり、政治斗争は潮を引くように急速に引いていったからだ。

 総括放棄した「日共」 「勝った、勝った」で腐敗
 編集部 60年「安保」斗争までは、アメリカ帝国主義と日本の独占ブルジョアジーに矛先をむけた政治斗争であったが、それが終わると政治課題がないようになり敵に思うつぼとなった。共産党の中央は、「安保」斗争を誠実に総括して自分たちの弱点はなんであったかを明らかにせず、外国に行ったら「安保」斗争でもてはやされ、81カ国の共産党会議でテングになっていた。これが活動家のなかに急速に腐敗を生み出した重要な要因だ。
  国際的に見れば、57年と61年のモスクワ会議、60年の中国共産党による『レーニン主義万歳』の論文も出され、修正主義潮流とのたたかいが起こっていくが、宮本顕治らの動きはその修正主義の潮流とも連動していたと思う。60年「安保」が、あれほどの成果を上げたことから、敵はふるえあがり、切り崩しにかかってくるなかで、宮本らの屈服に拍車がかかった。そして64年の「4・8声明」(スト中止)にまで行きついたと思う。
  職場では一方でしめつけがますます強くなるのに、池田内閣の「所得倍増」の宣伝もあって労働者のなかにはなんとなくこれから生活がよくなるぞというようなフワッとしたものが出ていた。
  「高度成長」がどっとくるなかで企業主義のイデオロギーが持ちこまれた。
 編集部 階級の政治がなくなったからだ。階級斗争という階級社会での政治がなくなれば、資本主義にいかれてしまう。
  「安保」斗争のとき労働者のストに批判的なことをいわなかった人たちが、その後の賃上げストには文句をいうようになった。政治斗争をやるなら人民の協力が得られるが、賃金斗争では全国で何100万人を巻きこむ斗争には絶対に発展しない。
 編集部 あれほどの全人民的な斗争になれば、部分では総括できない。共産党中央がやらんからバラバラになったわけだ。だから「安保」斗争の積極分子が共産党に批判的となり、その後、「安保」は負けたんだというような極端なことをいうようになる。
  それが退廃を早めた。「安保」後、まず大学の先生の給料が上がる、原稿料も上がる、そして家を持つようになった。つづいて小・中・高の先生も給料が上がって70年代には家まで持つようになり、しだいに政治斗争から遠ざかっていった。
 編集部 「安保」斗争を総括して教訓を引き出すことは、現在の斗争の停滞をうち破り、新たな斗争を発展させるのに相当重要な意義を持っているということだ。
  歴史的総括がものすごく大事だと思う。この間、学力テスト反対斗争や桃山中斗争の意義を再度明らかにするなかで、あの当時たたかった教師の誇りと戦斗性がよみがえっている。同時に、若い教師が「そんなたたかいがあったのか」と感動し、それに学びそれを受けつがねばならないとなっている。そうした戦後総括の上に立って新しい運動を築こうという転換点にさしかかっていると思う。

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