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史上初のあからさまに政府批判を禁じる法律 中央大学法学部教授・橋本基弘 国旗損壊罪めぐる参考人質疑より

(2026年7月17日付掲載)

「国旗損壊罪」法案の採決で賛成の挙手をする自民、維新、国民、参政の議員ら(16日、参院内閣委)

 自民、維新、国民民主、参政の4党が共同提出した「国旗損壊罪」法案は16日に参院内閣委員会で採択され、17日の参院本会議で可決成立した。だが、14日の参院内閣委員会では、木下昌彦・神戸大学大学院教授(憲法学)、橋本基弘・中央大学教授(憲法学)、伊藤俊幸・金沢工業大学大学院教授(元海将、安全保障論)が参考人招致され、木下、橋本両教授は同法案の違憲性を明確に指摘した。橋本教授は、この法案がおよそ刑罰法規として耐えうる代物ですらなく、「日本国憲法の歴史上初めて、あからさまに政府批判を禁止する法律」であると痛烈に指弾。木下教授は、憲法が保障する「表現の自由」への重大な侵害であり、憲法法理を解体する「最初の契機」となる危険性が高いと厳しく批判した。国政の現在地を示すものとして、両教授の意見陳述の内容と議員との質疑応答、さらに子どもへの影響をめぐるれいわ新選組の伊勢崎賢治議員の質問(いずれも要旨)を紹介する。

 

◇◇    ◇◇

 

史上初のあからさまに政府批判を禁じる法律

 

        中央大学法学部教授 橋本基弘

 

橋本基弘教授

 国旗損壊等の処罰に関する法律案(以下、本法律案)は、次の二つの点で非常に異常な法律案である。

 

 第一に、本法律案は国家や政府に対する批判を禁止するものである点。


 第二に、明確な立法事実(法律を作る必要性や合理性を裏付ける事実)が存在しないにもかかわらず、制定されようとしている点。

 

 本法律案は、日本国憲法のもとで培われてきた曲がりなりにも自由な社会(戦後体制)を葬ろうとする点で、日本社会を大きく変容させようとすることを意味する。以下、憲法31条と21条1項の観点から意見をのべる。

 

刑罰に必要な条件欠落

 

 第一に、本法律案は刑罰に必要な条件を欠いている。法学部に入学すると、比較的早い段階で「罪刑法定主義」という考え方を教わる。これは、何が犯罪であり、それに対してどのような刑罰が科されるかが前もって法律で明確に定められていなければ、罪に問うことができないという原則であり、近代の「法の支配」の基礎であり、常識ともいえる考え方だ。本法律案は、この罪刑法定主義と真っ向から対立する。

 

 具体的に見る。本法律案の第2条1項には、処罰の対象となる行為が次のように定められている。「人に著しく不快または嫌悪の情を催させるような方法により、公然と国旗を損壊し、除去し、または汚損したものは、2年以下の拘禁刑または20万円以下の罰金に処する」。そして2項では、この方法に該当するかどうかを「行為の外形、周囲の状況、その他客観的な事情を総合的に勘案しておこなうものとする」と定めている。

 

 罪刑法定主義は、日本国憲法31条によって保障されているというのが通説的解釈だ。何が犯罪なのかが前もって明確に定められていなければ、刑罰はおのずと「後出しジャンケン」になる。

 

 本法律案は、何がこの方法に該当するかを、行為がおこなわれた後に判断することにしている。「やってみなければわからない」という刑罰法規を私は他に見たことがない。そもそも「人に著しく不快または嫌悪の情を催させる」とは、誰が何をもとに判断するのか。「客観的な事情を総合的に勘案する」(第2項)ということは、その判断者次第でこの認定が変わることも意味している。

 

 「そもそも国旗を焼かなければいいのだ」という意見もあるだろう。しかしそれは、罪刑法定主義の問題とはまったく関係がない。刑罰法規とするに耐え得るかどうかが問題だ。予測可能性も客観性もない刑罰は、おそらく日本の法制史上存在しない。

