いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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無惨な殺戮繰り広げた米軍 東京大空襲から70年 中東空爆と重なる姿 

 太平洋戦争末期の1945年3月10日、米軍によって一夜にして10万人が焼き殺された東京大空襲から70年を迎えた。アメリカに抱えられた首相が、「邦人保護」や「集団的自衛権」を叫び、平和主義を覆して日本をふたたび武力参戦の道にひきずりこもうとしている今、そのアメリカがなにをし、どのようにして日本を占領したか鮮明にしなければならない。全民族的な規模で動員され、320万人もの犠牲者を強いられた第2次大戦の経験を語り継ぎ、二度と戦争をくり返させないために独立と平和の世論を全国的に巻き起こすことが求められている。

 一夜で焼き殺された10万人

  1941(昭和16)年の日米開戦以来、ミッドウェー海戦で日本海軍を壊滅させ、ガダルカナル島を攻略した米軍は、44年には日本の軍事要塞であったサイパンとテニアンを占領して太平洋上の制空権、制海権を握り、このマリアナ基地を拠点にすることで日本本土の空襲を可能とした。
 すでに日本の敗北は動かしがたい事実となり、7月には東条内閣は総辞職し、戦争終結は時間の問題であった。だが、天皇制政府は無謀な戦争をやめるのではなく、国内からは輸送船を丸腰で送り出しては米軍潜水艦の餌食としてことごとく撃沈させ、南の島では武器や食料の補給もせぬままとり残された兵隊たちは飢えと病気で死んでいき、戦没者を激増させていた。
 こうしたなかで、アメリカはB29による日本本土空襲を本格的に開始。3月10日の東京大空襲を皮切りに、大阪、名古屋などの大都市から中小都市あわせて67都市の市街地を焼き払う無差別殺戮を強行した。終戦までに全国200カ所以上が被災し、死者は100万人をこえた。
 日本本土への空襲は、1942年4月18日の空母艦載機13機による東京、横浜、名古屋、神戸への空爆に始まり、日本が制空権を失った1944年になると北九州、佐世保、諫早、大村、浜松、土浦、大阪など各地で頻発し始め、その標的は次第に民間住宅地へと変わっていった。アジアにおける植民地確保を狙うアメリカは、日本を単独で占領・統治する口実をつくるため、みずからの手で日本を制圧した格好をつくり出すこと、また占領後の反抗の芽を摘む必要から日本国民を老若男女問わず徹底的に痛めつける全土の絨毯爆撃へと乗りだし、東京大空襲はその最初にして最大の無差別殺戮となった。
 1945年3月10日未明、米軍B29325機の大編隊がマリアナ基地を飛び立ち東京へ接近。それに先立つ9日夜10時30分ごろ、2機のB29が上空を旋回して飛び去ったといわれる。発令された空襲警報はすぐに解除され、狭い防空壕の中でまんじりともせず身を潜めていた市民が安堵していた午前〇時過ぎ、寝込みを襲うように米軍による一斉爆撃が始まった。
 超低空飛行で東京湾上空から侵入した米軍は、まず隅田川を挟んで浅草、本所、深川、江戸川方面へ円を描くように焼夷弾を投下して炎の壁をつくって脱出を不可能にし、市民を中心部へとしぼり上げるように追い込みながら、その頭上に1800㌧もの高性能焼夷弾を雨のように浴びせた。
 使用されたM69油脂焼夷弾は、木と紙でできている日本家屋を想定してアメリカが開発した兵器で、空中で1発から37発に分化し、着弾と同時に爆発し、周囲数十㍍にわたってゼリー状のナパーム油脂をまき散らして一帯を火の海にする。水で消すことはできず、通常よりも長時間燃え続ける特徴があった。また、投下前には上空からガソリンが撒かれたといわれ、火の手は人人が飛び込んだ川面まで及んだ。
 木場地区などの材木の町から投下されたことで火炎は勢いを増し、1区あたり20~25万人が暮らす住宅密集地をわずか二分間隔で呑み込んでいったといわれる。火流は本所区(墨田区)を南北に縦断しながら、いくつもの運河に囲まれた江東区をまたたくまに包囲。さらに浅草区(台東区)、牛込区(新宿区)、下谷区(台東区)、日本橋区(中央区)、本郷区(文京区)、麹町区(千代田区)、芝区(港区)と次次に襲い、各地で燃え上がった炎が合流して大火流となり猛烈な火の粉を吹き上げながら「まるで生き物のように」木造家屋を次次と呑み込んでいった。その火勢は、幅200㍍の隅田川の両岸を繋ぐほどであった。
 空襲警報が発令されたのは爆弾投下から7分後であり、多くの市民が気付いたときにはすでに周囲は火の海となっていた。「市民の義務」とされていた防火義務にとらわれたり、日頃の訓練通り待避壕に逃げ込んだ人ほど脱出が遅れた。わずか半時間足らずで下町全域は火に呑まれ、周囲は火の壁に囲まれ、橋は落とされて逃げ場を奪われた市民が西へ東へと逃げ惑うなか、米軍は「電柱や屋根にぶつかりそうなほど」の超低空飛行をしながら、その市民めがけて無差別爆撃をくり返した。避難場所になった橋の上や川までが集中的に狙われ、その標的にされた多くは、逃げ遅れた女や子ども、年寄りなどの非戦斗員であった。累累と横たわる死体の中には、赤ちゃんや幼児をかばって焼かれた母親の姿が多く見られたという。
 さらに、強かった北北西の風が地上の大火災に煽られて、瞬間風速25~30㍍もの暴風を呼び起こし、「火は風を呼び、風が火を呼ぶ」という相乗効果で、市民を阿鼻叫喚の渦に叩き込んだ。激流となった火炎は地を這い、川をこえ、巻き込まれた人人は倒れ折り重なったまま焼かれ、男女の見分けもつかない焼死体の山がいたるところに築かれた。逃げ場所もなく、炎と煙のなかに響く肉親の断末魔の叫びは、生き残った人人の脳裏に焼き付いている。
 また、酸欠や煙に襲われて倒れたまま焼かれ炭になったり、逃げ込んだ川の中での溺死や凍死、あるいは立ち尽くしたままの窒息死も数多く、米軍の作戦は、まさに「1人も漏らさず殺し尽くす」文字通りの絶滅作戦であった。たった2時間あまりで東京下町はおびただしい死体と燃えさしが堆積する焦土と化し、東京は全面積の六割を焼失した。100万人が家や財産を失い、10万人をこえる人人が焼き殺された。隅田川には溺死体が浮かび、毎日のように肉親を探す人人が荒縄で引き上げ、引きとり手のない遺体が山と積まれ荼毘に付されていった。
 世界戦史上のどこをみても、わずか数時間で10万人以上が殺された例はない。後の広島・長崎への原爆投下とともに人類史上もっとも残虐な殺戮であり、終戦を目前にしながら無抵抗のまま焼き殺された人人の無念を忘れるわけにはいかない。

