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第15回長崎原爆と戦争展が開幕 被爆市民の資料提供相次ぎ重厚な内容に

 「被爆市民、戦争体験者の思いを若い世代、全国・世界に伝えよう!」をスローガンに長崎市民会館で26日、第15回長崎「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる長崎の会、同広島の会、下関原爆被害者の会)が開幕した。これまでに約200人の賛同協力者をはじめ市民の協力を得て、市内全域で宣伝活動が進められ、被爆・終戦から74年目を迎える被爆地の世論を若い世代や全国に発信する場として期待を集めてきた。長崎市民の脳裏に焼き付いた凄惨な体験を次世代に継承する切実な思いを束ねながら開幕を迎えた。

 

 会場には、「第二次大戦の真実」「語れなかった東京大空襲の真実」「沖縄戦の真実」「原爆と峠三吉の詩」など約150点のパネルをはじめ、広島、長崎市民から提供された体験記や戦時中の生活用品、被爆資料、絵画など200点もの資料が一堂に会している。

 

 とくに長崎市内の被爆者たちがみずからの体験を描いた原爆の絵が大きなスペースに展示され、被爆者の脳裏から離れることのない被爆後の惨状が迫力をもって見る者に迫ってくる。

 

 そのうち16歳で被爆した川口和男氏(享年90歳)は、同展に自作の絵8点を提供した後、今月15日に腎臓ガン手術のために入院していた病院で逝去したことから、同展が初の遺作展となった。長年にわたり原爆展賛同者であった川口氏は、17年間にわたって被爆当時の絵を描き続けており、「正義の名のもとに核使用まで正当化する風潮のもとで危うい時代になり、私たち被爆者がいなくなった後に核兵器が肯定される時代がこないとも限らない。7万4000人もの長崎市民が一瞬にして焼き殺された事実をなかったことにしてはならない」と語り、みずから絵の提供を申し出て、入院前に選んだ絵8点を提供した。

 

 食料不足でイワシや乾パンが主な食料だった戦時中の家庭の食卓の様子や、米軍機が5回にわたって爆撃に来た長崎空襲、学徒動員先の川南造船所で見た巨大な原子雲などに続き、爆心地の松山町で家屋ごと燃えた家族の骨が積み重なっている様子や、防火水槽の横に立ったまま死んでいる黒焦げの兵隊などが鮮明な記憶に基づいて描かれており、原爆がいかに無残に市民の生命を奪ったかを強烈に伝えている。被爆者が次世代に遺したメッセージがこもる展示となっている。

 

川口氏の遺作となった絵の展示

 関係者による開会式が26日午前10時からおこなわれた。はじめに、原爆展を成功させる長崎の会顧問の永田良幸氏(86歳)が挨拶に立ち、「終戦直前、日本の敗戦は決まっていたにもかかわらず、アメリカは広島と長崎にウランとプルトニウムという違う型の原爆を投下した。これは実験としかいいようのないものだ。ウラニウムは自然界から採掘できるが、プルトニウムは人間の科学でしかつくり出せない。この威力を知ったものたちが原爆をつくり、女や子どもを含む十数万人もの罪のない人たちが犠牲になったのだ。防空壕の中にも死臭が立ち込め、目玉が飛び出した人もいた」とのべた。

 

 さらに、「当時、私は12歳で城山小学校に通っていた。前日から続いていた空襲警報、警戒警報がやっと解除され、みんなが安心したときを見計らってアメリカは原爆を落とした。家の2階で洗濯物を干していた母は全身が焼けただれた。城山小学校に避難し、母を戸板に乗せて浦上駅前まで担いでいき、消防団の助けを借りて長崎大学病院の焼け跡に連れて行った。そこで軍医からヤケドで溶けた母の体にチンク油を塗ってもらった。当時は、ヤケドをしたら水は飲ませるな、早く死ぬといわれていたので飲ませなかった。どうせ死ぬなら腹一杯飲ませて死んでもらいたかった。私が卵を探してきて空き缶でゆで卵にして食べさせてあげようとしたが、食べてくれなかった。母もそのときから死を意識していたと思う。城山からおじさんを連れてきたときに母は息絶えていた。母は一生懸命うわごとをいっていたようだ。母が息を引きとるまでに間に合わなかった」と涙ながらに語った。