 

「法の支配」の全面的否定

 

 本法律案は、「人に著しく不快または嫌悪の情を催させるような方法により、公然と国旗を損壊、除去、または汚損したもの」を処罰対象としているが、「損壊」「除去」「汚損」は具体的にどのような行為を指すのか。この文言は、外国国章損壊罪(刑法92条)に倣ったものだが、外国の国旗を損壊する場面と自国の国旗を損壊する場面は同じではない。これらについてもまったくといっていいほど議論が詰められた形跡がなく、あまりに安易だ。

 

 だからこそ本法律案は実にふわっとした刑罰にとどまっている。さらに、「人に著しく不快または嫌悪の情を催させる方法」とはどういうものを指すのか? 著しく不快・嫌悪を感じるこの「人」とは一体誰なのか? 感じ方や感覚だけで人を処罰することの怖さは、人々に表現を萎縮させ、結果的に憲法21条2項が禁止する「検閲」に近い効果を持つといわざるを得ない。

 

 一例を挙げる。公衆の面前で一言も発することなく、自分が作った国旗にライターで火をつける行為は、「人に著しく不快または嫌悪の情を催させる方法」に該当するか? これを不快に思う人もいれば、逆にシンパシーを感じる人もいるはずだ。このように極めて主観性の強い要素を構成要件に組み込むこと自体、相当に無理があることを理解すべきだろう。

 

 このような法律案は、近代国家の「イロハのイ」ともいえる罪刑法定主義をまったく満たしていない、極めて珍しい法律だ。これでは処罰の根拠にはならない。「後出しジャンケン」的な解釈による適用を許すような刑罰法規は、「法の支配」の全面的な否定を意味する。むしろ恣意的に自在に運用できる法律を作りたかったのかもしれないという邪推さえ生まれる。

 

 刑罰の明確性について、徳島市公安条例事件最高裁大法廷判決(昭和50年9月10日)は次のようにのべている。

 

 「ある刑罰法規が曖昧、不明確の故に憲法31条に違反するものと認めるべきかどうかは、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場面に当該行為がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準が読み取れるかどうかによって、これを決定すべきである」

 

 本法律案はこの法理にも反する。条文自体からは何が対象となるか読みとれない。具体的な判断はすべて後回しにしている。「やってみなければわからない」「後出しジャンケン」の典型だ。

 

 結果として、一切の国旗損壊行為を処罰するとすれば、構成要件は明確になるだろう。しかしそれでは、表現の自由に対する過度な制約となって憲法に違反する。そこで「人に著しく不快または嫌悪の情を催させるような方法」に限定して制約することにした。しかし、そうすることで逆に構成要件が曖昧になり、同じく憲法違反となる。これほどまでに無理のある法律を今ここで作らなければならない理由は私には理解できない。

 

強力な政府批判が処罰対象に

 

 「表現の自由」についての論点に触れる。

 

 そもそも国旗とはどういうものか。国家そのものを見たり、触れたり、感知することはできない。国家は観念の想像物だからだ。それゆえ国家を実際に感知できるようにするため、旗が作られ、歌が歌われる。国旗は国家を可視化するために用いられるシンボルだ。国旗や国歌は国民を統合し、アイデンティティを作り出し、国民意識を醸成する。

 

 では、国旗を損壊する行為とはどういう行為か。それは、国旗がシンボルであるがゆえに、国家に対する最も強烈な批判になる。長い歴史のなかで人々は、国家の抑圧に抗議し、植民地政策を排撃し、少数者への差別を糾弾するため、国旗を損壊してきた。国旗損壊行為は、国旗が国家を表象しているがゆえに国家への最も強力な抗議のメッセージになる。

 

 よく考えてほしい。政府を礼賛し、国家を称えるために、人は国旗を損壊しない。したがって、国旗損壊行為を処罰することは、国家や政府に対する最も強力な批判を禁止することを意味する。本法律案の条文をどのように工夫しようとも、その本質において、国旗損壊罪は、特定のメッセージ、それも最も強力な政府批判を処罰することになる点を忘れてはならない。

