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狙撃兵 オバマが叫ぶ「核なき世界」の欺瞞

 米国大統領のオバマがサミット終了後の27日に被爆地の広島を訪れることが決まり「米国大統領として初の訪問」と各紙が持ち上げている。何がそんなに嬉しいのだろうかと思うような媒体まである。来たいというのなら、それが大統領であれ何であれ来ればいい。しかし、謝罪はしないと釘を刺したうえで被爆地にやってくる。何のためにやってくるのかというと、プラハ演説で「核なき世界」を叫んでノーベル賞を受賞したオバマが、残り1年と任期が迫ったなかでレガシー(業績)をつくるために政治パフォーマンスをやりたいからである。被爆地で「核廃絶」を叫んだ米国大統領になりたいというものだ。
 人類史上もっとも凶悪な兵器である原子爆弾を生身の人間に投げつけたのは、後にも先にも米国だけである。その原子雲の下で、広島、長崎の数十万人もの非戦闘員である老若男女がもがき、苦しみ、親兄弟を奪われ、まさに人間が、無抵抗の女子どもも含めた人間が虫けらのように殺された。このような兵器をつくり、それを使用することは、いかなる名目をつけようと人類の名において許すことなどできない。
 ところが戦後の世界では「日本の軍国主義を叩き、戦争を早く終わらせるためだった」「おかげで日本も米国も多数の生命が救われた」などといって、このおぞましい戦争犯罪が糾弾されることもなく、欺瞞的な「通説」によって正当化されてきた。71年前に帝国主義国同士が植民地再分割の血なまぐさい戦争をやり、そのもとで各国で何の罪もない人民大衆が膨大な犠牲を払ったが、米国の大量殺戮は良しとするものだった。しかも原爆によって殺されたのは天皇制軍国主義の戦犯どもではなく、戦禍に投げ込まれてたいへんな思いをしていた一般の国民であった。当の戦争犯罪人たちは「国体護持」の望みをアメリカにかなえてもらい、民族としての主権を投げ出して対米従属の軍門に降ることで戦後の地位を固め、そのなれの果てが今日の日本の姿となった。従って、原爆投下について日本政府としては一度も抗議した試しがなく、米国政府も謝罪をしたことがない。
 オバマが謝罪したからといって亡くなった命は返ってこないが、犠牲となった無辜の命に対して、被爆地を訪問するのに頭を垂れるのを拒否するというのは、「なぜオマエたちに謝らなければならないのか」が本音であることをあらわしている。それでどのような「核なき世界」を展望するというのだろうか。原子爆弾が生み出した犠牲への反省がない者が叫ぶ核廃絶など、欺瞞以外のなにものでもない。
 オバマが叫ぶ「核なき世界」とは、米国以外の国が核兵器を持つことはまかりならないというものだ。現実には、世界でもっとも大量の核兵器を保有しているのが米国で、NPT(核拡散防止条約)再検討の署名すら拒否している。戦後七一年にわたって、世界中で殺戮をくり返してきたのも米国である。この二重基準、欺瞞こそ暴かれなければならない。
 人類史上で唯一原爆を投げつけられた国に生きる者として、私たちは「核なき世界」を心から望んでいる。二度と広島、長崎のような惨劇をくり返してはならないという被爆者の叫びを、幾世代にもわたって引き継ぐことが求められている。戦争を引き起こそうとする者、原爆を投げつける者とのたたかいなしに「核なき世界」は実現しない。   吉田充春

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