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広島「原爆と戦争展」開幕  被爆の真実全国に発信

広島市中区のまちづくり市民交流プラザ4Fギャラリー(袋町小学校隣)で7月30日、第10回広島「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる広島の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる長崎の会)が開幕した。10年目を迎える同展は、被爆市民の本当の声を伝える場として定着し、約230人の賛同者をはじめとする全市的な運動としてとりくまれてきた。被爆・敗戦から66年目を迎える今年、東日本大震災と福島原発事故による未曾有の危機が日本列島を襲い、被災地の復興とともに戦後社会の総括と日本社会の進路についての問題意識を強めて全国から多くの人人が広島の地を訪れている。1週間後に迫る8月6日に向けて、被爆市民との交流がおこなわれ、第2次大戦と被爆の原点に立ち返って戦後社会を根本的に見直し、平和と独立を実現する力を全国へ発信していく機運が盛り上がっている。
 
 震災重ね鋭い問題意識

 初日の午前10時からは、賛同者や市民など20名が参加して開幕式がおこなわれた。
 あいさつした広島の会の重力敬三会長(九一91歳)は、「被爆66年目の夏がやってきた。66年前のあの日、あのときの惨状は死んでも脳裏から消えることはない」とのべ、「今回の福島第1原発事故により放射能の恐ろしさと危険を嫌というほど見せつけられ、原爆の惨状と放射能による被害を体験してきた私たちは広島の本当の声を上げていかなければならない」と強調。さらに、「アメリカの日本における基地問題にも終結が見えず、戦争を始めようとする状況は変わらない。私たちは命をかけてこれを阻止しなければならない。世界から核がなくなるまで頑張ろう」と熱を込めて呼びかけた。
 続いて、原爆展の運営を担う被爆者や学生を代表して3氏が抱負を語った。
 広島の会副会長の真木淳治氏は、「広島の会も原爆展とともに10年目を数えたが、私は2回展から8年間、会に入って語り部活動をやってきた。これまでは被爆体験と核兵器廃絶の思いを伝えてきたが、今年は大地震と大津波によって想像を超える人人が亡くなり、なかでも福島原発のこれまで予想だにしなかった深刻な事故へと発展した。次次に事実が明らかにされるなかで、“原子力ムラ”と呼ばれる議員、官僚、学者、電力会社などの思惑によって真実が隠蔽され、反論者を排除してきたことは許される話ではない」と強調。
 「そもそも日本の原発は、“原子力の平和利用”というアメリカの政策を押しつけられ、それを自民党政府が丸呑みしてきたことに始まる。地震列島の日本に54基もの原発をつくったうえにさらに10数基の増設を計画し、2030年までには原発依存度を50%にまで引き上げる発表していた。だが、今回の事故後、語り部に行った学校でも子どもたちが原発について学んでいるように、日本全国民が目を覚ましたような意識になっている。国や官僚、産業界があてにならないのならば国民の声を盛り上げて大きな力をつくっていく以外にない。それは必ず国を動かす力になる。原発は原爆と同じものだということを鮮明にして、全国から来る人たちにともに活動することを呼びかけていきたい」と力を込めた。
 広島の会の石津ユキエ氏は、「放射能に対して国民の目が向いているときでもあり、見て、聞いて核の恐ろしさを感じてほしい。また、広島の心を、放射線の惨状を次世代を担う人人の心の中に訴えていかなくてはならない。このような使命のある広島の役割は、非常に重たい。それを感じて持ち帰っていただき、大成功で終えられるように頑張りたい」と抱負をのべた。
 大学生の川上翼氏は、「今回は福島原発の関係で原爆への関心が高まっている。これを好機ととらえて一人でも多くの人に原爆、原発の怖さを伝えていきたい。全力で頑張りたい」とのべた。