 勲章もらったルメイ 皇居だけは無傷だった

 この東京大空襲は、用意周到な爆撃計画にもとづいて実行された。爆撃目標を軍事施設ではなく、一般市民が密集する住宅地に定めたアメリカは、ドイツでの絨毯爆撃で「功績」をあげたカーチス・ルメイ少将を爆撃兵団司令官とし、過去に東京での火災が春先の強風が吹く時期に集中していることから、空襲決行日を陸軍記念日の3月10日に設定。
 最初に空爆目標地の外周の隅田川や荒川の堤防沿いに焼夷弾を落として炎の壁をつくって人人の退路を絶つこと、1平方㍍あたり3発という地上を舐めつくすように焼き払うことも米軍作戦任務報告書に記されている。この作戦は、その後の日本各地の都市空襲をはじめ、現在のイラク空爆でも応用されるなど、米軍空襲のモデルとなっている。
 戦後、司令官ルメイは、「われわれの攻撃目標が、一般市民への無差別爆撃ではなかったことは注目されなければならない」「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向いの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、すべてわれわれを攻撃する兵器工場になっていたのだ。これを攻撃してなにが悪いのか」と開き直って主張。
 また、「軍事的に引き起こされた死になんら新しいものはない。われわれは、広島と長崎で蒸発した人人を合わせたより多くの東京住民を、焼き焦がし、熱湯につけ、焼死させたのだ」と強弁しており、原爆投下と同様に、すべては「終戦のため」「正義のため」であることを強調してはばからなかった。
 だが、この都民10万人が焼き殺される大空襲にあって、戦争終結の権限をはじめ国の統帥権のいっさいを掌握する天皇がいる皇居は無傷であった。その他、政府関係者がいる永田町一帯をはじめ、カトリック系の病院など米軍が占領後に使う施設は攻撃目標から外された。国民にはバケツリレーなどによる防火演習を強要しながら、米軍機を迎え撃つ対空射撃や迎撃態勢がまったくとられず、米軍のなすがままであったことも疑問として語られている。
 この大空襲の1カ月前、天皇側近の近衛文麿は「敗戦は必至だが、米英は国体(天皇制)変革まではしない。恐れるべきは米英よりも国民による革命だ」と天皇に上奏しており、「空襲でやられた方が終戦にはむしろ都合がいい」と発言した記録もある。それは、敗戦後を見越して、みずからの地位を保護してくれるアメリカの占領に協力した方が得策という意味であり、国民を徹底的に痛めつけて反抗の芽を摘むという点で、アメリカと利害が一致していたことを示している。
 アメリカも天皇を「平和主義者」として戦後の統治に利用する目的からあえて攻撃せず、戦後その地位を保障した。日本全土の空爆を指揮したルメイは、戦後19年目に昭和天皇から勲一等旭日大綬章を与えられたことも、数百万死者の冒涜として激しい怒りを買っている。
 あれから70年を迎えるなか、日本全土を火の海にし、無差別殺戮を実行した同じ下手人が、今度は日本に鉄砲玉になることを要求し、支持率17%の首相がその尻馬に乗って憲法改定を叫び、若者だけでなく、再び国土が戦禍に巻き込まれることが現実味を帯びている。かつての凄惨な記憶を蘇らせ、日本を焦土と化した米軍空襲への新鮮な怒りを共有し、日本の独立と戦争阻止の民族的な大運動を巻き起こすことが、戦後70年にして抜き差しならない課題として迫られている。

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