 

 「翌日、母は大学病院の裏庭で材木と人間を交互に30体くらい重ねて焼かれ、誰のものかも分からない骨を拾った。身内が死ぬということはほんとうに苦しいことだ。このような無駄な戦争をしないような世界をみなさんでつくってほしい。戦争をするとまず女、子どもから死んでいく。これだけひどい爆弾を落とされても、その恐ろしさを知らない人はまだまだたくさんいる。長崎や広島ではみなさんの努力のおかげで引き継がれている。下関のみなさんのご支援に感謝したい。ぜひ力をあわせて本当のことを知らせてほしい」と呼びかけた。

 

 共催の原爆展を成功させる広島の会の眞木淳治会長代行、下関原爆被害者の会大松妙子会長のメッセージが代読された。

 

 眞木氏は「日本の国は、国連での核兵器禁止条約の調印に反対したことに始まり、最近ではイージス・アショアの設置強行、アメリカの戦闘機の大量購入など軍備増強をはかり、自衛隊と米海兵隊の共同の軍事訓練実施など、次次と戦争の準備をしており、たいへん心配している。どんなことがあっても絶対に戦争をしてはならない。この思いと願いを日本中に、全世界に発信していくことがわれわれの大切な責務だ。今こそ志を同じくする若い人人と力を合わせて、このとりくみを必ず成功させよう」と連帯の言葉をのべた。

 

 大松氏も、下関市内で修学旅行の事前学習として小学校での被爆体験証言の活動が始まっていることを伝え、「子どもだけでなく、父兄や先生方が熱心に耳を傾けてくれる。生かされたものの使命として頑張りましょう」と思いを伝えた。

 

 長崎市内の賛同者を代表して、被爆二世の女性は「被爆した両親が10年前に亡くなった。とくに母は原爆のことはほとんど話さなかったが、認知症になってから被爆当時に救護をしたときの臭いや足をつかまれた経験などを語り始め、亡くなる最後まで原爆のことを強く語っていた。だからこそ私も二世として、母が伝えようとしたことを次の世代に伝えるために頑張ろうと思う」と決意をのべた。

 

開幕式

 

 会場では、長崎の会の被爆者や戦争体験者たちが待機し、訪れた参観者に体験を語っている。毎年開催を心待ちにしている被爆者や賛同者が訪れるとともに、大学生や高校生、被爆二世、現役世代の会社員や旅行者など若い世代の参観が目立っており、被爆者が減少するなかで次世代としての使命感をもって会場を訪れている。

 

 瓊浦中学(現在の長崎西高)を卒業後、16歳で三菱兵器工場に動員されていた男性は、爆心地から1・1㌔の大橋工場(現在の長崎大学付近)で被爆したことを明かした。「当時は、鉄の棒を切ってボルトをつくる作業をしていたが、働いているのはほとんど学徒動員の中学生や女学生ばかりだった。作業中に大きなベルトを機械に巻き付けようとしていたときに大きな衝撃があり、そのときは自分がミスをしたかと思った。工場の分厚いガラスが割れて吹き飛び、顔から腕まで左半身に突き刺さって全身血だらけになった」とのべ、顔や腕に残るなまなましい傷痕を見せた。腕の皮膚は白く変色し、頬に残る傷は凹み、当時の傷の深さを物語る。

 

 「外へ出て大学病院まで避難しようとしたが、道は家屋の塀や屋根が崩れ、どの方角に病院があるか見当もつかないほど街はめちゃくちゃだった。傷口に当てていたタオルは真っ赤に染まり、そのタオルを放すと腕や首から血が噴き出し、救護の迎えが来たときには出血多量で自力で動くこともできない状態だった。諫早に避難して看病を受けたおかげで今もこうして元気でいられる。顎から出てきたガラス片は今もとってある。同級生の多くが死んでいる。私も90歳になるが、もう少し頑張って少しでも経験を伝えていきたい」と語り、賛同者に加わった。

