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蒙古襲来が起源 730年の歴史を持つ豊北町の浜出祭

土井ヶ浜祭場に向かう行列(4月1日)

 

 下関市豊北町で1日、7年に一度の大祭である浜出祭がとりおこなわれた。蒙古襲来が源流となっているといわれるこの浜出祭は、鎌倉時代から約730年以上にわたって連綿と受け継がれてきたもので、山口県の無形民俗文化財にも指定されている。

 

 浜出祭挙行の中心となる田耕地区と神玉地区では、数年前から地区住民たちがこの日のために準備をおこなってきた。地域の人口減少が急速に進んでいる豊北町だが、伝統あるこの祭りを引き継いでいこうと住民や地区出身者たちが一丸となってとりくみ、晴天のもと大勢の観客や住民で賑わった。

 

 午前9時に田耕神社(田耕)と神功皇后神社(神玉)から花神子を中心にした武者行列が出発した。中間点となる神田口堀切では、二つの行列と直子の山田佐平治組が合流して出合儀礼がおこなわれた。三隊は一つの行列となって土井ヶ浜を目指し、土井ヶ浜では大勢の観客が見守るなかで、「鰤切り」をはじめとした浜出祭神事をおこなった。

 

 鎮魂、平和、繁栄を願う浜出祭のルーツは蒙古襲来(元寇)とされる。日本に元が攻めてきたのは文永11(1274)年と弘安4(1281)年で、それぞれ「文永の役」「弘安の役」というが、このとき豊北町でも元軍と日本軍(長門探題軍など)による大激戦があった。

 

 豊北町で元寇があったのは弘安4年6月5~8日ごろ。同年5月3日に朝鮮の合浦を出た軍艦900隻が5日~21日にかけて対馬を襲ったあと、そのうちの300隻(1万2000~1万3000人と思われる)の元軍が土井ヶ浜に来襲し、二手に分かれて進軍した。一方は岡林、波原、下田、根崎で日本軍を突破して神田口まで進むが、日本軍は神田口で切り通し(堀切)をつくって元軍を迎撃し、大激戦となる。一方、荒田から肥中街道の鳴滝、堀越を東上した別働隊は蓑越峠の堀切で待ち伏せした日本軍を撃破し、滝部に殺到した。元軍と日本軍は、滝部・田耕の各地で激戦をくり広げながら奥地へと進んだが、日本軍のほうが押されており、敗北かと思われたときに鎌倉有力御家人安達の輩下・大曽禰軍団が駆けつけ、間一髪で日本軍が勝利したという。その後も、弘安の役のあとに再度土井ヶ浜に元寇があったことが伝えられているが、元軍の生き残りの兵士を鎌倉武士などが討ちとったとされている。

 

 当時の豊北の人人は、戦いで犠牲となった元軍の大将や兵士が祟りとなって豊北の地に干ばつや風水害、飢饉、疫病等をもたらすことを恐れ、元寇の2年後の弘安6年から7年に一度武者行列をおこなうことで怨霊を封じ、鎮魂と平和、地域の発展を祈願してきた。これが浜出祭として現代まで引き継がれている。豊北町には元寇に由来する地名や戦跡が多くあり、それが浜出祭の行列のルートと重なることからも元寇と浜出祭が深く関係していることがわかる。関係者のなかでは世界史上最大の帝国であったモンゴル帝国の中心である「元」の襲来から郷土を守った先祖や、戦後の苦しい時代も含めて祭りを続けてきた先祖がいたことの重みと、この祭りを引き継いでいくことの意義深さが語られている。

 

 一方でかかわる人のなかでは、伝統あるこの祭りが、イチキシマヒメを祀る田耕神社(田耕)と男神を祀る神功皇后神社(神玉)の出合祭というものに切り縮められていることについての指摘もある。元寇については博多のほうが有名で、豊北町などの北浦沿岸にあったことはあまり知られていない。しかし史実を伝える遺跡もあることや浜出祭で通るコースや独特の作法にも元寇に由来する意味があり、「陰陽和合」にかこつけた「山地と浜の和合」に終わらせてはいけないと強調されている。豊北町のような小さな町で、このような盛大な祭りが730年以上にわたって引き継がれてきたことに誇りをもって、正しく継承していくことの重要さが論議になっている。

 

浜出祭神事の目玉でもある「鰤切り」(4月1日)

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