 

 日本国憲法の歴史上初めて、あからさまに「政府批判を禁止する法律」ができようとしていることに、私たちは目を向けなければならない。

 

 本法律案を「表現の方法を規制するに過ぎない」という人がいる。それは間違いだ。国旗を損壊する行為自体に強烈なメッセージが込められている以上、「表現の方法を規制する」という外形に惑わされてはならない。これは、たとえば「音量を下げてくれ」とか「この場所でやらないでくれ」という規制ではない。

 

 かつて合衆国最高裁判所は、星条旗損壊行為を処罰する法律を二度にわたり「違憲」と判断した。合衆国最高裁は、政治的な星条旗損壊行為は「メッセージを伝達する行為」であり、これらの法律は、処罰される行為の「情報伝達の要素」を理由とする規制である以上、最も厳格な審査に服すると判示した。国旗を損壊する行為が表現行為であるということは、たとえその対象が日章旗であろうと星条旗であろうと変わらない。

 

 国旗損壊行為の処罰は、「表現の内容」を理由とする処罰である。また、構成要件の曖昧さから運用が恣意的にならざるを得ず、特定の団体の特定の意見・見解だけを狙い撃ちにできる点も指摘しておく。

 

保護法益の設定が不当

 

 本法律案は、「国旗を大切に思う国民感情」を保護法益(法律によって守られるべき利益や価値)に設定している。しかし、これまで国民感情そのものを保護法益にして表現規制を正当化した例はない。わいせつ物頒布等にしても、人類の長い歴史のなかで形成されてきた「善良な風俗」などの諸々の法益を保護するものであって、単に感情を理由に表現を規制しようとするものではない。

 

 また、「国旗を大切に思う国民感情」を守るためにこれほど重い刑罰は必要だろうか? むしろ今後「政府批判は許さない」という意志の表れともとれる。

 

 「表現の自由であっても絶対的な自由ではなく、公共の福祉による制約に服するはずだ」という意見も確かにある。だが、今の判例理論はその「公共の福祉」の中身、すなわち制約の目的と制約の方法、比例原則といったものを丹念に吟味することによって、その制約の合憲性を判断するものだ。立法府において、そのような丹念な検討がおこなわれたか? 保護法益の実質性や制約の妥当性、比例原則などの議論が丁寧におこなわれた形跡はない。

 

立法府の権威を損なう

 

 わが国において、国旗損壊が大きな社会問題となっている事実を私は知らない。確かに国旗損壊行為を処罰する規定を置いている国はあるが、それぞれの国独自の立法事実があるからこそ、その規定ができている。

 

 本法律案の立法事実は何か? それが明確に把握されないからこそ、このような曖昧かつ不必要な「表現規制」が提案されているのではないか。

 

 本法律案は刑罰法規の提案であるため、「やってみてから考えよう」は絶対に許されない。社会的な必要性もなく、「作りたいから作るのだ」という姿勢は、残念ながら唯一の立法機関である国会の権威を損なう。本法律案は「法令違憲」であるといわざるを得ない。

 

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・政治的言論の規制であり、憲法法理の解体につながる 神戸大学大学院法学研究科教授・木下昌彦(別掲)

 

参院内閣委員会に招致された参考人ら。左から、橋本教授、木下教授、伊藤教授(14日)

■ 議員との質疑応答より(抜粋) ■

 

 質問 本法案は議員立法であり、国民的議論もなく、かなりのスピード感で法制化に向かっている。それを「国旗を大切にする」「国民の分断を防ぐ」という目的に照らしてどう感じるか?