 モルモット扱い変らぬ 行動求める声相つぐ 

 会場では被爆者たちが体験を語り、学生や留学生、被爆二世、会社員、公務員などの現役世代、長崎からも学生が応援に駆けつけてビラ配りや受付、案内役などを下関原爆展事務局スタッフとともに担っている。
 初日から2日間は、市内の被爆者や親子連れ、被爆二世などをはじめ、岩手、宮城、東京、静岡、大阪、愛知から九州まで全国から訪れる人人、また、アメリカなどの外国人など300人が訪れ、パネルに強い共感を示すとともに、震災や原発事故をめぐる政治の動きと320万人もの犠牲者を出した戦争政治とを重ねる意見や、原爆投下から続く戦後政治がアメリカへの従属を強めるなかで再び戦争へ向かっていることへの危惧が語られ、独立と平和に向けて全国的な結束と行動を求める意見が多く寄せられた。
 宮崎県都城市から来た70代の男性は、終戦当時小学生で陸軍飛行場があった都城からも多くの特攻隊が飛び立っていった経験とともに、戦後は酪農業の普及に携わってきたことを語った。「中国侵略から原爆投下にまで至った経過は六五年前の話ではなく、現在もまったく同じ政治が続いている。原発事故の対応をめぐって日本は国家としての国際的な信用を失い、農産物は放射能汚染によって敬遠されている。牛のセシウム汚染の騒ぎ方をみても意図的に日本の農業をつぶす方向だ。私たちは戦後、脱脂粉乳など米国からの粗悪な救援物資で学校給食がやられ、日本人が胃袋から抑えられようとしていることに危機感を感じて、協同組合を立ち上げて学校給食への国産生乳の普及を開始した。その過程はアメリカの植民地政策とのたたかいだったし、何度も国会デモを繰り返した。食料は国の基礎だし、国の未来を担う人間を育てるためには譲ることのできない問題だ。そういう公的な共同理念にもとづいて築かれてきた社会が、この数十年のあいだに株主主導、経営者至上主義による利潤追求がもてはやされて、今やなにも信用できない時代になってしまった」と振り返った。
 また、「戦後のアメリカによる“救援物資”は、明らかに日本人への餌付けだったし、日本人を動物としてしか見ていない。これとたたかって作り上げてきた自給自足による食料確保が“国際競争”“コスト競争”によってつぶれるところまで放棄され今や自給率はカロリーベースで40%、質量では22%に追い込まれた。TPPをやれば日本は完全に主権を失ってしまう。農業者をはじめ、日本全国がおとなしすぎる。立ちあがってデモくらいやらなければいけない情勢だ」と語り、今後のつながりを求めて再び訪れることを約束した。
 広島市内の50代の婦人は「今広島の経験を学び直すことは、日本国民として当たり前のことだ。だが、悲しい、怖いだけではなんにもならない。なぜ戦争をしたのか、原爆が落とされたのかについて学ぶ必要があるし、自分の力で真実を知る努力をしなければまたウソに流されてしまう。こういう展示には、何度も足を運んでいきたいし、みんなおかしいと感じている全国民が声を上げていける動きを作っていきたい」と共感をあらわした。
 崇徳中在学中に被爆した男性は、「1年生から4年生が建物疎開に動員されて477人が亡くなったが、自分は農家だったので食糧増産の手伝いということで欠席が許されていた。父も前日は八丁堀に国民義勇隊で出ていたが、その日は休んで畑仕事をしていた。ほとんどの男手がかり出された川内村は未亡人部落になった。骨も遺体も見つからないなかで生かされた命だと思って生きてきた」と静かに語った。
 「原発事故で苦しんでいる福島の人たちには、広島の経験についてしっかり知ってもらい、後になって後悔することがないように、必ず故郷を取り戻すことができると信じて復興させてほしい。政府が放置してあきらめを誘っていることが最大の問題だ。私たちは戦後、校庭に穴を掘って遺体を投げ込むようにして積んで3日3晩焼いていた。四日目からは同級生の親たちに頼まれて、建物疎開の動員先に同級生たちを捜しに行った。深い傷を負っても自分たちは生かされた命だと思って立ちあがってきたが、アメリカは動けるようになった病人をジープでABCCに連れて行き、丸裸にして検査だけして治療は一切しなかった。日本人のモルモット扱いはあの当時から変わっていない」と語り、今後の協力を申し出ていった。

 被爆者の生の声に真実 若い世代も衝撃 

 広島市内で働く20代の男性は、仙台市出身であることを明かし、「震災をめぐってマスコミの報道のデタラメさを嫌というほど感じている。当たり障りのない美談ばかりを報道して、現地の実際を伝えていない。本当に復興を願っているのは政府でもマスコミでもなく現地住民だ。この展示を見ても、実際に戦地に行ったり、被爆した人たちの生の声は、これまで教科書などを通じて知っていたこととはまるで違う。その声の中にこそ真実があると思う。政治によって引き起こされた人災は、必ず政治に返ってくることをわからせないといけない」と胸の内を語り、長周新聞の震災報道紙面に共感を示した。
 三菱重工の男性派遣社員は、「今の日本の姿は戦争中とよく似ている。原発政策も戦争政策も全部同じで、一部のもののもうけのためにすべてのことが進んでいき、チェック機能がまったくないまま暴走する。自分たちも放射線を使って医療機器を作る仕事をしているが、第三者がチェックをするのは当たり前のことだ。だが、原発では原子力安全保安院がいったことがそのまま法律になるようなデタラメな体質だ。これもすべて自分の利益に目がくらんだ結果だし、利潤追求ではなく、社会的に役立つかどうかでなければ、学問も科学技術も進歩しないということだ」とのべ、鎌倉孝夫著『資本主義の国家破綻』を買って帰った。
 アメリカ人美術家の婦人は、パネルに強い共感をあらわし、「広島と長崎に原爆について学びに来た。戦争がはじまる過程から描かれていることがすばらしい。本国でパネルを見せて賛同者を募り、展示パネルを購入して原爆展を開きたい」と思いをのべ、パネル冊子と英訳本を買い求めて再び訪れることを約束していった。
 全国から訪れる学生や親子連れが被爆者から体験を学ぶ光景も日増しに増えており、66年目の8月6日に向けてさらに熱気がこもる様相となっている。
 同展は7日までおこなわれ、5日の午後4時からは会場ロビーにて広島、長崎、下関の被爆者をはじめ、沖縄や東京など原爆展運動に携わってきた全国の人人が集って全国交流会が開かれる。

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