 

 70代の女性は、「叔母が当時20歳で城山小の代用教員をしていた。旧校舎から新校舎に書籍を運び込む作業をしており、渡り廊下を通り鉄筋コンクリートの新校舎に入った瞬間に原爆が落ちたという。生徒や同僚も大勢亡くなったが、叔母は頑丈な新校舎にいたため助かった。城栄町にある実家に急いで帰ると、家のまわりに弟や妹たちがみな倒れており、家族はみな亡くなっていた。叔母は2年ほど前まではいっさい被爆のことを話そうとはしなかったが、最近になって急に自分の体験を私たちに話すようになった。叔母の思いや見てきた惨状と展示の内容が重なって涙が出るほど苦しくなった。高齢になってもう命が短いという被爆者が大勢いると思う。被爆体験やその事実を知る機会が少なくなるなかで、内容も充実しているし、体験者の思いが伝わる展示だった。こういう場に子どもたちが足を運ぶようにしたい。市や学校が平和学習の一環として伝える姿勢を強めなければと危機感が強くなった」とのべた。

 

 友人とともに訪れた70代の女性は「2歳のときに被爆し、母の背に負われて西山の防空壕に連れて行かれたと聞いている。父は大学病院に入院していたけど退院してから被爆し、どす黒い血を吐いて故郷の五島に帰った後すぐに亡くなった。母が苦労して6人の子どもを育てたことを思うと、原爆が憎いという気持ちは消えない。東大出身の国会議員が戦争で北方領土をとり返すなどといっていたが、あんな政治家に任せていたら大変な目にあう。この事実を日本中に拡散してほしい」と願いを語った。

 

 郷土史家の男性は「アメリカにこれだけのことをされながら賠償請求もせず、今もアメリカのいいなりが続いている。大量の戦闘機やミサイルなど、これからの日本には必要のないものだ。沖縄では戦争体験の継承に行政をあげて力を入れているが、長崎でももっと被爆地としての教育や遺構の保存をとりくむべきだ」と語気を強めた。

 

 観光業に携わる30代の女性は、「どうやって戦争が始まり、どうやって戦争が終わらされたのか、そして今にどう繋がっているかがよく分かる展示の構成だった。戦争に負けた日本において現代に至るまでに起きた出来事はすべてアメリカのコントロール下で起きているという背景に目を向けさせられた。戦争責任者の天皇を象徴として残したり、皇居や財閥だけは空襲しなかったり、軍需工場だった三菱にも手を付けなかったのがアメリカのやり方だった。安保法制や集団的自衛権、米軍基地の問題など、そのときに一時的に話題になったとしても、自分自身この展示を見るまでは意識の中から消えていた。こうして重要なことが忘れられ、また戦争に向かう空気だけが強まっていくことをよく考え、長崎県民としては戦う意志を持たないといけないと思う。そういう意味では現在まで戦争が続いている」とのべ、長崎を訪れる外国人に伝えたいと賛同者になった。

 

 長崎市内の30代の男性は「父方の祖父母、曾祖母も被爆者なので、気になって見に来た。年金が払えないから2000万円貯めておけといいながら、批判を受けたら引っ込める麻生財務大臣などの言動を見ていても政治を信用できない。私も専門学校を卒業して転職をくり返してきたが、このままでは本当に戦争に向かうのではないかと思う」と問題意識をのべた。

 

 報道関係者や会社員など現役世代も多く訪れ、「満州事変から戦後に至るまで戦争を多角的に学べる展示だ。被爆者が減少するなかで、その思いを汲み上げていくことの大切さを教えられた」「親が被爆者だがほとんど話を聞くことなく他界していった。二世としての責任を感じており、自分も伝える側にならなければいけない」と協力を申し出ていった。

 

 長崎「原爆と戦争展」は7月1日(月)まで。6月30日(日)には、広島や下関の被爆者、学生などを迎えて交流会がおこなわれる。

 

被爆者から体験を聞く学生

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