 

 橋本参考人 「国旗を大切に思う国民感情」は一人一人の心の中の問題であり強制は馴染まない。「国民の分断を防ぐため」という話もあったが、むしろ逆に国旗への敬意を強制することが分断を生んでいる例もある。どういう効果を生むのかを測定して議論されるべきだ。しかも「国旗を大切に思う国民感情を醸成する」というのも、私たちが国旗を大切に思っていないことが前提になっている。保護法益の検出自体がおかしい。

 

 木下参考人 本法案によって国民の国旗への愛着が高まるのかといえば疑問がある。立法事実がないということは、裏を返せば本法案のようなものがなくても人々は国旗にある程度の愛着なり認識を持っていたということだ。むしろ本法案ができることによって国旗に対する否定的なイメージがまた一つ加わってしまうことにならないか。日本は戦後、平和主義を掲げて発展してきたが、そこで積み重ねてきたものをまた一から議論しなければならなくなる。国旗を愛するという立場から見ても本法案は逆効果である。

 

 「分断を防ぐ」という観点からみても、本法案が提出されていること自体、すでに国民の間に分断を生んでいる。本法案の提出前は、国旗損壊罪を設けるか否かといった議論は国民のなかにはほとんどなかった。本法案提出後に国民の間で、国旗損壊罪に賛成か、反対か、お前は国旗を愛するか、愛せないかという議論が起きている。

 

 このように国民のなかに分断を生みかねない法律であるからこそ、通常の刑法改正のように、法務省の法制審議会に諮り、さまざまな専門家の知見、各国の法制度や法体系的な整合性を踏まえ、内閣法制局の審査を経て立案されるべきものだと思うが、今回はそれらをすべて吹っ飛ばしている。だから必然的に問題が生じてくるし、違憲性の可能性も高まるのではないか。

 

 質問 わが党が本法案を共同提出する契機となったのは、先の選挙において街頭演説の会場で国旗にバツを付けて掲げられたからだ。現場にいた人や動画中継へのコメントでも「心証を傷つけられた」という声が多く寄せられた。これは立法事実には当たらないか?

 

 橋本参考人 それがまさに本法律案の最大の問題だ。国旗にバツを付けたらいけないのなら、マルならいいのか? それを誰が決めるのか? それがまったく不明確だ。ただ単にバツを付けたり、中心をくり抜くことだけで処罰されるなら、恐ろしくて日の丸は掲揚できなくなる。そこに過剰に反応することこそが、逆に過剰な反応を引き起こすのだ。国旗にバツを付けられて非常に不快な思いをしたということが立法事実であるなら、どんなものだって規制できてしまう。そんなことがこの法律の必要性や合理性を支える立法事実といえるのか。「嫌だな」「不快だな」ということだけで表現が規制されることの怖さの方が重視されるべきではないか。

 

憲法改定と同じ意味持つ

 

 質問 憲法の規定に抵触する可能性が高く、しかも刑法にかかわる重要な法改正であり、法制審などで専門家の検討を経て法制化されるべきものが議員立法でおこなわれている。これは刑法知識もその蓄積もない一部の政治家が憲法法理を壊すものではないか?

 

 木下参考人 これまでの判例を元に考えれば、私が知る現役の憲法学者のほぼ全員が本法案を違憲だと考えている。逆にこれが合憲ということになれば、われわれが授業で教えている憲法とまったく異なる憲法を教えなければならなくなる。これほど立法事実も、構成要件も、保護法益も曖昧なものであっても「表現の自由」を規制してもいいと教えなければならなくなる。教える憲法の内容が100%変わる。その意味で憲法改正と同じ意味があると申し上げた。

 

 国旗を大切に思っている人が多いのも事実であり「なぜ反対するんだ?」という声もあるかもしれないが、まさに誰も反対ができなさそうなものが作られ、それが蟻の一穴となって、次から次へと広がっていく。それに歯止めをかけようとしても、これだけの曖昧な法律が立法できたという前例が踏襲されて合憲解釈が変化していく。そのように憲法法理が解体されていくことになる。

 

子どもへの影響について

 

 伊勢崎 子どもの観点から議論したい。わが国は「子どもの権利条約」を批准している。1994年のことであり、世界全体で158番目というたいへんな遅さだが、当時私も批准に関わった。日本はいくつかの条項に解釈宣言を付したものの、同条約第13条の「表現の自由」、第14条の「思想、良心及び宗教の自由」については、いかなる留保も解釈宣言もおこなうことなく、全面的に批准している。

 

 とくに第14条があえて「良心」の自由を明記している点は、特定の政治思想や宗教を持つに至っていない子どもであっても、みずからの内なる道徳的直感や確信(良心)を国家から侵害されてはならないという、絶対的な「内心の自由」の保障を意味するものと理解している。世界もそう理解しているからこそ「良心」をわざわざ入れている。

 

 この観点から、私がとくに重要だと考えるのが「教育(指導)」と「強制」の厳格な区別だ。親や学校が子どもに対し、「親を大切にしなさいね」「国旗を大切に扱いなさいね」と教え導くことは、子どもの権利条約第14条2項が認める「指導」の範囲内だ。しかし、親に逆らった子どもを法律で処罰することが許されないのと同様に、国旗への敬意を払わなかった子どもに対して刑事罰を科すことは、教育の範疇をはるかに超えた「良心の強制」にほかならない。

 

 さらに現代のSNS社会においては、子どもたちが政治的な意図などまったくなく、単なる「悪ふざけ」や承認欲求から、国旗を不適切に扱う動画を投稿してしまう――これは十分に起こり得る極めて現実的なケースだ。

 

 本法案には年齢による除外規定がない。14歳以上であれば刑事処分の対象となり、14歳未満であっても警察や児童相談所への通報・調査の対象となりかねない。一度ネット上に拡散されれば、その子どもは「国家の犯罪者」として特定され、凄惨な「デジタル・リンチ」に晒され、その将来が一瞬にして奪われる危険性がある。

 

 以上を踏まえて、木下参考人には、本法案が子どもの「良心の自由」および「表現の自由」に与える影響について、憲法学の見地からご見解を。

 

 橋本参考人には、「教育と強制の区別(境界)」という観点から、本法案が子どもの権利条約第3条の定める「児童の最善の利益」と整合するかどうか、ご見解を伺う。

 

 木下参考人 本法案は国民が持つ表現の自由に対する制限であり、当然子どもが持つ表現の自由に対する制限になると考える。教育上の観点からいえば、民主主義のなかでの国民、市民になるという教育が重要だと思うが、社会に生きていれば、それぞれ各人にとって不快なものは必ずある。それが不快だからといって、多数派が不快なものをどんどん抑圧していってもよいという姿を子どもに見せていくことが、今後の民主主義の発展、そして民主主義を担う子どもにとって適切なのかということが最大の問題だ。

 

 不快な言論があったとしても、それを力で抑制して減らすのではなく、モア・スピーチ――対抗言論によって「それはダメなんだよ」ということこそが民主主義を維持するために大切なことだと思う。今後の民主主義を担う子どもへの教育という観点から見て、本法案のような社会の作り方を大人たちが子どもに見せていいのかということには甚だ疑問がある。

 

 橋本参考人 「教育」と「強制」との区別という非常に難しい問題だが、かつて最高裁判所は「旭川学力テスト判決」のなかで、国家が教育に介入してよいかどうかの一つの線引きとして「子どもが一個の人格として成長することを妨げるかどうか」という点を挙げた。

 

 国旗損壊に関する法律というものができ、その保護法益が「国旗を大切にする国民感情」であるということが一人歩きする危険性は考えておかなければいけない。教育の現場で、かつて国旗国歌法がそうであったように、それが一つの契機となって一種の強制が教育現場でおこなわれる危険性は考えておかなければいけないと思っている。

 

 それが教育の本来の目的である自己認識とか自己省察、また物事を批判的に捉えていく能力の涵養、社会生活における自己のポジショニングみたいなものについて、強制的に一方的な考え方を植え付けていく契機になる恐れを懸念している。

 

 伊勢崎 法案提出者におかれては、この「良心の自由」を改めて認識していただきたい。「子どもの権利条約」を日本に批准させることは、血の結晶だった。考慮していただきたい。

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